【コミカライズ】性悪の私と婚約破棄して、聖女の義妹と結婚ですか? 殿下、それはおやめになった方がよろしいかと
誤字報告ありがとうございます! 反映済みです。
2023/2/13 ヒューマンドラマジャンル日間1位ありがとうございます。お読みいただけて嬉しいです。
2024/12/26 「悪役令嬢ですが、ヒロインに攻略されてますわ!? アンソロジーコミック」3巻に、コミカライズが収録されております。作画は黒コマリ先生です。素敵に仕上げていただいておりますので、お手に取っていただけますと幸いです。
「エルシア! 私は貴様との婚約を破棄する!」
オースティン侯爵令嬢であるエルシアがそう告げられたのは、貴族が通う学院の卒業パーティでの事だった。
周囲の喧噪が、一瞬にして静まりかえる。そして沈黙の後に、さざ波のような囁き声が場に満ちた。
高らかにそう宣言したのは、エルシアの婚約者であるこの国の第三王子殿下。後ろに控えた見慣れた側近たちは彼を止めようとしたのだろう、この世の終わりのような絶望的な表情をしている。
見た目はバラの花、中身はバカの花との評判が口さがない貴族たちに囁かれるアーノルド・テレイアは、唯一の取り柄であるその美貌を傲慢に歪めて「申し開きは聞かないぞ」などと嘯いた。
エルシアは、その目を見とがめられぬ程度にそっと眇める。
申し開きも何も、アーノルドの父である国王陛下より「どうか足りない息子を支えてやってほしい」と望まれ婚約して以降品行方正を絵に描いたような生活を送ってきたエルシアに、弁解すべきことなどない。当然、こんな場所でこのような仕打ちを受ける心当たりもない。
――自分自身には。
「殿下……」
呟いた声には、多分にため息が混じって呆れの色を帯びていた。
視線は、言ってやったと言わんばかりに鼻を膨らませるアーノルドではなく、その腕に細い指を置く少女へ。
エルシアの銀髪と対をなすような甘い蜂蜜色をした金の髪は、豊かに波打っている。細められた赤い瞳は宝石のようにきらめいて、まっすぐにエルシアを見つめていた。形のよい眉は何かに怯えるように下がっていたが、ふっくらとした唇は口角がわずかに上がって見えた。
誰が見ても文句なく美しい少女を侍らせて、アーノルドは誇らしげな顔をしている。
アーノルドの髪色である深い赤のドレスをまとった少女は、エルシアの目線に気づくと「あぁ」と小鳥のような声を上げてアーノルドに縋り付いた。
「ごめんなさい、お姉様。どうかそんなにお怒りにならないで」
「リズベット……」
目を潤ませてこちらを見る少女に、エルシアは長く息を吐く。
呆れを隠さないエルシアの態度に肩を震わせる姿は一見儚げだが、その瞳の奥が笑っているのがエルシアにはよくわかった。
リズベット・オースティン。オースティン家の養女であり二つ年下の彼女は、エルシアの義妹にあたる。
輝くような美貌と、誰もが守ってあげたくなるような華奢な体躯、少女らしく可憐な振る舞い。鈴の音のような声音で紡がれる砂糖菓子のように甘い言葉は、誰の耳にも心地よい。
生来のそれだけで多くの人間の特別になり得る彼女は、しかしそれを凌駕する『特別』を備えている。
それが、『豊穣の聖女』と呼ばれる異能。神から与えられしその力を持つものは、枯れた大地にすら豊かな実りをもたらすことができる。祈りだけで奇跡をもたらすその能力故に、かつて孤児であった彼女はオースティン家に引き取られたのだ。
そんな聖女たる義妹が、己の婚約者であるアーノルドに寄り添っている。
その意味するところを理解して、エルシアは手にした扇で口元を覆った。
「あなた、またなの? その悪癖は控えなさいと何度言えば……」
「ひどいですわ、お姉様! わたくしはお姉様のために……」
「そうだぞ、エルシア! リズベットを虐めるのはやめないか!」
可能な限り落ち着いた声音で諫めたエルシアに、しかしリズベットは悪びれずに首を横に振る。隣に立つアーノルドは言うまでもなく、エルシアの諌言を虐めと言い切った。
それだけでもう、二人の間で何が起こったのか完全に悟ってしまう。
けれどアーノルドはこの茶番を終わらせる気はないらしく、エルシアを指さすと「貴様の罪をここで暴く!」と自信満々に宣言した。
ざわざわと、不穏な囁きを繰り広げる周囲の様子が目に入っているのかいないのか。まるでここが舞台の中央であるかのような調子で、アーノルドは胸を張って見せる。
「貴様は、義妹である聖女リズベットを不当に虐げた! 家の下働きをさせ、彼女の制服や教科書を汚し、不逞の輩に襲わせ、階段から突き落とした! たとえ聖女が相手でなくとも罪深き所業だぞ!」
「……それは一体、どこからの訴えなのですか?」
「もちろん、聖女たるリズベット本人からの訴えだ!」
これ以上信憑性のある訴えはないだろう、とアーノルドは自信満々だが、この国に「聖女の証言は他の人間よりも力を持つ」などという法はない。
この様子では裏取りの一つもすることなく、リズベットの言い分のみを真実としてこの場に立っているのだろう。
悲しいことに、長い付き合いでこの王子の性質をエルシアはよくよく理解していた。そして、義妹のやり口も。
こちらを見据えているアーノルドには見えていないのだろう、何かをやりきったかのように満足げなリズベットの顔は。到底命に関わる虐めをした相手を前にした表情ではない。
「殿下。リズベットには、その、少しばかり悪い癖があるので発言を鵜呑みにしないようにと何度も申し上げたではありませんか」
「貴様、リズベットが嘘をついていると申すのか!?」
「誤解を恐れずに言うのであれば、その通りです。リズベットの訴えはすべて事実無根です」
「エルシア! 貴様、どこまで性根が腐っているんだ!?」
顔を真っ赤にして怒鳴りつけるアーノルドに、思わず口元が歪む。令嬢としてははしたない行為だが、扇が隠してくれたと信じたい。
アーノルドは気づいていないのだろうが、リズベットの訴えとエルシアの発言の重さは等価だ。どちらも本人の証言でしかないのだから、リズベットの言葉は真実でエルシアのそれは虚言だと断じるなら、それは公平さを失っている。
すなわち、一応は婚約者であるエルシアを軽んじているその証左。
いくら政略的な婚約とはいえ、こんなにもまざまざと差を見せつけられては思うところがないわけでもない。
そんなエルシアに追い打ちをかけるように、リズベットは「ごめんなさい、お姉様」と儚げに視線を落としてみせた。
「殿下はわたくしを信じてくださいました。証拠を得られなかったわたしを叱ることもなく、ただわたくしを思うが故に信じてくださったのです!」
「当然だ、愛しい人よ! 世界の誰よりも、私は君を信じよう!」
「……愛しい人……」
勝ち誇ったようなリズベットの言葉はとりあえず置いておくとして、アーノルドの発言は捨て置けない。
状況から明らかとはいえ、一度口にしたことは取り戻せないものだ。
アーノルドは今、婚約者であるエルシアではなくリズベットを「愛しい人」と呼んだ。明らかな不貞をこの人数の前で証言したと言うことに、アーノルドは果たして思い至っているのだろうか。
エルシアの目つきは胡乱なものになっていたのだろう。アーノルドは嘲笑するように鼻を鳴らすと「順番が狂ってしまったな」と咳払いしながら聴衆へと向き直った。
「私はエルシアとの婚約破棄の後、聖女リズベットと婚約する! 貴様は地下牢に入り、沙汰を待つがいい!」
「ああ、アーノルド様!」
無駄によく響く声で宣言された内容に、リズベットが感極まったような声を上げた。アーノルドは頬を紅潮させたリズベットに目尻を下げている。
どうしてこんなことになった、と、エルシアはぼんやりと考える。
アーノルドについては仕方がない。親が「足りない」と称すほどだ、少しばかり短慮で熱くなりやすく先見の明がないのは生来の質で、彼に深慮を求める方が酷だ。
しかし、リズベットは違う。
オースティン家に引き取られて以降、エルシアは彼女に厳しく教育したと自負している。高位貴族令嬢として、異能を持つ聖女として恥ずかしくない振る舞いを、エルシア自らたたき込んできたのだ。もちろん彼女の悪癖についても、彼女自身のためにならないと何度も諫めている。
それがなぜ、このような事になるのだろう。リズベットと過ごしてきた長い年月を思い出しながら、それでもエルシアはこの状況を収拾すべく口を開いた。
「……殿下。これは陛下もご存じなのですか?」
「ふん、父上に助けを求める気か? 父上とて、貴様の非道を知れば庇い立てするはずが……」
「ほう」
少しでも落ち着きを取り戻してくれないかと期待して口にした陛下の名は、しかしその役目を果たさず。
けれど、この場に真打ちを呼ぶことには成功したらしい。
決して大きくはないのに、重々しさを伴う声音。はっとそちらを向けば、講堂の入り口から騎士を引き連れた一組の男女が歩んできていた。
アーノルドと同じ燃え立つような赤毛に、思慮深さを示すような深い青い瞳。年を経てなお立派な体躯を有する男性と、彼の腕をとる金髪の貴婦人。
彼らが誰だか理解した瞬間、講堂の全員が頭を垂れて臣下の礼をとる。それはもちろん、聖女たるリズベットも例外ではなく。
顔を青くしたアーノルドだけが棒立ちのまま「ち、父上」とかすれた声を上げた。
「どうして、ここに……」
「我が息子の卒業式典であり、未来を担う若者たちの門出だ。私が祝辞を述べに来て何がおかしい」
そも、私たちが来ることは事前に書面を送ってきたはずだがな、との言葉に、アーノルドはびくりと肩を震わせる。最近はリズベットにうつつを抜かし、彼が目を通すべき書類もすべてエルシアに押しつけていた事に思い至ったのだろう。
アーノルドの父――この国の最高権力者である国王陛下は、ゆったりと行動を見渡すと「面を上げよ」と鷹揚に告げる。
そうして正面から見た彼とその妻である王妃陛下の顔は、常になく疲れているように見えた。
両陛下はアーノルドの前ではなくエルシアの前に歩を進めると、渋面で「すまなかった、エルシア」と謝罪を告げる。
「愚息が長い間迷惑をかけた。詫びの言葉もない」
「いいえ、陛下。ご期待に添うことが出来ず……非才の身を恥じるばかりです」
「いいや、そなたはよくやってくれた。己の息子の不出来さを甘く見積もった私の不徳である」
「ち、父上!」
沈痛な面持ちで謝罪を交換する二人に、アーノルドが悲鳴のような声を上げた。
彼のやや残念なおつむでも、どうやら父が自分の味方ではないことに気づいたらしい。そもそも根回しの一つもしていなかったのだろうことは、周囲の様子を見ればそれも明らかだ。
思いつきで行動するのはおやめくださいと何度も進言していたが、エルシアの言葉は彼には伝わらなかった。リズベットの事もだが、誰かに何かを教えるとはかくも難しいことである。
やや現実逃避気味にそんなことを考えたエルシアをよそに、アーノルドは父王陛下に詰め寄ると「なぜこのような女に謝るのです!」と大声を上げた。
「この女は、聖女リズベットを虐げていた悪女なのですよ!?」
「そうか。……ではこの場にいるもので、エルシアがリズベットを虐げていたのを見たことがあるものはいるか」
つばを飛ばしそうな勢いで訴えてくる息子に、王は慌てるでもなく周囲の学生を見渡した。
急に水を向けられた学生たちはしかし、動揺はすれどそろって首を横に振るばかり。アーノルドの訴えは事実無根なのだから当然のことであるが、彼は泡を食った様子で足を踏みならした。
「それはエルシアが周到で、他人には悟られぬようにしていたからです! リズベットの訴えを聞いてください、父上! 聖女の言葉を聞けば、父上も何が真実かわかるはずです!」
「……なるほどな」
必死に言い立てる息子に、王は長いため息をついた。ここで己を顧みるようであれば、まだどうにかしてやれただろうという父としての思いが伝わってくるようで、エルシアは胸を締め付けられる。アーノルドとの婚姻に夢も希望もなかったが、両陛下の義娘になるのはエルシアにとっても喜ばしいことであったのだ。
王が、リズベットに向き直る。彼らが現れて以降、淑女の礼のまま視線を床に落としているリズベットの肩は、わずかに震えているようだった。
「聖女リズベットよ。そなたが義姉であるエルシアに虐げられているというのは、まことか」
王が、彼女に問いかける。講堂は水を打ったように静まり返り、聖女の言葉を待つ。
アーノルドは期待に満ちた顔をしている。
王は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
王妃は眉根を寄せて目を伏せている。
そしてエルシアは、できる限り無表情を保ちながら閉じた扇を握りしめる。
誰もが、リズベットの言葉を待っていた。まるで彼女の口から出るのが神託であるかのような緊張感の中、リズベットはゆっくりと顔を上げる。
けぶる金色のまつげに彩られた深紅の瞳は潤み、白磁の肌には赤みが差し。熟れた桜桃のような唇をゆっくりと開いた聖女は――。
「いいえ、陛下。すべて事実無根にございます」
世にも美しく微笑んで、そう言った。
***
やってやった、やってやった、やってやった!
心の中で快哉を叫びながら、あたしはひゃっほうと大声を上げたくなる衝動をなんとか押し殺していた。
だって貴族令嬢はそんな風に人前で感情をあらわにしないって、お姉様に教わったから。
あたしは自分の『悪癖』に関すること以外は、お姉様の言いつけを破ったりしない。それでも、湧き上がってくる歓喜は抑えようがなかったけれど。
会場の空気は呆れが半分、動揺が半分。隣に立っている男は空が降ってきたかのような間抜け顔をしているけれどもはやどうでもいいので、あたしは軽やかに「この子はまたやらかした」と言いたげなお姉様の隣に移動した。
「お姉様が……エルシア・オースティン侯爵令嬢がわたくしを虐げた事実などございません。お姉様こそ令嬢の鑑、わたくしの最も敬愛する方ですわ」
「り、リズベット!?」
お姉様の細い腕を取り、その肩に頭を乗せながらあたしはうっとりとそう宣言する。この振る舞いも令嬢としてはギリギリアウトかもしれないが、「豊穣の聖女はエルシア・オースティンを慕っている」ことは広く知らしめねばならぬのでセーフだ。あたしがそう決めた。今決めた。
途端に弛緩する会場内の空気とは裏腹、ようやく正気に戻ったらしい王子が悲鳴のようにあたしの名を叫ぶ。こんな状況になっても自身の置かれた立場を理解していないらしいバカの花は、「なぜだ!?」と無駄に整った顔を歪めてあたしに詰め寄った。
「き、君が言ったのだろう!? エルシアに虐められていると、助けて欲しいと!」
「だからそれが嘘なのです、殿下」
「嘘!?」
何が起こっているのかわからない、と全身で訴える男をあたしは目を眇めて睥睨する。頭の悪さは知っていたが、察しも勘も悪くて救いようがない。
こんなのだから、お姉様にはふさわしくないと見限られるのだ。あたしに。
あたしはお姉様に倣って広げた扇の影でため息を吐く。罪深い愚かさのこの男に、最後の慈悲としてあたしは自分が何をしたのか教えてやることにした。
「アーノルド・テレイア第三王子殿下。あなたは我が義姉であるエルシア・オースティン侯爵令嬢の婚約者でありながら、不実なことにわたくしに愛を囁きました。その振る舞いは王族としても、また侯爵家を継ぐ義姉の婿としてもふさわしくない振る舞いです」
「な……っ!」
「その資質に不安を覚えましたので、わたくしは両陛下とオースティン家の義両親に、聖女の名をもって殿下を試すことをお許しいただきました」
まっすぐに告げたあたしの言葉に、王子は何も言えずにぱくぱくと口を開閉している。陸に揚げられた魚みたいで人がするにはあまりに無様な仕草だな、と己の視線がさらに温度を下げた気がするが、この男にはふさわしいだろう。
あたしがこのような行動に出る決定打となったのは、この男の「美しいリズベット嬢。あんな愛想も可愛げもないエルシアより、君が私の婚約者ならどんなに幸せだっただろうか」というとんでもない発言だった。
それは今から半年ほど前のこと。
ようやく学院に通う年齢となり、一年だけでもお姉様と同じ学校に通えるとうきうき学院生活を営んでいたあたしに、何の脈絡もなくこの男はそう言ったのだ。移動教室中のあたしを無理矢理引き留めてガゼボに連れ込み、無駄にきりりとした顔で。その瞬間に孤児院仕込みのこぶしを繰り出さなかったことを、結果的には褒めてやりたい。
その時の、側近の顔ときたら。皆様真っ青になって王子を咎めていたが、当の本人はどこ吹く風。
あたしはお姉様を「愛想も可愛げもない」と評されたことに腹の底から湧き上がってくる憤りを感じながら、「お戯れを」とだけ告げてその場を辞した。
その瞬間から、あたしはこの男をどうやってお姉様の婚約者の座から引きずり下ろすか、そればかりを考えるようになった。
あたしはお姉様がオースティン家を守るためにどれほど努力しているかを知っている。そのために、婿として迎えるこの男にどれほど心を砕いているかも知っている。親をもってして「足りない」と言わしめるこの愚か者を補うために、どれだけの苦労を背負い込んでいるかも知っている。
お姉様の献身を、この男だけが知らない。理解しようとしない。ないないづくしのそんな男は、お姉様の人生に必要ない。
そう判断したあたしは、聖女の権力を利用することにした。
まずは義両親である侯爵夫妻に、アーノルドのやらかしとあたしの不安を伝える。そして、奴の資質を見極めるために「聖女の名をもって」彼を試すことの許可を得た。
聖女というのは、この国において貴族階級とはまた違った地位を持つ。故に、聖女の名をもってすれば多少の無理が利くのだ。
だからあたしは、奴を試すことにした。方法は単純で、あたしが奴に惚れたふりをして嘘八百を吹き込み、奴がどう出るかを観察するというもの。
やつがちゃんと裏取りするなりしてお姉様の無実を信じればよし。
あたしが嘘を吹き込むのは奴に対してのみで、周囲の人はあたしに合わせて嘘を吐く必要はないので、聞かれれば真実を話していい。
だが、それすらもせずにあたしの言葉だけを鵜呑みにしてお姉様を糾弾するようなことがあれば、その時はこの男をお姉様の婿としてふさわしくないと判断して欲しい、と。
侯爵家の義両親も、入り婿となる相手であるし、なにより大事な一人娘の婚約者についてだ。真剣な顔で訴えるあたしの言葉を聞き入れて、陛下への謁見を取り付けてくれた。
そして王家もまた、いかに聖女とはいえあたし一人の言動を信じて行動するような真似は息子もしないだろう、とあたしの申し出を受け入れてくれた。
まぁこれは、あたしの不安を解消してくれないなら祈りに身が入らないかもしれないですぅー豊穣の力が失われてしまうかもしれないですぅー聖女としてこれじゃあ困ってしまいますぅーと大きな独り言を言った事も影響していると思うが。
さすがにそこまで貴族の常識から外れた真似はしないだろう、という両親達とは裏腹、あたしは奴がこの罠にかかることを確信していた。
努力が嫌いで、派手なことが好きで、権力が好きで、表面を取り繕うことばかり上手な王子様。奴が目上の人間に見えないところで、お姉様をどれだけぞんざいに扱っていたかあたしは知っている。
お姉様が忙しい合間をぬって手ずから刺繍したハンカチを、地味だと言って受け取らなかった王子。
お姉様のエスコートをするのは退屈だと、社交の場で声高に言った王子。
お姉様の誕生日に、流行遅れのドレス一つ送りつけるだけで祝いの言葉も届けなかった王子。
この程度の仕事はお前に似合いだと、自分に課された業務をほとんどお姉様に丸投げした王子。
女が優秀すぎるのは鼻につくと、自分の怠惰を棚に上げてお姉様をなじった王子。
お姉様がかまわなくてよいと言うから我慢してきたけど、その結果があたしへの口説き文句。もはや絶対に許すものかと誓って、あたしはこの男の好みの女を装って近づいた。
すなわち、派手で、賢しくなく、甘えてばかりで、男に頼らないと生きていかれないような、そんな女を演じた。
貴族としてはあまりにも未熟で愚かなはずの女に、王子は喜んで心を傾けた。しなだれかかるあたしにやに下がり、薄っぺらな愛を語ってみせた。あたしもまた、なんとか王子から決定的な行動を引き出すべく浅はかな振る舞いを続けた。
そしてその末に、あたしは賭けに勝ったのだ。
王子はあたしの「お姉様がいじめる」という嘘八百を頭から信じて、側近の言うことを聞くこともなく裏取りもせず、こうして公の場でお姉様を糾弾した。
お姉様をこのような目に遭わせるのは本意ではなかったけど、この王子が有責であることがこれだけ大々的に広まったのだからトントンだと思ってもらえるだろうか。
目の前でわなわな震える王子を無視して隣のお姉様の顔をのぞき込めば、「困った子ね」と言いたげな瞳とかち合ってあたしは小さく肩をすくめる。
「殿下、だから言いましたでしょう。この子には少しばかり悪い癖があるのです」
「わ、悪い癖……悪い癖、とは……」
「わたくしにとって不益だと判断した相手を排除するのに、手段を選ばないのです」
この子に何かあったらと思うと心配なので、控えなさいと言っているのですけれど、と頬に手を当てて首をかしげるお姉様はやっぱり世界一優雅だ。この美しく優しいお姉様を守るためと思えばこそ、いくら悪癖と言われても改められないのだけど。
それに、これまでだって大したことはしていない。
お姉様の事実無根の悪評を流した伯爵令嬢は心を病んでいるのだと噂を流し返して領地に追いやっただけだし、お姉様に横恋慕して強引に関係を迫った公爵令息には男性機能を失ってもらっただけだし、なぜかあたしを崇拝してお姉様に対して態度の悪かった使用人はこの王都から出ていってもらっただけだ。
みんな死んでもいないし財産をすべて取り上げられたわけでもないのだから、罪に見合った罰が下っただけだと思うのだけれど。優しいお姉様は、自分に害なす相手にすら心配りをなさるのだ。そんな優しさを愛おしく思うからこそ、あたしは矢面に立つことを厭いはしない。
困った顔をするお姉様と悪びれないあたしを交互に見る王子は、顔を真っ赤にして拳を震わせている。そしてようやくその口から出たのは「なぜ」というこれまた震えた声音であった。
「なぜだ、リズベット! 所詮血のつながりのない、養子縁組で姉妹になったに過ぎないエルシアのために、なぜそこまでするのだ!?」
優雅さのかけらもなく怒鳴り散らしてくる王子が口にした疑問は、あたしにとっては自明な愚問。あたしがお姉様に受けた愛も恩も知らない人間にこんなことを言われる筋合いはなく、腹立たしくてたまらない。
おまえに何がわかる、と怒鳴り返してやりたい衝動を押し殺して、あたしはお姉様の腕に絡めた指先に力を込めた。
誰に知られずとも、理解されずとも。
エルシア・オースティンは、あたしが生きていく意味すべてをくださった、たった一人なのだ。
******************************
あたしは、物心ついたときから孤児だった。
両親はわからない。あたしの一番古い記憶は、孤児院の床に転がされて、残飯のような食事を食べているところだ。
オースティン領の隣領は、愚かな領主を戴く貧しい土地だった。貧困故に孤児はあふれていたが、わずかな補助金目当ての劣悪な孤児院が多く、あたしが捨てられていたのもそんな院の一つ。
あたしがそんな領を単身飛び出したのは、十歳になる前の頃。
自分の見た目が少しばかりよくて、そしてそれはあたしにとって好ましくない手段で金に換えられてしまうと理解したから。それでなくても、力のない美しさは災いをもたらすことが多いと、短い人生の中で見てしまっていたから。
全身を泥で汚しながら、必死でたどり着いたのがオースティン領。行き倒れたあたしを拾ってくれたのが、他でもないエルシア・オースティンその人だった。
彼女が領主の娘として領内を巡っている途中に、馬車の中から林道に倒れているあたしを見つけてくれたのだという。その時はあたしは空腹と疲労で気を失っていて、死んでしまう手前だったらしい。
これが初めての邂逅だったのだが、意識がなかったのであたしの記憶には残っていない。
彼女はあたしをすぐに病院に運び、治療するよう指示してくれたそうだ。
目覚めたときには、きれいなベッドに横たわっていて。事の顛末を聞かされたあたしは、そんな貴族もいるのだなぁとぼんやりと思った事を覚えている。
そうして元気になったあたしが引き取られたのが、領主の館がある街の孤児院だったのだ。
オースティン領は、豊かな土地だった。今になってわかるが、それは土地が豊かなだけでなく領主が投資や事業で得た利益を適切に領内に還元していたからだ。
そんな領主の下であったから、孤児院ももちろん今までいた場所とは比すべくまでもなく。温かいご飯と清潔な寝床。大人になっても自立して生活できるようにと施される教育。孤児の数そのものが少ないから一人一人に目が行き届き、きめ細やかに健康状態もケアされている。
かつての孤児院と比べると、まるで天国。けれどあたしを変えたのは、そんな素晴らしい環境だけではなく。
ある日、光り輝くほどに美しい少女が孤児院にやってきた。
あたしより、少しばかり年上であろうか。ピンと伸びた背筋と、まっすぐに前を見つめる目。傷みが一つもない銀の髪は、まるで月光をまとっているよう。彼女のために仕立てられたのだろうドレスは、華美ではないが彼女の楚々とした魅力を引き立てていた。瞳は濁りのないロイヤルブルーで、あの目に映ったらこんなあたしですら少しはきれいなものに見えるかしらと、そんなことを考えてしまうほどに美しく。
孤児院の先生が、慰問に来た領主の娘だと教えてくれた。彼女こそが、あたしの命を救ってくれた恩人であったのだ。
彼女は、定期的に領内の孤児院や病院などの公共施設を回っているらしい。前の孤児院で貴族が訪ねてきたことなどなく、まして領主の一族などもってのほか。新しく来た子供には一人一人声をかけているのだという彼女が目の前に立ったとき、あたしは人生で一番緊張していた。
あたしより少し背の高い彼女が、あたしと目線を合わせるために軽く膝を折ってくれた。青空の瞳に見つめられたとき、あたしは生まれて初めて自分がもっときれいなものであったらよかったのにと、そう思った。
この瞳に、こんなみすぼらしい存在を映してはいけないと。けれど、萎縮するあたしに彼女はうっすらと微笑んで、そして。
「はじめまして。挨拶するのは初めてね。元気になってよかったわ」
「あ、あの、あの……」
「わたくしは、エルシア・オースティン。あなたのお名前は?」
「り、リズ、リズと呼ばれています……」
「そう。よろしくね、リズ」
助けてくださってありがとうございます、と。伝えたかったそれすらもまともに口に出来ないあたしに、それでも彼女は優しい表情であたしの名前を呼んでくれた。
その名前は、この孤児院に来てから与えられたものだった。それまでは「おい」とか「おまえ」とか呼ばれていたから、あたしはいつまでも自分の名前に慣れることが出来なかった。
だけど、彼女が。今はお姉様となった彼女があたしの名前を口にした瞬間、あたしは「リズ」として生まれたのだと、そう思う。
初めての会話は、あたしが呆然としているうちに終わってしまった。また来るわ、といって去って行く後ろ姿に、あたしは何故だか胸が苦しくなったのを覚えている。
彼女は、領主の娘としての矜持と責任を何よりも強く持った人だった。自分の領地に住まう民を幸せにするために心を砕く人だった。自分という器はそのためにあるのだと、それが貴族に生まれたものの責務なのだと、そう考えている人だった。
金持ちなんてみんな自分の私腹を肥やすことしか考えていないと思っていたあたしにとって、それはあまりにも衝撃で。けれど彼女は、それを当たり前だと言ってしまえる人で。
「リズ。あなたはとても美しいのだから、よく学ばなくてはいけませんよ」
ある日、いつものように慰問に訪れた彼女はあたしにそう言った。思わずびくりと体を震わせてしまったのは、あたしが出来る限り生来の美しさを隠そうとしていたからだろう。
だけど前髪を伸ばして見えないようにしているあたしの目をまっすぐに射貫いた彼女は、ひどく真摯な顔をしていた。
「あなたは賢いから、わかっているでしょうけれど。あなたの美しさを呪いにするか祝福にするかは、あなたが身につけるもの次第だわ」
「え、エルシア、様」
「もちろん、この領にいる限り美しさを呪いに思うような生活はさせたくないと思いますが、長い人生のすべてをわたくしの目の届くところで過ごすとは限りませんものね」
そう言って薄く微笑んだ彼女を見て、あたしは心底この人の目の届くところで一生を過ごしたいと思った。思ってしまったのだ。
それは、自分が幸福な人生を送りたいとか、そういうことではなく。あたしのような取るに足らない孤児一人にも心を砕いて、その後の人生すら幸福であるようにと願ってくれる優しい人の、おそばで人生を過ごしていたいと。
――そう、思ってしまったのだ。それがあたしの、それまでの人生で一番強い望みだった。
彼女にとって、役に立つ人間になりたかった。彼女はあたしを役に立つかどうかで判断しないけど、それでもあたし自身が彼女の役に立ちたくて、その理想の助けになりたくて――笑って、欲しくて。
エルシア様のさいわいになりたい。あの方がこの領を富ませることを、領民を幸福にすることを望むなら、それを叶えられる人間になりたい。自分の存在がエルシア様にとって良いものでありたい。そのためなら、命だって捧げてかまわない。
そんなことを日ごと夜ごとに考えていた、ある日のことだった。――あたしに、聖女の力が発現したのは。
多分、あたしが日ごと夜ごとあまりに熱心に祈るから、神様が哀れんでくれたのだと思う。
もしくは、日ごと夜ごとあまりに熱心に頑張るエルシア様のために、あたしという器を通してその力を貸し与えてくださったのかもしれない。
聖女の存在は、国全体に大きな波紋を呼んだ。その情報は教会が管理しているとのことで、オースティン領の教会を経由して全土に広がり、そしてあたしの元には他領の貴族がたくさん訪れた。
その中には、あたしが逃げ出した領の領主もいた。初めて顔を見たその男は、あたしを自分の養女として迎えたいと何度も何度も通ってきた。もちろんすぐに断ったけれど、そんな申し出は後を絶たず。
望んで得た力だったけど、あたしは怖くなっていた。あまりに強大な力は人を狂わせる。もしもエルシア様が多くの貴族と同じようにあたしに媚びるようになってしまったらどうしようと、そんな不敬な想像で眠れなくなるほどに。
けれど、特にスケジュールを早めるわけでもなくいつものタイミングで慰問に来たエルシア様は、あたしを見て「ますます多くを学ばなければいけませんね」と、そう言ったのだ。
「我がオースティン家でも必要な援助はいたしますので、必要なことがあれば相談なさい」
「あ、あの、エルシア様……」
それが、あまりにもいつも通りで。いつもと変わらぬ表情と、いつもと変わらぬ声音と、いつもと変わらぬいたわりに満ちたものだったから。
あたしは、思わず聞いてしまったのだ。どうして、いつも通りなのですかと。あたしが得た力に、何か思いませんかと。
ぶしつけなその問いに、彼女は珍しく目を丸くして。それからゆっくりと、首を横に振った。
「聖女であってもなくても。あなたがわたくしにとって大切な領民であることは、変わりませんもの」
もちろん、聖女として歩むあなたが望む限りの支援はいたしますけれど、と。淡々とそう仰ったエルシア様に、あたしはあふれてくる涙をこらえることが出来なかった。
この方は、この方だけは。
あたしが無力な孤児であっても、神に選ばれし聖女であっても、何も変わらずその手のひらで包んでくださるのだと。あたしがあたしであるだけで、まっすぐに目を見てくださるのだと。
うれしくて、しあわせで、せつなくて、くるしくて。あたしはこのお方のためにこの力のすべてを使おうと、たとえこの身が砕けて骨が粉になろうとも、このお方のさいわいのためならなんでもしようと、そう思ったのだ。
あたしはエルシア様付きの侍女かなにかになりたかったのだけれど、聖女は侍女にはなれないらしい。そしてどこかの貴族の養子にならねば教会に取り込まれると聞いて、あたしは初めて連れて行かれた王城、謁見の間で国王陛下に跪き、オースティン領にいさせてくださいと懇願したのだ。
陛下はあたしの嘆願を聞き入れて、オースティン家にあたしを養女とする打診をしてくださった。オースティン家のご当主様、つまりエルシア様のお父様もそれを受け入れてくださって、あたしはエルシア様の義妹となったのだ。
名前も、貴族風にリズベットと改めて。そうして初めて義妹としてエルシア様とお会いしたとき、彼女は今までに見たことがないほどに真剣な顔をして「リズベット・オースティン」とあたしを呼んだ。
「あなたも知っているでしょうけれど、わたくしはオースティン家の娘です。オースティン領の民たちを背負っています」
「は、はい。もちろん、存じ上げております」
「あなたの力で領を富ませることは、先々を考えると益のあることではありません。それでも、わたくしがあなたを頼ってしまうこともあるでしょう。あなたにはそれが行きすぎたときに、わたくしを諫められるようになってもらわねばなりません」
それは、あたしを対等に見た言葉だった。聖女としてでなく、これからオースティン家に連なるものとなるとして。侮りも蔑みも見くびりもなく、あたしがオースティン家の娘としてエルシア様の隣に立つ未来を、当たり前のように考えて。
多分、あたしは今にも泣き出しそうな顔をしていた。けれどエルシア様は、真摯な瞳を揺らがすことなく。
聖女になってから、あたしの感情に周囲は一喜一憂した。今までは全く省みもしなかったのに、そんな態度の変化が煩わしくて仕方がなかった。
だけど、エルシア様は変わらない。あたしが孤児であっても聖女であっても義妹であっても、何も変わらず一人の人間として、まっすぐ向き合ってくれるのだ。
「甘やかすことはしません。きっと他の貴族家に引き取られるより厳しい生活となるでしょう。オースティン家の娘としての矜持を、あなたにも求めてしまうでしょう。……それでも、私の妹になってくれますか?」
エルシア様の言葉は、聞きようによっては辛辣に響いたかもしれない。けれど、声音はどこまでも優しくて。
令嬢らしい淡い微笑みの裏にあるエルシア様の感情すべてが伝わってくるようで。あたしは泣きじゃくりながら、何度も何度もうなずいた。
「おねぇ、さま」
「はい、あなたの姉です」
「ぁだじ……わだぐじ、がんばり、ます……がんばるので、あなたのいもうとに、してください……!」
涙と鼻水でずいぶん無様だったけれど、やっとの事でそう告げたあたしに、エルシア様は今まで見た中で一番美しく微笑んでくださった。
それだけで、あたしはこの先どんな苦難も乗り越えていけるだろうと、思ったのだ。ハンカチで涙を拭ってくださるこのお方のためならば、なんだって。
宣言の通り、エルシア様はあたしの聖女という立場に忖度することはなかった。今まで孤児として貴族の常識すら知らぬ生活をしていたあたしにとって、オースティン家の教育は本当に厳しいものだったけれど、エルシア様は出来のいい生徒ではないあたしに根気よく付き合ってくださった。
所作の意味を、一つ一つ教えてくださった。しきたりの意味を、一つ一つ説明してくださった。そうしてすべてに意味があるのだと、あたしが納得するまで言葉を尽くしてくださった。
だからあたしは、なんとか食らいついていくことが出来た。エルシア様は、あたしが聖女として、貴族の娘として、生きていくために必要なすべてを、骨身を惜しまず教えてくださったのだ。血の繋がりもない、国の命令で引き取ったに過ぎないあたしに、家族として真摯に向き合い、愛情を注いでくださったのだ。
それがあたしにとって、どれだけ得難いものであったか。
実の親にすら捨てられて孤児として生きてきたあたしを、エルシア様は本当の家族と同じ重さで愛してくださった。慈しんでくださった。小汚い、死にかけた子供だったあたしを助けてくれたエルシア様は、いつだってあたしを尊重し、一人の人間として向き合ってくださったのだ。
いつだったか、招待された夜会で貴族令嬢からあたしが悪し様に言われたことがある。
「卑しい生まれの、下賎な元孤児」と。それ自体は本当のことであったのであたしは全く気にしていなかったのだが、エルシア様は彼女に対峙すると「撤回なさい」と強い口調で仰った。
「平民の生まれであることを卑しいと蔑むならば、貴女はすぐに纏っているものを捨てなさい。布一枚、糸一本を取っても貴族だけで作り出しているものはないのですから。親がないことを下賎と貶めるならば、決して命を落とさぬと誓える人間を連れてきなさい。不死の誓いを立てられるものでなければ、子を持つことはできないのでしょうから」
令嬢は、おそらく軽い気持ちで口にしたのだろう。お姉様の迫力に、そんなつもりでは、とか、エルシア様にたてつくつもりじゃ、とか、まごまごとなにやら言い訳を繰り返していた。
エルシア様はそんな彼女を睥睨して、そして周囲を鋭い瞳で見渡した。
「リズベット・オースティンは希なる力を持つ聖女であり、そして陛下に認められたオースティン家の娘です。彼女が負うその責任に見合った対応を、皆様にはお願いしたく存じます。……けれど」
凜とした気高い声音で、エルシア様は宣言する。
しんと、会場の全員の視線を集めながら、エルシア様は一切怯むことも迷うこともなく。
「彼女が平民であったことや孤児であったことは、彼女の素晴らしさを損なうことではありません」
そう、言ってくださった。
あの時のお姉様の背中を、あたしはきっと生涯忘れることはないだろう。
エルシア様。いつだって民を思い国を思い、そしてあたしを思ってくださった優しい人。
エルシア様。どんな時でも真っ直ぐに前を見て、そして歩んでいく強い人。
そんなあなたの隣に立ち、あなたの力になるために、あたしの全ては在る。
だから、エルシア様を――あたしの最愛のお姉様を軽んじるこの男を、決して許せず。まだ自分の置かれた状況をわかっていない王子に、あたしは唇の端だけを持ち上げて笑って見せた。
「あなたも、あなたのなすべき事をしていたならば、あなたのために命を賭してくれる人間もいたでしょうにね」
そして、哀れみを込めて吐き出した言葉に。王子は絶句して、そして弾かれたように周囲を見渡す。
誰も、彼と目を合わせない。側近候補として近くにいた近習たちも、頭痛をこらえるような顔をするばかり。
ご自分の立場も責務も理解しない、怠惰で愚かな王子様。責任も権限も、お姉様よりよほどたくさんあったはずなのに、遊ぶことばかりに夢中だった王子様。
この男が真に正しく自分の役目を理解し、その責務を果たしていたのならば、愚かな行為をしたとしても止めてくれる相手がいただろう。不興を買うことを承知の上で、諌言してくれる忠臣がいただろう。お姉様にとって、あたしが第一の臣であるように。
だけどこれが現実だ。わがまま王子を諫めて機嫌を損ねることを面倒だと感じ、あからさまに怪しいあたしの接近すら止められない。裏付けのないあたしの言葉を信じることを、誰も止めてはくれない。卒業パーティという晴れの舞台で騒動を起こすことを、お叱りを覚悟で咎めてはくれない。そして今この瞬間も、誰も王子を庇ってあたし達の前に飛び出してきたりはしない。
すべては己がなしてきたこと、その集大成。彼が積み上げてきた全てが、この結果を招いたのだと。
あたしの言いたいことを理解したのだろう。王子の顔は赤を通り越してどす黒くなっている。激情に駆られたのだろう、あたしにつかみかかろうと動いた彼を王の近衛が素早く拘束してしまった。
お姉様の事を軽んじた男にふさわしい末路だと、あたしは特に感慨もなくそれを眺める。もう一言二言、お姉様を軽んじたことを罵る言葉を投げつけてやろうかとも思ったけれど、そんなあたしをお姉様が「それ以上はおやめなさい」と静かな声音でたしなめた。
「これ以上は私刑になります。アーノルド様を裁くのは、わたくしたちの役目ではありませんよ」
「……はい、お姉様」
「……それに、あなたに何かあったら大変でしょう」
これぐらい、こいつがやろうとしたことに比べれば何でもないと思う、という考えが表に出ていたのだろう。不満気に頷いたあたしに苦笑しながら、お姉様は小声であたしを心配してくれると告げてくれた。
それだけで、あたしの気分は一気に浮上して、現金なまでににこにことお姉様の腕に絡めた手に力を込めた。拘束された王子が「私を騙したな」とか「悪女はお前か」とか、「エルシア、何を見ている! 早く助けよ!」などと叫んでいるがあたしはこれ以上彼に告げるべき言葉もなく。
ずるずると引きずられるように退出する王子を横目に、国王があたしの前に立つ。
いつもよりも老けて見えるのは、心労ゆえだろうか。深く息を吐いた国王は、こめかみに指先を当ててゆっくりと首を横に振った。
「聖女よ。……最初にそなたが訴えてきたときに、軽く考えていて申し訳なかった。そなたにここまでさせたのは、王室の落ち度だ」
「いいえ、陛下。王国の太陽よ。わたくしの願いを聞き届けてくださったこと、感謝いたします。豊穣の女神も、陛下のご判断をお喜びでしょう」
にっこりと笑ったあたしに、国王は苦い笑みで応える。あたしが「豊穣の女神」の名を口にするときは、「聖女としてここにいる」ということを強調する意図がある。有り体に言えば「こちらに不利益なことをしたら、聖女の力がどう揮われるかわかってるんだろうな?」という脅しだ。
あたしの機嫌を損ねたら、すなわちこの件でお姉様に害が及べばあたしはこの力を国のために使うことをやめてやるぞと、言外に含ませた私の笑みに国王は少したじろいだようだった。
もちろんそんな貴族的やりとりの意図を理解しているお姉様は少しばかり眉を下げていたけれど、聖女としてあたしが成すことに口は出さないと決めているというお姉様は何も言わなかった。お姉様の言葉なら一も二もなく聞いてしまうあたしなのに、それをしないお姉様はやはり高潔な人だとあたしは心の中で一人しみじみとかみしめる。
そんなあたしたちに、義両親――オースティン侯爵夫妻が歩み寄ってくる。お姉様によく似た顔で少しばかり呆れたように苦笑しながら、「これからは家の話になりますね」と仰ったその言葉は、陛下へと向けられていた。陛下も動じずに頷いているので、あたしの賭けを容認した時点である程度王室と侯爵家の間で話はしていたのだろう。
家同士の話となれば、子供はもう口を出せない。それを承知しているお姉様が「御前、失礼いたします」と美しいカーテシーをなさったので、あたしもそれに倣って頭を下げる。
そしてあっけにとられたような周囲の視線もどこ吹く風で、あたしたちは悠々と会場から退出したのだった。
***
「お姉様、帰ってきてよろしかったのですか? せっかくの卒業パーティでしたのに……」
「さすがにあの空気の中でパーティを楽しむ余裕はないわ。わたくしがいない方が、皆様も心置きなく楽しめるでしょう」
帰りの馬車の中で、お姉様は珍しく長い息を吐いてそう仰る。家の馬車は邸内に近い安心感があるのか、その表情の変化は無防備だ。
両親は王室との話し合い、随伴した従者も父母の付き添いともう一台の馬車の手配などで駆け回っているため、馬車の中は二人きり。正面ではなく隣に腰を落としたあたしをお姉様は咎めなかったので、あたしは遠慮なくその端正な横顔を見つめている。
せっかくの卒業パーティだ。おそらくあの後仕切り直しがされただろうが、確かにお姉様がその場にいれば主役はお姉様になってしまっただろう。それは良くも悪くもだ。お姉様が好奇の視線にさらされることをよしとしなかったのも当然で、ますますあんな場で無茶をやらかしたあのバカに対する怒りがわき上がる。
最初は、あたしも止めたのだ。他の皆様もいる場です、ご迷惑になります、と。しかしあのバカは「皆に我らの愛の証人となってもらうのだ!」と意気揚々で、早々に止めるのを諦めたあたしは「このバカのバカを皆に知らしめるいい機会だ」と切り替えたのであるが。
思わずむすっとしてしまったあたしの心情を読み取ってしまったのか、お姉様が困ったように笑って「リズベット」とあたしの名前を優しい声で呼ぶ。
「……もうこのような無茶をしてはだめよ。こんなことをしていたら、あなたが危ない目に遭うかもしれないわ」
「無茶なんてしていません。お姉様が不幸になるなんて、耐えられないのだもの」
「わたくしは何とでもいたします。政略結婚も貴族の義務よ」
あたしを咎めたお姉様は、柔らかく微笑んでいて。
貴族の義務、だなんて。そんな悲しいことを、言わないで欲しい。
だって家族になるのだもの。一生一緒に過ごすのだもの。もちろんあたしだって教育を受けているから、貴族の結婚が不自由なものだというのは理解している。それがノブレス・ オブリージュだとも。だけどあんな相手は最悪で、それをあたしが「なんとか」出来るのならば、「なんとか」しない理由はない。
けれどお姉様は少しだけ眉を下げて、そういうものなのよ、とあたしの頬をその指先で撫でてくださった。
「オースティン家の娘として生まれたからには、家のためになる婚姻は義務。この国の貴族として生まれたからには、国のために奉仕することが責務。それは、当たり前の事なのよ」
「……でも、あんな相手じゃなくったって」
「殿下をお諫めできなかったわたくしが至らなかったの」
お姉様の言葉は、貴族としてあまりにも高潔なもの。誰が聞いても賞賛するだろうその決意は、けれどあまりにもお姉様個人の幸せを度外視しているように思えて。
淑女らしさを忘れて唇を尖らせてしまったあたしに、お姉様はきっぱりと言い切った。
全ては自分の至らなさだというお姉様。あんなにも努力を重ねてきたのにそれでもなお自分が及ばなかったのだと自省するお姉様。
そんなお姉様の姿勢は立派で尊敬に値するものだけれど、でも、それではあまりにもこれまで努力を続けてきたお姉様が報われなくて。
そんな思いが、表情に出てしまっていたのだろう。あたしを見たお姉様は少し目を丸くして、そして「つらいとは思っていないのよ」と穏やかに仰った。
「そういうものだと思って育ってきたのだから。それに……」
「……それに?」
「……それに、わたくしにはあなたがいるのだもの。どんなことだって乗り越えられるわ」
そして、まるで花が咲くように。
貴族的な、淑女的なそれではない、周囲がきらめくように微笑んで。
突然与えられた優しい言葉に、あたしは目を見開く。喉が引き攣れて、声がうまく出てこない。
うれしいのに。とてもとても、うれしいのに。お姉様があたしの存在をさいわいだと言ってくださった、その喜びを口にしたいのに。
だけど、だめだった。どんな言葉も今のあたしの喜びを表現するに足らず、情動は音にならず。唇を震わせたあたしに、お姉様が笑ってくださる。大事なものを見る目で見つめてくださる。
その世界で一番美しい青い瞳に、あたしが映っている。孤児のあたしも、令嬢のあたしも、聖女のあたしも。どれもあたし自身が価値があると思うことはないけれど、お姉様の瞳に映っている時は、自分がとてもうつくしいもののように思えた。
「オースティン家の娘として生まれたのは、わたくしの幸いだけれど……それでも、わたくしをエルシアというただの人間として見つめてくれるあなたが隣にいるのは、わたくしにとって一番の幸運だわ」
「お姉様……」
「ありがとう、リズベット。わたくしの妹に――家族になってくれて」
そう言って、膝に置いた手に手を重ねてくださったお姉様に。
視界が滲んで、ゆらゆらと揺れる。お姉様の笑顔を焼き付けたいのに、役立たずの目が潤んでいく。こみ上げてくる嗚咽を飲み込んだ喉が震えて、上手に声が出てこない。
家族になってくれて、ありがとう、なんて。
それはあたしの言葉です、エルシア様。
あたしを家族に、妹にしてくれて、ありがとう。そばに置いてくれてありがとう。この世界を生きていくための全てを与えてくれてありがとう。あたしの手を取ってくれてありがとう。聖女としてでなく、かわいそうな孤児としてでなく、一人の人間として見てくれて、ありがとう。
今この瞬間、あたしはこの国の王様だって得られない幸福を手にしている。この世で一番大事な人が、あたしの手を握って微笑んでくださっているのだ。
つんと、鼻の奥が痛む。もつれる舌を叱咤して、あたしはまっすぐにお姉様を見つめる。
月光を編んだような銀の髪。透き通る青い瞳。驚くほどに白い肌に、美しい言葉を紡ぐ形の良い唇。そして美しい見目が内包する、まっすぐな心。
エルシア・オースティン。あたしの、最愛の人。
「……大好きよ、お姉様」
絞り出すように。お姉様と出会ってからずっと、毎日欠かさずわき上がるその思いをなんとか口にしたあたしに、お姉様は一瞬きょとんとして、次の瞬間に破顔した。
「知っているわ、誰よりも。わたくしも大好きよ、リズ」
そう言って、お姉様は幸せそうに笑ってくれて。
あたしが欲しかったすべてを口にして頬を撫でてくださったお姉様に、あたしは今度こそこぼれてしまった涙もそのままに、そっとその手に自分のそれを重ねたのだった。
性別にかかわらず、崇拝めいたクソデカ感情っていいよね。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや下部の☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。