玻璃の静謀2
3️⃣
翌々日の夕刻、9時を少し回った頃、歌舞伎座では夜の幕が閉まり、ざわめきと共に人々は席を立ち始めていた。その1階の桟敷席に少年と青年の2人連れがひと組。言わずと知れた雪臣と恭四郎である。
「…なんだ……伊達のおっさんは最後までご登場ナシかよ。ちゃんと姪を連れて来たかどうか幕間にご挨拶と称してチェックが入るかと思ってたのに。それともやっぱり綾さんが来ないんで怒って帰っちゃったのかな」
白くゆったりとしたリネンのパンツに生成りのファーマーシャツ、明るいブルーのサマーセーターを肩から羽織った雪臣は目の前の欄干に頭をもたせかけると小さくため息をついた。その服装のせいもあるが、元々華奢で小柄な雪臣が今夜はやたらと幼く見える。
「嫌ですね雪臣様、もう眠いんですか?車に入ったら寝ても結構ですけど、ここでは眠らないで下さいよ。賢章氏がどこからか見てるかも知れませんし、先生のお知り合いがいるかもしれないんですから」
そう言って雪臣の肩を歌舞伎のぶ厚いプログラムで小突いた恭四郎は、茶色のリネンのパンツにストライプの入った淡い水色の開襟シャツ、その上に生成りのカーディガンを羽織り、ついでにいつもは撫でつけて後ろへ流している髪を今夜はそのままにしてあるので雪臣に負けず劣らず大学生のように見えた。
どちらかといえば年寄りの多い歌舞伎座の中で大学生と中学生の兄弟のような彼らはかなり目立った。ましてや2人とも並よりははるかに人目をひく姿をしている。お陰で彼らを探していた人物は、探し始めて3秒もしないうちに彼らを見つけることができたのである。
「いやぁ、これは松平の…雪臣君じゃないかね」
席を立って出て行きかけていた雪臣と恭四郎は、突然降って湧いた声に足を止めて振り返った。そこには黒斑メガネをかけた小太りのスーツ姿の中年男性と白髪混じりで長身の羽織姿の男がいた。
「これはーどうも伊達さん。今夜はご招待いただいてありがとうございました。いい席で素晴しい舞台を拝見させていただいて大変楽しゅうございました」
深々と頭を下げた雪臣を形だけ押し止めると伊達賢章はわざとらしい笑い声を上げながらメガネをずり上げた。
「いや、どうも。今のお若い方に歌舞伎なんぞご退屈ではと思ったのですが、まぁ日本の伝統芸能ですから1度ぐらいは…それにしてもこの舞台の良さがおわかりになられるとは、いやぁさすがですな。このように立派なご子息を持たれて松平先生も鼻が高いことでしょう。ハッハッ」
「はぁ…どうも」
何のどこがどのように素晴しかったのか聞きもしないで何がさすがなのかーと雪臣は内心、賢章に向かって舌を出していた。実際、雪臣は4時間半の舞台の間ほぼ居眠りしていたし、たまに目覚めて恭四郎が今までの筋を説明してくれてもまたすぐに眠くなるから内容はほとんと覚えてないのだ。まぁ、とにかく内容を聞かれなかったのは幸いではあった。
「ところで一綾の姿が見えないようだが…雪臣君?」
”ほら、来た”雪臣は恭四郎にそっと目くばせをした。"御意”恭四郎はそう言いたげに視線を返す。
「はい、せっかく2人でご招待いただいたのですが、綾さんはどうしても都合がつかないとのことでしたので、代わりに…」
「代わりにこの但馬恭四郎が、雪臣様にご無理をお願い申し上げましてご同行させていただきました。僭越ながら私からも伊達様に感謝させていただきます」
「ほう…それはよかったー券が無駄にならないでなー」
賢章は自分の思惑通り事が運ばなかったことが大そう不満だったらしいが、恭四郎に先手を打たれては嫌味のひとつも言えずただ目を白黒するばかりだった。
雪臣はそんな賢章を面白そうに眺めていたが、ふいに自分に注がれている視線を感じて視点の対象をそちらへ移した。
雪臣の視線の先にいたのは賢章の連れの袴姿の男だった。50代中ばぐらいだろうか?長身で大島紬の羽織袴を着こなしているその姿は、若い頃はさぞ男前だったろうという名残りがあったが、現在もそうであると言い切るには少々目が蛇のような残忍さをたたえて光り過ぎ、少々態度が尊大過ぎた。
やがて雪臣の様子に気がついた賢章は、ハンカチで額の汗を拭いながら雪臣と袴の男を交互に見ると口を開いたのだった。
「雪臣君…こちら自民党の山内先生ー知っているだろうね?元首相で君のお父上とはかつて内閣で幕僚同士でもあられた……」
「ええ…ご高名はかねがね、父より伺っております。政治家たる者、常に山内氏のように毅然とあるべきであるーと。お目にかかれて大変光栄に思います、山内先生。松平雪臣と申します。以後お見知りおきを……」
雪臣は口許に最高級の微笑を艶然と浮かべながら山内に向かって優雅な会釈を送った。その瞬間、山内の目が妖しげに光ったのを見たと思ったのは恭四郎の気のせいか。表面は何事もなく山内は無表情に答えた。
「うむ…君は幾つになる?」
「はい、18才ですが」
「そうかー年の割には受け答えもしっかりしておるし、物怖じもせん。松平君も先が楽しみなことだな」
「ありがとうございます」
雪臣が会釈して顔を上げた時、再び山内と視線が合った。
「ー」
「先生、そろそろお車が参ったようですので……」
しばらく続いた沈黙は賢章のけたたましい早口によって破られた。
「そうか…ではまたいずれな」
「はいーお気をつけて」
雪臣は頭を下げて山内を見送っていたが、次の瞬間突然鼻先に白い封筒を突きつけられたので一瞬面食らったような顔でその手紙の主を見た。
「何でしょう、伊達さん?」
手紙の主であるところの賢章は、慌てた様子で山内の様子を伺いながら雪臣の秀麗な頬に自分のポマード頭をくっつけんばかりしてしゃべった。
「いや実は今日君にここへ来てもらったのは他でもない。この招待状を渡す為だったのだよ」
「また招待状ですか!」
思わず本音をもらした雪臣は恭四郎の目配せと咳払込いでこれまた慌てて口をつぐんだ。しかし賢章はこちらの思惑に気がついた様子もない。
「これは1ヵ月後に開かれる伊達銀行の創立70周年パーティーの招待状なんだがね。兄の賢邦はこの時に集まる伊達の内輪の者だけにでも、君と綾の婚約を発表しようかと考えているのだ。まぁ、この事は公然の噂でもあるがやはりこういうことはきちんとけじめをつけておかなければな。その為に君と綾を2人そろって呼んで私からその旨を伝えるつもりだったのだが…」
しつこく愚痴を言い続ける賢章の顔からさりげなく視線を逸らすことに成功した雪臣は、既に心ここにあらず、舞台にかかっている歌舞伎の幕の朱と緑と黒の線が3本1組でいくつあるのか教えることに夢中になっていた。
「しかし、伊達様ー差し出がましいのですが、なぜ雪臣様のお誘いを自宅の方へでなくこことなされたのでしょうか。何か不都合でも?」
まるで自分が招かれたその人であるかのようにかすかに眉をひそめた恭四郎に、賢章はずる賢い鼠のような笑みを浮かべて答えた。
「いやーうちとしては何の不都合もないのだがーそちらは多少複雑で雪臣君宛に郵便物を出しても、不思議なことに本人の手許に着く前に失くなってしまうと伺ったのでね。いやぁ本当に大変なことだねぇ」
「とういうことをおっしゃられているのかー」
賢章は松平家の内粉を知っているー恭四郎の眉根は益々ひそめられ、その下では眼光鋭い両の目が野性の獣のそれのように光っていた。
伊達に松平の弱みを見せるのは、これから先築かれるであろう長い姻戚の中で松平の立場が著しく不利になることを示す。
松平が2つに分裂していることを伊達が知れば、伊達はそのうちの片方に味方し、あるいは相討ちさせて松平の権力を吸収合併することも可能なのだ。つまり政略結婚とはお互いの家が平和的共存を望む為に行うものではなく、むしろ家と家との食うか食われるかの戦いなのである。松平家に属す恭四郎としてはその前哨戦にさっそく負けるというわけにはいかなかった。賢章の挑発に乗ってはいけないと自分に言い聞かせながらも、恭四郎はつい顔が険しくなっていくのを禁じえず再びロを開きかけたが、ふいにその腕に羽で触れられたような感触を覚えて思わず口をつぐんで振り返った。そこには雪臣が彼の腕を軽くつかんで制止を促していた。
「何のことやら、さっぱりわかりかねます、伊達さん。でもご忠告はありがたく受け取っておきましょう。じっくり考えてみると思い当たることがあるかもしれませんから」
そう言った雪臣の笑顔はこの上なく無邪気で、大抵の人が見ればその笑顔にころりと騙されてしまうに違いなかった。
しかし賢章も仮にも政治家の秘書、確たる証拠を握っていて相手に騙されるほど馬鹿でもない。
「これはご謙遜ですな雪臣君。松平桂之介氏と言えば日本でも屈指の政治家ーということはそれだけみんなの目は松平家に注がれているということだ。プライバシーを隠した所で無駄というものだよ。ま、古来ご婦人が権力を握ってよかった試しなどありはしない。君も大変だとは思うががんばってくれたまえ」
耳障りな笑い声と共に去っていく賢章に雪臣と恭四郎は無言で頭を下げていた。やがて賢章の後姿が劇場の扉の向こうに消えたのを上目使いに確認した雪臣は肩にかかっていたセーターの袖でまだ下を向いていた恭四郎の髪を軽く打って散らした。
「俺達も帰るぞ恭四郎。いつまで頭を下げてるつもりだ?」
足早にロビーへと歩を進める雪臣へ恭四郎は微笑しながら近づいた。
「…ご気嫌斜めですね、雪臣様ー」
「あったりまえだろ!」
立ち止まった雪臣はその通った鼻筋の辺りに皺を寄せて恭四郎を睨みつけた。
「…あの山内ってジジイ、俺にガン飛ばしやがった。それだけならまだしも気色悪い…人のこと舐めるような目で眺めやがって。大方政敵の息子をビビらせてやろうって魂胆さ」
「まぁまぁ…それよりもーどうします?伊達氏に松平の内部事情が知れてしまいましたよ」
「ああ、あれも嫌味な奴だよな。弱味を握ったぞとはっきり言えばそれで話は済むのにな」
「伊達のー綾様と血族という割には婉曲的な物の言い回しがお好きなようですねぇー最も好きと上手というのは次元が違いますがー」
「どっちにしろ伊達は俺を手に入れない限り、松平には何の干渉権も持たないんだから大丈夫さ。今、下手に行動を起こしたら権力への第一歩を踏み外すって事ぐらいわかってるだろ、あっちだって…それよりも恭四郎、お前これ行かない? 」
突然立ち止まって恭四郎を振り返った雪臣は、左手の3本指を山形に形作ると右手で何かを握りしめてその空洞を突く真似をしてみせた。
「ビリヤード…ですか?」
「そ、一時期流ったろ。あの頃、学校帰りによく川田や菊池とやりに行ってたんだけど、いやぁこれがやり始めると結構病みつきになっちゃったんだな。今日は歌舞伎を見てる間充分寝たし、けったくそ悪い爺さん2人組に出会ったしここらでひとつ自分の好きなことしないとストレスが溜まって発作が起きそうだ」
「ほう…で、あなたの好きなことっていうのはビリヤードにかこつけてお酒を飲むことなんですね。あなたの安全に日夜身を砕いている私のストレスは、ではいったいどうなるんでしょうね」
スッと目を細めた恭四郎を雪臣は愛想笑いで受け止めた。
「ま、いいじゃない。お前もたまにはゆっくり休んだら?さっ行こ行こ。渋谷の道玄坂んとこにいい店があるんだよ」




