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聖域の外はあまりに不純で騒がしい

 氷の檻を抜けてから、どれほどの時間が経っただろうか。

 一歩、足を踏み出すごとに、僕の五感は悲鳴を上げていた。


 鼻を突くのは、枯れ葉が腐ったような湿った匂いや、名前も知らない花の濃厚な香り。聖域の清浄な空気しか知らなかった僕にとって、外の空気はあまりに「不純物」が多すぎる。

 それに、耳の奥に突き刺さる羽虫の音。風が木々を揺らすざわめき。

 うるさい。世界というのは、これほどまでに騒がしいものだったのか。


「……はぁ、はぁ……。ちょ、ちょっと待て。一旦セーブ、じゃなくて休憩だ……」


 背後で、カイトが今にも土に還りそうな顔をして、大剣を杖にうなだれていた。

 聖域の結界を力ずくで引き裂いた代償だろう。彼の内側の魔力は、底の見えた貯水池のように枯渇しかけている。


「情けないね。さっきの威勢はどうしたんだ。僕を連れ出すと豪語しておきながら、たかだか山を下る程度で消えてしまいそうな顔をして」


 僕は立ち止まり、冷ややかに彼を見下ろした。

 僕の肉体は、体内に凝縮された魔力によって常に強化されている。疲労? そんな概念、僕の辞書には存在しない。


「お前なぁ。こっちはMP(魔力)がゼロなんだよ。でも、まぁ助かったぜ。こんな魔物の巣窟みたいな山をノーエンカウントじゃなくて……一度も敵に襲われずに降りてこられたのは、運が良かったわ」


 カイトは道端の岩に腰を下ろし、額の汗を拭った。

 運が良い? ふん、不愉快だね。


「運が良いのではないよ、無礼者。当たり前だろう? 僕がこうして歩いているんだ。そこらの下等種(モンスター)どもが、僕の気配を感じて逃げ出さないはずがない」


「……あ?」

「僕の魔力だよ。龍族の、それも『水龍脈の守護者』たる僕が放つ威圧に、野蛮な獣たちが耐えられるわけがないだろう。さっきから茂みの奥で、幾つもの視線が震えながら遠ざかっていくのを感じている。君の命が繋がっているのは、僕という『王』が隣にいるからだということを忘れないでもらいたいね」


 僕が言い終えるのと同時だった。

 ガサリ、と近くの茂みが揺れ、この山の捕食者であろう巨大な狼が現れた。

 だが、僕がほんの少しだけ視線を向けてやると、悲鳴のような音を漏らし、尻尾を巻いて逃げ去っていった。


「ほらね。僕がここにいるだけで、この道は王のパレードに変わるんだよ」


 僕は満足げに胸を張った。

 守護者としての力。これこそが僕の価値であり、存在意義。

 感謝の言葉の一つでも期待していたのだが、カイトは感心するどころか、げんなりとした顔で頭を抱えた。


「いや、それだ。それだよ、リル」


「なんだい。畏怖のあまり言葉を失ったのかい?」


「違う! お前さ、その溢れ出る魔力どうにかなんねーのか? お前の歩いた後、青い光の粒子がキラキラ残ってんだぞ。まるで見つけてくれと言わんばかりの看板(ターゲット)だ」


 カイトに指摘され、僕は自分の足元を振り返った。

 ……本当だ。

 僕の足跡に沿って、高密度な魔力が漏れ出した残滓が、水色の光となって幻想的に揺らめいている。


「……しょうがないだろう。僕は生まれてからずっと、魔力を抑える必要なんてなかったんだ。聖域では僕こそが法であり、隠れる必要もなかった」


「今は聖域じゃねーんだ。お前の魔力は、俺からすれば何ともないが、普通の人間からすれば『怖すぎる』し、悪い奴らからすれば『最高のお宝』に見えちまう。蛇口を閉めるみたいに、もっとこう、キュッと自分の中に閉じ込めろよ。お前ならできるだろ?」


「蛇口? よくわからない言葉を使うね。だが、不本意ながら君の言い分にも一理ある。努力はしてみるよ」


 僕は渋々、体外に漏れ出す魔力を内側へ押し込めるよう意識を集中させた。

 ふん、無礼な男だ。龍族の誇り高きオーラを「蛇口」などという卑俗なものに例えるなんて。


「それから、いい加減、僕のことを『リル』と短く呼ぶのをやめたまえ。馴れ馴れしいにも程がある」


 僕は居住まいを正し、今度こそこの不敬な男に、僕の真の名前を刻みつけてやろうと息を吸い込んだ。


「いいかい、よく聞け。僕の真の名は、蒼水龍リル・アクエ――」


「お、街が見えてきた!」


「…………ッ!!」

 カイトは僕の言葉をまたしても遮り、岩から飛び起きて指を指した。


 山の斜面の向こう、夕陽に照らされた石造りの街並みが広がっている。


「行こうぜリル! 宿屋でふかふかのベッドが待ってるぞ。あと美味い飯もな!」


「最後まで言わせろ無礼者! というか、待て! 僕を置いていくな!」

 先を急ぐカイトの背中を、僕は地団駄を踏みながら追いかける。


 最悪な気分だ。

 最強の龍族。気高き守護者。

 それなのに、今の僕は「置いていかれると心細い」という、名付けようのない情けない感情に支配されている。


 僕の足元から溢れる青い光の粒子は、先ほどよりも少しだけ、その輝きを小さく、密やかにしていた。

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