黄金揚げパンと初めて呼んだその名前
霊峰を降り、ようやく辿り着いた街の入り口。
地平線の向こうへと太陽は沈み、代わりに魔力灯が石造りの街並みを淡い橙色に照らし始めていた。夜の帳が下りる頃、街道の拠点『リバティ』は昼間とは異なる熱気に包まれている。
「っ……おい、無礼者。止まりたまえ。一大事だ」
僕は足を止め、自分の腹部にそっと手を当てた。
なんだ、これは。腹の奥が、まるで内側から何者かに握りつぶされているように鋭く、それでいて重苦しく疼く。
内臓が勝手にうねり、聞いたこともないような「ぐぅ」という情けない鳴き声を上げたのだ。
「毒か? もしや外の世界の大気には、龍族を内側から破壊する呪いでも混ざっているのか?」
「あはは、呪いなわけないだろ。それは『空腹』だよ、リル」
前を歩いていたカイトが、力なく振り返る。
その顔は驚くほど青白い。彼の足取りは泥沼を歩いているかのように重く、肩で息をしていた。
「大げさだな。龍脈のど真ん中にいたお前には、外の空気は薄すぎるか。魔力で腹が膨れないこの場所じゃ、代わりにエネルギーを摂取しなきゃならないんだ。……悪い、ちょっとここで待ってろ。すぐ済むからな」
カイトはそう言い残すと、ふらつく足取りで人混みの奥へと消えていった。
「待て、僕を一人にするなと言っているだろう!」
呼びかける声も虚しく、彼は戻ってこない。
僕は一人立ち尽くし、眩暈を覚えた。視界が歪む。聖域を照らしていた清浄な輝きとも、あるいはあの鬱陶しい爆炎龍が放つ破壊の熱とも違う、ひどく矮小な光源。街路を縁取るように並ぶ、煤けたガラスの火屋。そこに閉じ込められた不浄な火光が揺らめき、石造りの壁を醜く這い回っている。
次に聴覚が悲鳴を上げた。
硬い地面を無造作に削り取る車輪の軋み音。
酒場という名の巣窟から漏れ出る、喉を無様に震わせた獣のような咆哮。あれが人間の「笑い」だというのか。
何よりも僕を絶望させたのは、空気の重さだ。
大気から魔力が削ぎ落とされた代わりに、そこには「不純物」がこれでもかと詰め込まれていた。
獣の脂を焦がしたような重苦しい熱。果実を腐らせたような、鼻の奥を刺す異質な甘さ。
聖域の無垢な冷気しか知らなかった僕にとって、それは生存を脅かす暴力的な「生の匂い」だった。
「な、なんだ。この、魂の純度を下げるような悪臭は。それに、あの秩序のない群れ。なぜ皆、あんなに不規則な軌道で蠢いているんだ!」
僕は思わず、自分の細い腕を抱きしめた。
最強の龍族、聖域の守護者。そんな、神に綴られたはずの気高き肩書きは、この無秩序な熱気の前では何の意味もなさなかった。
「おい、見ろよ。妙な格好のガキがいるぜ」
ふらふらと、酒の臭いを撒き散らす大柄な男が僕の前に立ち塞がった。赤ら顔の酔っ払いだ。男は濁った瞳で僕を見下ろすと、下卑た笑いを浮かべた。
「おい坊主、その頭の飾り、随分と凝ってるじゃねえか。本物の角みたいだ。最近のガキの『ごっこ遊び』は景気がいいなぁ、おい!」
男が僕の角に手を伸ばそうとする。その言葉、その不遜な仕草に、僕のプライドが激しく跳ねた。
「飾りだと? 無礼な。これは僕の気高き証。聖域の守護を任された誇り高き龍族の一人、蒼水龍リル・アクエルとしての証左だよ。安物の装飾品と混同しないでほしいね」
僕は胸を張り、数千年の間自身を支え続けた威厳を込めて睨みつけた。だが、男は目を丸くした後、周囲に聞こえるような大声で笑い出した。
「ぎゃははは! 龍族だってよ! お前ら聞いたか? このちびっ子、自分を伝説の龍だと思い込んでやがる! だったら今すぐ空でも飛んでみせろよ、伝説の龍様!」
周囲の酒客たちも足を止め、指差して笑う。
悪意以上に、それは僕を一人の子供の妄想として扱う残酷な嘲笑だった。
「なっ、なぜ笑う。僕は真実を言っている。僕がその気になれば、この街の水分をすべて抜き取り、貴様らを干からびた肉片に変えることさえ……!」
怒りで指先が震え、周囲の魔力が蒼白く波打ち始める。
温度が急激に下がり、地面に薄い氷が張り始めたその時、背後から伸びてきた手が僕の首根っこをひょいと掴み上げた。
「はいはい、すいませーん。この子、ちょっと厨二病……じゃ無くて想像力が豊かなんですよ。ほらリル、街のモブ相手にマジになんなって。今の俺に、お前の魔法を止める魔力は残ってねえぞ」
「離せ無礼者! 僕はあいつらを、あいつらの認識を矯正してやるんだ」
「ダメだって。ほら、それより」
カイトは僕を小脇に抱え、喧騒を避けるように路地裏へと滑り込んだ。
暗がりの隅、彼は一つの包みを僕に差し出した。彼の手はわずかに震えている。顔からは完全に血の気が引き、今にも崩れ落ちそうなのに、その瞳だけは僕をまっすぐに見つめていた。
「お前の『誇り』が本物だってことは、俺が一番よく知ってる。だから今はこれを食え。俺のなけなしの小銭で買った、この街一番の名物だ」
渡されたのは、紙に包まれた黄金色の塊だった。
立ち上る湯気と共に、暴力的なまでに甘く、香ばしい匂いが漂う。その匂いを嗅いだ瞬間、僕の腹が再び大きく「ぐぅぅ」と情けない悲鳴を上げた。
「なんだい、これは。毒ではないだろうね」
「いいから食えって。『黄金揚げパン』だ。お前の空っぽの胃袋を、幸せで満たしてくれる魔法だよ」
僕は不機嫌そうに唇を尖らせつつ、おそるおそるその塊を口にした。
――サクッ。
心地よい食感。次に訪れたのは、溢れ出す芳醇なバターの風味と、生地の驚くべき柔らかさ。そして舌の上で踊るような、濃厚な甘み。
「っ!!」
目を見開いた。魔力を取り込むだけでは決して得られない、肉体そのものが歓喜するような感覚。腹の奥の痛みが、一口ごとに、蕩けるような幸福感へと上書きされていく。
「な、なんなんだこれは!この、口の中に広がる多幸感は」
「あはは、それが『美味い』って感覚だよ。案外、捨てたもんじゃないだろ?」
「ふん。認めたくないが、これほどまでの美味を僕に献上したのだ。君の今までの不敬、すべて水に流してやろう。それどころか、特別に褒美を遣わそうというのだから光栄に思いたまえ。望みがあるなら一つだけ、この僕に言ってみるがいい」
僕が満足げに頷き、カイトの次なる言葉を待った、その時だった。
カイトの体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「 おい、どうしたんだ!」
咄嗟に伸ばした腕が、崩れ落ちる彼の体を抱きとめた。
最強の僕を聖域から連れ出した男の体は、驚くほどに脆く、そして羽毛のように軽かった。手のひらから伝わるのは、生命の火が消えかけていることを示す非情な冷たさだ。
喘ぐような呼吸の合間から、今にも夜風に掻き消されそうな掠れた声がこぼれ落ちる。
「わりぃ、リル……。ちょっと、無理しすぎた。もう一滴も魔力が残ってねえんだ……」
心臓が、耳障りな音を立てて跳ねた。
そうだ。この男は、僕をあの退屈な檻から連れ出すために、世界そのものの理を書き換えたのだ。人間としての限界など疾うに超えた不条理の代償を、彼はたった一人で払っていたんだ。
――置いていかれる。
霊峰を降りる道中で感じた、あの情けない不安が脳裏をよぎった。だが、今の絶望はその比ではない。
僕が恐れているのは、この騒がしい世界に一人残されることじゃない。この温かい掌が、僕を「リル」と呼ぶ声が、永久に失われてしまうことだ。
――ああ、そうか。これが君の言う『友達』という名の呪いなのか。
「馬鹿者が! 誰がそこまでしろと言った。勝手に消えることは許さない。僕の許可なく死ぬことなど、万死に値する!」
僕は焦燥に駆られながら、カイトの冷え切った両手を力強く握りしめた。
魔力なら、海ほどにある。
「起きてくれ、カイト!」
僕は自身の内側に渦巻く、超高密度の魔力を一点に集約させた。蒼水龍の命の奔流。それを、握りしめた彼の手を通じて、直接その内側へと叩き込む。
暗い路地裏で、僕の体から眩いばかりの蒼い光が溢れ出した。龍族の純粋な魔力がカイトの枯れ果てた回路を強引に満たしていく。やがて深いため息と共に、その頬に生気ある赤みが戻り始めた。
「……は、ぁ……っ。悪いな、リル。本気で、死ぬかと、思ったぞ」
カイトは焦点の定まらない瞳で僕を見上げ、震える唇でかまわず言葉を紡いだ。
「それにしても、死ぬのが罪なら……死んじまった後の俺は、どうやってその万死を、償えばいいんだよ……」
「っ……黙れ! 屁理屈を言う元気があるなら、さっさと意識をはっきりさせたまえ、この馬鹿カイト!」
安堵で視界が滲むのを悟られないよう、僕はあえて突き放すような声を出す。だが、握った手はまだ震えていた。そんな僕を見て、カイトは少し驚いたような、それでいてひどく優しい顔をした。
「なあ、リル。今、初めて俺の名前、呼んでくれたよな」
「……そんなことは、どうでもいいだろう。早く立ちたまえ」
「いいや、どうでもよくない。お前にとって、俺がただの『無礼者』から、カイトになった。最高の、気分だぜ」
カイトは僕の手を握り返し、ふらつきながらも自分の足で立ち上がった。
仰いだ夜空の下、街の熱気はどこまでも無秩序に膨らんでいく。それでも、路地裏の闇の中で分け合ったこの熱だけは、どの街灯よりも鮮やかに、僕らの足元を蒼く照らし出していた。




