2.金曜日の夜
少しだけお話進みました。
金曜日の夕方。
いつものように残業に追われていた。同僚達は私に仕事を預け、いそいそと退社していく。頼まれた仕事を何とか終わらせ、時計を見ると23時になろうとしていた。メールで送れるものは添付して送り、送れないものはプリントアウトし、それらの書類の束に書置きを添えて、それぞれのデスクに置いて回る。全て終わらせると、帰る準備をしてからタイムカードを押し、警備員に軽く会釈をしてから会社を出た。
少し早歩きで駅まで向かう。電車は朝のラッシュを思わせるように混んでいて、酷く憂鬱になる。なんとか耐えて最寄りの駅に着くと、はぁ~……と大きく息を吐く。ひとつ、大きく深呼吸してから、毎週末に立ち寄るお店に向かって歩き始めた。
駅を挟んで私の住むマンションとは反対側にあるそのお店は、『quietness』という、静かで落ち着いた雰囲気のバーで、『静寂』と言う意味の名前がぴったりのお店だった。少し重い真っ黒の扉を開けると、私がいつも座るカウンターに『予約席』という札が置かれている。カウンターの中にいる店員さんが私に気づき、声をかけてくれた。
「お疲れ様です。」
そう言って店員さんは私に予約席へ座るよう促す。言われるままに、その席の背の高いイスに座り、鞄をイスの脇に掛けた。カウンターの中の店員さんが、おしぼりを広げて手渡した後に一瞬、裏に消えたが、すぐに戻ってくる。その店員さんの後に続いて、清志くんが出てきた。
「今日も残業?」
私は渡された冷たいおしぼりで手を拭きながら頷く。
「お疲れさん。いつものでいい?」
笑顔で頷くと、すぐに冷蔵庫から冷えたグラスを取り出し、生ビールを注ぎ入れ、コースターと一緒に私の前に出してくれる。私はビールを指差し、清志くんに向かって手を差し出すと、笑顔を返してくれた。
「ありがと。一杯いただく」
清志くんは私と同じグラスを取り出し、同じようにビールを注ぐと、そのまま私のグラスにカチンと音をたてて乾杯をしてから一緒に飲む。冷たいビールが喉を通る心地良さに、嬉しくなって顔が綻んでしまう。
「相変わらず良い顔して飲むなぁ~」
私はさらに笑顔になり、うんと頷く。
――だって、一週間お仕事を頑張った自分へのご褒美だもの
いいでしょ?
「はいはい、一週間お疲れ様でした。夜飯、店で食べる?」
大きく頷くと、清志くんが聞いてくる。
「何が食べたい?」
――ペペロンチーノ
「ははっ、静花はいつもそれだな」
――だって、清志くんのペペロンチーノ、美味しいんだもん
自分で作っても、清志くんのペペロンチーノみたいに美味しくないから
「そ、そうか?なんか……改めてそんなこと言われると…………よし!今日は静花の大好きなきのこたっぷりペペロンチーノにしてやる!」
私は嬉しくて思わず手を叩いた。
「それじゃ……おい大野、静花のこと頼むな」
「はい、勿論です」
「んじゃ15分、待ってて」
私は頷いて、清志くんが厨房に入っていくのを見送ると、大野と呼ばれた店員さんに笑顔を向けた。
――私は大丈夫です
「わかりました。何かあったら呼んでください。」
私が頷くと、大野くんは他のお客さんの接客に入る。周りを見回すと、店内の席はほとんど埋まっているようだった。それでもそんなに騒がしく感じないのは、お客さんの質が良いのか、それぞれの時間とペースを楽しむようにお酒と会話を交わしていて、その落ち着いた雰囲気に店内が包まれているからだと感じた。
私はこのお店の、静かにゆったりと過ごせる時間が好きで、金曜日の仕事が終わると必ずと言っていいほど来ていた。
店長の清志くんとは長い付き合いで、今でも仲良くしてもらっている。と言うのも、清志くんとの出会いは、まだ清志くんがこの店を出す前のことで、かれこれ7年も前になる。
当時の私は23歳で、たまたま友達と一緒に入ったバーで清志くんに会った。
その時の清志くんは、まだ雇われている身で、お酒や料理の勉強に一生懸命だった。私は友達とそのバーによく足を運んでいて、週末の夜はいつも朝まで飲んでいた。
1年も経つと、一緒に行っていた友達は結婚を機に引っ越してしまった為、なかなか一緒に行く事はなくなってしまったが、その頃にはお店にも慣れたせいか自然と一人で行くようになり、少しずつ清志くんと仲良くなっていった。
「清志くん、彼女と上手くいってる?」
「まぁね~、順調~。そう言う静花は?」
「私の方も順調だよ~」
「お!それじゃあ結婚式の二次会は、ここ使ってよ。」
「え~?使うとしたら、ここは三次会以降だよ。」
「うーん……ま、それでもいいや。約束な」
「彼がいいって言ったらね」
「はいはい」
他愛もない会話を交わしながら、朝まで楽しい時間を過ごしていた。そう、あの日までは…………
「…静花…?どうした?」
フッと顔を上げると、清志くんが心配そうに私の顔を見ていた。
「ほら、お待たせ。俺特製きのこたっぷりペペロンチーノ」
言われて視線を落とすと、真っ白な四角いお皿に綺麗に盛り付けられたペペロンチーノが、美味しそうな香を漂わせていた。四角いお皿の脇には、小さなガラスの器に入ったサラダと、コンソメスープが入ったスープカップがちょこんと添えられていた。
「早く食べないと俺が食べるぞ。今日、飯まだなんだよな~」
清志くんのいたずらっ子のような顔に、私は急いでフォークを握り、パスタを掬ってクルクルと回す。一口で食べられる大きさに巻き取り、スッと口に運ぶ。オリーブオイルとガーリック、鷹の爪の絶妙なバランスが口の中に広がる。
――はぁ~………美味しい~!!!
思わず顔がにやけてしまう。そんな私を見ながら、清志くんが嬉しそうに話す。
「作りがいあるよ、静花のその顔見ると」
私は口を動かしながら首を傾げる。
「はは、ゆっくり食べてろ。厨房片付けてくる。大野、なんかあったら呼べよ」
「はい」
清志くんが厨房に行くと、私はそのままもぐもぐと食べ続けた。最後にスープを飲み干すと、ふぅ~……と息を吐き出す。お皿の上に空になったガラスの器とスープカップを乗せ、片付けやすいようにまとめておく。少しぬるくなったビールを飲み干す。次は何を飲もうかなぁ~と考えていると、タイミングよく厨房から清志くんが出てきた。
「食べ終わった?」
頷くと、空になったグラスを指差す。
――サザンカンフォートのダブルロック
「お!飲みに入る?」
――もちろん!お腹いっぱいになったし、あとは飲むだけ~♪
「はは、飲みすぎんなよ」
そう言いながら清志くんは空いた食器とグラスを下げる。ロックグラスにアイスピックで削った氷をカランと音を立てながら入れ、棚に並んでいるサザンカンフォートのボトルを取り、慣れた手つきで注ぎ入れる。スッと私の前にロックグラスを置く。
私はニッと笑いかけると、グラスに口をつける。フルーツのような甘さと微かなハーブの香が口に広がり、日々の疲れを癒してくれる。再び口に含んで喉に流し込む。美味しくて、ついつい飲むペースが速くなってしまう。清志くんはお店を上手く回しながらも、私のことを常に気に留めてくれていた。
そして、私の隣の空いてる席に、知らない男の人が座った。
それと同時に私の心臓がどきどきと早く脈打ち始めた。
「ターキーをロックで。」
男の人は静かにオーダーをすると、スマホと煙草を取り出し、飲み物が来るまで煙草を吸い始めた。
「お待たせしました。」
清志くんが男の人におしぼりを広げて出すと、コースターと一緒にターキーロックを静かに置く。男の人は出されたお酒をクイッと飲む。清志くんはチラッと私の空いたグラスを見ると、目で合図する。
大丈夫?
私は少し考えて、小さく頷く。
清志くんは少しホッとした表情に変わり、私の空いたグラスを取ると、サザンカンフォートをシングルで注いでくれた。コースターの上に置かれたグラスを手に取り、口に当てて少し飲む。隣の人を気にしないように、自分のペースでお酒を飲む。その様子を気にしながら、清志くんは男の人に静かに話しかけた。
「初めての御来店ですよね?」
「ああ、はい。この辺は初めて来ました。……仕事で来たのですが、終電を逃してしまって。どこか入れるお店でも、と思っていましたら、こちらを見つけまして」
「そうでしたか。今日は金曜日ですので、始発の時間まで営業しています。ごゆっくりしていって下さい」
「ありがとうございます。」
そんな会話が隣から聞こえた。
――話しかけてきませんように……
そう強く願いながら、大好きなお酒をちびちびと飲む。再びグラスが空くと、清志くんが気づくよりも先に、隣の男の人が話しかけてきた。
「一人で来てるの?良かったら次のお酒、ご馳走させてくれない?」
怖くなって清志くんを見る。清志くんはすぐに気づいてくれて、すぐに私の前に立ってくれた。
「もう行く?」
私は頷くとすぐに鞄の中のお財布を取り出し、1万円札を清志くんに渡す。清志くんは少しびっくりした顔をして、でもすぐ普通の顔に戻して静かに受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
急いで席を立ち、ドアに向かう。清志くんは大野くんに何かを耳打ちしてから、私の後を追ってきてくれた。
お店の外に出ると、清志くんが静かに話しかけてくる。
「ちゃんとした精算は明日メールする。家まで送ろうか?」
首を横に振って、大丈夫なことを伝える。
「わかった。何かあったらメールしろよ。俺はいつでも駆けつけるから。」
ありがとうの気持ちを込めて笑顔で頷くと、逃げ出すように走り出した。走れば10分もしないでマンションに着く。早く、早く!そう思いながら、駅を跨いで自分のマンションの前まで必死に走った。
マンションの前に着くと、急いでオートロックを解除し、エレベーターに乗り込む。7階を押して閉じるボタンを連続して押す。
――早く閉まって!
私の思いとは裏腹に、エレベーターのドアはゆっくりと閉まる。僅かな機械音をたてながら、すぅ……とエレベーターは動き出す。早く7階に着くことを祈りながら、エレベーターの中で長く感じる数秒が過ぎるのを待つ。
7階に着くとドアが開くのと同時に、鍵を取り出しながら部屋まで走る。ドアの前に着くと、すぐに鍵を開けて部屋の中に身体を滑り込ませてドアを閉める。ガチャンと鍵とチェーンをかけてリビングに駆け込む。鞄をデスクの脇に置くと、その場に座り込んでしまう。荒くなった息が整うまで、そのまま蹲る。
――怖い……怖い…………
しばらくそのままでいると、徐々に気持ちが落ち着いてくる。ゆっくりと立ち上がり、キッチンに入って冷蔵庫を開け、麦茶を取り出す。食器棚からグラスを取り出し、麦茶を注ぐと一気に飲み干した。ふぅ~……と大きく息を吐き出すと、少しずつ頭も冷静になってきた。もう一度麦茶を注ぎ、それを持ってリビングに戻る。
ソファーに座り、麦茶を一口飲む。冷たい液体が喉を通るのを感じると、やっといつもの自分に戻れた気がした。ソファーから身体を乗り出し、鞄の中のスマホを取り出す。
――清志くんにちゃんと帰れた報告をしないと
そう思って、清志くんにメールを打つ。
『さっきはありがとう。無事帰れました。精算のことは、また来週の金曜日にお店に行くから、その時で大丈夫だよ。美味しいペペロンチーノ、ご馳走様でした。私はもう寝るけれど、清志くんは朝までお仕事頑張ってね。おやすみなさい。』
送信ボタンを押し、送信完了の文字を確認すると、洗面所に行ってメイクを落とす。そのまま服を脱ぎ、バスルームに入る。シャワーの冷たい水から徐々に温かいお湯に変わるのを待ち、適温になったことを確認してから、頭からシャワーを浴びて全身を濡らす。髪から洗い始め、全身を清めていく。今日一日の汚れを落とすように、きれいに丁寧に、全てを洗い流していく。
――流される泡と共に、私の過去も洗い流されれば……
そんな事を思いながら、シャワーを浴び終えると、バスタオルで体中の水滴を拭う。髪には吸水性の良い別のタオルを巻きつけ、脱衣所からベッドルームに向かう。エアコンを点けると、ジメジメと暑い部屋が、少しずつ涼しくなる。クローゼットから下着と部屋着を取り出して身に着けると、バスタオルを洗濯機の中に入れた。
キッチンに向かい、冷蔵庫から程よく冷えた缶ビールを取り出す。プシュッと音を立てて開け、グイッとビールを喉に流し込む。清志くんのお店で飲むビールみたいに美味しくはないけれど、今夜は寝酒として飲みたい気分で、一気にグビグビと飲み干す。飲み終わると、空いた缶をゴミ箱に捨ててから、ベッドルームに戻る。
髪に巻きつけたタオルを外し、ガシガシと髪を拭く。ある程度水滴を取り除くと、鏡の前に座りドライヤーをかける。ドライヤーの熱風が私の髪を踊らせるようにふわふわと宙に浮かせる様が面白い。いつ見ても楽しい。そう思いながら髪を乾かしていく。
しっかりと髪を乾かしてからベッドに身体を潜り込ませる。身体を横たえると、疲れた身体がベッドに沈み込むような感覚に陥り、そのまま眠りにつけるはずが今夜は違った。ベッドに埋もれながら、清志くんのお店でのことを思い出してしまう。
――まだ怖い……
あの時の事を思い出しそうになる。
――もう終わった事なのに……まだ怖い…………
今夜の事を忘れるように、無理矢理目を瞑って眠ろうとするが、そういう時に限って、なかなか眠ることができない。仕方なく身体を起こしてキッチンに向かう。食器棚からグラスを手に取ると、冷凍庫から氷を取り、カランカランと音をたててグラスに入れる。食器棚の上に置いてあるサザンカンフォートのボトルを開けて注ぎ入れると、氷の融ける音がキチキチと静かなキッチンに響いた。カラカラと音を立てて指で氷を回しながら、ベランダに出て行く。
外には綺麗な月が出ていて、星が見えないくらいに明るかった。ベランダに置いてあるイスに座ると、グラスのお酒を一口飲んでからテーブルに置く。昔なら、お酒と一緒に煙草を吸って月見を楽しんでいたけれど、今はお酒だけで十分になっていた。リビングのデスクには、ほとんど吸われていない中途半端に開けられた煙草が眠っている。
久しぶりに吸ってみようかな……なんて思ってしまって、一度リビングに戻り、ライターと一緒に煙草を手にする。ベランダに戻り、味の悪くなった煙草を一本取り出し、火を点ける。久しぶりなのに、昔の癖で、ついつい深く煙を吸い込んでしまう。咽るかと思ったけれど、意外に身体は覚えていて、すんなりと煙を体内に受け入れた。吐き出される煙はゆらりゆらりと宙を舞い、僅かに吹く風にあっという間に消されてしまう。
――私も煙草の煙のように……空気に溶けて消えてしまえばいいのに…
そう思いながら、グラスのお酒をグイッと飲む。ゆらゆらと揺れる心と共に、私の意識も揺らいでいく。久しぶりの煙草と美味しいお酒に、気持ちがゆったりとマヒし始め、煙草をベランダの地面に押し付けて消すと、空いたグラスを持って室内に戻った。
キッチンにグラスを置くと、手を洗ってからベッドルームに戻る。ひんやりとしたベッドルームは心地良くて、そのまま床に寝転びたくなる。そんな子供のみたいな気持ちを振り払い、ベッドに身体を潜り込ませた。
真夏の暑さに反する冷えた部屋で暖かい布団に包まる。贅沢な環境に申し訳なく思いつつも、優越感に浸って眠りにつく。
明日になれば、今夜の私とは違う強い自分になっていますように……と願いながら…………
静花ちゃん、お酒好きです。
しかも強いんです。




