絶対零度の失態と消えた全財産
嘆かわしい。この一言に尽きる。
カイトに連れられて辿り着いたのは、街道の隅に佇む『眠たげな猫』とかいう名前の宿屋だった。
聖域にある、神代の静謐をそのまま結晶化させたような神殿とは比べるべくもない。
そこにあるのは、長年積み重なった煤と、安価な油を燃やした灯火の残り香。そして、古い木材が湿気を吸って吐き出す、卑俗な「木箱」だ。
ふと、入り口の煤けたガラスに映る自分の姿が目に入った。
――僕の纏う装束は、完璧だ。
僕の魔力を極細の糸として織り上げ、蒼と白の色彩を宿したこの礼装は、僕の意志そのものである。
下界の塵や油など寄せ付けず、たとえ汚れたとしても僕が望めば瞬時に魔力で洗浄される。
だが、その完璧な美学を、頭に巻かれたこのボロ布が無残に損ねていた。
角を隠すためとはいえ、龍族の証に、どこの馬の骨が着古したかもわからぬ繊維の毛羽立った布を巻き付けるなど、万死に値する無礼だ。
僕の誇りは、この布一枚によって、物理的にも情緒的にも「覆い隠されて」しまっていた。
「……ふん、趣味が悪い。人間というのは、このような窮屈な木箱を『安息』と呼んでいるのかい? 僕を招くなら、せめて床一面に金剛石でも敷き詰めておくべきだと思うのだけれど」
「ハハッ、言うねぇ。残念ながら、この街の領主様でもそんな贅沢はしてねえよ。ほら、入った入った」
カイトは僕の至極真っ当な不満などどこ吹く風で、軽快な足取りで二階の角部屋へと僕を押し込んだ。
扉が軋んだ音を立てて開く。
そこは、僕一人でも狭いと感じるほどの空間だった。
そして何より、部屋の中央を占拠するあの巨大な白い塊。それが、僕の視界を塞いだ。
「っ! 止まれカイト! なんだ、この部屋の中央を占拠する不気味な塊は。まさか人間は、夜な夜なこの得体の知れない物体に食われながら眠るというのか!?」
「あー、それはベッドだ。寝るための道具だよ。食われはしねえけど、一度ハマると抜け出せねえのは確かだな」
カイトは笑いながら、隣にあるもう一つの塊にドカッと腰を下ろした。
ベッド。これが?
僕は警戒を解かず、おそるおそるその白い塊を指先で突いてみた。
……柔らかい。いや、柔らかすぎる。
聖域での僕は、自身の魔力で常に磨き上げられた硬質な魔鉱水晶か、あるいは万年氷の床の上で眠りについていた。
僕にとって「寝床」とは、己の魔力を反響させるための強固な土台であるべきだ。
物理的な硬度こそが、精神の安定を担保する唯一の基準だったのだ。
「ふん、軟弱だね。このような頼りない物で、よくもまあ無防備に目を閉じられるものだ。僕なら一晩で背骨が曲がってしまうよ」
「いいから一回座ってみろって。ほら」
カイトに背中を押され、僕は勢いよくその塊の上に尻を落とした。
その瞬間、世界が反転した。
「――!? ぬわっ、なんだこれは! 底が、底が抜けたぞ!」
「あはは! リル、それは沈んでるだけだ。重力に身を任せろよ」
沈む。僕の誇り高き肉体が、この得体の知れない塊に飲み込まれていく。
僕は慌てて魔力を練り、姿勢を立て直そうとした。だが、反発力を欠いた布地は僕の魔力制御を嘲笑うかのように、沈み、跳ね、僕を無様に翻弄する。
結局、僕は四肢を投げ出すような格好で、ベッドの海に沈没することとなった。
「くっ、恐ろしい罠だ。人間の浅知恵も侮れないね。……だが、不覚にもこの、身体を甘やかすような感触は認めざるを得ない」
聖域の氷の上では決して味わえなかった、身体の芯まで緩んでいくような感覚。
「だろ? さて、次は風呂だ。服は綺麗かもしれねえが、肌に染み付いた匂いまでは魔法じゃ落ちねえぞ。使い方は簡単だから、さっさと洗ってこい」
カイトは僕の首根っこを掴むと、そのまま浴室へと放り込んだ。
風呂。
それは知っている。人間たちが身体を清める儀式のことだろう。
だが、僕は『蒼水龍』だ。水の王だぞ? そもそも僕の身体は常に魔力の循環によって清浄に保たれている。
汗一粒、塵一つとして僕の肌に留まることは許されない。わざわざ桶の中に浸かるなど、不合理の極みではないか。
「いいかい、カイト。僕は水の理を司る者だ。僕自身が水なのだ。そんな僕に、誰かが温めただけの水を浴びろと言うのか?」
「いいから入れ。人間界の『快楽』の一つも知らねえようじゃ、自由を楽しめねえからな」
結局、僕は脱衣所という狭い空間に閉じ込められた。
不本意ながらも魔力の衣を霧へと戻し、僕は浴室へと足を踏み入れた。
そこには、もうもうとした湯気が立ち込めていた。聖域の清冽な冷気に慣れた僕の肺には、この湿った空気はまるで濃密な瘴気のように感じられる。
僕は木桶に張られた湯に指を触れ、そのあまりの熱量に跳び上がった。
僕の知る水は、常に静謐で、冷たく、澄み渡っているものだ。
「ふん。僕が、この程度の熱せられた水に屈するとでも思っているのか」
僕は意を決し、湯船へと片足を突き入れた。
――熱い。いや、痛い。……いや。
「……あ、あつい。あついけれど、なんだ……この、芯から溶かされていくような感覚は」
気づけば僕は、肩までその熱い液体に浸かっていた。
冷え切っていた僕の魔力回路が、外部からの熱によって無理やり拡張されていく。
それは、路地裏でカイトに手を握られた時の熱に近い。けれど、より一方的で、より慈愛に満ちた熱だった。
「……いい。これは、悪くないね。カイトの言う『石鹸』というのも試してみようか」
僕は傍らに置かれた、不思議な芳香を放つ四角い固形物を手に取った。
カイトはこれを身体に擦り付けろと言っていたが……。
――つるん。
「あっ、しまっ……!」
指先から逃げ出した石鹸が、濡れた床の上を滑っていく。
僕は慌ててそれを捕まえようと身を乗り出し――。
「うわあああぁぁぁっ!?」
派手な音を立てて、僕は浴室の床で無様に転倒した。
石鹸は加速し、僕の焦燥を煽るように浴室の隅へと逃げ去っていく。
驚いた拍子に、僕の中で眠っていた魔力が、自己防衛の本能に従って暴発した。
「――凍てつけ!」
パキパキパキッ!! という、鋭い破壊音が浴室を満たした。
凄まじい速度で、浴室の全てが白銀の世界へと変貌していく。
湯船の熱湯は一瞬で巨大な氷柱と化し、僕は全裸のまま、凍りついた床の上に尻餅をついた状態で固定された。
「はぁ、不覚だ。まさか石鹸ごときに魔力を暴発させるとは」
僕はため息を吐いた。
本来なら、ここで身動きが取れずに途方に暮れる場面なのだろう。だが、僕は龍族だ。
たとえ姿が幼い子供のままでも、僕の皮膚は万年氷の圧力にも耐え、その下には山をも穿つ筋力が秘められている。
自らが生み出した氷ごときに、僕を繋ぎ止めておけるはずがない。
「さて。カイトが来る前に、この無様な残骸を破壊してしまおう」
僕は深呼吸をし、全身に力を込めた。
龍の呼吸。それは大気を震わせる重低音となり、僕の細い四肢に爆発的な剛力を与える。
「――フンッ!!」
凄まじい轟音が響いた。
僕を拘束していた氷が、粉々に砕け散る。
だが、誤算があった。
僕が凍らせたのは表面の水分だけではない。床材の隙間、そして浴槽の基礎にまで氷の根は深く食い込んでいたのだ。
僕の強固な皮膚は、氷と密着したまま離れることを拒み――僕が力任せに立ち上がった瞬間、氷と一緒に浴室の床板と石材が、バリバリバリッ!! と派手な音を立てて剥がれ上がったのだ。
「あ……」
目の前には、無惨に抉り取られた浴室の床。
その中心で、僕は全裸のまま、右手に剥がれた石材の一部を握りしめて立ち尽くしていた。
「お、おいリル!? 今、建物が揺れるくらいの音がしたけど大丈夫か! 入るぞ!」
扉が勢いよく開かれた。
そこに立ち尽くしたカイトの目に飛び込んできたのは、極北の氷窟と化した浴室。
そして、床が消失して階下の構造が半分見えかかっている惨状。
その中心で、真っ赤な顔をして立ち尽くしている、一人の裸の少年龍だった。
「…………ぷッ」
「笑うな! 馬鹿カイト!そもそも、こんな脆い建材を使っているこの宿が悪いんだ!」
「ははは! お前、何やってんだよ。入浴じゃなくて解体工事かよ!」
カイトは腹を抱えて笑い出した。その笑い声が、剥き出しになった階下の天井にまで響き渡る。
僕は今すぐこの男を氷像に変えてやろうと思った。しかし、全裸で石材を掲げているというこの状況が、僕の研ぎ澄まされた集中力を無残に散らしていた。
「違う!これは……」
さらに、追い打ちをかけるような「最悪」が扉の向こうからやってきた。
「おい、なんだ今の音は! 建物が崩れるかと思ったぞ!」
ドカドカという、カイトのものより遥かに下品で重量感のある足音。それが開け放たれた浴室の扉に到達した瞬間、時間の流れが凍りついた。先程、愛想笑いで僕たちを迎え入れた宿屋の主人が、そこに立ち尽くしていた。
主人の視線は、まず、極北の氷河のごとくカチコチに固まった浴槽を捉え。
次に、バリバリに剥がされ、階下の梁が丸見えになった無残な床へと移り。
最後に、その中央で石材を掲げたまま、一糸まとわぬ姿で立ち尽くす僕へと固定された。
「……あ、……あ、ああ……俺の、俺の宿が……」
主人の顔が、驚愕から絶望へ、そして沸騰するような怒りへと急速に塗り替えられていく。
その額に浮かんだ血管の太さは、龍族の怒りにさえ匹敵するのではないかと、僕は冷静に分析した。
「貴様らぁぁぁ!! 何をしたら風呂場がこうなるんだ!! 氷!? なんだこの氷は!」
「あー、おっちゃん、落ち着け。これはその、ちょっとした事故っていうか……」
「事故で床が消えるか! 弁償だ! 建て直しだ!今すぐ全額払ってもらうぞ、さもなきゃ一生ここで皿洗いをしてもらうからな!」
主人の怒号が、剥き出しになった天井裏までビンビンと反響する。
僕は誇り高き龍族の守護者として、この卑俗な人間に一言返してやろうと口を開いた。
「不敬だよ、人間。僕の肌に触れて壊れるほど床が脆弱だったことが……っ!」
「黙れリル! お前は今、喋れば喋るほど社会的に死ぬからな!」
カイトが慌てて僕の口を塞ぎ、布で僕を簀巻きにする様に包み込んだ。
主人はなおも「弁償だ!弁償しろ!」と、泡を吹かんばかりにまくし立てている。
カイトは顔を引き攣らせながら、腰に下げた革袋をひっつかんだ。
「わかった、わかったから! ちゃんと払うよ! ……クソッ、これで全部だ、受け取れ!」
カイトが投げ出したのは、彼がこの街へ辿り着くまでに、蓄えてきたであろう全財産だった。
チャリン、という金属音は、主人が受け取った瞬間に鈍い「重み」へと変わった。
主人は一枚ずつ、執念深く硬貨を確認し――やがて、忌々しげに鼻を鳴らした。
「床の張り替えと、しばらくの休業補償……。ギリギリだな。丁度、これでおさらばだ」
主人はその袋を懐にねじ込むと、僕たちの襟首を掴むような勢いで、暗い廊下へと押し出した。
「金は受け取った。だがな、勝手に大改修を始めちまうような破壊神はもう御免だ。今すぐ荷物をまとめて出て行け! 二度とこの猫の看板をくぐるんじゃねえぞ!」
――追い出された。
宿の裏口から夜の冷気の中に放り出された僕たちは、言葉もなく立ち尽くした。
カイトの指先には、もう一銅貨すら残っていない。
「……カイト。君の全財産が、僕の転倒という些細な現象によって、一晩で瓦礫の山へと変換されたわけだね。これを、人間界では『理不尽』と呼ぶのかな?」
「……ああ、そうだ。最高に笑えない『理不尽』だよ、リル。あーあ、一文無し《ノーマネー》か。自由ってのは、案外高くつくもんだな」
カイトは空っぽの財布を夜空にかざし、乾いた声で笑った。
僕はタオルにくるまったまま、遠い目で夜の闇を見つめていた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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――次回金がねえ!




