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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

冤罪で処刑されたら、前世で加入していた生命保険が時空を超えて適用されたので、莫大な保険金を手に第二の人生を謳歌します。

作者: 四宮 あおい

 ブランデンブルク王国。昇り始めた太陽の光は、近衛騎士団の練兵場にも惜しみなく降り注ぎ、鍛錬に励む騎士たちの額に浮かんだ汗を宝石のようにきらめかせていた。

 中でも、ひときわ目を引く存在があった。近衛騎士団長、クルト・フォン・ローゼンダール。陽光を溶かし込んだかのような金色の髪が風に揺れ、空の青を映した瞳は、常に前を見据えている。

 彼の振るう剣は、まるでそれ自体が意思を持つかのように、正確無比な軌跡を描き、見る者を魅了した。


「そこまで!」


 クルトの凛とした声が響き渡ると、剣を交えていた若い騎士が、大きく息をつきながら体勢を解いた。その顔には疲労の色と共に、クルトに対する深い尊敬の念が浮かんでいる。


「隊長、ありがとうございました! 今の太刀筋、全く見えませんでした。まるで、俺の動きがすべて読まれていたかのようで……」


「お前の剣には無駄な力みが多い。もっと肩の力を抜き、剣の重さを利用して振ることを意識しろ。力ではなく、流れで斬るんだ」


「はっ、肝に銘じます!」


 クルトは部下たちの指導にも熱心だった。彼の言葉は常に的確で、一人一人の癖や長所を見抜いた上で助言を与えるため、団員からの信頼は絶大だった。実直で裏表のない性格、誰に対しても公平な態度、そして何よりも、その圧倒的な剣技。クルト・フォン・ローゼンダールは、ブランデンブルク王国が誇る、理想の騎士そのものであった。


 彼の忠誠は、ただ一人、王女リーゼロッテ・ブランデンブルクに捧げられていた。


 鍛錬を終え、制服に着替えたクルトが王女の私室の前に立つと、扉の内側から柔らかな声が聞こえた。


「クルト、入ってきなさい」


「失礼いたします、リーゼロッテ殿下」


 許可を得て部屋に入ると、そこには公務の書類に目を通していた王女の姿があった。艶やかなプラチナブロンドの髪が窓から差し込む光を反射している。彼女の紫色の瞳が、クルトを優しく捉える。彼女はまだ十代後半だというのに、その佇まいにはすでに為政者としての気品と落ち着きが備わっていた。


「いつも早いですね、クルト。鍛錬の疲れも見せず、感心しますわ」


「殿下をお護りするのが私の務め。この程度のことで疲労していては、話になりません」


 クルトが堅い口調で答えると、リーゼロッテはくすりと小さく笑った。


「またその堅い言葉遣い。二人きりの時くらい、もう少し楽にしてくれてもよいのですよ?」


「いえ、騎士として、主君に対する礼を欠くことはできません」


「ふふ、本当に真面目なのだから。……それで、お願いしていた件はどうなりましたか?」


 リーゼロッテが尋ねたのは、城下のスラム街における食糧配給の状況についてだった。近年、天候不順による凶作が続き、民の生活は困窮を極めていた。

 リーゼロッテは、自身の食費や装飾品にかかる費用を大幅に削り、それを財源として民への支援策を打ち出していたのだ。

 それは、旧来の慣習や貴族の既得権益を重んじる保守派の貴族たちからは、快く思われていなかった。


「はっ。昨日、非番の者たちと共に視察してまいりました。配給は滞りなく行われておりますが、食糧の質、量ともに、まだ十分とは言えない状況です。また、配給を取り仕切る役人の中に、横流しを行っている疑いのある者が……」


「やはり……。証拠はありますか?」


「いえ、まだ確たるものは。しかし、帳簿と実際の配給量に僅かながら齟齬が見られます。継続して調査いたします」


「お願いします、クルト。民の生活は、一刻の猶予もないのです。貴族たちの反対を押し切って始めた政策ですもの、失敗は許されません」


 リーゼロッテの瞳には、民を想う強い意志と、深い優しさが宿っていた。

 彼女はただ美しいだけの人形ではない。国の未来を真剣に考え、旧態依然とした政治を改革しようとする、聡明で勇敢な王女だった。

 クルトが心からの忠誠を誓う理由は、彼女のその気高い魂にあった。彼女こそが、この国を正しく導く光だと信じていたからだ。


「必ずや、殿下のお力になってみせます」


「ええ、信じていますわ、クルト。貴方がいてくれるから、私は前に進めるのです」


 その言葉は、クルトにとって何よりの報酬だった。主君と騎士という関係を超えた、深い信頼の絆が二人を結びつけていた。


 だが、その光が強ければ強いほど、濃くなる影もまた存在する。


 宰相ハインリヒ・フォン・ベルンシュタイン。手入れされた銀髪をオールバックにしたその男は、ブランデンブルク王国の影を体現したような存在だった。

 彼は王の信任が厚いことを盾に、長年国政を牛耳ってきた保守派貴族の筆頭であり、リーゼロッテが進める改革を最も疎ましく思う人物の一人だった。


 その日、宰相執務室に集ったのは、ハインリヒと思惑を同じくする貴族たちだった。


「宰相閣下。またしてもリーゼロッテ王女が、我々の管理する穀物倉からの供出を王に願い出たとか。一体いつまで、あの小娘の好きにさせておくおつもりですかな?」


「まあ、そう焦るものではない」


 ハインリヒは、豪華な椅子に深く身を沈め、口元に計算高い笑みを浮かべながら答えた。その灰色の瞳は、冷たい光を宿している。


「王女の理想論は、確かに耳障りだ。民に媚を売り、我ら貴族の権威を揺るがそうとする動きは看過できん。だが、それももう終わりとしようか」


「と、申されますと?」


「鍵は、王女が信頼を寄せるあの忌々しい近衛騎士団長、クルト・フォン・ローゼンダールだ。あの男の存在そのものを、王女を排除するための最大の駒として使う」


「駒、でございますか? しかし、あの男は近衛騎士団長の任にあり、その腕も立つ。下手に手出しは……」


「だからこそ、面白い。あの忠犬に主殺しの大罪を着せるのだ。これ以上の見せしめがあるかね? 剣の腕が立つだけの若造には、権力という、もっと大きな剣の使い方を教えてやらねばなるまい」


 ハインリヒはそう言うと、手元の書類に目を落とした。

 そこには、クルトの素性や行動、交友関係に至るまで、詳細な調査結果が記されていた。彼の不摂生で緩んだ体躯とは裏腹に、その思考は蛇のように執念深く、緻密だった。



 ~~~ 



 その夜、王城は不気味なほどの静寂に包まれていた。月は厚い雲に隠れ、いつもは篝火で明るい城内も、なぜかいくつかの灯りが消え、深い闇に沈んでいる箇所が点在していた。

 クルトは非番だったが、胸騒ぎがして眠れず、夜警の交代時間に合わせて自主的に城内の見回りをしていた。リーゼロッテ王女の身辺で何かが起きる、そんな予感が拭えなかったのだ。それは長年の騎士としての勘が告げる、不吉な警鐘だった。


 王女の私室へと続く廊下に差し掛かった時、クルトは微かな違和感を覚えた。

 いつもなら扉の前に立っているはずの衛兵の姿がない。そして、扉が僅かに開いている。隙間から漏れる光が、床の上で不自然に揺らめいていた。


 嫌な予感が全身を駆け巡る。クルトは抜き足差し足で扉に近づき、静かに中を覗き込んだ。そして、息を呑んだ。


 部屋の中は荒らされていた。テーブルは倒れ、書類が散乱している。

 そして、その中央に、リーゼロッテが倒れていた。

 彼女がいつも身につけていた純白のドレスが、胸元から鮮血で赤く染まっている。その手には、見慣れた一振りの短剣が握られていた。クルトが、かつて護身用にと彼女に贈った、美しい装飾の施された短剣だった。


「リーゼロッテ殿下っ!」


 クルトは絶叫し、部屋に駆け込んだ。彼女のそばに膝をつき、か細い手首に触れる。脈は、ない。澄んでいたはずの紫色の瞳は、虚空を見つめて固まっていた。

 クルトの頭の中が真っ白になる。誰が、なぜ、こんなことを。怒りと悲しみが、マグマのように腹の底から突き上がってくる。


 その時だった。


「何者だ!」


 背後から鋭い声が響き、廊下がにわかに騒がしくなった。振り返ると、松明を手にした衛兵たちが、槍を構えて雪崩れ込んできた。そして、その中心には、宰相ハインリヒが立っていた。


「……クルト・フォン・ローゼンダール。貴様、そこで何をしている」


 ハインリヒの冷たい声が響く。クルトは、血に濡れたリーゼロッテの亡骸を抱きしめたまま、呆然と彼を見返した。


「宰相閣下……、殿下が、リーゼロッテ殿下が……!」


「見ればわかる。……衛兵、この者を捕らえよ! 王女殿下殺害の現行犯である!」


 ハインリヒの指が、真っ直ぐにクルトを指した。衛兵たちが一斉にクルトを取り囲む。


「なっ……、何を仰るのですか! 俺が殿下を殺めるなど、あり得ない!」


「ほう? では、なぜ貴様がここにいる? なぜ、王女は貴様の短剣を手に息絶えている? なぜ、貴様の手は王女の血で汚れているのだ?」


 矢継ぎ早に問い詰められ、クルトは言葉に詰まった。状況は、絶望的なまでに彼を犯人だと示していた。これは罠だ。巧妙に仕組まれた、完璧な罠だ。


「違います! 俺は……、俺は罠に嵌められたのです!」


「見苦しい言い訳は、牢の中で聞こう。連れて行け!」


 クルトは抵抗した。しかし、多勢に無勢だった。槍の柄で殴られ、地面に押さえつけられる。薄れゆく意識の中で、ハインリヒの口元が満足げに歪むのを、クルトは確かに見た。


 クルト・フォン・ローゼンダールがリーゼロッテ王女殺害の容疑で逮捕されたというニュースは、瞬く間に王都を駆け巡った。誰もが信じられなかった。あの実直で忠誠心に厚いクルトが、敬愛する王女を殺すなどと。

 しかし、ハインリヒが提示した状況証拠は、あまりにも完璧すぎた。


 密会を重ねていた二人が痴情のもつれから口論となり、クルトが逆上して王女を刺殺した――。

 それが、宰相府が公式に発表した事件の筋書きだった。クルトが王女に贈った短剣、二人きりの部屋、非番であるはずのクルトがそこに居たこと。全てがクルトにとって都合の悪い様に働いていた。


 裁判は名ばかりのものだった。ハインリヒの息のかかった者たちが判事を務め、クルトの無実の訴えはことごとく握り潰された。

 近衛騎士団の仲間たちは、クルトを信じ、助けようと動いた。しかし、ハインリヒは彼らの家族を人質に取り、口を封じた。

「余計なことをすれば、お前たちの家族がどうなるかわからんぞ」

 その脅迫に、誰もが沈黙せざるを得なかった。

 老齢の国王もまた、ハインリヒが握る貴族たちの支持を失うことを恐れ、権力に屈した。真実を叫ぶ声は、巨大な権力構造の中で、かき消されていった。


 クルトを助けようとする者は、もはや誰もいなかった。絶望が、クルトの心を支配した。


 そして、その絶望に追い打ちをかけたのが、民衆の反応だった。かつて、クルトは民衆からも英雄として敬愛されていた。

 しかし、ハインリヒが流した扇動的な噂により、その信頼は一夜にして憎悪へと変わった。


「王女の改革を支持するふりをして、裏では利用していたのだ」

「気高き王女を誑かした、好色な騎士」

「恩を仇で返した裏切り者」


 護送車で市中を引き回された時、クルトはそれを肌で感じた。広場は、彼を罵る民衆で埋め尽くされていた。


「人殺し!」


「王女様を返せ!」


 かつては賞賛の声を送ってくれた人々が、今は石や汚物を投げつけてくる。額を割った石の痛みよりも、裏切られた心の痛みのほうが、何倍も鋭くクルトを苛んだ。なぜ、誰も信じてくれないのか。なぜ、真実を見ようとしないのか。あれほど守ろうとした民が、今は自分に牙を剥いている。


 信頼は憎悪に、栄光は汚名に変わった。クルト・フォン・ローゼンダールの世界は、音を立てて崩れ落ちていった。

 処刑の日、ギロチンの前に立たされたクルトの瞳には、もはや何の光も宿っていなかった。守るべき主君を失い、信じていたものすべてに裏切られた男が、そこに立っていた。



 ~~~ 



 断頭台の上は、奇妙なほど静かだった。

 眼下で狂乱する民衆の罵声も、まるで分厚いガラスを一枚隔てたかのように、どこか遠くに聞こえる。

 クルト・フォン・ローゼンダールの心は、凍てついた湖面のように静まり返っていた。無念、怒り、悲しみ、絶望。あらゆる感情が渦巻き、そして燃え尽きた後には、虚無だけが残っていた。


(……リーゼロッテ殿下、申し訳ありません。貴女をお護りすることができなかったばかりか、その仇を討つことすら、叶いませんでした)


 脳裏に浮かぶのは、聡明で、優しく、そして凛としていた主君の姿。彼女の理想が、彼女の笑顔が、ハインリヒの卑劣な陰謀によって無惨に踏みにじられた。その事実だけが、冷え切った心に突き刺さる棘のように、鈍い痛みを放ち続けていた。


 処刑人が、クルトの首を断頭台の枷にはめ込む。ひやりとした鉄の感触が、死の現実を突きつけてきた。その時、ふと、クルトの記憶の片隅に、ある奇妙な思い出が蘇った。


 それは数年前、騎士団の遠征帰りのことだった。立ち寄った街の片隅で、彼は風変わりな格好をした男に声をかけられたのだ。


『お客様、素晴らしい将来をお持ちの様ですな。ですが、人生とは何が起こるかわからないもの。万が一に備え、貴方様の価値を保証する保険はいかがですかな?』


 男はそう言って、一枚の羊皮紙を差し出した。「世界保険協会」と記されたその保険は、にわかには信じがたい内容だった。

 死亡した場合、その者の生涯における功績、将来性、そして死に至った状況を総合的に査定し、保証金を支払う、というものだった。あまりに突拍子もない話に、クルトは最初、たちの悪い冗談か詐欺だと思った。

 しかし、男のあまりに真剣な瞳と、なぜか抗いがたい説得力に押され、ほんの戯れで、銀貨数枚を支払って契約書にサインしてしまったのだ。


(世界保険協会……、か。馬鹿げた話だ。だが、今の俺には、これくらい馬鹿げた話の方がお似合いかもしれんな……)


 絶望の淵で、クルトは自嘲めいた笑みを浮かべた。それは、あまりにもささやかな、死にゆく男の最後の回想だった。


 そして。


 ギロチンの刃が落ちる。金属的な音が響いた。世界が、暗転した。




 次にクルトが意識を取り戻した時、彼は真っ白な、どこまでも続く無機質な空間に立っていた。床も、壁も、天井もない。ただ、白一色の空間が広がっているだけだ。

 目の前には、シンプルな事務机と椅子が一つずつ置かれており、そこに一人の女性が座っていた。


 黒曜石のような光沢のある、完璧な黒髪のロングストレート。寸分の隙もなく着こなした、どこか未来的なデザインのスーツ。

 神々しいとさえ思えるほどの美貌を持ちながら、その表情は能面のように変わらず、全てを見通すかのような金色の瞳が、クルトを事務的に捉えていた。


「初めまして、クルト・フォン・ローゼンダール様。わたくし、世界保険協会・お客様担当のマヤと申します」


 女性は、感情の起伏を一切感じさせない平坦な敬語で言った。その声は、まるでコールセンターのオペレーターのように、淡々としていた。


「世界……、保険協会? ここは、どこだ。俺は、死んだはずでは……」


「はい。お客様の物質的な生命活動は、先ほど停止いたしました。ここは、わたくしどもの管理する査定空間でございます」


 マヤは手元の端末に視線を落としながら、淀みなく説明を続ける。


「――早速ですが、ご加入の『生命価値保証保険』についてご説明いたします。先日、被保険者クルト・フォン・ローゼンダール様が処刑により死亡されたことを確認いたしました。これに基づき、生命価値の査定が完了いたしましたので、結果をお伝えします」


「査定、結果……?」


「はい」とマヤは頷き、まっすぐにクルトを見据えた。


「お客様の基本生命価値、近衛騎士団長としての功績、そして冤罪で失われた将来性。そのいずれもが、我々の想定を遥かに上回る、極めて高い評価となりました。特に、その名誉が不当に傷つけられた点につきましては、最大限の補償が認められております」


「俺の人生に、そんな価値が……」


「ええ。つきましては、その評価に見合うだけの保険金をご用意いたしました。これを元手に、お客様に第二の人生をご提供するというプランを、ご提案させていただきます」


「第二の……、人生だと?」


「はい。お客様の魂と記憶はそのままに、隣国であるアミリア連邦にて、全くの別人としての新しい人生を開始していただきます。名前は『アルベルト・フォン・エンダーレ』。裕福な商人の息子で、両親を事故で亡くし、莫大な遺産を相続した、という設定になっております。この保険金が、その遺産という形で全額譲渡されます」


 マヤは淡々と、しかし驚くべき内容を告げた。死んだはずの自分が、記憶をそのままに、大金持ちとして別の国で生き返る。まさに、戯れ言と一笑に付した保険の内容そのものだった。


「一つ、質問がございます。クルト・フォン・ローゼンダール様。貴方様は、ご自身を陥れた者たちへの復讐を望みますか?」


 マヤの金色の瞳が、初めてクルトの心を射抜くように、まっすぐに見つめてきた。


 復讐。その言葉に、クルトの脳裏にハインリヒの歪んだ笑みが蘇る。心の奥底で、黒い炎が揺らめいた。しかし、彼はゆっくりと首を横に振った。


「……いや。もう、疲れた。忠誠も、正義も、信じたものすべてに裏切られたんだ。もう誰かのために剣を振るうのはごめんだ。ただ……、静かに、穏やかに暮らしたい」


 それは、彼の偽らざる本心だった。英雄でも騎士でもなく、ただの一人の人間として、平穏に生きたい。


 その答えを聞くと、マヤは初めて、ほんの僅かに口元を緩めたように見えた。


「承知いたしました。お客様のそのご意思、尊重いたします。ですが、一つだけ。この保険金は、我々から貴方様への投資でもあります。貴方様の真の価値が発揮されるのを、協会一同楽しみにしておりますので」


 その言葉には、単なる保険会社の担当者らしからぬ、どこか含みのある響きがあった。しかし、その意味をクルトが問い返す前に、マヤは立ち上がった。


「それでは、アルベルト・フォン・エンダーレ様。新たな人生の準備が整いました。どうぞ、良き第二の人生を」


 マヤがそう言って優雅に一礼すると、クルトの意識は再び真っ白な光に包まれ、遠のいていった。



 ~~~ 



 アミリア連邦の都市オルムは、活気に満ちていた。

 石畳の道を馬車が行き交い、様々な人種の商人たちが大声で客を呼び込んでいる。

 ブランデンブルク王国の厳格で格式高い雰囲気とは全く異なる、自由で雑多な空気がこの街には流れていた。


 その街の一角に、最近急速に頭角を現してきた商会があった。「アルベルト商会」その若き主の名は、アルベルト・フォン・エンダーレ。


「代表、次の取引相手ですが、北方のドワーフ族が鍛えた武具を扱っている商会です。品質は確かですが、相手はかなり強気なようで……」


「問題ない。資料は全部読んだ。彼らが欲しがっているのは、南方のエルフ族が織った魔法耐性の高い布だろう? うちが独占的に仕入れている例のやつだ。交渉のカードはこちらにある」


 執務室で報告を受けていたアルは、かつてのクルト・フォン・ローゼンダールの面影を残しつつも、全く異なる雰囲気をまとっていた。陽光のような金髪は少し伸ばして後ろで緩く結ばれ、近衛騎士の制服ではなく、上質な商人の衣服を身につけている。

 口元には常に余裕のある笑みが浮かび、実直で精悍だった騎士時代の面影に、どこか食えない落ち着きと、飄々とした空気が加わっていた。


 第二の人生が始まって、早二年。アルは「世界保険協会」から与えられた莫大な資金と、クルト・フォン・ローゼンダールとしての記憶を最大限に活用していた。

 近衛騎士団長として培った武具や防具に関する深い知識は、目利きとして他の商人の追随を許さなかった。また、軍の兵站を管理していた経験は、商品の流通ルートの確保や在庫管理に驚くべきほど役立った。彼の的確な判断と先見の明により、アルベルト商会は瞬く間に成長し、今やオルムでも指折りの有力商会となっていたのだ。


「しかし代表は、本当に何でもお見通しですね。まるで未来でも見えているかのようです」


 部下の賞賛に、アルは肩をすくめた。


「ただの勘だ。それより、今日の午後は予定を入れてくれるな。少し羽根を伸ばしたい気分でな」


「承知いたしました。では、失礼します」


 部下が退出すると、アルは大きく伸びをして、窓の外に広がる賑やかな街並みを眺めた。


(スローライフ、か……)


 これが、自分が望んだ生活だった。

 誰かに忠誠を誓うことも、命の危険に晒されることもない。陰謀や裏切りに心をすり減らすこともない。

 ただ、自分の才覚で金を稼ぎ、美味いものを食べ、時々こうして気ままに過ごす。それは、騎士クルト・フォン・ローゼンダールが決して手に入れることのできなかった、穏やかで平和な日常だった。


 アルは上着を羽織ると、商会を出た。目的もなく、街をぶらつく。

 市場の喧騒、香ばしい焼き菓子の匂い、子供たちのはしゃぎ声。そのすべてが、彼にとっては新鮮で、心地よかった。馴染みの屋台で串焼きを買い、食べながら歩く。

 こんな行儀の悪い真似、騎士時代には考えられなかったことだ。


 彼は心の底からこの平和を満喫していた。

 しかし、同時に、その心のどこかには、どうしても埋められない空虚感が存在することも自覚していた。それは、ふとした瞬間に蘇る記憶の断片だった。


 例えば、街の警備兵が剣の稽古をしているのを見かけた時。思わず足が止まり「その踏み込みでは甘い」「腰の回転が足りない」と口出ししそうになる自分に気づき、苦笑する。

 例えば、吟遊詩人が「悲劇の王女リーゼロッテ」の物語を歌っているのを聞いた時。作り変えられた美談に吐き気をもよおし、その場から足早に立ち去る。


 そして、夜、一人で寝台に入った時。決まって、あの日の光景が蘇る。血に染まった純白のドレス、虚空を見つめていた紫色の瞳。彼女を守れなかった無念と、自らの無力さ。

 その記憶は、まるで癒えることのない傷跡のように、穏やかな日常の中にありながら、時折、鈍く痛んだ。


(もう、終わったことだ)


 アルは頭を振り、雑念を追い払おうとした。過去は過去。今の自分はアルベルト・フォン・エンダーレであり、クルト・フォン・ローゼンダールではない。もう二度と、誰かのために剣を振るうことはない。この手に入れた平和を、誰にも邪魔させはしない。


 そう自分に言い聞かせながら、彼は人通りの多い広場を横切った。様々な種族、様々な身分の人々が行き交う。彼はただ、手に入れたスローライフの心地よさと、心の奥底に沈殿する消えない澱との間で、静かな日々を過ごしていた。



 ~~~ 



 オルムの街の華やかな表通りから一本裏手に入ると、そこは陽の光も届きにくい、薄暗く淀んだ空気が支配する世界だった。

 鼻を突く汚物の臭い、飛び交う怒声、そして絶望した者たちの低い呻き声。そこは、人間や亜人たちが商品として売買される、奴隷市場だった。


 その一角にある、錆びついた鉄格子のはめられた檻の中。何人もの奴隷たちが、虚ろな目で地面に座り込んでいる。

 その中に、ひときわ小さな影があった。年は十歳前後だろうか。薄汚れて所々が破れた麻袋のような服をまとい、痩せた体で膝を抱えている。ふわふわした亜麻色の髪からは、同じ色の猫耳がぴょこんと飛び出し、背中からは長い尻尾が力なく垂れていた。猫獣人の少女だった。


 彼女の名前は、リゼ。姓はない。奴隷として、ただそう呼ばれているだけだ。


 リゼの記憶は、ひどく曖昧だった。自分がなぜここにいるのか、どこから来たのか、ほとんど覚えていない。

 ただ、断片的に、鮮烈なイメージだけが脳裏に焼き付いている。豪華なドレス、美しい庭園、たくさんの本に囲まれた部屋。そして、誰かの優しい声と、自分を「リーゼロッテ」と呼ぶ響き。だが、それが何なのかを思い出そうとすると、頭に霧がかかったように思考がぼやけてしまう。


 それともう一つ、彼女の魂に深く刻み込まれた記憶があった。それは、一人の騎士の姿。陽光のような金色の髪、空のように澄んだ青い瞳。誰よりも強く、誰よりも優しく、いつも自分のそばにいてくれた、大切な人。その騎士が、血に濡れて倒れる自分の姿を見て絶叫する、悪夢のような光景。


 リゼは、その大切な騎士の面影を、人波の中に探し続けていた。

 この劣悪な環境にあっても、彼女の瞳の奥の光だけは失われていなかった。それは、かつてリーゼロッテ・ブランデンブルクが持っていた、気高く、理性に満ちた紫色の光だった。魂が、覚えているのだ。いつか必ず、彼に会えるはずだと。彼だけが、この絶望から自分を救い出してくれるはずだと。


 檻の中から見える、限られた往来。リゼは毎日毎日、そこを通り過ぎる人々を食い入るように見つめていた。

 金色の髪の男を見かけるたびに、胸が高鳴り、そして違うとわかると深く落胆する。その繰り返しだった。奴隷仲間からは「あいつは頭がおかしいんだ」と蔑まれ、奴隷商人からは食事を減らされることもあったが、彼女は探すのをやめなかった。

 それが、彼女が生きる唯一の理由だったからだ。


 その日も、リゼは鉄格子の隙間から、ぼんやりと外を眺めていた。相変わらずの喧騒。もう諦めてしまおうか、そんな弱気が心をよぎった、その時だった。


 一人の男が、市場を通りかかった。


 上質な衣服をまとった、裕福そうな商人。少し長めの金髪を、後ろで緩く結んでいる。他の商人たちとは明らかに違う、凛とした立ち姿。周囲の雑踏など意にも介さない、落ち着いた足取り。


 リゼの心臓が、大きく跳ねた。


 髪の色は同じだ。でも、髪型が違う。服装も、雰囲気も、彼女の記憶の中の騎士とは似ても似つかない。口元には、知らない笑みを浮かべている。でも――。


 でも、あの立ち姿。背筋がすっと伸びた、微動だにしない体幹。そして、何気なく周囲に配られる、鋭い眼光。それは、長年の鍛錬によってのみ身につく、本物の強者のそれだった。魂が、震えた。間違いない。この人だ。私がずっと探し続けていた、私の騎士様だ。




 男――、アルは、護衛を雇うためにこの奴隷市場を訪れていた。

 最近、商会の規模が大きくなるにつれて、やっかみ半分の嫌がらせや、商品の輸送を狙った盗賊の動きが活発になってきていた。腕の立つ傭兵を雇ってもよかったが、忠誠心や素性の面で不安が残る。

 それならば、いっそ腕の立つ奴隷を買い、恩を売ることで忠実な護衛にした方が確実だと考えたのだ。


 アルは品定めをするように、檻の中にいる奴隷たちに視線を走らせていた。

 屈強な獣人、元兵士だという男。しかし、どうもピンとこない。彼らの目には、諦めか、あるいはただの凶暴性しか宿っていなかったからだ。


(使えそうな奴はいないか……)


 アルが溜息をつき、別の区画へ移動しようとした、その時。一つの檻の中から、強い視線を感じた。視線を向けると、そこにいたのは、小柄な猫獣人の少女だった。痩せて汚れてはいるが、その紫色の瞳だけが、驚くほどの強い光を放ち、まっすぐに自分を見つめていた。


(なんだ、あの子は……)


 アルは、その瞳に既視感を覚えた。どこかで見たことがあるような、懐かしいような、それでいて胸が締め付けられるような、不思議な感覚。しかし、ただの奴隷の少女だ。気のせいだろう。彼はそう結論づけ、その場を去ろうとした。




 リゼは、アルが自分から視線を外し、去って行こうとするのを見て、焦燥感に駆られた。この機会を逃したら、もう二度と会えないかもしれない。どうすればいい? どうすれば、彼に気づいてもらえる?


 その瞬間、彼女の中で、眠っていた王女の魂が目を覚ました。臆病な奴隷少女リゼではなく、聡明で大胆なリーゼロッテ・ブランデンブルクとして。彼女は、一つの賭けに出ることを決意した。



 ~~~ 



 アルが背を向け、雑踏に消えようとしたその刹那、背後で騒ぎが起こった。


「おい、小娘! てめえ、今俺の財布をすろうとしたな!」


 下品な身なりの男が、リゼの腕を乱暴に掴んでいた。リゼがいた檻は、ちょうど今、奴隷商人が掃除のために扉を開けていたのだ。その隙を突いて、リゼは外に飛び出したらしかった。


「違います! 私は何もしていません!」


 リゼは毅然とした声で言い返した。その声には、奴隷らしからぬ気高さが宿っている。


「うるせえ! 猫の手は盗癖があるって言うからな! 奴隷の分際で生意気な!」


 男が手を振り上げた。周囲の野次馬は、面白そうに遠巻きに見ているだけで、誰も助けようとはしない。


 その時だった。


「そこまでにしてもらおうか」


 低く、しかしよく通る声が響いた。アルが、いつの間にか男の背後に立っていた。その瞳から、飄々とした笑みは消え、かつてのクルト・フォン・ローゼンダールを彷彿とさせる、冷たく鋭い光が宿っていた。


「なんだぁ、てめえ。こいつの仲間か?」


「いや。ただ、子供相手に大人気ない真似をするのが気に食わないだけだ。その手を離せ」


「ふん、金持ちの旦那が正義の味方ごっこかい? 痛い目見ねえうちに消えな!」


 男がアルに殴りかかろうとした瞬間、彼の体は宙を舞っていた。アルが、男の腕を掴み、流れるような動きで背負い投げを放ったのだ。

 見事な体捌きに、周囲からどよめきが起こる。地面に叩きつけられた男は、うめき声を上げて動けない。


 アルは男を一瞥もせず、リゼに向き直った。そして、彼女の瞳をまっすぐに見て、息を呑んだ。怯えながらも、その奥に強い意志を宿した紫色の瞳。

 なぜだろう。この瞳に見つめられると、胸の奥が締め付けられるように痛む。守らなければならない、という強烈な衝動に駆られる。


(この感情は、なんだ……? ただの奴隷の少女のはずだろう?)


 そこに、慌てた様子の奴隷商人が駆け寄ってきた。


「こ、これは旦那様! うちの商品がご迷惑を……。おい、リゼ! さっさと檻に戻れ!」


「待て」


 アルは奴隷商人を制した。


「この子を売ってもらおう。いくらだ?」


「へ? い、いえ、しかしこの小娘は気性も荒く、何の役にも……」


「値段を聞いている」


 アルの有無を言わせぬ迫力に、奴隷商人は気圧された。彼は震える指で、法外な金額を提示した。足元を見たのだろう。しかし、アルは眉一つ動かさず、懐から金貨の入った袋を取り出し、奴隷商人の手に押し付けた。


「これで足りるだろう。手続きを済ませて、すぐに引き渡せ」


 こうして、リゼは衝動的にアルに買い取られた。なぜ、あんな行動に出たのか、アル自身にもよくわからなかった。ただ、あの紫色の瞳を見捨ててはいけないと、魂が叫んでいたのだ。


 アルの商会に併設された屋敷に連れてこられたリゼは、まず風呂に入れられ、清潔なメイド服を与えられた。

 薄汚れた姿から一変し、亜麻色の髪と尻尾はふわふわの艶を取り戻した。小柄で愛らしいその姿は、まるで人形のようだった。しかし、彼女はただ黙って、アルの指示に従うだけだった。


「お前の名前はリゼ、だったな。今日からここでメイドとして働いてもらう。危険な真似はするな。衣食住は保証する」


「……はい」


 か細い返事。アルは、市場で見せた気丈な態度はどこへ行ったのかと、少し拍子抜けした。


 それから数日間、奇妙な共同生活が始まった。リゼはメイドとして甲斐甲斐しく働いた。掃除、洗濯、食事の準備。教えられたことはすぐに覚え、完璧にこなした。

 だが、彼女はほとんど口を利かず、いつもアルの様子をじっと窺っているようだった。


 アルは、そんなリゼの視線を感じながらも、日課である剣の素振りを欠かさなかった。騎士としての自分は捨てた。だが、この体にしみついた技を忘れることはできなかったし、護身のためにも鍛錬は必要だった。

 庭で一人、木剣を振るう。その剣筋は、ブランデンブルク王国近衛騎士団にのみ伝わる、特殊な剣術のものだった。


 リゼは、その光景を部屋の窓から、息を詰めて見つめていた。間違いない。あの剣の構え、あの足運び。あれは、クルトの剣術だ。


 確信は、日に日に深まっていった。この人は、私の騎士、クルト・フォン・ローゼンダールだ。

 でも、なぜ商人をやっているのだろう。なぜ、私のことを覚えていないのだろう。記憶が不完全なリゼには、その理由まではわからなかった。


 そして、運命の夜が訪れる。


 その夜は、美しい満月が空にかかっていた。アルは、やはり庭で一人、剣を振るっていた。月の光を浴びて、彼の金髪がきらきらと輝いている。その姿は、リゼの記憶の中の騎士の姿と、完全に重なった。


 もう、我慢できなかった。リゼは部屋を飛び出し、庭に立つアルのもとへ駆け寄った。


「アル様!」


「リゼ? どうした、こんな夜更けに」


 アルが驚いて振り返る。リゼは、彼の前に立つと、震える声で、しかしはっきりと言った。


「……クルト」


 その名を聞いた瞬間、アルの表情が凍りついた。クルト・フォン・ローゼンダール。それは、この世界では誰にも知られていないはずの、彼が葬り去ったはずの名前だった。


「……何を言っている?」


「その剣術は、ブランデンブルク近衛騎士団のもの。そして、あなたは……、あなたは、私に短剣をくれた。お守りだと言って」


 アルの青い瞳が、大きく見開かれた。なぜこの少女が知っている? まさか。あり得ない。

 だが、目の前の少女の紫色の瞳は、真剣な光をたたえ、まっすぐに彼を見つめている。それは、彼が忠誠を誓った、ただ一人の主君の瞳の色だった。


「……殿下。リーゼロッテ、殿下なのですか……?」


 掠れた声でアルが尋ねると、少女はこくりと頷き、その瞳から大粒の涙をこぼした。


「はい、クルト……。やっと、やっと会えました……!」



 ~~~ 



 再会の喜びも束の間、アルの屋敷の客間は重い沈黙に包まれていた。温かいハーブティーの湯気が、二人の間の緊張した空気を和らげるかのように立ち上っている。メイド服姿のリゼ――、その魂にリーゼロッテ王女を宿す少女は、小さな手でカップを握りしめ、ゆっくりと記憶をたどりながら、自らの身に起こったことを語り始めた。


「……気がついたら、私はこの姿で、あの薄汚い市場にいました。記憶はほとんどなく、ただ、あなたの面影と、無念の死を遂げたことだけが、悪夢のようにこびりついていたのです」


 リーゼロッテとしての理知的な口調が、少女の姿と相まって、不思議な説得力を生んでいた。彼女の話によれば、死後、何らかの力によって猫獣人として転生し、奴隷として売買されるうちに、オルムに流れ着いたのだという。


 アルは黙って彼女の話を聞いていた。世界保険協会の存在を知る彼にとって、魂が別の肉体に宿るという現象は、もはや荒唐無稽な話ではなかった。むしろ、彼女が生きているという事実に、安堵と、そして新たな怒りが込み上げてくるのを感じていた。


 一通り話し終えたリーゼロッテは、顔を上げ、決意を秘めた紫色の瞳でアルを見つめた。


「クルト。いえ、今はアルと呼ぶべきですわね。あなたにお願いがあります」


「……聞きましょう」


「私を陥れ、国を蝕む逆賊……、宰相ハインリヒ・フォン・ベルンシュタインを、討ち滅ぼしてください」


 その言葉は、静かだったが、燃えるような憎しみと、国を憂う王女としての強い意志が込められていた。


「彼を放置すれば、ブランデンブルク王国は、私利私欲にまみれた貴族たちの食い物にされ、民はますます苦しむことになるでしょう。私の無念を晴らすためだけではありません。国を、民を救うために、あなたの力が必要なのです」


 リーゼロッテは椅子から降り、アルの前に進み出ると、深く頭を下げた。王女が、臣下に行うにはあり得ない、懇願の姿だった。


「お願いです、アル。もう一度、私に力を貸してください」


 アルは、即座に答えることができなかった。彼の心は、激しく揺れ動いていた。


「……殿下。俺は、もう騎士クルト・フォン・ローゼンダールではありません。ただの商人、アルベルト・フォン・エンダーレです。望んで手に入れたこの平穏な生活を、捨てるつもりはありません」


 彼は一度、そう言って彼女の願いを拒絶した。それは彼の本心だった。もう争いごとはごめんだ。裏切られ、処刑されたあの絶望を、二度と味わいたくはなかった。スローライフが一番だ。そう心に誓ったはずだった。


「静かに暮らしたい。復讐も望まない。そう決めたんです。それに、相手は一国の宰相。一介の商人に、何ができるというのですか」


「あなたならできます!」


 リーゼロッテは顔を上げ、食い下がった。


「今のあなたには、かつての私たちが持っていなかったものがある。莫大な富と、国境を越えた自由な立場が。それを使えば、剣を振るうだけではない戦い方ができるはずです」


 彼女の言葉が、アルの胸に突き刺さる。そうだ、今の自分には金がある。権力やしがらみに縛られない立場がある。それは、騎士クルトにはなかった、強力な武器だ。


 アルは、目の前で必死に助けを求める、かつての主君の姿を見た。

 小柄な少女の姿をしていても、その魂は、彼が命を懸けて守ると誓った、気高き王女リーゼロッテそのものだった。彼女を守れなかった、あの日の無念。処刑台の上で感じた、どうしようもない無力感。その記憶が、鮮やかに蘇る。


 そして、彼は気づいた。この手に入れた平穏は、本当に自分の望んだものだったのだろうか、と。リーゼロッテのいない世界で、過去の傷に蓋をして、ただ安穏と過ごすだけの毎日。それは、本当に生きていると言えるのだろうか。


 何より、再び目の前に現れた主君が、こうして助けを求めている。彼女を見捨てて、自分だけが幸せに暮らすことなど、元来の彼の実直な魂が許さなかった。


 長い沈黙の後、アルは深く、長い溜息をついた。そして、諦めたように、しかしどこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。


「……わかりました。全く、高くついた生命保険だったらしい」


 彼は立ち上がると、リーゼロッテの前に跪き、その小さな手を取った。それは、騎士が主君に忠誠を誓う、かつて何度も繰り返した光景だった。


「商人アルベルト・フォン・エンダーレは、本日をもって、リーゼロッテ・ブランデンブルク殿下に、改めて忠誠を誓います。この金も、この剣も、すべては殿下のために」


 彼の心に、一度は消えたはずの騎士としての忠誠心が、より強く、より熱く、再燃した瞬間だった。それはもう、誰かに強いられた義務ではない。自らの意志で選び取った、魂の誓いだった。


「ありがとう……、アル」


 リーゼロッテの瞳から、安堵の涙が溢れた。


「さあ、お立ちください。あなたはもう、私の騎士であると同時に、私の唯一の相棒ですわ」


 二人は見つめ合い、固く頷き合った。冤罪で引き裂かれた主君と騎士は、時を超え、金と剣を携えた最強のバディとして、復讐と救国の戦いに身を投じることを決意した。波乱に満ちた第二の人生が、今、本当の意味で幕を開けたのだ。



 ~~~ 



 復讐を決意した翌日から、アルベルト商会の動きは劇的に変わった。

 若き商人アルの指揮の下、その莫大な資金力は、もはや単なる商業活動のためだけではなく、ブランデンブルク王国の宰相ハインリヒを追い詰めるための金という名の力として、振るわれ始めたのだ。


「まず、情報だ。敵を知らずして戦はできん」


 執務室の大きな地図を前に、アルはリゼに言った。


「――ハインリヒは用意周到で、用心深い男だ。奴自身の尻尾を掴むのは容易ではない。だから、外堀から埋めていく」


 アルの最初の指令は、アミリア連邦中から、腕利きの情報屋、スパイ、さらには金の力で動く元役人などを、金に糸目をつけずにかき集めることだった。彼は集めた者たちに高額な報酬を約束し、彼らを密かにブランデンブルク王国内に潜入させた。彼らの目的はただ一つ。

 宰相ハインリヒ・フォン・ベルンシュタインとその派閥の貴族に関する、あらゆる不正の証拠を集めること。


 情報は、金で買うことができる。それは正にハインリヒのやり方だ。アルはそれを嫌というほど熟知していた。

 数週間もすると、潜入させた情報網から、膨大な情報がアルベルト商会に集まり始めた。買収された役人のリスト、不正な徴税の記録、貴族たちへの贈賄の証拠。その一つ一つが、ハインリヒ派の腐敗を示すものだった。


「見てください、アル。この穀物取引の帳簿。宰相派のシューマン子爵が管理する王家の穀物倉ですが、ここ数年の凶作にもかかわらず、帳簿上の備蓄量がほとんど減っていません。まるで毎年寸分違わぬ量が運び込まれ、消費されているかのようです。あまりに不自然ですわ」


 リーゼロッテは、山と積まれた報告書の中から、鋭く矛盾点を指摘した。彼女の王女としての帝王学と、国政に関わってきた知識は、情報分析において絶大な力を発揮した。彼女はもはや単なる守られるべきヒロインではなく、アルの右腕であり、頭脳だった。


「ああ、この帳簿自体が偽装工作のための見せかけだろうな。おそらく、凶作で苦しむ民から税として取り立てた穀物を帳簿外の資産として別の場所に隠している。そして、それを高値で横流ししているんだ。王家の穀物倉の帳簿を維持しているのは、監査が入っても横領が発覚しないようにするための偽装に過ぎない」


「許せません……。民の命をなんだと思っているのでしょう」


 リーゼロッテが悔しそうに拳を握る。


 アルは、集めた証拠をすぐには使わなかった。今はまだ、カードを集める段階だ。彼はさらに調査を深めさせる。すると、やがて、単なる国内の汚職事件では済まない、より大きな陰謀の輪郭が浮かび上がってきた。


「代表、奇妙な報告が。ハインリヒの資金の一部が、国境を越え、西方のシュヴァルツヴァルト帝国の闇組織に流れているようです」


「闇組織?」


「はい。『双頭の蛇』と呼ばれる組織で、暗殺や諜報活動を生業としているとか。また、ハインリヒと組織の幹部が交わしたとみられる書簡の写しも手に入れました。そこには、我々には見慣れない紋章が記されていた、と」


 謎の紋章。他国の闇組織との繋がり。リーゼロッテ殺害計画も、もしかしたらハインリヒ個人の野心だけではなく、この「双頭の蛇」が裏で糸を引いていたのかもしれない。敵は、思っていたよりもずっと大きく、根深い。


「……厄介なことになってきたな。だが、今はハインリヒだ。まずはハインリヒの経済基盤を叩き潰す」


 アルは、次なる手を打った。それは、アルベルト商会の経済力を直接ぶつける、経済戦争の開始だった。


 彼はまず、ハインリヒ派の貴族たちが主な収入源としている事業を徹底的に洗い出した。鉱山の経営、特産品の交易、金融業。そして、それらの事業に対して、正面から攻撃を仕掛けたのだ。


 シューマン子爵が独占していた鉱山からは、アルベルト商会がより高品質な鉱石を、より安い価格で市場に放出した。当然、取引先は一斉にアルベルト商会に乗り換える。子爵の鉱山は、たちまち経営難に陥った。


 別の貴族が手掛けていた織物交易には、アルが持つ南方のエルフ族との独自のルートを使い、品質もデザインも優れた布を流通させた。彼らの時代遅れの織物は、全く売れなくなった。


 アルのやり方は効果的だった。彼は、騎士時代の兵站管理の知識を応用し、敵の補給路――、つまり資金源を断つことに全力を注いだのだ。

 ハインリヒ派の貴族たちは、次々と経済的に追い詰められていった。彼らの商売は妨害され、主要な取引先は奪われ、資金繰りは悪化の一途をたどった。

 彼らの結束は金で結ばれたものだ。その金がなくなれば、結束も脆く崩れ去る。


「アル、あなたのやり方は、まるで戦そのものですわ。剣の代わりに金貨を、兵士の代わりに商人を使っているだけ」


 リーゼロッテが、感嘆とも呆れともつかない声で言った。


「戦も商売も、本質は同じですよ、殿下。情報を制し、流れを読み、相手の弱点を突く。ただ、使う道具が違うだけです」


 アルは、余裕の笑みを浮かべて答えた。彼はもはや、ただの剣士ではない。金という、王国最強の剣を自在に振るう、恐るべき戦略家へと変貌を遂げていた。ブランデンブルク王国内では、名もなき隣国の商会によって、宰相派の権力基盤が静かに、しかし確実に切り崩されていった。



 ~~~ 



 金による静かなる戦争が水面下で進む一方、ハインリヒもまた、アルの存在を座視しているほど愚かではなかった。

 自派の貴族たちが次々と経済的な苦境に陥っている原因を探らせ、その背後にアミリア連邦の急成長商会「アルベルト商会」とその若き主、アルベルト・フォン・エンダーレがいることを突き止めるのに、そう時間はかからなかった。


「一介の商人が、我々の邪魔をするとは。身の程をわきまえぬ輩だ」


 ブランデンブルク王国の宰相執務室で、報告を受けたハインリヒは冷たく吐き捨てた。

 彼はアルの正体までは知らない。しかし、自分の計画を脅かす存在であることは確かだった。そして、彼の問題解決の方法は、常に一つだった。


「始末しろ。禍根は小さいうちに摘み取っておくに限る」


 その指令を受け、オルムの街に、複数の影が舞い込んだ。彼らは、ハインリヒが闇組織「双頭の蛇」を通じて雇った、プロの暗殺者たちだった。


 その夜、アルは屋敷の自室で、リーゼロッテと共に今後の戦略を練っていた。


「ハインリヒ派の資金源は、これで七割方断ち切ったことになる。そろそろ連中も、なりふり構わなくなってくる頃だろう」


「ええ。物理的な攻撃も想定しておくべきですわ」


 リーゼロッテがそう言った、まさにその時だった。


 アルの表情が、すっと険しくなった。彼は人差し指を口に当て、リーゼロッテに静かにするよう合図する。そして、音もなく立ち上がると、腰に差していた愛剣の柄に手をかけた。それは、商人アルベルトとしてあつらえた、質素だが恐ろしく切れる名剣だった。


「……客人が来たようだ。五人。屋根の上に三人、庭に二人。なかなか気配を消すのが上手い連中だ」


 リーゼロッテは息を呑んだ。彼女には何も感じ取れなかった。アルの感覚は、騎士時代と何ら変わっていなかったのだ。


「殿下は、この部屋から決して出ないでください。すぐに片付けてきます」


 アルが部屋の扉を開けた瞬間、廊下の闇から二つの影が同時に襲いかかってきた。左右からの挟撃。常人であれば反応すらできずに斬り刻まれているだろう。しかし、アルは冷静だった。彼は体を半歩後ろに下げると、最小限の動きで二本の短剣をいなし、すれ違いざまに剣を閃かせた。閃光が二度走り、影たちは声もなく崩れ落ちた。一瞬の出来事だった。


「残り三人」


 アルは屋根に駆け上がった。月明かりの下、黒装束の男たちが彼を待ち構えていた。


「アルベルト・フォン・エンダーレだな。お前の首には、高額の懸賞金がかかっている」


「そうか。それは光栄だな。だが、生憎と俺の首は安くないぞ」


 飄々とした口調とは裏腹に、アルの瞳は絶対零度の光を放っていた。


 三人の暗殺者が同時に襲いかかる。連携の取れた、見事な三方からの攻撃。だが、アルは彼らの動きを全て見切っていた。

 彼は剣を構え、まるで舞うように攻撃の嵐の中を駆け抜ける。剣と剣がぶつかり合う、甲高い金属音が夜の静寂を切り裂いた。クルト・フォン・ローゼンダールとして培った比類なき剣技は、全く錆びついていなかった。


 わずか数十秒後、そこには静かに剣の血を拭うアルの姿と、地に伏した三人の暗殺者だけが残されていた。


 部屋に戻ると、リーゼロッテが心配そうな顔で彼を迎えた。


「アル、ご無事で……」


「ええ、問題ありません。ですが、これで確信しました。ハインリヒは、本気で俺たちを潰しにかかってくる」


 アルは決断した。金という力だけでは足りない。リーゼロッテを、そして自らの平穏を守るためには、物理的な力、武力が必要不可欠だと。


 翌日、アルは再びその資金力を惜しげもなく投入した。

 彼は、オルムとその周辺地域に流れていた、腕は立つが不遇な立場にいた元騎士や傭兵たちを、破格の条件で雇い入れたのだ。戦争で居場所を失った者、主君に裏切られた者、ただ金のために戦うしかなかった者。彼らは、アルが提示した高額な報酬と、何よりも彼自身の圧倒的な実力に惹かれ、次々とアルベルト商会の元に集った。


 アルは、商会近くにある広大な土地を買い取り、そこに訓練場と兵舎を建設した。そして、自ら教官となり、集まった者たちを鍛え始めた。


「お前たちは、ただの傭兵ではない! これより、アルベルト商会が誇る私兵団の一員となる! 規律、連携、そして何より、守るべきもののために剣を振るう誇りを叩き込んでやる!」


 クルト・フォン・ローゼンダールとしての騎士団長時代の経験が、遺憾なく発揮された。彼の指導は厳しく、しかし的確だった。彼は一人一人の能力を見抜き、最適な役割を与え、個々の力を組織の力へと昇華させていった。

 最初は金目当てで集まっただけの荒くれ者たちも、アルの人柄と実力に触れるうちに、次第に彼に心酔し、高い士気と忠誠心を持つ精鋭部隊へと変貌を遂げていった。


 こうして、アルベルト商会は、表向きは商業組織でありながら、その内側には強力な軍事組織を抱える、特異な存在となった。

 金と武力。二つを手にしたアルとリーゼロッテは、決戦の地、ブランデンブルク王国へと乗り込む準備を、着々と進めていた。



 ~~~ 



 ブランデンブルク王国の王城は、その夜、天長節を祝う絢爛豪華な光に包まれていた。

 大広間には国中の有力貴族たちが集い、きらびやかなドレスや豪奢な軍服に身を包んで、偽りの社交辞令を交わしている。シャンデリアの光が、彼らの持つグラスの中で揺れるワインをルビーのように輝かせ、楽団が奏でる優雅なワルツが、水面下で渦巻くどす黒い思惑を糊塗していた。


 その華やかな輪の中に、ひときわ注目を集める一団がいた。

 アミリア連邦から招待された有力商人、アルベルト・フォン・エンダーレと、その一行だ。上質な仕立ての礼服を完璧に着こなしたアルは、口元に人の良い笑みを浮かべ、周囲の貴族たちとそつなく談笑している。その傍らには、愛らしい猫獣人のメイド、リゼが控えていた。

 多くの貴族が、物珍しそうに、あるいは侮蔑的にリゼに視線を送るが、彼女は少しも臆することなく、主人の隣に静かに佇んでいる。その紫色の瞳には、この場の誰よりも深い、王族としての気品が宿っていた。


「これはこれは、アルベルト殿。遠路はるばるようこそお越しくださった」


 声をかけてきたのは、このパーティーの主催者であり、王国の実質的な支配者である宰相ハインリヒ・フォン・ベルンシュタインその人だった。手入れされた銀髪をオールバックにし、冷たい灰色の瞳が、品定めするようにアルを見ている。


「これは宰相閣下。お招きいただき、光栄の至りにございます」


 アルは深々と頭を下げた。その態度は、どこからどう見ても、一介の腰の低い商人のものだった。


「ふん。貴殿の商会の噂は、こちらにも届いておるよ。なかなか、やり手のようだ。だが、他人の庭で好き勝手に振る舞うのは、感心せんな」


 ハインリヒは、アルの耳元で囁くように言った。自分たちの資金源を脅かしているのが、目の前の男であることに気づいている、という牽制だった。


「はて。何のことやら。わたくしどもは、ただ公正な取引を心がけているだけでございますが」


 アルは、あくまで飄々と受け流した。その態度が、ハインリヒの癇に障ったようだった。彼は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、人混みの中へと消えていった。


「……アル。いよいよですわね」


 リゼが、誰にも聞こえないほどの小声で言った。


「ええ、殿下。準備は出来ました。始めましょう」


 国王の祝辞が終わり、宴が最高潮に達したその時。アルは、楽団に合図を送った。楽団の演奏がぴたりと止み、大広間が静寂に包まれる。突然のことに、貴族たちが何事かとざわめき始めた。その中央に進み出たアルは、朗々と響き渡る声で言った。


「皆様、ご歓談のところ、まことに恐縮です! わたくし、アミリア連邦にて商いを営んでおります、アルベルト・フォン・エンダーレと申します! 本日は、この栄えある祝賀の席をお借りして、皆様に、そして国王陛下に、どうしてもお伝えしたいことがあり、罷り越しました!」


 すべての視線が、アルに集中する。国王も、玉座から怪訝な表情で彼を見つめている。


「無礼者! 商人風情が、何事だ!」


 ハインリヒが激昂して叫ぶが、アルは動じない。


「わたくしは、今は亡き、気高きリーゼロッテ王女殿下の名誉を憂う、ただの一介の商人にございます!」


 リーゼロッテの名が出た瞬間、広間の空気が凍りついた。それは、この国では半ば禁句となっていた名前だったからだ。


「リーゼロッテ殿下は、痴情のもつれの末に、近衛騎士団長クルト・フォン・ローゼンダールに殺害されたと伺っております! しかし、それは真実でしょうか!?」


 アルは、懐から分厚い書類の束を取り出した。


「ここに、その事件の真相と、長年にわたりこの国を蝕んできた、巨大な腐敗の証拠がございます!」


 彼は、ハインリヒをまっすぐに見据え、その罪状を一つ一つ、告発し始めた。


「宰相ハインリヒ・フォン・ベルンシュタイン! 貴様は、リーゼロッテ殿下の改革を疎み、自らの権益を守るため、殿下を殺害! その罪を、忠実な騎士であったクルト・フォン・ローゼンダールになすりつけた!」


「なっ……、何を馬鹿なことを! 証拠でもあるのか!」


「ここに! これは、貴様が暗殺を命じた密書! これは、貴様が買収した衛兵の証言録! そしてこれは、貴様が民から搾取した富を、他国の闇組織に流していたことを示す帳簿だ!」


 アルが次々と突きつける物的証拠に、会場は水を打ったように静まり返る。ハインリヒの顔からは、血の気が引いていた。


「貴様の悪事はそれだけではない! 凶作に苦しむ民を救うための穀物を横流しし、私腹を肥やし、不正な税で民を苦しめてきた! この国を思う心など欠片もなく、ただ己の欲望のために国を食い物にしてきた、国賊だ!」


 アルの言葉は、まるで罪を裁く天の雷のように、大広間に響き渡った。

 貴族たちは青ざめ、互いの顔を見合わせている。もはや、誰もハインリヒを弁護する者はいなかった。彼の欺瞞は、完全に暴かれたのだ。



 ~~~ 



 追い詰められた獣は、最後の牙を剥く。


「ええい、黙れ、黙れ、黙れ! 下賤な商人が、この私を誰だと思っておる!」


 完全に冷静さを失ったハインリヒは、狂ったように叫んだ。


「こうなれば、もはやこれまで! 衛兵! ここにいる者たちを皆殺しにしろ! 国王も、貴族も、あの商人どもも、一人残らずだ! この国は、今日からこの私のものだ!」


 ハインリヒの号令の下、大広間の扉が破られ、彼の息のかかった私兵たちが雪崩れ込んできた。その数、およそ百。彼らは広間にいた貴族や国王に剣を向け、クーデターを強行しようとしたのだ。悲鳴が上がり、広間はパニックに陥った。


 しかし、アルは冷静だった。彼は、控えていたリゼの肩をそっと抱き寄せると、不敵な笑みを浮かべて言った。


「……殿下。下がっていてください」


 次の瞬間、大広間の窓ガラスが派手な音を立てて砕け散り、衛兵とは異なる身なりの兵士たちが、ロープを使って次々と突入してきた。アルが金に糸目をつけず組織し、鍛え上げた私兵団だった。その数はハインリヒの私兵を上回り、何より、その動きは比べ物にならないほど洗練されていた。


「目標、反乱軍! 国王陛下と民間人を保護しつつ、速やかに鎮圧せよ!」


 アルの号令が飛ぶ。彼の私兵団は、一糸乱れぬ動きでハインリヒの私兵たちを包囲し、圧倒的な実力差で無力化していく。怒号と剣戟の音が響き渡るが、それは戦闘というより、一方的な制圧だった。わずか十分後、ハインリヒの私兵は全員武器を取り上げられ、地面に押さえつけられていた。


 呆然と立ち尽くすハインリヒの前に、アルがゆっくりと歩み寄る。


「終わりだ、ハインリヒ。お前の野望も、ここまでだ」


「き、貴様……、いったい、何者なのだ……」


 震える声で問うハインリヒに、アルは何も答えず、ただ冷たい視線を送るだけだった。


 騒動が鎮圧された後、アルとリゼは、国王の前に進み出た。老齢の国王は、玉座に座ったまま、目の前で起こったことのすべてを信じられないといった表情で見ていた。


「……そなたは、一体……」


 アルは深く一礼した。


「陛下。わたくしは、ただの一介の商人でございます。今は亡き、リーゼロッテ殿下の無念を晴らし、この国に巣食う悪を正したいと願った、ただの男です」


 その時、国王の視線が、アルの隣に立つリゼに注がれた。リゼは、怯えることなく、まっすぐに国王を見つめ返した。その気高い紫色の瞳。国王は、そこに、亡き娘リーゼロッテの面影をはっきりと見た。そして、すべてを察した。この少女が、リーゼロッテの魂を受け継ぐ者であり、隣の男が、彼女のためにこの全てを成し遂げたのだということを。


「……そうか。そうであったか……」


 国王の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「クルト・フォン・ローゼンダールの名誉は、私が責任をもって回復しよう。彼は、国を救った英雄として、歴史に名を刻むことになるだろう」


「ありがとうございます、陛下。ですが」


 アルは静かに首を振った。


「クルト・フォン・ローゼンダールは、すでに死んだ男。名誉は、故人として回復していただければ、それで十分でございましょう」


 アルとリゼは、これ以上何も語らなかった。ハインリヒは捕らえられ、後日、国を揺るがした大罪人として処刑された。

 クルト・フォン・ローゼンダールの名誉は公式に回復され、悲劇の英雄として、その死が悼まれた。


 騒動の終結を見届けたアルとリゼは、誰にも告げることなく、夜の闇に紛れて静かに王国を去った。

 後には、「国を救った謎の商人」という、一つの伝説だけが残された。



 ~~~ 



 ブランデンブルク王国での激動の日から、数週間が過ぎた。


 アミリア連邦、オルムの街にあるアルベルト商会の屋敷のテラスでは、穏やかな午後の陽光が、テーブルに置かれたティーセットをきらきらと照らしていた。


「……ふう。やっぱり、スローライフが一番だな」


 アルは、肘掛け椅子に深く身を沈め、心からの安らぎと共に溜息をついた。目の前では、メイド姿のリゼが、慣れた手つきで紅茶を淹れている。彼女もまた、穏やかな笑みを浮かべていた。


「本当に、大変でしたわね。でも、これでようやく、心置きなくのんびりできますわ」


「ええ、殿下。もう二度と、あんな面倒なことに関わるのはごめんです」


 二人の間には、もはや主君と騎士といった堅苦しい空気はない。共に死線を乗り越えた、かけがえのない相棒としての、穏やかで温かい信頼関係が満ちていた。

 ようやく手に入れた、本当の意味での平穏な日常。アルは、この何でもない時間を、心の底から愛おしいと感じていた。


 そこへ、一人の使用人が、一通の手紙を盆に載せて持ってきた。


「代表、お手紙が届いております」


「ん? 誰からだ?」


 アルは、訝しげに手紙を受け取った。差出人の名前はない。しかし、その封筒に使われている上質な紙に、アルは嫌な予感を覚えた。


 封を切り、中の便箋を広げる。そこに書かれていたのは、やはり、あの女性からのメッセージだった。


『アルベルト・フォン・エンダーレ様

 この度のブランデンブルク王国におけるご活躍、誠に見事でございました。お客様の真の価値が、我々の想定を上回る形で発揮されたこと、協会一同、大変喜ばしく思っております。

 やはり、我々の投資は間違っておりませんでした。

 つきましては、お客様のその類まれなる能力を、さらに有効にご活用いただくべく、新たな投資案件をご提案したく、ご連絡差し上げた次第です。

 先日お客様がその存在に気づかれた双頭の蛇。彼らの活動は、世界の理を歪める、極めて危険なものでございます。詳細は、追ってご説明に伺います。

 世界保険協会 お客様担当 マヤ』


 アルは、手紙を読んだまま、天を仰いで固まった。


 隣から手紙を覗き込んだリゼが、くすくすと楽しそうに笑う。


「あらあら。どうやら、まだのんびりとはさせていただけないようですね、私の騎士様?」


 その悪戯っぽい笑みは、もはや王女リーゼロッテのものではなく、年相応の少女リゼの愛らしさに満ちていた。


 アルは、額に手を当て、本日何度目かわからない、深くて長いため息をついた。


「……世界一、高くついた生命保険だったらしい」


 その呟きは、呆れと諦めと、そしてほんの少しの期待を含んで、オルムの穏やかな青空に溶けていった。


 冤罪から始まった第二の人生は、どうやら、彼が望む「スローライフ」とは程遠い、波乱に満ちたものになりそうだ。

 ハイファンタジージャンルを書いてみました。一応続編も書けそう? 書くなら先に肉付けからかもしれませんけどね。


 読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!


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― 新着の感想 ―
まだいろいろあるかもしれないけれど、王女様と結婚して幸せに暮らしてほしいです。
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