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時代に翻弄された、ある少女のその後の人生

主な登場人物

主人公 景山(旧姓中西)愛子

    景山 美佐貴 愛子の娘

    景山 只成 愛子の夫

    景山 光成 只成の双子の兄

    本多 小百合 愛子の親友で同期

       

    田辺 美佐子 愛子の同期

    田辺 斉昭 美佐子の父

    工藤 志保 愛子の同期

    工藤 幸絵 愛子の同期志保の姉

       

    工藤 永久子 愛子の同期

       工藤姉妹の従姉妹

    高橋 素子  愛子の同期

    坂井 綾  愛子の同期

    



 初春の風が流れる季節、とある一軒家、表札には【景山】と掲げられている。庭先の小ぶりな桜の木には小さな蕾が幾つか芽生えていた。居間のテーブルの新聞の日付は昭和五十年とある。その前のソファーに景山愛子が座り何かをじっと見つめていた。その手にはセピア色に古ぼけた写真があった。それが愛子の毎朝の日課になっていた。大きなポプラの幹を背景にして、真ん中に愛子が佇み、左右に当時の仲間が並んでいた。どの顔を見ても、各個人の面影が今でも鮮明に蘇る。辛くとも手を取り合い、時に激しくぶつかりお互いを切磋琢磨した看護学校時代。苦しくて悲しい出来事が連続の戦地での勤務時代。この写真を見る度にそれらが頭の中で何度も交錯した。愛子の青春時代の全てをこの写真は語ってくれる。 

 その写真は昭和十八年の十月に陸軍病院付設看護学校を終了した時に同じ班の仲間で記念に写した物だ。奇しくも三十年後の今年、娘の美佐貴が戦後の跡地に私立医大となったこの学び舎に入学する事に成るなんて、誰が想像出来ただろう。運命とは偶然の二文字だけでは説明が出来ない物だと知らされた。

 愛子は卒業以来その学び舎に一度も訪れていない。それは戦地から只一人生き残って帰還した事への贖罪の念と。皆の思い出に触れた時に、その重荷に耐えられなくなりそうで

正直とても怖かったからだ。娘の美佐貴にもその事は今に至っても何も打ち明けていなかった、分別の付く大人でなければとても理解出来ないだろうと、愛子の中に留めて置いていた。だが本当はもっと早くに伝えるべきだったのかも知れない。娘の入学がもう伝える時だと愛子に語りかけていると思えたからだ。愛子はじっと写真を見つめていた。

「かあさん」

 背後から美佐貴が声をかける。愛子は咄嗟に写真をしまう。

「田辺のお義祖父様が態々いらしたけど、今日は入学手続きに出かけるだけなのに、知らせて無いの」

 美佐貴の声に振り返る。田辺は美佐貴の名付け親。戦災で住む場所を失った愛子を実の娘の様に世話をしてくれた。美佐貴の事も同様に本当の孫の様に可愛がっていた。

 居間の入り口で田辺を迎え入れる愛子。

「お義父さん。今日は手続きにいくだけですよ、こんなに朝早くからどうされたの」

 見ると如何にも親分肌で恰幅の良い初老の紳士が立っていた。銀座の山形屋で設えたようなブラックにホワイトピンストライプの高級そうなスーツが似合っていた。

「いやー昼に只成君と打ち合わせの約束をしていてね、時間には大分早いが、少しばかり顔を観に来ただけだよ。それにしても大したものだ、聖林医大に現役合格とは何度聞いてもすごいじゃないか」

 田辺は何かにつけ美佐貴を構いたくてしょうがない。実際自宅も自身が経営する会社も美佐貴に会う機会を少しでも多くする為に、横浜から近くの池袋に引っ越した程だ。良く言う親バカならず御爺さんバカだ。大して重要な用事で無くても田辺にとっては大好きな美佐貴に会う口実があれば何でも良い。

「お義祖父様、そんなに買かぶらないで下さい、第一志望の国立は落ちたのですよ、学費で凄く甘えちゃうから、心苦しいですから」

「何を言っているんだい、子供に甘えられるのが親にとってどれだけ嬉しいか。まあ親に成ればそのうちに分かるさ、只成君だって美佐貴が跡継ぎに成るのを喜んでいるじゃないか。学費なんて気にしちゃいかん。愛子、只成君はそんなに金に困ってらんよな。」

 実業家で戦前は軍の下請けで財を成し、戦後は進駐軍に取り入り復興の勢いのおかげで

手広く事業を手掛ける田辺は、お金にはかなり余裕がある。性格も豪快な田辺は、お金の使い方も豪快だ。美佐貴の学費も、むしろ自分が出したいのだろう。

「それはそうと、愛子、美佐貴に学校の事は話したのかい?」

 美佐貴に話す切掛けを掴み兼ねていた愛子にとって、田辺のこの一言は渡りに船だった。

「何の話?学校の事って」

 美佐貴はてんで見当も付かない様子だ。

「美佐貴が愛子の後輩に成るということだよ」

「え?どうゆう事、だって母さん働きながら

独学で試験受けて、看護婦になったって。 それに聖林大の前身は軍関係の施設だと聞いた事あるけれど」

「詳しくは行きしなにゆっくり話すから、支度しなさい、そうだ、お義父さん主人と打ち合わせなら、病院まで一緒させて下さい。美佐貴、行くわよ」

 怪訝な顔付きの美佐貴を促し。親として、ちゃんと伝えなければならないと心に言い聞かせる。



 通りを田辺の愛車リンカーンが走って行く、

助手席に田辺、後席に愛子と美佐貴が座っている。車窓は住宅街を抜け、広い通りにでる、川沿い遠くに景山総合病院の看板が見えて来た。つい最近新病棟が完成したばかり、大きくなった看板が目立つ。よくここまでの規模になったものだと感慨に耽る愛子。これも田辺の援助のおかげだ。夫の只成は外科医の中では名の知れた名医だが、損得抜きで患者に対応する為に経営は何時も苦しかった。そんな只成の姿勢に感銘した田辺は資金面で何かと相談に乗ってくれていた。只成は田辺を信頼しきって何でも相談する中だ。

 車の揺れに身を任せながら田辺はニコニコし振り向きながら美佐貴と話している、会話の内容を一々運転手に

「なあ、なあ」

 と同意を確認するその姿はとても和やかだった。


 真新しい病院の廊下の奥を進むと、院長室の看板がドアに掲げられている、中には院長の只成がデスクに座り書類を整理していた。そこ々広いがお世辞にも豪勢とは言えない設えの部屋だ、只成の考えで質素にまとめた作りだ。正面の本棚中段には只成の双子の兄の光成の遺影が鎮座している、軍服姿が凛々しい。只成が書類に目を落とし読みふけっていると、ドアをノックする音がする。

「ハイ、何か」

「私です、入ります」

 ドアを開け愛子がニコリ微笑み入って来る。

「わざわざ来たのか、電話で良いのに」

 只成は書類に目を通しながら眼鏡越しに愛子を見やる。

「そう思ったのだけど、田辺のお父さんがいらしたから、こちらで約束したのでしょ、だからついでに車に同乗させて頂いたの」

「なんだ、そっちへ寄ったのか。それにしても早いな、で、美佐貴と田辺さんは?どうした?」

 整理していた書類をデスクで{タン!タン!と揃えると、サッと鞄に納めて立ち上がる。

「今すぐに来るはずです。それはそうと懸案だった件今日話しますね」

 只成はニコリとして少しだけ頷いた。

 ドアの向こうに二人の気配が近づいて来た

、何時もの様に元気に田辺が入って来た。

「やあ!只成君元気かね。美佐貴の学費困っておらんか。何だったらわしが一つ一肌脱ぐがどうだ? 」

 傍らに美佐貴を抱え嬉しそうだ

「大丈夫です心配有りませんよ。美佐貴が何か言いましたか?」

「本当の所もっと美佐貴に色々させて欲しいんだがな。美佐貴に沢山会う時間が作りたいから、近くに越した意味が無くなるだろう。」

「今まで美佐貴には十分過ぎるぐらいして頂いているじゃ有りませんか。新病棟の建設費だって出して頂いて。この上美佐貴の学費だなんて、そんなにお世話にはなれませんよ。」

 田辺の顔つきが少し寂しそうだ。

「そうかなあ、仕事とプライベートは別だと思うがなあ」

 二人の会話が一段落した所で美佐貴が気に成っていた愛子の学校の件を問う。

「お父さん、母さんが聖林大の先輩だって本当なの?」

 美佐貴の問いに只成は襟を正す。

「厳密に言うと、戦前の陸軍病院付設看護養成所だがな。母さんはそこの出身だ」

「本当なの?何故今まで黙っていたの」

 美佐貴の顔は不思議そうだ

「何事にも時期が有る、美佐貴が理解出来る年頃に成らないとね、その時が来るまで待っていたのだよ」

 何時も冷静沈着な只成がこの日は更に冷静だ。でもとても優しさが感じられる。

「愛子、ワシは只成君とこれから打ち合わせだが、横浜へは足は何で行くんだ?」

 田辺の問いに対して愛子は手提げ鞄から時刻表を取り出して東京駅から東海道線で行く段取りだと伝えると。

「だったらワシの車を使いなさい、道中車の中でゆっくり話すが良いだろう。それにしてもいい加減運転手付の車を持ったらどうかと思うが?只成君相変わらず主義に反するか」

「えぇ、無駄なお金は使いません、足と電車が有れば何処へでも行けますから」

「変わらんなあ。まあそうゆう所が好きなんだが。で、愛子いいな、ワシの車で行きなさい」

「でもお義父さんは帰り如何されるの?」

 田辺は何も心配要らん、帰りはタクシーでもハイヤーでも使うからと、愛子に車で行く様に押し付けると、ドアの外で待機していた運転手を呼び,その趣旨を伝える。

「美佐貴、母さんの話を聞けば、私と母さんの馴れ初めも、死んだ私の兄の光成おじさんの事も、田辺の義祖父様が何故こんなに私達に良くしてくれるのかも全て解るよ」

 美佐貴は小さく頷いた

「何より私はかあさんの話を聞いてその後の医者としての志がはっきりと決まったのだ。」

「父さんの信条の事ね、人の命に上も下も無い、どんな命も全力を尽くせ。ね」

「そうだ。人生の大切な転換点に成ると思うぞ」

 只成はそう言ってポンと肩を叩いて美佐貴を送り出した。


 病院玄関前のスロープで四人が待って居る所に田辺の黒のリンカーンが滑って来た、田辺がドアを開けドアマンみたいな真似をする、車に乗り込み、愛子達が田辺と只成を振り返るとニコニコしながら手を振っていた。

 車がゆっくりと滑り出し大通りに出た、首都高速の北池袋入口に入り、ビル群が目立ち始める、少しばかり進むと直ぐに左脇にサンシャインシティの建設予定地が見えて来た、以前は巣鴨プリズンと呼ばれていたその土地が、第二次大戦の戦犯を収容していた施設だったのだ、私の人生もその戦争に拠って、其れまでの平凡な人生から激変したのだと思いが馳せた。その景色を見つめながら、愛子は何処から話せば良いだろうと思案する。その時、そうだ写真だ、この写真を見せながら一つひとつ順を追って話そうと思い立つ。急いで手提げ鞄から写真を取り出して美佐貴にそっと差し出し見せる。

「なあにこの写真?」

「私の学生時代の写真よ」

 写真を手に取りマジマジ見つめる美佐貴の目が輝いている、何か新しい物でも見つめている様子だ。

「わあ!古い制服、それに母さん若い。本当だ、義祖父様が言っていた通り私そっくりね」

「逆よ、美佐貴がそっくりなのよ」

 笑いながら美佐貴の頭をコツンとする。

「これ何歳の時の写真?」

「ニ十一歳。昭和十八年十月に看護学校終了式の後にみんなでね、校門の傍のポプラの前で記念に撮った写真よ」

「全員クラスメイトなの?」

「そうね、今で言うクラスね、当時の呼び名は班ね。・・・私の右隣が一番の親友の小百合ちゃん、唯一の同い年、とっても気が利いて頼りになる私の一番の理解者だった。左隣が四つ年下の田辺美佐子ちゃん」

「え!田辺ってまさか」

 美佐貴の瞳が驚いている。

「田辺のお義父さんの娘さん、大事な一人娘」

「だって、戦前に病気で亡くなったって聞いていた娘さんよね」

「そう」

「でも何故ここに」

「それは後でちゃんと説明するから、続きを聞いて。右に二人目が最年少の志保ちゃん、まだこの時は十五歳だった、この子は飛び級で高等小学校を卒業してきた秀才、だから採用年齢をごまかして入学してきたの。でも何でも一番に出来た子でね、班でも一番しっかりしていたな。右に三人目が素子ちゃん、美佐子ちゃんと同い年、後列に写っている綾ちゃんとは常にライバルでいつも張り合っていたな、この二人は班の賑わし担当かな。左に二人目が幸絵ちゃん。三歳年下、志保ちゃんのお姉さん。その隣の永久子ちゃんは幸絵ちゃんと志保ちゃんの従姉妹。二人で志保ちゃんの事を可愛がっていたな」

「みんな母さんより年下なのね」

 時代のせいなのか、服装のせいなのか、美佐貴の目には今の自分より幾分幼く感じられた。

「そう。そしてこの写真の中で生き残ったのは私一人なの」

 その言葉に美佐貴は一瞬息を呑み

「本当に?」

「(小さく頷く)・・・。この写真は私の青春その物なの、このたった一枚の写真に私の青春の総てが凝縮されているのよ。辛い事、悲しい事、嬉しい事、そう始めは忘れもしない昭和十六年の一二月・・・・・」


 愛子は幼くして両親を事故で失い、親戚に育てられた。身内と言いながら、お世辞にも居心地は良く無かった。早くに自立する為に高等小学校を卒業してから、幼少の頃に優しく接してくれた看護婦に憧れて、その道を目指していた。紹介で横浜の個人病院の院長宅の住み込みのお手伝いをしながら、病院の助手をさせて貰い資格を取りたいと思っていた。しかし当時は正規の看護学校へは高等女学校卒でないと受験資格は貰えない。独学で何とか準看護婦並の技術と経験を学んだが、正看護婦に成るには正規学校に行かなければならない。愛子の目標は婦長に成る事だったが、住み込みで働いている身、愛子は高等女学校へ通う時期を逃してしまった。愛子はこの先如何にするか苦慮していた。そんな時に院長から思いもよらない嬉しい知らせを聞かされた。

 院長に呼ばれ院長室の前に立つ愛子、コンコンとドアをノックする。

「中西です」

 {入り給え}と中から院長の声がする、ドアを開けイソイソと中に入る、如何にも院長らしい初老の紳士が革張りの回転椅子に掛けていた、コールマン髭が印象的だ。クルリと椅子を廻して愛子に向かい、対面の椅子に座る様に目で促す。 

「中西君ちょっと話が有ってね」

「なんでしょう院長先生?」

 愛子は中肉中背で一見すると平凡そうだが、芯の強さが顔に現れていた。とても清潔感が溢れていた。

「中西君、内に来てからどれ位経つかね」

「かれこれ6年近くになると思います」

「そうかあ、そんなになるかね、早い物だ、今まで私の家の事、病院の業務と色々良くやってくれたね、特に看護の方は好きなのだね、何でも直ぐに覚えると、婦長が言っていたよ」

「恐縮です、ありがとうございます」

 院長のお褒めの言葉に頬が火照る

「ところであらためて聞くが、君は正看護婦に成りたいのだったよね?」

「はい、夢は婦長に成れればと思います、でも今と成っては叶いませんよね」

「だったら今からでも学校へ行ってみるかね」

 それが出来ない事は先刻承知の院長に、そのような言葉を掛けられ、愛子は少々憤慨する。

「院長先生、それが出来ればとっくにお願いしています。高等女学校卒の資格が無いから無理なのは院長先生が一番ご存じですよね」

 だが院長は何か有り気にニンマリする。

「それだよ、資格だよ、実はねこうして来て貰ったのは、先程学会から連絡が来てね、次回から受験資格がどうやら見直されるらしいのだ」

 院長の言葉に一瞬狐に騙されたような気分になった。

「見直しに成る?受験資格が?ですか」

「そうなのだよ、対米開戦を受け、看護婦の数も不足するのは目に見えている。そこで今回の資格見直しで高等女学校卒以上の資格がね、高等小学校卒でも可に成るそうなのだ」

 当時日本は十二月に米英相手に戦端の火蓋を切っていた。戦域は拡大の一途を辿り、兵員の補充で次々と若い人達は徴兵で出兵して行った。同時に救護の現場でも救護看護婦の頭数が不足をするのは予測が出来た。看護婦の確保に躍起になった政府や軍関係はそれまで日赤や民間にオンブに抱っこだった看護婦の養成を、一気にテコを入れ大幅に増やす事にしたのだ。

「本当ですか!」

「あぁそうだ、さらに好都合な事に二俣川陸軍病院に新たに看護養成所を新設するそうだ、

君の場合は既に準看護婦並の技術と経験が有る、後は私の推薦状が有れば太鼓判だ。どうだ。受けてみるかね」

「はい、是非に」

 愛子の嬉しそうな表情を見て、院長の顔も

満面の笑顔になる、しかし気を取り直して大事な事を伝えて来た。

「但し条件は平時の看護婦よりきついぞ、何せ時が時だし陸軍所属になる訳だから、率先して戦地に派遣される、それでも良いかね」

 時代は報国の時、自分の夢が叶い尚且つそれがお国の役に立つのならこんなに良い話は無い、まさに一石二鳥だ。愛子は天にも昇る思いで院長に受験の懇願をした。

「それじゃあ資料を請求しとくが、試験日は3月だ、日が余り無いからしっかり勉強したまえ、いいね」

「えぇ!ニケ月しか期間無いのですか?そんなの急すぎます」

「戦時の事だから何事も急なのだよ」

 困惑する愛子の顔を見ながら、院長も両手を上げてしょうがないだろうと仕草を見せる。

「はい解りました、時間が無いのは仕方ありませんね」

「本心を言えば君が居なくなると私も難渋するが、今はお国の為が一番の時だ、それに今まで家の事、病院の業務と大変良くやってくれたから、これはささやかでは有るが、私からのご褒美だよ。学校へ通う間は家の事だけ手伝えば良いから、勉学に励み必ず資格試験に合格するように。じゃあ頑張ってみたまえ」

 一抹の不安は有ったが、とにかくやるだけやってみよう。自分の夢の為、お国の為、そう心に誓い、その日以来昼夜を問わず暇さえあれば勉強に励んだ、寝る間も惜しんで。



 迎えた試験日は未だ肌寒かった。事前に下見に来ていたので、道に迷う心配は無用だが。駅からの登り坂を不安な心を打ち消す様に何度も自分をしったして歩いた。坂を登り切る頃、学校のシンボルマークの大きなポプラの木がその先端を覗かせて来た。ポプラ越しにその堅牢なコンクリート造りの校舎が見え始めた。願書を持参した際に愛子は始めて校舎を見てその豪華な造りに圧倒された。聞けば本来は陸軍の高級参謀専用の医療施設として建設された建物が、今回の養成所の為に学校に転用されたそう。半分が教室に半分が病院になっていた。


 試験会場の教室に入ると既に何人かが座って準備をしていた。自分も遅れまいと着席して準備をするが、急いで家を出たせいか、うっかり消しゴムを忘れてしまっていた。慌てて彼方此方鞄の中を探すが何処にも無い、困っている愛子に、隣の席から救いの声がする。

「どうしたの?」

 明らかに自分より五つ位は幼そうな可愛い顔をした、女生徒が愛子に声を掛けて来た。

「朝確認したのに消しゴムが無いの、困ったな、どうしよう?」

 愛子の言を聞くと彼女はさっと自分の鞄から肥後守を取り出し、自分の消しゴムを半分切る。

「はい、これ使って」

「え!良いの」

「こんな事で落ちたら悔やんでも悔やみ切れないでしょ、気にしないで良いよ」

 明らかに年下なのに友達口調を聞いて来た、少しだけムッとしたが、ここは立場をわきまえて、素直に礼を言う事にする。

「ありがとう、本当にありがとう。後で必ずお礼するから。そうだ試験終わったら関内まで行きませんか、おいしい甘味処行きつけなの、ご馳走します」

「そんな事いいから、お互い頑張ろう。私は本多小百合、二十歳ですよろしく」

 さっと握手の手が出る、しかし自分と同じ年と聞いてビックリする、童顔で小柄な身なりはどう見ても自分よりも年下に見えたからだ。あまりに幼く可愛い顔立ちに、愛子はついつい見とれてしまう。

「どうしたの?」

「え?あの?二十歳?私と同い年?」

「あぁ、童顔でしょ!それに背も小さいし、

だから良く年下に見られるの、酷い時は小学生扱いされるのよ」

 愛子は出された手に気づき、慌ててその手を握り返した。

「中西です、中西愛子です」

クリっとした瞳が印象に残る顔、小さくてお人形の様な体格。これが親友になる小百合との出会いだった。


 愛子の試験の出来は酷かった、院長の予想を復習していたが見事に的外れで。自分でも手ごたえは全く感じられなかった。試験が終わり机の片づけをして正面の黒板を只々眺めていた。情けない表情をしていたのだろ、そんな愛子の顔を見た小百合が心配で話かけて来た。

「どうしたの?なんか浮かない顔しているけど?」

「全然駄目だった、あーぁ自信喪失」

 そういって机にうつ伏せる愛子。横で項垂れている愛子を見ていた小百合が何かを思いつき愛子の肩に手をかける。

「ねえ、試験の前に話してくれた甘味処行かない」

「関内の店の事ですか?」

「そう、行こうよ、ご馳走してくれるのでしょう」

 気分転換にもなると思い、愛子は小百合を連れ立って甘味処へ行くことにした。


 関内駅周辺はこの時代の横浜で一番の中心街で、大変賑わっていた。平日でも人の行き来が絶えない街だ。老舗の甘味処の伊勢屋に二人で連れ立って中に入り、勝手知った我が家の様に席につき、愛子はお品書きも見ずに早速に注文する。相当の常連だ。

「お汁粉二つ」

「はいよ」

 横柄な店主の態度に反比例してここのお汁粉は大層美味しい、何かの記念や自分へのご褒美の時は必ずここにお汁粉を食べに来ていた。

「ねえどうだったの試験の出来、早く教えてよ、ここへ来る迄内緒にしていたのは、余程自信が有るのでしょ」

 懸案だった試験の出来を聞く愛子、小百合は帰りの市電の中では、勿体ぶって何も話してくれなかったのだ。

「全然、実を言うと半分も回答出来て無いかな」

 そう話す小百合、だか何故だか全く不安そうでも、残念そうな素振りが無いむしろ余裕すら感じられる、

「半分?でもどうしてそんなに余裕なの」

「実を言うとね、私も愛子さんと同じ実務経験者なの、私の勤めている医院の院長から、実務経験者は優遇されるから、名前を書けば大丈夫って、言われていてね」

 それを聞いて愛子は、え!と成る、その様な事は愛子の病院の院長から何も聞かされて無かったからだ。

「そうなの?名前だけで?でも不安だな」

「不安?じゃあ聞くけど愛子さんは何年務めているの?」

「そうだなあ、病院の業務は四年位になるかな」

「私より長いじゃない、だったら絶対大丈夫です」

 小百合は愛子の手を取り大きく頷く。その

手の温もりと小百合の自信有り気な視線を見つめ愛子は安堵する。

「不思議だな、出会ったばかりなのに、こうして小百合さんに言われると安心する」

「そう言って貰えると嬉しいな」

 小百合は愛子の手を小刻みに揺さぶる。

「ところでそう言う小百合さんは何年位の実務なの?」

「助手を始めて三年半かな、本当は午前勤務で午後から学校へ行かせて貰う約束がダラダラしてね、それで今回遂に院長にお願いして夢が叶ったの」

 自分に似た境遇に愛子は小百合に親近感を持ち始める、二人は意気投合してしまう。

「愛子さん、さてはゆくゆくは婦長狙いね」

「その通り!」

 愛子は合いの手を入れて返答する。小百合は合いの手に合わせて自分の手をパンとする。

「私より多いい勤続年数だから何も心配無いよ」

「そうかな・・・」

「本当に名前だけしか書けて無い訳では無いでしょう。よっぽど酷くない限り採用だって。うちの院長が言っていたから、特に三年以上の経験者なんて早々居ないから絶対大丈夫だって」

「本当に」

「本当よ、だから安心して」

 愛子は小百合の言葉に僅かな希望をたくし

た。もし本当なら小百合となら仲良くやっていけそうだ。二人は再会を約束してその日は別れた。別れ際の小百合の特徴有る挨拶の姿に愛子は思わず微笑む、その仕草は、元々は耳の遠くなったお婆さんの為に目視でコンニチワとサヨウナラが伝わるよう始めた事らしいのだが、右手を顔の直ぐ横で小刻みに揺らして、ニッコリ微笑んでいる姿だった。それ以来小百合は会う時も別れる時も必ずこの挨拶で答えてくれた。愛子はこの挨拶がとても気に入った、童顔で小柄な小百合がその仕草をするとまるで絡繰り人形に見えたからだ。それ以来小百合と言えばこの仕草が一番に愛子の脳裏に浮かんで来た。


合格の知らせが来るまでの二週間は、不安と希望の交錯で毎日があっと言う間に過ぎて行った。そして待ちわびていた電報が遂に届いた。愛子は恐る恐る封書を開けると、そこには合格の二文字が記されていた。


 入学前の説明会に出る為に愛子は指示された番号の教室を目指していた。ドアを開けるとさーと皆の視線が集まる、その視線の中に愛子は小百合を見つける、例の仕草の挨拶をしていたので愛子の視線に直ぐに飛び込んで来た。

「あ!小百合さん」

「愛子さん」

二人は手に手を取り合い再開出来た事を喜んだ。隣の空いている席に愛子は座りニコニコしながら会話を続ける。

「言ったでしょ、経験者は優遇されるって、

納得した?」

「うん、それに小百合さんと同じ班なら心強いよ、これから宜しくね」

「私こそ宜しく」

 二人が再会を喜んでいる所へ、勢い良くドアが開く。(ガラガラ!)

 年の頃は三十代中頃位で紺色をした制服を纏い、長身で長髪を無造作に後ろに纏め、美人だが化粧気の無い顔、見るからに怖そうな婦長らしき女性が入って来て、壇上に立つと教室を

一瞥した。

「皆注目!」

 大きな声で一括すると教室に一気に緊張が走る。立っていた者は慌てて空いている席に着席して背筋をピンと伸ばす。

「良いですか、今から言う事よーく聞く様に

、一度しか言いませんよ。私がこの第一班二十人の担当婦長の桜井民江です。皆浮かれている様だけど今日から心を入れ替えなさい。良いわね」

 いきなりの先制攻撃に班の皆は些か虚をつかれていた。

「初めに、基本的な事を言って置きます、

今から言葉使いに気を付けること、いいね!

目上の者には必ず殿で締める事、私には婦長殿、教官には教官殿です、後、挨拶の礼儀の徹底です、配った手引き今日持ち帰って良く暗記する事。いい!読むでは無いよ、暗記だよ!」

 流石軍隊の施設だ、言葉使いから礼儀仕草まで、全てが軍隊形式なのだ、これは生半可の心構えではイケないと其処に居る全員が思った事だろう。

「今日は色々と説明が有ります。説明の前に事を効率良く行う為に最小限の決め事をします。班長と副班長を置き、連絡事項は班長経由で伝えます、私に意見が有る場合も同じく班長が纏める事。班長と副班長は予め私が人選を終えているから、今から呼ぶので、呼ばれた者は元気良く返事をしなさい」

 大きい声が一層大きく聞こえる、あぁとんでも無い所へ来てしまったのだと、だれもが

少し後悔しているようだ。

「班長中西愛子!」

 唐突な事に愛子は一時返事が出ない

「中西居ないの?」

「あ、はい居ます」

「不満でも有りそうな返事ね」

「イイエ、そんな事。まさか自分が呼ばれるとは、少々驚いて返事が遅れました」

 睨みつけて来ているでは無いが、桜井の目線を直視出来ない、ついつい伏し目になっていた。

「因みに班長、副班長は実務経験者です、その他の生徒は殆ど素人だから皆班長と副班長の言う事を良く聞く様に、解ったね!」

「・・・・・?」

 誰も返事が無い、嫌、出せないでいると。

「返事しなさい!」

 桜井の怒声が更に大きく響く。

一同「ハイ!」

「副班長、本多小百合」

「ハイ本多居ます」

 すっと手を挙げて返事をする、

「本多は良く中西を助ける事、実務経験年数はほゞ同じだけど、わたしの直感で決めたから。文句は無いわね!」

「ハイ、有りません」

 短期で夜学に通った経験が有る愛子でも、こんな対応は初めてだった、恐らく小百合も同じだろう。こういうのを軍隊形式かと少々の不安と、桜井の勢いと急展開に、愛子と小百合は戸惑いを隠せなかった。

「班長!」

(愛子さん)小百合が小声で愛子を呼ぶが愛子は気が動転して桜井の声が耳に入っていない様子だ。

「班長!」

何度も小百合に小突かれて愛子は急いで返事をする、こんなに慌てて落ち着かないのは初めてだ、少しの気の緩みも許せない。

「ぼやっとしてない。班長は貴女でしょ、直ぐに対処する癖をつける事、いいね。たった今から班長としか呼ばないよ、で、班長!」

「ハイ!」

「今からこの班の名簿を渡すから、全員の自己紹介を終わらせる事、それと同時に二人は全員の名前を覚える事、良いね、覚えるまでは私は婦長室で待機しているから、覚えたら班長と副班長は二人で報告に来なさい。覚えられるまで呼びに来ない事。但し!だからと言って何時間も時間懸ける余裕はないよ、多くて一時間それで覚える事。解った!」

「(一同)ハイ!」

「班長に覚えて貰えるよう、自己紹介する方も工夫しなさいよ、何処の学校出身とか、親は何とか必ず印象に残る紹介しなさい」

 桜井は愛子に持っていた名簿を手渡すと、大股歩きでササっと教室を出て行ってしまった。教室はシーンとまるで台風一過の静寂にいた。そこに居た誰もが凄い所に来てしまったと思っていた事だろう。だがもう後戻りは出来ない。愛子はそう自分を戒めて小百合に目で合図を送る、小百合も同じく目で返してきた。無言でも意思の確認は出来ていた。二人は素早く黒板の前に立ち名簿を出して読み上げようとした、それにあわせ偶々愛子の近くに居た班員を先頭に班の皆が我先にと列を作って並んで来た。先頭の生徒が。

「班長、すいません、班長殿、偶々ですが?私が最初で良いですか?もう並んでいますし、

駄目ですか?」

 先頭に立つ太目で愛嬌の有る生徒が問いかけて来た。

「・・・、良いよ、そうしましょう。そうだ小百合さん、名簿の欄に特徴を描き込んでくれる」

 小百合が脇で書記になり自己紹介が始まる。

「では貴方から始めて」

 愛子に促せられ先頭の生徒が自己紹介を始める。

「横浜山手女学館出身、山手在住の田辺美佐子です。十六歳です。見た通り食べる事が大好きです、」

 確かにと愛子は頷く、恰幅の良さは班で一番だ。

「田辺さんね、宜しく」

「宜しくお願いします」

 頭を下げる美佐子

「田辺さん、お嬢様ね山手に住んで山手女学館出身なんて」

「そんな事ありません、父がお金の事は心配ないから山手に行けと言うので、そうしただけです。別にお嬢様だなんて思っていません」

 父がお金の心配は無いと段取り、その通りにした時点でかなりの確率でお嬢様だと愛子は確信する。愛子が小百合にお嬢様と書いといてと言う前に。小百合は既に大きく(太いお嬢様)と書き込んでいた。

「次の生徒」

「ハイ、」

 と言って、一機に三人の生徒が愛子の前に横一列に並び立つ。

「ちょっと待って一度に3人は無理よ」

 愛子の制止の言葉に怯む事無く。お姉さん格と思しき生徒が一歩前にでる。

「班長殿、ところが私達三人は一度の方が覚え易いと思います」

 良く見ると何となく背の高い一人と左の背の低い一人が似ている顔立ちをしているのに気づく、姉妹なのかなと思いつつも、自己紹介を促すと。

「工藤幸絵です」

「工藤永久子です」

「工藤志保です」

 三人一機に続けて自己紹介。

「凄い三人姉妹なのね!」

「今から説明いたします。工藤幸絵十七歳、戸塚実科出身です。隣は従姉妹の永久子です」

「工藤永久子です、同じく十七歳、平塚高女出身です」

「又その隣が私の妹の志保です」

「工藤志保です 高等小学校を卒業しました

。十三歳です」

 愛子は幸絵の言った事が頷けた、これは大変覚えやすい。

「えー姉妹と従姉妹なの」

「ハイ父同士が兄弟なのです」

「でも大した偶然ね、3人共に同じ班なんて

、それとも何か手心加えてもらったの?」

 三人顔を見合わせて。

「幸絵の父が陸軍の軍医で大佐なのです

。私の父が海軍の中佐です。今潜水艦の副艦長です。正直に言います、同じ班だと嬉しいと幸絵の父に言いました。でもお願いはしていません。本当です」

「本当に?」

「本当です、あっ!でも従兄弟の志保の事はお願いしました」

「何を?」

 幸恵が出でて

「いずれ解ると思うので今のうちに話します。

妹は採用年齢に一つ足りません。飛び級で今年一年早く卒業しました。だから満十四歳に足りません、でも少しでも早く御国の為に役に立ちたいと妹の起っての願いを父が理解して、それで色々手を廻して何とかして下さいました。妹は優秀です、一年飛び級どころか数学と古文漢文なら既に師範学校級だと先生が評価していました。何をやらせても私達二人よりも覚えるのが早いのです。私も何かと面倒をみます、迷惑はかけませんのでどうか宜しくお願いします」

 正直な三人の態度に感心する。

「試験はちゃんと受けたのでしょ」

「ハイ、妹は数学と古文漢文は満点でした」

「それなら問題無しじゃない」

 他でも無い。愛子はその科目は三分の一位出来ていない、その出来なら何の心配も要らないだろう。小百合を見やると同じ思いの様だ。名簿に工藤3姉妹と書き込む。

「ハイ班長殿!」

「何かしら」

 後ろの方の生徒が手を上げている。

「私の前の市女出身が割り込んだのです。注意して下さい」

 そう言われた前の生徒が後ろに向いて反論する。

「何を言っているのよ、割り込もうとしたのは貴方でしょ、県女出身は何時もそう言い

がかりをつけるのよね!」

「市女が何を言うのよ、大体市女のくせに」

 反論をされた生徒はつっかかる勢いで語気を荒げる。

「県女はだから嫌よ、自分らが偉いとでも思っているの?」

 喧々諤々うるさい二人。小百合が思い出した様に。

「そうだあの二人だ。私が教室入って来た時も、あんな感じで市立横浜高女だの県立横浜高女だのってやっていたのよ」

 それを聞いて愛子は納得する。県立横浜高女と市立横浜高女は良いライバルなのだ。

「ちょっと二人とも静かにして」

「(二人)はい」

「順番より何か他に問題が有りそうね。先ず貴方から紹介して」

「はい、うん!(咳ばらいをして)市立横浜高等女学校出身十七歳高橋素子です。座右の銘は県女には負けません」

 成るほどなあ、この子は市立高女出身か、そうとう愛校心が有りそうだ、顔にそう描いて有る。

「それで貴方は」

 と、もう一人に促すが、此方も顔に愛校心有りと確り描かれていた。

「はい、県立横浜高等女学校出身十七歳坂井綾です。座右の銘は、端から市女など相手にしません」

「そうゆう態度が嫌いなの」

「貴方こそどうせ県女落ち組みでしょ」

「受けてもいないのに落ちようがないでしょ

、どうしてそう決め付けて言うの!」

 再度始める二人に愛子呆れる。

「止めなさい!二人とも、市女も県女もどちらも優秀でしょ!」

「いいえ班長殿。横浜で一番は県立横浜高女です。これは譲れません。後は団栗の背比べです」

「何を言うのよ、運動なら一番は市女でしょう、なんでも一番・・・・」

 又始める二人に愛子が、一括する

「いい加減にしなさい!」

咳払いをして。

「いいですか。そうやって、いがみ合って何が如何なるの?ここに居る二十人は仲間なのよ。これから手を取り合い皆で助けあって行くの、お互い切磋琢磨し合うなら大いに奨励するわ。でも貴方達は何?お互い誹謗中傷してばかりで、それは足の引っ張り合いでしょ。これからこの班では一切の悪口陰口妬み愚痴を禁止します。それと下らない噂話も聞くのも禁止、言うのも禁止します。解った?特に二人良い!」

「(元気無く)はい}


 名簿を胸に携えて愛子と小百合は婦長室の前に来ていた。先程の婦長の態度から察するに、気合を入れて望まないと行けないだろう

。生半可の気持では多分怒鳴られるだろう。

お互い声をかける勇気が湧かない。

「小百合さん、お願い呼んで」

 愛子は名簿を脇に挟み両手で小百合に拝んでみせる。小百合は(ハイハイ)と言って相手にしないで、班長は貴方だから逃げないのと、両肩を後ろから押しだす。

「そうね。はー緊張するな。小百合さんは緊張しないの?だってあんなに怖い婦長始めてだもの?」

「緊張しているよ。私だってあんなに怖そうな婦長初めて見た。間違いなく私の人生で一番怖そうな女性だよ。それより、そのさんつけの呼び型止めようよ、呼び捨てにして。他所よそしいから。ね」

「解った。じゃあこれから小百合と愛子で」

「うん!」

「で・早速なのだけど小百合が呼んで、駄目?」

「だから班長でしょ、逃げないの」

 呼び出しかねてドアの前でウダウダしていると。静かに教官室のドアが開く。ドキリとする二人。だがドアが開くと、教室の時とは打って変わった表情の桜井がそこに立っていた。微笑を湛え穏やかに二人の顔を見ている。その桜井の顔をみた二人は拍子抜けする。

「如何したの?先程からドアの前で。あら?鳩が豆鉄砲食らった様な顔をして。まあそんな鳩の顔を見た事は無いけど、多分今の貴方達の顔の事を言うのね」

 優しい話し方だった、先程とは別人だ。

「さあ入って」

 二人を婦長室に招きいれる。部屋は幾人かと同室だ、他の同僚は多分未だ教室に居るのか桜井一人だけだ。着任して日が浅いのが良く解る、書棚も半分しか埋まっていないし、何より机も椅子も新品だ。

「あの、婦長、終わりました。報告に来たのですが?」

 ぎこちなく話す愛子。怖がっているその態度をほぐそうと桜井は笑顔で話かける。

「えぇ了解している。・・・さっきは驚いたでしょう。いきなりあの調子でどやされたら、普通驚くわよね。二人共そうでしょう?」

 言葉が出ない二人。未だに不安な気持ちと

どの様に応対したら良いのか判断しかねていた。

「二人にだけは私の考えを解って欲しいから

、こうして来てもらったの」

 見合わせる二人に椅子に座るように催促してから桜井は何かを思い浮かべる様に話す。

「私が看護を目指した時はね、募集基準は高女卒かそれ相当の学力習得者のみで、だから当時は狭き門でね、それなりに優秀でないと、看護婦に成れなかった。それは実務経験の有る二人なら解るはね」

 頷く二人、桜井は二人の目を確認する。

「養成期間も三年を要した。それが戦争の勃発で募集基準が引き下げられ。養成期間が短縮された。そして今回はさらに半年も短くなってしまった。私の経験を話すと大切な事とか身に成る事とか得るには短すぎる」 

 聞き入る二人は桜井の言葉に納得の表情だ。

「正規に学んだ私でさえ、実戦の現場、兵站病院での勤務では最初は何も出来なかった。次々に運ばれてくる負傷兵に只オロオロするばかり、先輩達は物言えぬ患者に良く対処していて、それを見ていて出来ない自分に腹が立った。現場では教わって居ないは通用しないの。だからここを引き受けた時に、この短い時間で何が出来るか考えた。出した結論は詰め込めるだけ詰め込もう、その為には甘えは禁物だと思ったの。私の受け持つ子達には現場で絶対恥じをかいて欲しくないから。だからその為なら恨まれても構わない、嫌われても良いと。それで心を戒めて鬼婦長になり、皆に教えようと決心したの」

「婦長・・」

 只ならぬ桜井の決意に愛子と小百合は言葉が続かなかった。

「その為にはね、経験者の二人の助けが必要なの。勉強は詰め込めば何とか成るけど、現場でしか解らない事、技とか勘は教えられないの。二人には実務経験を生かしてその辺の事を皆に伝えてほしいの」

 深い考えに感動した。反対に桜井を只短に怖いだけだと思った自分の浅はかな心が恥ずかしかった。

「補足だけど、現場では看護婦の数と同様に婦長の数も絶対数足らない。二人はここを卒業する時は五年以上の経験になるのだから、行く行くは婦長試験も受ける事を視野に入れて、そのつもりで自覚を持って勉強して欲しいの」

 自分が婦長に?成れる者なら成りたいと思っていた。今まで遠いい目標だった、それが現実身を帯びて来たのだ。愛子にとっては何よりの発奮材料だ。

「婦長を目標にして良いのですか・」

「当たり前でしょ。二人にはそう成って欲しいの。だから良く勉学に実習に励む事」

「(二人)はい、婦長宜しくお願いします」

「それとここでの会話は他言無用よ。三人の秘密にして置きましょう。良いわね」

「(二人)勿論です」

 この人になら付いて行ける。愛子はこの日以来桜井の虜になる、桜井の様な看護婦を目指そうと心に誓う。 

「所で、他の生徒の印象はどう?」

 桜井の問いを受け愛子が名簿を開く。

「はい。皆個性が有ってとても元気です、特に印象に残ったのは、高橋と坂井の二人です

、横浜県立高女と市立の両校出身なのです。初日から敵愾心丸出しでバチバチです」

「そう、それは上手く指導すれば他の生徒にも、良い刺激になるはね、気に留めておくは、

、本多は誰か印象に残った生徒は居る?」

「私は工藤の妹さん。最年少の志保が気になりました。テストも数学と古文漢文は満点だったらしいです。幼いけど期待大です」

「工藤志保ね。彼女が全教科一番の出来よ」

「えぇ!それは凄いですね」

「実は彼女の事は彼女のお父様に頼まれてね、あの子のお父様は陸軍の軍医大佐でね、私が看護学校時代の特別教官だったの。大佐は軍医学校を主席で卒業してらして、それは優秀な方。志保の優秀さは大佐譲りね。その大佐に直に頼まれてね{志保は生まれてから何でも一番に出来た。習い事も一回で覚える、大佐から見ても驚く才能だと、だから心配だと}一回も挫折を知らないらしいの、看護の現場で、もしなにか大きな壁に付き当たった時に、そうねぇ例えば患者の生死に関わることで失敗した時とか、自分で自制が出来ないんじゃないかと。だから君にお願いしたいと。大変だけどあの子の事は余計に気にして上げて欲しいの」

「(二人)承知しました。任せて下さい」

「じゃあ戻りましょうか。制服の支給から官給品の受け取り方法から、入所式の説明から

、やる事は山ほど有るのよ、それとこれを皆に配って」

 桜井は束になったガリ版刷りの用紙を棚から取り出し愛子に渡す。

「何ですかこの用紙?」

「使用頻度の多いい専門用語を抜粋したの、

これに一々授業時間を割いていられないからね、貴方達はもう当たり前の事だけど、他の生徒には早急に覚えて貰わないと先へ進めないから。今日帰る時に渡してくれる」

 二人を伴い退室する桜井。その背中がとても頼もしく慈悲に満ちて感じられた。教室へ戻り桜井から改めて諸々の指示が出された。

話の中心はこれからの学校生活についての説明と看護婦としての訓示などだ。二人にとっては今更な事だが、他の生徒は何を聞いても初めて聞く事ばかり、誰もが真剣に聞き入っていた。午後は専ら官給品の受け取りと、それこそあっという間に時間が過ぎって行った。


 先の甘味処に愛子と小百合が向かい合い汁粉を食している。笑顔から察する通り、会話が弾んでいる様だ。

「ねえ愛子、私から提案が有るのだけど」

「何?提案?」

「役割分担決めない」

「何の?」

「相談役が必要かなと。桜井婦長殿が厳しいから、多分皆言いたい事は言えないと思うの、誰か気軽に話せる相談役が必要かなと」

 小百合に言われる迄も無く、それは愛子も感じていた、如何しようかと思っていた処だった。

「そうね、そう思う。それなら小百合が適任じゃない」

「それは愛子がやりなよ。最初の婦長殿の言葉を忘れたの?班長が纏めて報告しなさいと言っていたでしょ」

「報告はするけど聞き役は小百合でも出来るでしょ。それに私はそんな器じゃ無い、後輩の相談役なんてそんな偉そうな事。憎まれ役なら良いかな。婦長殿が不在時は私が皆に厳しくするから。小百合が相談役やりなよ、皆の頼もしい姉貴分に。小百合が適任だよ」

「それじゃあ駄目なの、長は皆に人気が無いと組織は纏まらないの。憎まれ役は私がする

、愛子は嫌かもしれないけど、皆の良いお姉さんにならないと駄目。班長が好かれないで

、如何して班が纏まる?」

 それはその通りかもしれない、しかしそれでは小百合が損をすると愛子は小百合を諭すが頑として小百合は譲らない。

「駄目、絶対に、中途半端が一番駄目、私は良いの、愛子が解っていれば、でないと婦長殿の補助なんて出来ないよ、自分の好き嫌いより、今は班に良いか悪いで判断しよう。だからお願い、私の考えに賛同して」

「でも・・・・」

「決まり!・・・愛子汁粉おかわりしない。そうだ!損な役周りする代わりに、週に一回ここの汁粉ご馳走するのってどう?」

「そんな事では合わないでしょ」

「合うよ。だれが一杯だけと言った。二杯は必ず頂こうかな、そうだ今日の分も含めても良い?」

「ずるいぞ、今日から?まあ良いか。{笑いながら}おじさんお汁粉二杯おかわりください」

「(店主)はいよ」

 小百合の気持ちが愛子は嬉しくてたまらなかった。役割分担は自分も考えていた。ただ自分から言い出し兼ねていた。立場上損な役は小百合に成る事は明白だったからだ。それを小百合は感じ取ってくれて、自分の提案で押し切ってくれた。愛子は心の中で何度も小百合に感謝した。

 

 迎えた入所式の日。講堂には大壇幕に{祝う第一期入所式}と、大きく書かれている。一斑から六班の百二十名が真新しい紺色の制服に身を固め、壇上を見つめていた。暫くして如何にも軍人らしい風体の服部校長が現れて入学の祝辞が始まる。百二十人の瞳が一斉に向けられた。日本はこの時、まさに連戦連勝の真っ只中。前年の十二月八日の会戦以来、海軍は一気に戦域を広げ、この年には遠くラバウルまで占領をし。又陸軍はマレー半島を南下し、フィリピンからインドシナまでを支配していた。勢い壇上に現れるお歴々の話は、戦争の推移や人心を鼓舞する内容が殆どだった。この時に僅か二ヵ月後にミッドウェーでの敗北。その後の形勢逆転を誰が想像出来ただろう。



 今日からいよいよ授業が始まる。愛子達は勇躍する思いで今日を迎えた。教室に一斑の全員が着席していた。この日は初日で実技が無いので紺色の制服を皆纏って待機していた。喧騒の中にも緊張した空気が漂う。そこへ桜井婦長の足音が段々と近づいて来る、皆の耳にも確認できた。先程までの多少の喧騒も途端にシーンと静寂に取って変わる

 (ガラガラ)

「起立!婦長殿に礼」

 愛子が大声で号令をかける。

「(全員)おはようございます」

 佇立不動の姿勢から三十度前へ屈めて礼をする、こんな事まで軍隊式だ。

「着席」

 桜井は全員が着席するのを一瞥して。

 黒板に自分の掲げる目標を書き出しする。

{率先垂範}

{常に一番}

{他の見本垂れ}

「良いですか。ここに書いた事、頭に叩き込みなさい。皆は栄えある二俣川陸軍病院付設看護養成所の第一期生です。その中で有難くも第一班を拝命したのです、この意味する所解りますか?つまりここに書き記した事です。良いですか、私の受け持つ班が、その教え子達が他の班に学科、実習で劣るなど有り得ません。ここに記した事を全員が肝に銘じて実践すれば、皆はここを卒業する時には、一人前に成っています。それにはお互いが助けあう事、出来る者は出来ない者を教え、決して見捨てない事。出来ない者も物怖じせずに出来る者に進んで教えを請う事。以上!それじゃあ授業を始めるから、渡したガリ版刷り覚えて来たわね、右の列、前から順番に質問するから次々と答えなさい!」

 覚悟はしていたが、最初から凄い勢いだ。愛子や小百合には訳無い内容だが、他の生徒には覚えなくてはいけない大事な事、皆は{キリっと}背筋を固め準備した、

「首!」

「頸部です」

「よし!次背骨!」

「脊柱です」

「よし!すね」

「脛骨です」

次々と答える生徒達、皆は良く覚えて来ていた、何とも頼もしい限りだ。誰の顔を見ても活き活きとして、希望に満ちていた、愛子はこれからの養成所生活が楽しみに成った。



 次の授業は数学の時間だ。早速に例の二人、綾と素子のライバル校対決が始まった。初老の数学講師が黒板に難解な数式を書き記し。

「この問題が解ける者、居るか?」

 講師の問い掛けに、すくっと手を上げる綾

「オイオイ悪かった。こいつはお試しで質問したんだ、冗談だよ。皆の難渋する顔が見たかっただけだ。この数式はまだ解けんはずだ

、手を下げなさい」

 講師が話すその間に素子が綾の前の席で手を上げる。

「おや、君もか・・・よし、二人出て来て、やってみなさい。出来たら驚嘆物だ」

 初日に鍔競り合いを始める綾と素子。その二人が可笑しくて堪らない愛子。隣の席の小百合に同意を求める。

「ねぇ、小百合、あの二人早速だね」

「本当、可愛いね、可笑しくてしょうがない」

「本人達は真剣その物なのにね」

 黒板に向かう綾と素子。お互い闘志むき出しで睨み合う。

「それじゃあ始めなさい、時間は気にせんで良い。出来ても、出来んでも、終わったら手で合図しなさい」

 二人は黒板に一斉に式を書き出して行く。

考えを途中ブツブツ呟きながら。しかしやはり半ばで万策尽きて、そこから先に進まなくなる。見かねた講師が二人を止める。

「よし。もう良いだろう。途中までは良かったが、そこから先は未だ無理だ。之から教わる所だから出来なくて良い。しかし此処までは二人供良くできていて大変宜しい。」

 講師に褒められても納得行かない二人。相当くやしそうにしていた。

「まあこの解こうとした意気は大切だから、

皆も二人を見習いなさい。さあ席に戻りなさい。では教科書をひらい?どうした?」

 志保が手を挙げ講師を見つめていた。

「ええと君は何さんかな?」

「はい、工藤志保です」

 愛子の脳裏に姉の幸絵の言葉が思い出される。(そうだ師範学校級なのだ、お手並み拝見)。

「工藤、如何した?」

「その問題解いても良いですか」

「その意気は買うが。先程言った通りでな、

解けないはずだが」

「はい、でもやらせてください」

 志保はそう言うと黒板に向かいスラすらと問題を解きはじめる。途中何の躊躇もなく、見ている講師も目を見張る程完璧な解答を書き終える。

「先生如何です?」

「やゃ!こいつは驚いた、完璧だ。何処で教わったね」

 愛子もこれには流石に驚く(凄い)

「はい、父が医学校受験時に使っていた教科書を以前丸暗記しました。そこに掲載されている数式だと思い出しました。それだけです。

偶然知っていただけです。」

 謙遜する態度がとても最年少とは思えない

雰囲気を醸し出している。愛子は桜井の言葉を思い出し(成るほど、確かに挫折とは無縁だな)と納得する。先に解けなかった綾と素子も脱帽顔だった。


 食堂で一斑がテーブルを囲んで談笑しながら、食事をしていた。もっぱら授業の時の志保の話題で持切りだ。特に出来なかった綾と素子は盛んに志保に話かけていた。

「志保。如何して覚えるの?何かコツでもある?」

 素子も横から顔をだして

「有れば教えて、今後の肥やしになるから」

 二人の質問に志保は二コリとして

「コツなど有りません。読んでいる内容がどんどん頭に入って来るのです。別に覚えようとしてないのに」

「班長殿、そんな事って有るのですか?」

「天性なのよ、私ら凡人では理解出来ないな」

 素子が呆れ顔で

「凄い能力なのですね、敵わないな」

 皆一応に驚いていると幸絵が暗記は天才でも他の事は案外駄目な事を話しだす自分の興味の無い事とかは結構抜けていると。

「例えば?」

小百合が問いかけると

「勉強以外の事はよく忘れ物するのです、母からの頼まれ事とか、興味の無い事はてんで駄目なのです」

「そうそう、一回大笑いしたけど、叔母様の頼まれたオツカイで味醂の代わりにお酢を買って来た事あったよね」

「そんな事もありました」

志保が答える、なんら気にしていない様子

「まだ今より小さい頃ね、あの時の志保は可愛かったのです。何か間違えたの?て顔をして」

「人はそれぞれ得手不得手がちゃんと有るのね、志保みたいな才能有る子でも、駄目な所がちゃんと有るように.各々が出来る事で教え合うのが大事ね、此処に居る皆がお互い助け合うのが」

 愛子の言葉が終わるのを待って、美佐子が

挙手する。

「はい、班長殿」

「なに?美佐子」

「早速ですが、皆を助けたいと思います」

 美佐子の提案が何なのか分からず顔が?になる愛子。

「昼食です、残したら怒られます、残す人が居るのなら私が貰います」

 美佐子の言に皆一斉に見合わせる、次の瞬間一同笑いが吹き出す。

「良いよ、美佐子の得意分野だものね。皆食べ切らない物が有ったら美佐子にあげなさい」

 緊張の学校生活で、ひと時の憩いの場だった。


日々の課業は詰め込みだった、桜井はそれを更に厳しく進めた。愛子達は必死で付いて行った、実習時間も愛子と小百合が皆に手ほどきを見せ、桜井の指導を良く補佐していた。時間はあっと言う間に流れていった。季節は初夏を迎えた六月になっていた。

 夏服の薄カーキ色の制服に身を包み、片腕を捲くり上げて包帯法の実習。高度な実習道具が無い時代、実習は全て自分達の体が実習台だ。しかも回数を重ねないと腕は上がらない、この実習は定期的に行わねばならない、。

「皆いいこと。クランケの立場になって包帯を巻きなさい、痛いのは下手くそな証拠、又自信無い態度が一番クランケを不安にさせるから、自信持って一回で決めなさい」

 生徒はペアを組み、交代で互いの腕に包帯を巻き合う、愛子と小百合は桜井の指示を受け他の生徒の指導にあたっていた。

「そう、優しく丁寧に」

 愛子が志保に指示を出す、迷い無く的確に

包帯を巻いていく。

「上手い、オドオドしないのが良い」

 志保は何をやっても飲み込みが早いがそれの対象にペアの美佐子は覚えが悪かった。

「志保キツカッタら御免ね」

 そう言う端から包帯を持つ手が震えている。

「美佐子、婦長殿が言った事忘れたの?自信無き態度が不安を煽るの、もっと確り握りなさい」

「はい、解っているのですが、キツイのじゃないかと思うと手が震えてしまうのです」

 お嬢様育ちがそうしたか、生まれながらの性格なのか、美佐子は筋金入りの不器用なのだ。

「美佐子さん、私は大してキツク有りません、心配要りません」

「そう、不安は無用なの、美佐子大丈夫だから」

 愛子に指導され包帯を巻くが、今ひとつ心得が悪く何回やっても緩いキツイを繰りかえす。愛子も呆れる位の不器用だ。こういう事はなれが必要だ、愛子は一計を案じる。

「今日課業が終わったら、教室に残ってくれる」

「え?しかられるのですか、それとも落第ですか」

「そんな事じゃ無いから、良いから残っていて」

 美佐子の不安を取り除き居残りを納得させる。その横で小百合が指導中の素子と綾が又やりだした。

「痛い!今のは、キツ過ぎだよ!」

「なに大げさな事言って、大して痛くないでしょ」

「今の巻き方は悪意を感じた。絶対わざと痛くした」

「してない!」

「した!」

 指導をしていた小百合も思わず声が出て二人をしかりつける、騒ぎを聞きつけた桜井が近寄り、二人を睨み。

「何ですかこの二人は」

「すいません、私がついうっかりこの二人で組んでしまって、以後絶対に組ませません、申し訳ありません」

 桜井は二人を見つめ暫し思案する。出て来た答えは意外だった。

「解りました。以後何かの時に組む時は必ずこの二人は組ませる事にしましょう」

二人「えぇ!」

「婦長殿ちょっと、それじゃあ又喧嘩して

しまいます」

「文句が有るなら、良く協議して班長に伝えなさい。班長!」

「はい」

「良い、今のやり取り見ていたね。以後この二人は必ず組む事」

「はい了解しました。以後その様にします」

 愛子には桜井の狙いが何と無く理解出来た

。反目し合う二人だが、班の良い刺激にはなる、それが狙いだと。それに二人の事を今まで見ていて愛子の感想は、喧嘩し合あっているが、本当は仲の良い裏返しだと感じ取れた、だから桜井のこの判断に何の不安も感じなかった。

「但し、喧嘩は許しませんよ、授業で喧嘩の為、停滞したり、遅れたは、罰則です、いいわね」

二人「は、はい」

 元気の無い答えだ。お互いが好きなのに{気がつかないかな}愛子が小百合に耳うちすると

「二人供素直に成れば簡単なのに、面倒ね

、でも其のうち気が付くと思うよ」

 小百合が解って居るから愛子も安心だ。

「そう小百合一つお願いが有るの」

「何、お願いって」

「今日課業終了後居残れる?ちょっと手伝って欲しいのだけど」

「別に大丈夫だけど、何を手伝えば良いの」

「腕を貸して」

「腕?」


 誰も居なくなった実習室に愛子と小百合が座っていた、机には包帯法のセットがスタンバイされていた。

「美佐子の特訓か、それで腕を貸せね!私の腕で良いなら存分にどうぞ」

「本当御免ね、二人居ないと一人が教えて一人がクランケの代わりが出来ないから」

「遠慮は無し、こうゆう事は二人で解決しないとね」

 二人の会話を遮る様にドアが開く、美佐子が神妙な顔で入って来た。

「すいません班長殿、何でもします、どうか許して下さい」

 美佐子の謝りに二人は笑いが出る

「何か勘違いしている?別にしかるために呼んだんじゃないわよ」

「違うのですか?だって皆に聞いたら、しかられるのだって言うし、だから」

「違うの。特訓よ」

「特訓ですか?」

「包帯法の特訓よ、昼の実習で何度やっても上手く出来なかったでしょ、だから私達二人が練習台に成ろうと思ったの」

「本当ですか、あぁ良かった」

 言った後で美佐子ははっと気づく

「いけません班長殿、それじゃあご迷惑です、出来ないのは私が愚図だからです、自分の家で何度もやります、だから止めて下さい」

「美佐子、気持ちは解るけど、これだけは手本を見て慣れて上手く成るしか無いの。家では手本見られないでしょ。私は誰も落ちこぼれて欲しくないの、だからこれは班長として命令よ、解った」

「でも」

「良いから、さあさっさと用意しなさい、」

 ズイと腕を差し出す小百合、小百合の腕を取り包帯を巻き始めるが持つ手が又震えていた。

「美佐子、自信持って確りしなさい、美佐子聞いている?」

 愛子がうつむいている美佐子の顔覗き込むと、その目は涙で溢れていた。嬉しくて、有難くて、溜まらず涙が出て来たのだと、何度も有難う御座いますを繰り返し、小百合の腕を下支えした手が震えていた。

「ばかね、泣く事無いのに」

「そうよ、気にし過ぎよ、実は私も最初の頃は下手でよくクランケに不快な思いをさせたものよ」

「私だって同じだから、さあ次は私も控えているのよ、だから遠慮せずやりなさい」

 二人に励まされて、美佐子の手は振るえが止まる、その手が小百合の腕を確りと巻き上げていた。

「そう、上手い!今の感覚よ、出来るよ、出来ているよ」

「それを忘れない事よ、何度もやれば体が自然と覚えるから」

 この三人のやり取りを、桜井は実習室のドア越しに見つめていた、小さく頷きながら。それからは何日も美佐子に付き合う日々が続いた。暑さも大分落ち着いた頃に、こうした二人の努力が実り、美佐子は何とか合格の記しを得ることが出来た。喜び勇んで美佐子が報告にやって来た。

「班長殿、合格です。手帳に記し貰いました」

「本当、どれ見せて。{手帳を手に取り}良かった、一番時間かかって心配したけど。やれば出来るのよ」

「私達もこれで救われたわ」

「そうね、正直良く頑張ったかな」

 冗談気味に美佐子を茶化す。

「本当に班長殿、副長殿有難うございました。それで今度の日曜日はお暇ですか?」

「私は大した用事は無いけど、何?」

「私も大丈夫だけど何かしら」

「実は今回の事を父に話したのです、そしたら父が是非班長殿と副長殿にお礼がしたいと。それで自宅に招待しなさいと」

「お礼なんて、そんな事」

「そうよ、私達は班の為に当たり前の事をしただけよ」

「それに招待される柄じゃないわよ,有り難いけど、遠慮する。お父様にはお気持ちだけ有りがたく頂きますとお伝えして」

愛子にそう言われても美佐子は困った表情で説明する。{父は一度言い出したら聞かないのだと。特に今回みたいに世話になったら必ずお返ししないと気がすまないのだと}切羽詰まった表情の美佐子の懇願に、動揺を隠せない二人。

「どうする」

「でもね」

 答えに屈していると、間髪置かずに美佐子が二人に切望気味に話す。

「本当に遠慮要りません、只の食事会です。私が班員の家で食事お呼ばれしても別に罪じゃないですよね、一緒に食事してくれるだけで良いのです、それで父も納得します。それに父は軍の下請けを生業にしているので、

近頃不足気味のお砂糖は沢山手に入るのです

。班長殿と副長殿は甘い物お嫌いじゃないですよね?」

 確かに此処最近砂糖類は高値に成り中々入手困難だ、その為に行き着けの関内の汁粉屋にもこの所足が向いていなかった、美佐子のこの一言に心が動く。甘い物の誘惑には勝てない年頃だ。

「(耳打ちで)小百合一回だけなら問題ないかと思うけど」

「甘い物に負けたな」

「だって、美佐子が困ってそうだし、班員が困るなら致し方ないかな、て」

「賛成、私も甘い物に負けだな」

「美佐子良いよ、今度の日曜日喜んで伺う、お父様にそうお伝えして」

「有難うございます、父も喜ぶと思います、お待ちしています」


 約束の日曜日に愛子と小百合は山手の街中を美佐子の家を求め歩いていた。地図を渡されて来たのは良いが、流石の高級住宅街、どの家も洒落た造りの家ばかり。庶民育ちの二人には良い目の保養だ。

「はぁー凄い造りの家ばかりね」

「本当ね、私達には縁ないね」

「ねえ、もうそろそろじゃない、あそこの角を曲がれば良いと思うのだけど」

「多分そう」

 郵便ポストが見印の角を曲がると、その直ぐ先に重厚な構えの大きな門が待ち構えていた。鬱蒼と木が茂り門柱には存在感有る大きな文字で【田辺】と書かれている。その威厳満ちた表札に二人は圧倒される。

「ちょっと凄くない、相当な邸宅よ」

「良いのかな、私達がお呼ばれして」

 門から先に行く事に気が引けてしまう。入るきっかけが掴めずにうろうろしていると、中から美佐子が迎えに来るのが見えた。玄関までも結構な距離だ。

「お待ちしていました。直ぐに解りましたか?」

「えぇ、之だけ目立てば良く目に付くから」

「しかし凄い家ね、お父様凄いのね」

「その父が首を長くして待っています、どうぞ中に」

 美佐子に案内され玄関口まで付いて行く、

洋風の車寄せを備えた玄関、玄関を入ると十畳位の小上がりと正面に畳一畳程の栗の木の彫物が鎮座している。全てが高級品で埋め尽くされていた、唖然として見つめるしか無い二人、今日だけは、美佐子に主導権を握られそうだ。

  

 応接室では上座のソファーに美佐子の父、田辺斉昭がどっかと、妻の琴乃がそれに添う様に座っていた。高そうな正絹の着物を身に着け一見強面だが娘を相手に談笑するその顔には、父親の愛情を満面に醸し出していた。

「いやー,態々出張って頂いてすいませんな。美佐子が偉い世話になってしまって親として一度きちんとお礼を言わんと成らないと思いましてな」

「いぃえ、お父様お礼だなんて、勿体無いです。班長として班員の面倒見るのはあたり前ですから」

愛子が恐縮して挨拶する。

「本当そうです、そんなに大層な事してないですし」

 小百合も更にヘリ下って言うが、田辺は大笑いしている。

「謙遜しなさんな。二人の事は美佐子からよーく聞いているが、良く出来る班長さんと副長さんだと、とても尊敬しておりますと。なあ美佐子」

「はい、お二人が私の目標です」

「こう言っております、何時もこうです、学校の事聞くと必ず話題にでますから。いい加減私もお二人のお名前覚えてしまいましてな。はっはっは」

 仕事も私生活も順調なのだろう、笑い声にも自信が満ちていた。

「所で班長・・・。えぇと、中西さん下の名は?」

「愛子です」

「愛子ちゃんか、一つ聞きたいのだが。美佐子は物になりますか?物に成らないなら早い内に嫁に行けば良いと思っています、駄目ならはっきりそう言ってくれて良いですが」

「お父さん何を今更言うの、お国のお役に立つと賛成してくれたでしょ」

 琴乃が斉昭を窘めるように話す、

「解っている、解っているが、いざ外地に行く事を思うと寂しくてな」

 田辺の表情から察するにこれは相当な親バカぶりだ。両親を早くに亡くした愛子は羨ましくもあり、微笑ましくもあった。そこにタイミングを見計らい琴乃がお手伝いに合図の目くばせをする、お手伝いが手にした皿にはおはぎがテンコ盛りに乗っていた。

「それとこれは繋ぎですが私の手製ですが、

どうぞ」

美佐子の大好物なのだろう、美佐子が思わず{おはぎ!}と声を上げる。

「食事が出来るまでまだ時間がありますからな、内のかあちゃんのおはぎは天下一です、どうぞ食べて下さい」

 田辺に奨められる二人より、先に美佐子が手を出そうとする。その美佐子に琴乃が一括する。

「何ですか美佐子。お客様より先に」

 琴乃の声は美佐子に対する怒りより、二人に対する恥ずかしさに満ちていた、平身低頭に謝る琴乃に{いいのです気にしないで下さい}{大丈夫です、お母様}と気遣いは無用と話すが、琴乃は美佐子を許さない。

「すいません。お恥ずかしい所お見せして。美佐子、お二人に謝りなさい」

二人「いいです、本当に」

「琴乃、そんな怒らんでも良いだろ、お二人も気にして無いと言ってられるし」

「いいえ駄目です。大体貴方が美佐子に甘過ぎます。幾ら一人娘だからと言って、限度があります」

「そう言うお前こそ、厳しすぎだろ、その分甘くしているだけじゃないか」

「それは違います。何回も言いますけど限界を超えたらそれは単なる甘やかしです。大体この間も何ですか?(二人に向かい)恥ずかしい話ですが聞いて下さい。美佐子からお二人が実習の相手をして頂いた話を聞いた次の日、どうしたと思います?会社の若い衆を五人も連れて来て。{美佐子、練習台だ、好きなだけ練習しろ}て、信じられますか?若い衆が良い迷惑です」

 確かに何回目から美佐子が急に上手く成ったのを思い出し納得する。しかし大した親バカぶりだ。

「あれは強制では無いぞ、希望を募ったら、娘さんの役に立ちたいと、自主的に集まったんだ、な美佐子そう言っていたろう」

「どっちでも一緒です、だからその分私が厳しくしていい塩梅なのです。美佐子、先に手を出した事謝りなさい」

「申し訳ありません」

 素直に二人に頭を下げる。

「はい、良いですよ。愛子さん小百合さんお恥ずかしい所お見せしてすいません、どうぞ召し上がって下さい」

 緊張感から開放され、ようやく安心しておはぎに手を伸ばす。一口頬張ると確かに絶品だ、何とも言えない食感に笑みがこぼれる二人。

「甘くて何とも言えませんね、この食感が」

「本当にこんなおはぎ始めてです」

「そうですよね、母のおはぎ本当に最高ですよね」

「わしはな、かあちゃんのこのおはぎに惚れたんじゃ。そんな事言うとすぐに私は、おはぎだけではありませんと怒るんだがな」

「当たり前です。誰がおはぎと結婚したと言われて喜びますか」

「ほれこの調子だ。はっはっは」

 裕福な家庭に有りがちな偉ぶった雰囲気も無く、親子の関係も円満で、愛子はとても羨ましく思えた。同時に美佐子の大らかさも良く理解出来た。

 日も陰り始めた夕暮れ。大きな玄関扉を開けて、愛子と小百合が出て来る、手には土産を携えて。何度もお礼に頭を下げて、送りの無用を伝えていた。

「本当にごちそうさまでした。ここで失礼いたしますので、どうかお気遣い無く、美佐子それでは明日ね」

 美佐子が挨拶に対し深々と頭を下げている 

「色々有難うございました」

 小百合も改めて頭を下げる。

「いいえそこまでは、門の所まで。美佐子かあさんそこまでお送りするから、先に片付けやってなさい」

「はい、お願いします。班長殿、副長殿それでは此処で失礼します。今日は本当に楽しかったです」

 美佐子の挨拶を確認して、玄関を閉める琴乃。二人を門まで誘いながら。琴乃は自分の思いを打ち明ける。

「実はお二人にお願いがあります」

「何でしょう?私達に出来る事であれば何なりと」

「美佐子に看護学校に行くよう勧めたのは私なのです」

「そうだったのですか。でも如何して、こんなに裕福なら何も態々看護婦に成らなくてもと思うのですが?そのまま山手女学校に行っていても問題無いと思いますが」

「見ての通りあの子は、お父さんがあぁ甘く育てたものですから、いい意味で大らかですが、悪く言うと直ぐ気を抜いて楽をしようとする所が有ります。私はお父さんの代わりにその分厳しく躾けて来たつもりです、でもまだ今日みたいな失礼を平気でするのです。親だけでは限界を感じていた所でした。そんな時です、友人から新設の看護学校の話を聞いたのです、これだ!と琴線に触れる思いでした。あのままお嬢様学校に通わせても何も変わりません。ここは環境を変えて刺激を与えないと駄目だと思ったのです。だから私以上に厳しくして下さい。どうか一人前の大人にしてやって下さい。お二人を見ていて今日安心しました。どうかお願いします」

 深々と頭を下げる琴乃に慌てて恐縮する二人。

「お母様どうか頭を上げて下さい。私達そんなえらい事などしていません。出来る事は全力でやります。だからもう」

 愛子に諭され頭を上げる琴乃。

「宜しくお願いします」

 琴乃の強い思いを受け止めずには居られなかった。それほど二人を触発させた。

「大丈夫です、美佐子さんの事は心配せずにじっと見守っていて下さい。あの子なら絶対一人前になります、大人としても、看護婦としても」

愛子は琴乃の手を確り握りしめていた。

 帰りの市電の車中、愛子と小百合が座席に座り街の景色を眺めていた。点いたばかりの街灯の灯が車窓越しに二人の顔を照らしながら流れて行く。愛子はその街灯を目で追いつつ、最初に食したおはぎの事を思い出していた。

「あのおはぎ、美味しかったな」

「うん、甘くて食感も丁度良かった」

「あれが田辺家のお袋の味なのだな」

「食事前なのに美佐子四つも食べていたな、大好物なのね」

「後のお料理も美味しかったけど。私はおはぎが一番印象に残った」    

「愛子らしい感想ね。でも私もその意見に賛成」

 二人を乗せた市電はやがて横浜駅に、雑踏の中を駅方面へ歩く二人、星空が空を埋め尽くしていた。

 

 残暑を向かえた八月。日本軍はまた新たな転機を迎える。ガダルカナル島での死闘の始まりだ。完成間近の海軍の飛行場を米軍は僅か一日で奪取してしまう。事の重大さに気づいた大本営は陸海軍総出で奪還を試みる。しかし強大な物量を誇る米軍に対し為す術無く

一敗地に塗れ悪戯に戦死者と負傷者を出すばかりで、最後は結局撤退を余儀なくされる。

それに呼応して愛子達の本院もこの傷痍兵の受け入れでにわかに忙しさが増してきた、人手が足りなくなった病棟に愛子達生徒も借り出される事が多くなって来ていた。この頃から少しづつ世間の雰囲気が変わって行った、

上手く表現出来ないのだが、窮屈とも閉塞とも似た様な空気が世の中を段々と支配して行ったのだ。



 季節は厳冬を迎えて外は木枯らしが吹き、勢い枯葉が舞い散る、シンボルマークのポプラの木も寒そうな体を成していた。冬の病院で一番嫌われる作業は洗濯だ。寒風吹く中での水仕事だから当然一番下端の生徒が担当だ。包帯やら着替えやら量をこなすこの作業は事の他骨が折れるし、手は霜焼けでがさがさに成る。楽をしようとする者が現れるのも不思議ではなかった。洗濯場の一角で美佐子と他の班員でなにやら相談事をしていた。

「二班の他の班員さん達は承諾したの?」

「大丈夫。皆お砂糖が手に入ると聞いて喜んでいるから」

「喜んでいるの!良かった、横道をしていると思って罪悪感が有ったのだけど。それを聞いて安心した。じゃあ官給品のお砂糖二キロ二袋で一回交代でもいい?」

「一回毎にニキロ二袋も!凄い!それなら毎回代わるから何時でも言って、でもどうしてそんなにお砂糖が手に入るの?」

「父が軍の下請けでね、それで頼めば幾らでも持って来てくれるの」

 美佐子は父の伝手で貴重品の砂糖を手に入れ、それをネタに洗濯の交代を交渉していたのだ。

「それとこの事は私が担当の時以外と班長殿と私が一緒の時も出来ないから、それだけ気を付けてね」

「了解」

 二人は相談を済ませると各々の持ち場に帰っていった。



 一週間後の朝の教室では何時もの準備をしている一班の生徒達が談笑していた、そこへ普段とは明らかに違う表情をした桜井が入って来た。愛子は即座に何か有ると感じ取る。

「小百合、何か様子変ね」

「うん、何か有りそうね」

 何時もの挨拶を済ませると、桜井は教壇に立ち、ゆっくりと教室を見渡してから、暫く目を閉じていた。皆も何時もと違う桜井の空気を感じ黙って注視していた、それに合わせ教室は静粛になった。静まり返ったのを確認すると桜井が目を開ける。

「皆注目!今日は悲しむべき報告が有ります。栄えあるこの一斑の中に不正を働いた者が居ます。心当たりの有る者正直に立ち上がりなさい」

 静まり返った教室に桜井の声が響き渡る、

しかし誰も立ち上がる生徒は居ない。

「惚けても駄目です。ちゃんと解っています、名前を呼ばれたいのなら呼ぶよ。田辺立ちなさい、心当たりは無いの!」

 呼ばれたのが以外だったのか、美佐子が{え?}とした表情で立ち上がる。

「はい、不正なんてそんな」

「洗濯当番の件はどう説明するの」

 その事かと合点が行く美佐子。お礼もしたし先方も喜んでいたと。悪びれず全く反省の色の無い美佐子の態度を桜井は一括する。

「お礼をすれば良いと誰が決めました!そんなに楽をしたいの?貴方がやった事は不正以外の何物でも有りません、家が裕福だからとそれに託けて、なんでも物やお金で代償すれば済むと思っているのですか!どうなの?」

 美佐子は何も言い返せなかった。

「重要なのは、辛い事でも楽をせずに、率先してやる班の精神の、率先垂範に反する行為をした事です。田辺と一緒に楽をした者はこの事を知っていたのですか?」

「いいえ、他の班員は知りません、私が一人で段取りました、他の班員には只二班が当番を代わってくれただけしか伝えていません」

「では悪いのは田辺一人で良いのですね」

 桜井は残念そうな表情を壇上から落とし、

視線を下に向けていた、しばしの間緊張の時間が過ぎて行った、時間にしたら僅かだ、だが其処に居る生徒にはその重たい時間がとても長く感じられた。

「班長!」

 何か言われると思って居たが、何時もにも増して気勢の有る桜井の声に、愛子は電気が走った様に反応して、ドン!と立ち上がる。

「はい!何でありましょう婦長殿!」

「あなたは卑しくも班長で在りながら、田辺から洗濯番の交代の件を聞いて、何も不審に思わなかったの?」

 確かにそうだ、夏場でも無いこの寒い冬場に、率先して洗濯番を変わってくれるなど、

その時点でおかしいと思って当然だ、だが、

自分も含めその他の皆も、辛い事から逃れられると思い、その事は深く詰め寄ったり考えたりしなかった。これは明らかに班長として

自分の監督不行き届けだ。愛子はその事が桜井の怒りを更に大きくしているのだと確信した。 

「はい、申し訳ありません、気が付きませんでした」

 謝っても仕方がない、許しを請うにはどうしたら良いのか、桜井の気持ちが知りたかった。

「田辺はこのまま生徒を続けたいの?」

「はい、続けたいです」

「不正をしてなにも罰則無しでは済まされません。他の生徒に示しが付かないでしょう。どうしてもこのまま続けたいのなら、罰を受けねばなりません。今から校庭を十周してきなさい」

「え!十周ですか」

 恰幅の良い美佐子にとって、最も苦手な事が走る事だ、それに軍隊の付設施設で有るこの病院の校庭は、軍事教練使用に耐える広さを有していた。そこを十周する事は、運動が得意な女子でもかなり過酷な事だ。美佐子にはとても無理な条件だった。愛子はたまらず手を挙げる。

「はい、婦長殿」

「班長何か?」

「班員の不届きを見抜けなかったのは、班長である私の責任です。私が代わりに走ります」

 そうだ、これだ!これが桜井の求めている

答えだと、愛子は勇んで発言したが、桜井の返答は違った物だった。

「駄目です、罰は本人が受ける物です、貴方の気持ちは重々解りますが、之ばかりは代わりはゆるしません」

「婦長殿、美佐子のした事は確かに精神に反します、でも恰幅の良い美佐子がとても十周も走れると思えません、途中で倒れたりしたら、その時はどうなりますか?」

「条件は言った通り、変更するつもりは有りません、続けたいなら十周する事、それだけです」

桜井は冷たく言い放つが、真意は他に有ると愛子は気づいていた。愛子は桜井のその目の奥の気持ちを必死で読み取ろうとしていた。この人は簡単に人を切り捨てる人では無いはずだ、何かを私達に伝えようとしている。それが何なのか知りたかったのだ。じっと見つめる愛子に対し桜井も見つめかえしていた。その時微かだが確実に桜井の目元が微笑んでいるのを愛子は見逃さなかった。瞬間的に愛子は何かを感じとる。それと同時に桜井が話しだす。

「どうしてもと言うなら、一緒に走るのだけは許します」

 この返答に愛子は桜井の真意を理解する。

「有難うございます。美佐子、行くよ」

「班長殿でも」

「良いから、早く」

 二人が出て行こうとする、と、小百合も後を追い出て行ってしまう。残された教室では言い知れぬ空気が流れていた、暫くの間は誰も何も言わず気まずい雰囲気が支配する、桜井も何も言わずにじっと立ったままでいた。その空気を壊す様に志保が恐る々挙手する。

「はい、婦長殿」

「志保どうした?」

「あの・・私も走って良いですか?」

 これを合図に他の班員達も一斉に挙手をする。

「走りたいなら勝手に走りなさい。早くしないと追いつきませんよ」

 桜井の言葉を合図にして、皆は各々確認の目線を送り脱兎の如く教室を出て行った。

 一人教室で残った桜井はポツリと呟く(中西良く気づいてくれた)

 校庭では既に先の三人が走っていた、体操着で無く普段の制服で走るのは、かなり難儀な事だ。美佐子は走りながら、涙を流し愛子達に平身低頭で謝罪していた。

「班長殿すいません、もういいです、駄目なら退学します。だからもう止めて下さい。副長殿もお願いです、止めて下さい」

「いいから黙って走る!退学なんて考えない、論外だよ」

「そう、初めから無理と考えないの」

「でも十周なんて無理です、だからもう諦めます」

 美佐子は再三泣き言を繰り返すが、二人は全く聞き入れない。愚図る美佐子をけしかけて走り続ける。そこへ遅れて班の皆が追いかけてきた。立ち止まり皆が追いつくのを待つ三人。先頭を走って来た綾が、開口一番愛子に報告する。

「婦長殿に全員で走る許可を貰いました、私達もお付き合いさせて下さい」

 愛子は皆の気持ちが嬉しかった。美佐子の為に自分の負担も厭わないその姿勢が。美佐子にも気持ちが伝わったのか、身を震わせ泣いていた。

「美佐子、皆はアンタに続けて欲しいのだよ。わかるでしょ?」

「はい、(泣きながら)わかります」

「だったら黙って付いてくるの!良い?」

「大丈夫全員で引っ張るから、出来ないなんて考えない。皆だって此処を十周した事ないのだから」

「不安なのは美佐子一人じゃ無いから、皆同じだよ」

幸絵が後ろで励ます。愛子の発するイチ、ニイの声を復唱しながら全員で隊伍を作り走り出す。桜井は校舎の傍から愛子達の走る様をじっと見守っていた。何も言わず往生した聖人の様に佇んでいた。背後から校長の服部が近づいて来てもまったく気づかずにいた。

「桜井君」

 不意をつかれ慌てて振り向き{ハイ!}と返事をする。

「何をしでかしたのかね?」

「一人の生徒が一寸した不正をしました、その罰です」

「ほう・・で何周させる気だ」

「十周です」

桜井の返事に少々憤慨した様だ。

「君に厳しく指導しろと言った私が言えた義理じゃないが、十周は少し厳しすぎでは無いかね。しかもあれは明らかに連帯責任だな、此処は確かに陸軍の施設だが、彼女らは軍人じゃない。連帯責任は軍人精神を叩き込む為に一般兵に強制的にしている事だ、それを女子の処罰で使うのはどうかと思うが?それに十周出来無い時は退学か停学か?」

「校長殿。退学も停学もありません。あの子達は私の初めての

教え子です、大切な妹分です

、絶対に辞めさせません。全員を必ず一人前にします」

「では聞くが、何故に連帯責任を取らせる」

「あれは自主的にしているのです。一人の為に全員がしたいと」

「自主的に!うーんそうか」

 以外な答えに思わず頷く。

「一年近く経ちますが、やっとあの子達に芽生えて来たのです。誰が為の精神が。看護の現場で私が学んだ大切な精神です、私は待っていました、強制的では無く、自主的にそうする事を。今日、班長の中西が理解してくれたのです」

 確認するように頷き。

「校長、あの子達は強く成ります」

 そう一言呟くと軽く校長から視線を逸らし

、自分の目元に溜まった涙を見られまいと誤魔化す桜井。

「泣いておるのかな?」

「いいえ泣きません。あの子達が卒業・・いえ、無事に役目を終えて任地から帰るまでは絶対に泣きません」

「相変わらず頑固だな。まあその頑固さを私は買って此処に引っ張って来たのだが」

「はい、そう心得えています」

「まぁ、そうゆう事なら君に任せて退散するか」

 一言残し軽く手で会釈を交わし校舎に消えて行く服部。服部の影を目で追いながら、視線は校庭の愛子達へ吸い込まれて行く。

 愛子達は走っていた。ペースを考え、美佐子に合わせ、美佐子が脱落しないよう常に気を使いながら。しかし如何せん、体力より重力の美佐子の体の限界は早く、五周を終えた辺りで既にへとへとに成っていた。心配した皆は横に入れ替わり立ち代り並び、声で励まし鼓舞し続けた。それで何とか持ち応えていたが、最終周でついにへたり込んでしまう

。最後は全員が順番で美佐子を両脇から抱え走り続ける。

桜井はそれを遠目で見ながら涙を堪えていた、出来る事ならもう許して上げたいと何度も考えた(もう十分だろう、何を頑なになっているの?)と自問自答していた、だがもう一人の自分がそれを許さずにいた。ここまでやれたのだ、最後まで頑張れと叫ぶ自分が居たのだ。

 美佐子は最後の力を振絞り皆の力を借りて

走り続ける。もう顔は汗と涙まみれだ。その

顔を見て愛子と小百合がしった激励する

「美佐子、後少し、頑張れ!」

「もう半周無いよ、気合よ」

 皆も周りで声援を送る。最後は抱きかかえられて、どうにか桜井の前まで辿り着く。

「ヤッタよ、美佐子、走りきったよ」

「良く頑張った!」

 班員全員が一斉に美佐子を取り巻き、体を叩き美佐子を称える。美佐子は皆に感謝の意を話していたが、息が上がってもはや声に成ってなかった。取り巻きの中から愛子が出でて桜井に報告をする。

「婦長殿報告します。美佐子は走り切りました、これでお咎めは無しで良いですか」

「勿論よ。皆で良くやりきりました、それでこそ一斑です」

 桜井は皆を自愛の満ちた眼差しで見つめ回す、一人の顔も見逃さず確り見据えて行く。

「今日皆は大切な事を見つけました。それも自主的にです。良くここまで成長しました、皆は私の誇りです」

 簡潔に一言だけ言うと、桜井はさっと踵をかえして、背を向ける。その目の涙を隠したかったのだ。

「暫し小休憩で良し!半時後に実習室に集合!」

 皆の視線を避ける為、桜井は指示だけ出すと、足早に校舎に消える。桜井が見え無くなると、誰とは言わず愛子達の中から喜びの声が上がる。

「婦長殿が誇りだと言った」

「間違いなく言った」

 直前までの苦しい思いが、その一言で救われた思いがした。ある者は抱き合い、ある者は手を叩き感情を露にしていた。

「ねえ小百合、婦長殿泣いていたよね?」

「多分、でも見られたく無いのだよ」

「強がりだからな」

 この日のこの事がきっかけになり、一斑は確実に変わり始める。前より一層繋がりが強固に成り、愛子を中心に団結して行く。出来る者はより率先して教え、出来ない者は物怖じせずに積極的に聞くようになったのだ。そこには何の隔たりも遠慮も無くなっていた。


 

 昭和十八年ニ月、横浜の気温は氷点下を記録していた。それに反して南の果ての島々では熱い戦いが続いていた。この月、大本営は遂にガダルカナルを撤退に踏み切る。それを国民には体裁良く転出と発表し、その詳細は

一切知らされる事は無かった。日本軍は坂を転げ落ちるボールの様に敗戦を続けて行く。

ガダルカナルの次はニューギニア、次はトラック環礁と。だが戦争の被害が未だ無い内地は、未だのんびりした物だった。

 昭和十八年四月。新入生を迎え愛子達は先輩に成り、より実践的な課業が増えた。その手は自信が感じ取れる様になる。時に本院の患者の世話に、時に戦時の応急訓練にと本格的な課業が主体に成っていた。この時分から校長の服部の課業視察が頻繁に行われる様に成る。その態度は何やら只ならぬ空気を匂わせていた。次の日服部校長を筆頭に教員全員が会議室に集められ、これから重大発表が成されようとしていた。桜井が不安そうに

「何の発表かしら」

横に居た同僚に問いかける。

「この時期だから、校長が転勤とかじゃない」

「それなら態々全員集めないでしょ」

「そうね、じゃあ」

 教員達は予想が着きかねていた。

「皆集まったかな、それでは始めたいと思うが。此処の所の戦局は正に重大な局面を迎えている。南方戦線では日々多くの兵が敵弾に倒れ傷ついておる。当然兵の数は欠乏している。然る処置なのだが兵の養成が矢継ぎ早に短縮されておる、これを受け我々も養成期間を短縮すると、上層部よりの命令が通達されて来た」

 婦長達がざわめき出す。

「わしが此処の所頻繁に課業を視察していたのは、各人の進捗状況を確認する為だ、それで出した結論だが、本部は直ぐにでも卒業させろと言って来ていたが、冗談じゃ無い、今の進捗状況で直ぐになんか無理だと突っぱねたが、後半年しか時間は貰えなかった」

空かさず桜井が意見する。

「校長、只でさえあの子達は詰め込みなのに、後半年ですか?それは無理です。やり切れません、出来ない事を残して卒業する事に成ります」

各人から意見が出る、出来ない無理だと。だがその声も、服部の{軍の命令には逆らえない}の一言で終わってしまう。この時代軍の命令は絶対だ。不服を言う事は勿論不履行でも罰則が待っていた、諦めて受け入れるしか無かったのだ。

 この発表から桜井の指導はより一層厳しく成った。日々の居残りは常態になり、全員が

これに付いて行った。誰一人不満を言わず皆

桜井を信頼して之に応えた。



季節は早くも二回目の初秋を迎えていた。

何時もの食堂で卒業を後一ヵ月後に控えた愛子達は、自分達の任地の事で盛り上がっていた。

「ねえ何処へ配属されるかな?小百合は何処か行きたい所ある」

「満州が良いな」

小百合の答えに他の班員が

綾「私は南方だと思います」

幸絵「じゃあシンガポール辺りかな?」

永久子「南の島々が良いです、南国の果物とか食べてみたいです」

美佐子「食べ物が美味しいなら何処でも良いです」

綾「あんたは食べる事しか無いの?」

食べることが優先の美佐子に一同笑う

「私は寒い処より暖かい処の方が体には楽と思います」

志保は相変わらず冷静に答える

「後は運命に任せるしか無いか」

 愛子達の不安を他所に、校長室で桜井と服部が任地の事で話合いをしていた。校長がどうやら急なお願いを桜井にしているようだ。

「サイパンですか?」

「あぁそうだ、急ですまんが何せサイパン陸軍病院の院長は後輩で、どうしてもと言うのだ、飛行場の近くに前線基地からの救急搬送受け入れ時の分院が出来たらしいが、今は軍医一人と衛生兵一人でいざという時に如何ともしがたいらしい」

「でもサイパンの本院から人を廻せば良いのではないのですか?」

「それが出来たらそうしているさ。本院もベッド数に対してギリギリの人手しか居ないのだ、そこで先輩で有る私に懇願して来たのだ。私も可愛い後輩の願いでは断れんのだ」

 服部の困惑する表情から、余程困っている事が伺えたので、桜井は要望を聞き入れる。

「その辺の経緯は解りました。でも何故一班からですか?」

「進捗状況を見て決めたのだ。君の班が平均で一番すすんでいるし、班長と副班長が非常に良い。あの二人は是非に頼みたい。婦長を含めての本派遣が出来ない代わりにだが、あの二人なら十分婦長代理が務まるだろう」

 服部の提案に桜井も納得する、確かに愛子と小百合なら婦長並の仕事は楽に熟せる筈だからだ。

「それで、何人必要ですか?」

「希望は十人だが、駄目なら最低でも八人は確保して欲しいそうだ、何とか成るか」

「解りました。こちらで選抜しましょう本来は班全員で任地に着くのが普通ですが今回は特別ですね」

「宜しく頼む。頼りにしているぞ」

 夕刻の課業終了後、教室では桜井が連絡事項を皆に伝えていた。

「最後に、皆の任地がついに決まりましたので、発表します」

 皆が一斉にざわざわしだす。

「静かに!基本的に我が校全六班は台南の陸軍病院に赴任する事になりました。一部例外を除いてですが」

生徒達「台南ですか!」

一同ああだ、こうだと呟く。愛子が例外に付いて質問する。

「婦長殿、一部例外とは何でしょうか?」

「この班より特別に八名だけサイパン島の陸軍病院の分院に派遣する事になりました」

「サイパンですか?」

 愛子の予想と大分違う任地だ、サイパンはいったいどの様な処なのだろ。

「これは軍の命令です、この中から八名を選抜しなければなりません。その前に希望者を募ります、希望が有る者挙手しなさい」

 愛子も含め誰も手を上げる者は無かった。

愛子は挙手すべきか決めかねていた、しかし

現地の様子を伺い知れない身、不安が手を上げる事を躊躇させた。

「いいでしょう。しょうが有りません、選抜はこちらでします。・・・あぁそうそう、サイパンへは班長と副長は校長指名で行く事が既に決まっています」

 この言葉を受け皆一斉に手を上げる。桜井

はそれを見て、笑いが込上がるのを抑え切れなかった。

「貴方達わかり易いはね。じゃあ全員希望で良いですね」

全員「はい!」

「班長と副長とで相談します。追って連絡するから、今日は解散。班長と副長は婦長室へ」

 桜井と愛子、小百合がサイパンに行くに当たっての人選について婦長室で協議していた。

「二人には期待しているから。校長が貴方達なら婦長並の仕事はこなせると、見込んで下さったのよ」

「光栄です、是非期待に応えます」

 愛子は頷き生きいきと答えた。

「我が校の名に恥じぬよう全力を尽くします」

 小百合も負けじと目を輝かせて答える。

「えぇ、頼んだわよ。それで誰を連れて行くかなんだけど、希望は有る?」

 と、言われても参考基準が解らない、単純に成績なのか、実技の出来なのか、人となりを見るべきか、愛子は何か選考基準が有るのかを桜井に質問する。

「そうねぇ・・・」

 天井を仰ぎ暫し思案する桜井。

「平和な時ならいざ知らず、戦時は軍人さんのご令嬢は必要ね。本当は使いたく無い一手だけど、困った時にはお父様の名前を出せば、何かと融通が効くの」

 それを受け愛子は納得する工藤達の事だ。

「そう、だから工藤の三人は外せないね、陸軍にも海軍にもお父様達に知り合いが居るし、三人とも成績も申し分無いし。そう思うでしょう」

「{二人で}異存有りません」

「じゃあ三人は決まりね。それと高橋は是非連れてきなさい」

 軍に顔が利く訳でもなく、成績も上の方では無い高橋を何故と愛子が聞くと。

「学科に難有りなのは解かっている。ただあの子はサイパン生まれで、十二歳迄サイパンで育ったの。だから現地の事情にも地理にも明るいから、重宝すると思うの」

「へぇサイパン育ちなのですか。あの子そんな事一言も言って無かったです」

「お父様の仕事の転勤で住んでいたそうね、本人は外地育ちを言わないからね。まあそうゆう訳で高橋は異存無しでいいね」

二人「ハイ!」   

「と言う事は。後二人の内一人は決まりだね」

 桜井は決まり事の様に答える、坂井綾の事だ、二人はライバルとして何時も張り合って来た、此処にきてようやくお互いを認め合い、切磋琢磨し合っていた。

「ずっとペアを組むよう申し付けて、ここで今更離れさすのも酷よね、二人も同じ意見でしょ」

 愛子も小百合も笑いながら頷く。

「では坂井も決まり。後一人ね、誰が良いかね」

「そうですね・・・・」

 愛子は小百合と顔を合わせる。

「後一人ですか・・・・」

 三人は思案が詰まっていると、突然誰かがドアをノックする。

 {コンコン}

「誰ですか?」

・・・・「田辺です」

「田辺?ちょっと待って今開けるよ」

 桜井がドアを開けると、美沙子が一人たたずんでいた。

「どうしたの?こんな時間迄、とっくに解散したはずです。何の用ですか?」

 威圧ある桜井の視線にもじもじしていて中々話し出せない美沙子。桜井が話をするよう諭す。

「何も無いなら帰りなさい。有るなら早く話しなさい」

「ハイ、あの。母からの私への言いつけです」

「何?そんな事を態々私に。で、どんな内容なのその言いつけは?」

「えぇと。貴方が今日迄来られたのは、班長殿と副長殿のおかげだから、必ず恩返しをしなさいと。その為には絶対に二人から離れるなと、きつく母から言われています。だから私を人選に入れて下さい。もし任地が別ならどんな事をしても変えてもらえと」

「それだけ」

「ハイ」

「解ったよ、貴方の気持ちはどうなの?それが大切ね」

「私の気持ちも同じです、お願いします。希望が叶うならまた校庭十周します。本気です、だから・・・・」

 半ベソを描きながらの切望に桜井は心を動かされる。技量も学科も力不足なのは明白だが、ここは愛子と小百合の意見を優先させよと決める。桜井は二人に視線を向ける。

「班長、副長どうする?」

「婦長殿が許可下さるなら、私は入れたいと思います。一番苦労かけられた分一番可愛い妹分ですから」

「私も同意見です。はなれたら如何しているかと、余計な心配が増えますから」

 桜井は二人に確認すると、美佐子の頭を撫でながら。

「良かったね。二人は田辺を連れて行きたいそうよ」

 この言葉に返答も出来ずに、泣き出す美沙子。愛子はまたしょうがないなと表情をし、立ち上がり美佐子の肩に手を掛ける。内心は美佐子が愛しくて堪らない。

「又直ぐ泣く。さぁ今日はもう帰りなさい、明日詳細は伝えるから」

 美沙子を誘い廊下へ連れ出す愛子。

「婦長殿良いのですか?私達の意見で決めて」

「本多、これくらいの事自分達で決定出来なくて、現場は務まりませんよ。それとも自分の決に不安でも有るの?」

「いいえ、有りません、だって婦長殿の教え子ですから」

 自信たっぷりに答える小百合。

「良いよ。それでこそ私の教え子よ」


 晩秋の風が増した十月上旬。愛子達の卒業式が講堂で執り行われていた。生徒達の表情は皆自信に溢れ、その瞳からはこれからの自分の使命を全うしようとする、強い気概が伝わって来ていた。

 校舎前の広場では全校生徒での記念撮影と班毎の撮影が追時進められていた。式に出席した家族を伴い、其々が世話になった婦長や講師に挨拶回りをしていた。一人の婦長で平均二十人受け持ちだから自然と幾つも列が出来て、広場は人でごった返していた。愛子も婦長や講師達に挨拶回りをしていた、そこへ聞き覚えの有る声が自分を呼び止めるのに気づく。

「愛子ちゃん」

 愛子が背後に向くと、高級カメラのライカを手に、大きく笑う田辺の父、斉昭と母の琴乃が美沙子とこちらへ歩いて来ていた。

「やぁ愛子ちゃん、久しぶり。元気かい?」

 屈託の無い笑顔が直ぐに飛び込んで来た。

また今日も洒落た設えの背広を着ている。それにハンチングを被り、まるで見た目は写真屋さんだ。

「どうも久しぶりです。何時ぞやはご馳走になりました」

「なーに言いますか。あれから更に美沙子がえらい面倒かけまして、かあちゃんから再三再四聞いています。親として本当に感謝しております」

 斉昭と琴乃が深々と愛子に頭を下げる。

「止めて下さい。どうぞ頭を上げて下さい」

 あっちで然り、こっちで然り、似たような光景が広場全体を覆い尽くしていた。宴もたけなわな時間に成り、田辺が愛子にサイパン組の記念撮影をしたいと申し出る。

「愛子ちゃん、今日はせっかく秘蔵の愛用品のライカ持参で来たのだ、是非一枚サイパン組で撮りたいのだが?」

「班長殿、卒業の記念になると思います。皆さんにもちゃんと配りますから撮りませんか?」

「そうね、お写真なんて中々撮れないしね。美沙子、サイパン組に集合かけてくれる」

 心得たとばかりに美沙子が皆に声をかけ、

直ぐにサイパン組を集めて来た。愛子を中心に集まり、何処で撮るかとワイワイがやがや、そこへ、ズイッと、田辺が顔を出しあそこは如何かと指をさす、その先は学校のシンボルのポプラの木だ。

「あの大きな木の根元だと、並んで撮るのに具合が良いと思うがな」

「そうですね、良いと思います。皆ポプラの前に集合して」

 愛子の声を合図にサイパン組八人がポプラを背にして二列に並ぶ。

「皆少し寄って、前も少し屈んで」

 一同言われるがまま動く。写真慣れしていない為か、皆の表情が硬いのが一目だった。

「前の小さなお嬢さん名は何と言う?」

「工藤志保です」

「志保ちゃんか、可愛いなぁ、まるで京人形の様だなぁ」

「お父さん余計な事言わないで」

 田辺のこの一言が笑いを誘い、皆の硬さが一気に取れて、表情が自然に成る。

「いいぞ、そのまま。撮るぞ、ハイ」

 {カシャ}

 撮られた写真は正に、三十年後の愛子が手にしていたあの写真だった。


この日はサイパン派遣隊の集合日。愛子は今日付で婦長代理に昇進していた。横須賀駅の駅舎のベンチに腰を降ろし、皆の到着を待っていた、南国に派遣される為薄カーキ色の防暑服を身にその上から和服用の外套を羽織っていた、不釣り合いの組み合わせでも二人が着ると妙に似合っていた。卒業からこの日迄の一週間は、臨時の休暇だった為、皆に合うのは久々だ。背嚢式の鞄を膝に抱えて、次の列車が来る方角を眺めていた。

「遅いな、集合時間に間に合うかな?」

 もどかしそうな表情の愛子

「大丈夫、私達が早すぎたの、他の子達は時間通りに来るから心配しないで」

 小百合が寒そうに手をこする。外套を着ていても下に身に着けている防暑服では、やはり少し寒かった、二人は暖をとりたくなり、駅舎の脇の待合室に場所を変える。待合室は狭く、幾人もの軍人がベンチに腰掛け談笑していた、二人はそれら軍人達にお辞儀をして、ストーブの前に陣取り、手を翳して温める。

「集合場所は門を入ってから、えぇと何処だっけ?」

「それはさっき確認したでしょ。隊門の衛兵さんに聞けば解るからそれからだって忘れたの」

「そうだったね」

 そうこうしている内に横須賀駅の二番ホームに列車が入って来る。窓越にわっと乗客が吐き出されるのが確認出来。ホームは喧騒に支配される。愛子と小百合は暖を取るのを止めて改札の前で待ち受ける。喧噪の中から工藤の三人や美沙子や他の生徒全員が愛子達目掛け寄って来た。

「班長殿!」

幸恵が手を振って駆け寄って来た。

「久しぶりです」

後から付いて来た美沙子が何やら懐をゴソゴソさせている。流石にお嬢様らしく、洋服用の外套を着ている、行き交う人混みの中でも一際目立っていた。

「班長殿写真出来上がりました。昨日各ご家庭にはお送りしておきました、一枚持参したのでご覧に成りますか?」

 美沙子の差し出す写真を受け取り、皆で回し見する。

「うゎー私以外皆良い表情よ」

 愛子が{ホラ!}と皆に見える所でかざす

「そんな事無いよ、愛子が一番可愛いく、写っているじゃない」

「この写真写り良い、やっぱりライカは性能良いのね」

永久子も手に取りまじまじ見る、お互いを評価し合って賑やかだ。

「愛子そろそろ行かないと」

「そうね。皆荷物持って、行くよ」

 愛子を先頭に駅を出立する。こうゆう時も

隊列を乱さず一列が基本だ、養成所で叩き込まれた事が役立つ。駅前の通りを渡ると直ぐに海軍横須賀基地の門が立っている。門の直ぐ先にはもう海が見える軍港だ。大きなガントリークレーンが印象的な、横須賀の軍港なのだ。愛子は集合場所を確認する為に、衛兵に話かける、直立不動の姿勢に話かけるのは少し勇気が必要だ。

「失礼致します。サイパン医療派遣隊の看護婦の班ですが、集合場所は何処でしょう?」

 衛兵は直立不動のママ、敬礼をして{少々お待ちを}と言い残し、門柱中の書類に目を通し、確認終わると元の位置に戻り、愛子に敬礼して答える。

「それなら、兵站部の二号棟に成ります、既に陸軍の軍医殿が到着しています」

 言われた建物を目指す一同、基地の中は引切り無しに軍人が行き来し、その都度偉いと思しき人物を発見すると立ち止まりお辞儀をした。戦争中を意識せずにはいられなかった

。程なく歩くと目的の建物が視界に入って来た。建物の中を指定の部屋目指して歩く、廊下を突き当り左に曲がると、一つ目の部屋に派遣隊集合室と貼ってある。恐る恐る引き戸を開ける、中を覗くと士官一人と従兵が四人、窓の外を眺めて待機していた。

「あの、すいません。サイパン派遣隊の救護看護班の看護婦です、婦長代理以下七名只今到着しました」

 愛子に気づき士官が振り向き,コチラに近づいて来た。まだ若く真新しい軍服姿がキリリ決まり、軍人らしからぬ穏やかな雰囲気を携えていた。

「お待ちしていました。軍医の景山光成です、今回の派遣隊の引率責任者です」

 軍人らしく無い、おっとりした口調、今まで接して来た軍人と違う対応だった。何よりも愛子はその凛々しい瞳に見とれてしまう。

表現の出来ない清らかな瞳だ、こんな目をしている男性は今まで会った事が無い、一言で言うと一目惚れをしてしまったのだ。景山に見とれてしまい愛子は返答を忘れてしまう。

「愛子どうしたの?返事!」

小百合にせかされて我に返り

「あっ、ハイ!こちらこそお願いします、婦長代理の中西愛子です。私と副長以外は全員新米です、至らない所有ると思います、出来ない成りに全力で頑張ります」

「私も慶應の医科を出て僅か三ヶ月の軍事教練しか受けておりません。実地研修も半年残して繰り上げです、新前で不安が有るのは一緒です」

 軍人らしく無い雰囲気はそうゆう理由かと愛子は納得する。それにしても表現出来無いその瞳の凛々しさに、愛子の心は完全に虜に成る。隣で小百合が皆の紹介をしている時も、上の空の愛子。自分だけ意識が他へ行ってしまったようだ。

「私以下衛生兵四人も全員初任地です、宜しくお願いします」

 景山が握手の手を差し出す、それに応え手を出そうとするが、何か神々しい物に触れるようで、恐々に成ってしまう、手を握られたら如何なってしまうのか。ゆるりと握る手の先から、案の定愛子の体に電流が走る、まるで指先から景山の生気が流れて来た様だ、こんな衝撃は初めてだ、握る手を見つめる愛子の表情と耳が見る間に赤くなる。それを傍目で見ていた小百合が愛子の変化に気づいていた(さては)。

 一通りお互いの紹介が終わり、次に連絡事項を景山が伝える、

「各自従軍手帳に筆記して下さい。まず我々が乗る船ですが、海軍さんの徴用船二海丸に乗船します。出航は四日後の昼頃の予定です、但し昨今の事情から変更有りとの事です。家族の見送り希望者は、その日に限り隊内に立ち入り許可が出るので、早めに電報でも打つ事。次にそれまでの宿ですが、兵と私は海軍の水交社にお世話になる、婦長代理以下七名は外の民間の宿を手配してあるので後で兵站部にて確認して下さい、それと皆さんにはこの後に戦地での心構えと、軍属としての行動規範の講義が有りますので、そのまま此処に留まっていて下さい」

 その他諸々連絡事項が伝えられ、景山以下

兵四人が退室する、見送りを確認して小百合が愛子を引き寄せ部屋の隅に呼び寄せる。

「愛子、惚れたな!」

 突然の指摘に動揺する愛子

「なっ!何言うの、誰が誰に?」

「隠しても駄目、顔に書いて有るよ、景山さま、て」

「小百合、幾ら何でも怒るよ」

 テレを隠そうと必死になるが、すればする程墓穴を掘るハメに成る。顔が赤く火照っているのが解るのだ、あぁ恥ずかしいこんな気持ちは初めてだ、人生初と言って良い。

「あぁ益々顔が赤く成った、図星ね、もしやと思ったけど、大当り!」

 お手上げだった。認めるしか無いと観念する。下手に胡麻化しても親友の小百合にはお見通しなのだ。

「もう解った、認めるからお願い皆には黙っていて、こんなご時世で色恋事なんて不謹慎だから、ね、お願い」

「解っている、二人だけの秘密ね、此れから任地に行くんだ物ね。だけどそうかー、あぁゆう方が好みか」

 小百合は一人ほくそ笑む。その顔を見て愛子は小百合に改めて手を合わせ懇願する、解ったよ、と小百合が愛子のおでこをポンとこづく。二人が話終わると同時に引き戸を叩く音がする。

「はい、どうぞ」

 引き戸を開けて一人の海軍下士官が入って来た。皆一斉にお辞儀をする。歳の頃合いは四十位と思しきその下士官は書類を抱え、皆に着席するように指示する。

士官「陸軍さんに頼まれてこれより行動規範の講義をする。私は海軍兵曹長の後藤だ、今から言う事は海軍も陸軍も変わり無い、軍属としてどう行動するかしっかり心に叩き込め」

 良く通る大きな声で講義が始まる。何時もの事だが軍人の講義を聞くのは退屈だ。威勢

の良い話ばかりで愛子達の看護の現場で少しも役に立たない事ばかり、正直時間が経つのがとても長かった。だが最後の訓示は愛子達の心を捉え震えさせた。

後藤「最後にもっとも大事な事だが、このような事は有りえないが一応伝えておく。万が一だ、敵が攻め入って捕まるような事が有ったら、その時は{生きて虜囚の辱めを受けず}だ、良いか絶対に捕虜になってはいかん、特に女子は捕まったら最後だと思え。殺されるだけなら良い、そんなもんじゃ無い、米兵は鬼畜だ、正に鬼その者だ。間違い無く強姦か相手が複数なら輪姦だ、実際にその報告も上がっておる、何人もの現地の民が輪姦され、その後殺され捨てられているそうだ」

 後藤の血気迫る話に一同生唾を飲む。

後藤「その時はどうしたら良いか、考えるまで無いだろう。主だった事は言わん、最後の時は潔ぎ良い行動を取れ、解ったな。以上だ

、これにて解散する」

 部屋に残された愛子達に重い空気が流れる

小百合が一言呟く

「米軍の兵隊さん怖いのね」

「どうする?その時は」

「そうねぇ・・・皆はどうする?」

 愛子が皆の心音を確認すると、一様に自決をすると答えが来る。誰一人生存を望む声を

上げなかった。

「皆の気持ちは解った。その時は皆で一緒に死にましょう」

 後藤の訓示は勿論デマだ、戦後この様な事実は報告されて無い。しかし当時は国民の士気を高める為に、この様な事実無根の教えが

普通に行われていた。



 それからの四日間、昼は積荷の確認と足らない医療品の再手配で忙しかった。どうしても手配出来ない官給品などは、横須賀の街に出かけ探し求めた。街は官民一体で戦争貫徹の雰囲気に溢れ、何処も彼処も軍事色で塗り固められていた。夜は各人実家や親類への手紙を書いて過ごした。そして出航日はあっと言う間にやって来た。船着き場の待合室には見送りの家族が続々詰め掛けていた、愛子も見送りに来ていた桜井に最後の別れの挨拶をしていた。

「それじゃあ、行ってきます」

「気をつけて。まあ中西なら一人で何でも熟せるはずだから、心配は無用ね」

「はい、婦長殿も変りなくいて下さい」

 皆は家族に別れを惜しんでいたが、連絡係がやって来て出発の時刻を告げる

「時間です、ご準備お願いします。ご家族の方々は桟橋にお願いします」

 ゾロゾロと人の波が流れて行く、愛子は桜井を目で追い、手を振り離れて行く、寂しそうな桜井の顔を遠目で確認して、小百合や、

他の班員を引率して、乗船口を目指した、その間も前を歩く景山の存在が気に成ってしょうがない。これから勤務地へ向かうと言うのに不謹慎な事だと、そう自分に言い聞かせ、ひたすらに自分の心を抑えようと頑張った。

 乗船して甲板から桟橋を見ると、見送りの人々が千切れんばかりに手を振っていた。愛子は急いで桜井を探すが、とうとう確認する事が出来ず桟橋は次第に視界から消えて行ってしまった。あぁ遂に離れてしまった、大切な日本、なんだか万感がこみ上げて来た。今回が愛子にとって初めての船旅、愛子が甲板からの眺めを楽しんでいると、隣に景山がやって来た。ドキリとする、落ち着かない心を悟られまいと平静を装う。

「婦長、良い眺めですね」

「え!えぇそうですね」

 驚いてしまった、まさか話かけられるなんて、そう思うと益々心臓がドキドキした。

「船旅は初めてです、船酔いが心配です、婦長も初めてですか」

「はい」

 愛子は意識してわざとつれない態度で答えた、悟られまいと平静を装った。

「本土の景色もこれで暫く見納めと思うと、なんだか感慨深いですね。あれが観音崎灯台か、思ったより小さいですね」

「そうですね」

 本当の気持ちは笑顔で応対したいのに、素直にそれが出来ない事がとても、もどかしかった、何を聞かれてもそっけない答をする愛子の態度を景山が気に留める。

「婦長、私が話かけると迷惑ですか?」

「いぇ、そんな、ただ、その」

 本当の気持ちは言えないもどかしさ、あぁ

神様こんな時は如何すれば良いのか聞きたい

気分だ。

「遠慮せず、はっきり言って下さい」

「あまり楽しげに話していると、回りに変な目で見られるかと。それで」

 なんて事を言っているのだろう、そうでは無いのに、気持ちだけが競るが如何ともし難い。無言で愛子を見つめる景山。

「私は迷惑なんて事思っていません・・・でも・・・・」

 本当の気持ちを伝えたいが言葉が出ない。

「そうですね、承知しました。不謹慎でした、以後私語は慎みます」

 景山はさっと敬礼して去って行く。その背中を見つめ愛子は(本当はずっと話していたいの)と心で叫ぶ。遠目でそのやり取りを見ていた小百合が近づいて来た。

「どうしたの?せっかく話かけて来たのに」

「うん、回りに変に思われると伝えたら、慎みますと」

「そうか、そうだね。今の状況と立場じゃ色恋沙汰はね、でも脈有りと見たよ」

「そうかな?」

「だって向こうから話かけて来たのよ」

「でも・・・たまたまだよ」

 戦時で、しかも任地に此れから赴く身だ、

 軽はずみでな行動は禁物だと自分に言い聞かせる

 

 愛子達を乗せた船は一路サイパン島を目指し南進していた。この時期になると日本近海にも米国潜水艦が出没し、常に危険が伴った。外洋に船が出ると例外無くジグザグ航行をして、魚雷攻撃の予防措置を取った。これをやると船に乗り付けない者は大体酔ってしまう。愛子達は乗船中から忙しく成る。上に下に船酔いの対応に追われ落ち着く暇が無い、おかげで自分達は酔う暇が無かった。



 ジグザグ航行の為通常より長い航海を経て、水平線の彼方にサイパン島が望める所までやって来られた。愛子達と景山達がデッキに立ち、徐々に頭を出すその島影を眺めていた。綾にとっては久々の故郷だ。

綾「あっ見えて来た。懐かしいな、あの先端の山がタッポーチョ山。島で一番高い山です

。チャランカノアの街があの辺りかな」

「綾の住んでいた街ね」

「はい、そこから直ぐ近くに父の働いていた製糖工場が有って、黒糖の甘い匂いが何時もしていました」

美沙子「黒糖!楽しみ」

永久子「美沙子、もう!又食べ物?」

素子「いいじゃないの、食べる事は美沙子の取り柄よ」

志保「泳ぎたいな、きっと海綺麗でしょうね」

綾「えぇとても綺麗。非番の時は泳ぎに行きましょう」

 サイパンまではまだ米軍の攻撃も及んでなく、ただ船に乗っているだけなら、のんびりしたものだった。南国特有の温暖な気候も手伝って、一時の落ち着いた時間が流れていた

。しかしそれとは裏腹に、米軍は着々と攻撃の矛先を此処サイパンも含むマリアナ諸島へと向けて来ていた。激戦が始まるまで後半年に迫っていたのだ。


 船はタナバク港に入港した。島で大型船が

入港できる唯一の港だ。接岸するや否や、大勢の人夫が荷受の作業の為乗り込んで来た。

景山や愛子達医療派遣隊は、下船して港の事務所に赴き、到着の手続きを済ませる。船上では海風のせいで感じなかったが、地面に降り立つと流石に暑い、聞いていた事だが、改めて南の島に来たと実感する。先任下士官らしき中年の兵が、控え室に案内をしてくれた。

下士官「此処で暫くお待ち下さい。只今陸軍

の司令部に連絡を取り、迎えを寄こすよう伝えます」

「それなら司令部ではなく、軍病院に連絡してくれ給え。我々は医療隊だ、司令部では的外れだ」

 下士官「失礼致しました、直ぐに対処いたします」

 下士官は敬礼をして慌てた体でも無くゆっくり出て行く。

それから数時間待たされた。午後一時頃に到着したのだ、もう四時を回ろうとしていた。

おっとりの景山も流石にイライラを隠せずにいた。愛子達も同じ思いだ、下船時に昼食時が重なった為、朝食から何も口にしていない。

空腹が余計にその気持ちを助長させていた。

「遅い、何をしているのだ?婦長、様子を見て来るから、留守を頼みます」

「軍医殿、様子なら私が見てきます」

「いや、こうゆう事は責任者で有る私が行くべきだ。良いから待っていて下さい」

 景山が出ていこうとした矢先、先ほどの下士官がドアを開け入ってくる。

「遅い!貴様何をしていたか?」

 愛子達も景山の後ろに立ち、無言の表情で加勢をする。

下士官「はあ。お呼に伺ったのですが、何か

不手際が有りましたか?」

「貴様、どれだけ待たせる?今何時だ」

 腕時計の針を差し、時間を確認させる。

下士官「それでしたか。だったら軍医殿お教えしましょう、ここは内地と違って時間には大分寛大です、内地の感覚でいるとイライラしどうしです。それにバスやトラックも台数に限りが有るので、これ位待つのは普通です」

 愛子が綾に小声で確認する

「綾そうなの?」

「うーん私はまだ小学生だったので、家の近所でしか遊ばなかったので、そこのとこは良く覚えてないです。ただ父が島の連中は時間に怠惰と言ってはいました」

「あらら、島には島の時間が有るみたいね」

 あたり前の如き下士官の返答に、景山は拍子抜けしてしまうが、気を取り直して問いただす。

「だったらそうと報告せぬか。こちらは新参者だ、島の事情など良く分からぬ」

下士官「はい、以後気を付けます。さっ、ではコチラです」

 景山の怒りもこの下士官の飄々とした態度には、全く通用しなかったようだ。景山もここまでと諦め観念したらしく、大人しく従いて行く事にする。

 事務所の前には既に迎えのボンネットバスが待機していた。各自持参の手荷物を載せ、バスに乗り込む。全員を載せたバスは一路ガラパン市街のサイパン陸軍病院本院へと出発する。ガラパンは島一番の繁華街、島の中枢はほぼ此処に有った。港からガラパン迄は島の縦貫道が走っていて、道路は手入れが行き届いていた。道路の脇には南国特有の木々が立ち並び、おおよそ本土ではお目にかかれない景色が続いていた。

「南国特有の景色ね、見た事無い花や木々ばかりね」

愛子は眺めにうっとりしている

「本土は冬なのにここは夏ね」

 この時はまだここが戦禍に見舞われるとは

想像出来なかった。大本営の予想も米軍は南方の島々伝いに進行して来ると考え、マリアナ諸島には来ないと踏んでいた。その為かここの守備隊や島民の戦争に対する意識はかなり低かった、先の下士官の態度もけだし当然の事だった。バスはやがて市街に入る、それなりに栄えた街並みだ、商店はまだ何軒も店を開けていた、商店街を過ぎてその先がサイパン陸軍病院本院だ。本院の目立つ建物が見えて来た、白く塗られたその壁には大きく目立つ赤十字が書かれていた。南国らしく椰子の木が正面入り口付近に向け、道路の左右に植えられて、ちょっとしたホテルの体裁だ。車寄せにバスが到着すると、既に迎えの人達が待っていた。一行がバスを降りると、迎えに出て来ていた院長の中野が両手を上げて近づいてきた。

「おー、待ち焦がれていましたよ、君が景山君かい」

「はい!院長殿、只今到着致しました。軍医少尉の景山です、宜しくお願いします」

 サッと敬礼して握手を交わす。温かいからか土地柄か、中野の服装も軍医にしては着こなし方がとてもラフだ。

「私が院長の中野だ。遠路はるばる良く来た、宜しく頼むよ」

「はい、全力を尽くします。院長こちらが看護派遣班の婦長代理の中西です」

 景山は後ろに控えていた愛子を手招きして

中野に紹介する、こんな事でも景山に近寄るだけで一々緊張してしまう。

「院長殿、中西です宜しくお願致します」

 愛子を前に満面の笑みを浮かべる中野、若い看護婦を目にして大層うれしそうだ。

「君が中西君か、服部先輩からの手紙を読んだよ、若いが有望だそうだね、期待しているよ、今日は細かい事は抜きにして、夕飯でも食べながら話しをしようではないか」


 陸軍指定の料亭。建付けは本土のそのママに、和風建築の趣ある良い雰囲気を出していた。愛子達には行きつき慣れない高級店だ。一行は奥の大広間に通されて各自正座して宴の始まりを待っていた。中居さんが忙しく行き来しているその一室で、中野を中心に派遣隊の歓迎会が始まった。ひと通りの訓示を終え、会食が始まると、朝食以降何も食べていない一同は、無心にごちそうを平らげた。食べ盛りの年頃が多いのだから、そうなって当然だ。会食も一段落して落ち着いた所で、中野が横に鎮座する景山に派遣先の分院について説明を始めていた。中野を挟み座っていた愛子にもその会話は聞こえて来た。

「少尉、此れから赴任する分院の軍医長だが腕は確かなのだ、しかしだな、少し変わり者で私も苦慮している、篠田と言うが大変な酒豪でね、勤務にも支障が出て困っている。良く君が監視して勤務に影響出ぬようにしてくれないか」

「自分で務まりますか?」

「そう願っている。君は、酒は行けるのかね?」

 中野が酒を飲む仕草をして。

「はい、嫌いじゃないです」

「じゃあ大変だな、散々付き合うハメに成るな、潰されぬように自制してくれたまえ」

「御忠告通りにします」

「宜しく頼む」

 中野が辺りを見回して、幸恵と志保の事を気にとめる。何か言いたげで手招きをして、二人を前に呼び。

「工藤の娘だな、あいつとは同期でね、良く二人で飲んだものだよ。覚えているかな、二人が未だ小さい時の事、幸恵ちゃんが小学生で、志保ちゃんが五歳だったな。二人と一緒に写真を撮ったのだよ」

 中野はそう言うとメモ帳から写真を取り出して二人に見せる。幸恵は{あ-}という反応で思い出したものの、志保はさっぱり思い出せない様子。でもその様な事は中野にしてみれば取るに足らない事、同期の愛娘を目の前にして、まるで自分の娘のような眼差しで二人をみつめていた。

「工藤からも手紙をもらっている、何か困った事が有ったら何でも相談しなさい」

幸絵「はい、日本を発つ時に父から伺いました、宜しくお願いします」

志保「お願いします」

 二人と挨拶を終えた中野は自席に戻る様に言って景山と話しの続きを始める。

「此処サイパンはどうやら米軍の標的には成らないらしい、その代わりに前線から負傷した傷兵が続々やって来るからな、此れから忙しく成るぞ」

「分院はその為に開かれたのですね」

景山が中野に確かめる

「そうだ、あくまで本院に間に合わないクランケの処置の為と思ったが、此れからはそれだけでは済まないだろう。ある程度入院処置もやらねば成らない、だから君達が必要だった訳だ」

「責任重大ですね」

景山がキリっと構える

「そうゆう事だ」

 景山が何か思い出した様子で中野に訝しく聞き入る。

「島民は時間に怠惰だと小耳に挟んだのですが、そうなのですか」

「時間の事か、現地人のチョモロ人もそうだが、日本からの移民も沖縄出身が多くてね、民間人は確かに時間には怠惰だ、まあ軍もここが戦禍から遠く離れているから、人の事言えんがね」

「ではそれを割引いて行動した方が良いですね」

景山が中野に確かめると

「そうだな、まあそのうち慣れるよ」

 宴はつつがなく続けられた。明日からがいよいよ本番だ、その為に今晩はゆっくり静養しよう。今日の宿は病院の空いている病室が割り振られた、病室からの夜空は満天の星空だった。空気が綺麗な証拠だ、夜空を楽しみながらも愛子は気を引き締めていた。



 南国特有の強烈な朝日を浴びたバスが、一同を乗せ縦貫道をゆっくり【ゴト、ゴト】車体を揺らせ南進していた、右手に遠く海原が一望出来た、南国の海は内地のそれとは違い、何処までも青く透き通っていた。左手には一面サトウキビ畑が広がり一大プラントを形成していた。サトウキビは島の重要な産業、至る所にプラントが作られていた。三十分も走ると綾の生まれた街チャランカノアに入っていた、綾が懐かしさのあまり声を上げる

綾「あぁ、変わって無い、懐かしいな。あそこに見えるのが、父が指導官をしていた工場です」

 綾の指す方角に大きな工場が見えてとれた

、モクモクと煙突から煙を吐いていた。

綾「ご近所のおばさん達元気かな、班長殿、非番の時は遊びに来て良いですか?」

「勿論、良いに決まっているでしょ、私達も色々案内してね」



 バスはチャランカノアを抜けて、サイパン陸軍病院アスリート飛行場分院を目指した。

やがて開けた飛行所が見えて来た、見渡す限りの平原だ、戦闘機や爆撃機と思しき飛行機が配置されたそこは、後方とは言え実戦部隊に来た事を物語っていた。飛行場を右に見て抜けると、そこから少し丘側に外れた所に分院が建っていた、以前は兵の宿泊施設だった所を改修したらしい、木造造りの平屋の建物が三棟並んでいた。バスはその真ん中の棟に横付けされた。従兵らしき兵が一人迎えに立っていた。

従兵「お待ちしていました。{敬礼して}先任衛生兵の小暮です、軍医長は未だダウンしています、代わりが私で申し訳有りません」

「到着した景山軍医少尉だ。ダウン?病気か?」

怪訝そうに景山が問いただす

「いえ、これが(酒を飲む真似をして)少々過ぎまして、全く起きる気配が有りません、仕方ないのでそのままにしてあります」

「やれやれいきなりか。それで昨日は何か言ってなかったか?」

「えぇ、自分が起きなかったら、適当に相手をしておけと、すいません、昨晩は何時もよりすごく飲んでいまして」

「誰も止めないのか?」

「忙しくなれば控えるのですが、暇だと途端に増えるのです、昨日は確かに暇でしたから」

「そうか、とにかく案内してくれ」

「はい、了解しました」

 玄関内の受付に通されて、顔合わせをする一同、先任の小暮は若く愛子と同い年位に思えた。傍らの待合用の長椅子で、赤ひげを彷彿させる髭面の篠田軍医少佐が大いびきで寝ていた。年は三十後半と聞いていたが、その髭のせいで遥か四十は超えて見えた。開襟シャツが胸の第二ボタンまで外され、シャツ自体も皺だらけだ。大よそ格好には無頓着そうだ。

「軍医長殿、起きて下さい。景山只今到着しました」

 景山の呼びかけにも全く無反応だ、その時

けたたましく受付の電話が鳴る。小暮が慌てて電話に出る

「はい、分院です」

 電話の応対の仕方から、ただならぬ様子が伺えた。

「軍医殿、緊急電です、軍医長殿はダウンしていますから、軍医殿変わっていただけませんか」

「解った、代わろう」

小暮から受話器を受け取り電話に出ると、

その内容を聞き取る景山の顔が見る見る緊張に包まれた。

「了解しました、直ぐに準備します、後一時間後ですね」

 景山は受話器を置くやいなや、良く通る声で連絡内容を伝える。

「皆、良く聞け。只今海軍航空隊の指揮所より緊急伝が入った、人員輸送に出ていた陸攻が敵の迎撃に合い、搭乗員が負傷したらしい、直ちに受け入れ準備されたしとの事だ」

 景山の報告が終わると、今の今まで寝ていた篠田がむっくりと起き上がる。

「あー、良く寝たな・・・・おいグレ(小暮のあだな)何処から電話か?」

「はい、指揮所からです」

「オイ!新人名は何と言う?」

「は!景山です。なりたての軍医少尉です」

「景山か、じゃあ景で良いな」

「(え?)・・・・・」

「あだ名だ、一々呼ぶのが面倒だからな。で?景、何人がどれ位やられたと言って来たか?」

「それは正確には確認しておりません」

「ばか野郎が!それをきかんでどうする、貴様は正規か繰り上げか?」

「繰り上げであります」

「院長の野郎、あれ程繰り上げはよこすなと言って置いたのにクソ野郎。で何処の出身だ」

「東京であります」

「違う!何処の学校を出たと聞いてるんだ」

「慶應であります」

「何だよ、せめて軍医学校出かと思えば慶應か、フン!良家のオボッチャマか」

 その言い方に景山は少々憮然としていた。

「おい婦長は誰だ?」

「私であります、中西です。今回婦長代理に昇進したばかりです」

「おいおい、婦長もこんなお嬢さんか、いい加減なもんだな。院長も舐めやがって」

 愛子もこの一言には憮然と成った。

「軍医長殿、私は兎も角、婦長は代理で若いですが、実績は十分です。良く経歴書を読まれた方が良いと思いますが」

「経歴なんかどうでもいいんだ。良いか俺はシナ事変からずっと前線基地に勤務しているんだ、ノモンハンも経験した。大切なのは位や肩書きじゃねえんだよ、ここだ(腕を叩き)良いからさっさと着替えねえか、その成りでオペが出来るか!」

 篠田の迫力有るべらんめえ調に押され、皆一斉に準備に掛かる。後方基地とは言え戦場に来たのだと実感させられた。慌ただしく準備にかかる愛子達、看護服に着替えて、受け入れの為に診察の準備や手術の準備にてんてこ舞いになる。 約一時間後トラックがサイレンを鳴らし駆け込んで来た、荷台には負傷した搭乗員が乗せられていた。篠田は景山を伴いその荷台へと乗り込む。

「景、初見をしろ、誰を優先するか決めてみろ」

 負傷兵は程度の差こそ有るが一様に血を流し、呻いていた。中には既に意識が無い者もいた。平時ではまず目にする事が無い悲惨な状況だった。トラックの外で遠目で見ている愛子達看護班も、初めての光景に思わず目を背いていた。

「おいどうした、早くしろ。時間が勝負だ、的確に素早く判断しねえと、どんどん死んで行くぞ」

 篠田に急かされるが、何しろ初めての事、

景山は判断がつかずにいた。

「自分の初見では、このクランケとコチラのクランケが最優先だと思います」

 景山が示した傷兵は今にも死にそうな意識も無い傷兵だった。

「ふん、やっぱりな、ダメだ!この二人は処置無しだ」

「どうしてです?重体者から見るのが筋ではないですか」

「良いからこの二人は後回しだ、コチラの五人の内三人は本院に送る、まだ大分体力が有りそうだ。残りの二人を処置室に運ぶ。おいグレ!この二人だ、運べ!それと三人を本院に送れ、一人付き添いで従いて行け」

「軍医長殿!後回しだなんて、それでは死んでしまいます。優先して下さい」

「景!良いか!良く聞け、此処は軍隊だ、上官が決めた事に意見をするな!言いたい事が有るなら後で聞く、今は言われた通りにしろ、これは命令だ!」

「しかし」

「しつこい!命令だ!」

 凄い勢いで怒鳴られて景山は意気消沈してしまう、傍目で見ていた愛子達も篠田の怒声に戸惑いの表情だ。愛子は桜井婦長が話していた、初の現場では何も出来ないとは此の事かと実感する。

「婦長!早くしないか何ボケっとしている、後回しの二人に一人付き添いを付けろ、残りはオペ室に!」

「はい、了解しました」

 テキパキやるつもりが浮き足立ってしまっていて、地に足が付かなかった。情けない、助手とは言え内地であれだけ患者に接して来たのに、この状況はまるで別だ、こんなにも死に直結し、一刻の猶予も無い状況は初めてだ、

確りしないといけない、今更ながら自分を戒めた。愛子は小百合に付き添いを頼むと。その他の皆に手術室へ急ぎ搬送する様に指示を出す。


 手術室で篠田が執刀中だ、横で景山が真剣な眼差しで見守っていた。オペの経験が有る愛子は篠田の指示に的確に対応していた。二人分の手術だから手間は倍だ、愛子が的確に班員達に指示を与え、皆も良くそれに応えていた。手術は長時間に渡った、二人一度にだから当たり前だが、平時の内地では考えられない事だった。ようやく先が見え始めた時に

愛子が何げに時計を見ると、既に夕方の五時を回っていた。

「ふう、これだけ処置しておけば大丈夫だろう」

 篠田は額から汗を流し一息つく。横に控えていた景山が後の処置は自分でも出来ると、

篠田に休む様に促していた。

「そうだな、そうするか、下手な事はするな、指示した通りにしておけ」

「はい{敬礼するが力に欠ける}」

「あぁそうだ、婦長」

「はい」

「お嬢さんと思って馬鹿にしたが、撤回する、中々やるじゃないか。・・・おい景!」

「はい」

「役割分担は違うから一概に言えんが、貴様より使えるぞ、この婦長頼りに成る」

 褒めの言葉を一言だけ発して処置室を退出すると、そのまま自分の私室に入って行った。



篠田の私室は机と書棚が二竿に簡易式のベッド、真ん中に大き目なテーブルと椅子が二脚、後は何も無い粗末な造りだ。裸電球の周りを蠅が廻っている、薄暗い明りを頼りに篠田が机に向い今日の報告書を作成していた。そこへ処置を終えた景山が報告にやって来た、ドアを叩く景山。

「軍医長殿!報告に参りました」

「おう、入れ」

 景山が入って敬礼する。

「終わりました。二人とも容体は安定しております」


「そうか、ご苦労。どうだ、これ(酒を飲む振りをして)でもやりながら話すか?」

「はい、そうしたい所ですが。到着そうそうの事で、まだ何も荷解きが出来ていません。今日は遠慮しておきます」

「そうか、じゃあ座れ、少し話しておきたい事が有る」

 篠田の向いに有る椅子に腰掛、身を委ねる

景山。何か神妙な雰囲気だ。

「景、良いか、今日のお前の初見の判断だが、あれでは平時での判断だ。今は戦時だ、しかも此処は後方とは言え実戦部隊だ、戦地での鉄則は助かる者から助ける、これが最優先だ。あの二人の搭乗員だが、たとえ処置した所であの深手であの出血の量だ、此処の設備と輸血の備蓄量じゃ確実に死ぬ。現に手術中に死んだな」

「はい、途中連絡が有ったので聞いておりました」

「お前の気持ちは解る、俺も初めはそうだった、だがな、理想論だけじゃ軍医は務まらん。まぁ今日の所は余りぐだ々言ってもしょうが無いからな。これで終わりにするが、言いたい事は有るか?」

「・・・・軍医長殿、今日は大した事出来ませんでした、申し訳ありません」

「いいんだ、最初は誰でもそんな物だ、大切なのは次に生かす事だ。もう良いから下がって良し」

 篠田の部屋から出て来る景山、こころ無しか落ち込んでいる様子だった。外で満点の星でも見て、気を紛らわそうとする。一服付けようとタバコを出しマッチで火を付ける。

お粗末な掃き出しの柵に肘をツキ、一人でタバコを吹かしながらあれこれ考えが錯綜する。気落ちしているのが良く分かった。その姿を廊下の窓から見つめていた愛子は、何とかしてあげたいと思案する、でも今の自分も同じ境遇、大した励ましの言葉も掛けられない。でも少しでも力に成りたい気持ちが愛子の背中を押した。誰に見られても構わない、今はこの人の力に成って上げたいと。船上で誰かに見られてはと言ってしまったが、婦長と軍医が話をしていて何が悪いと決心がつく。ゆっくりとドアを開けて、景山の気が散らないようにそっと近づく。

「軍医殿」

「あぁ婦長、良いのですか、二人で居る所見られても」

 心なしか景山が少し微笑んで見えた。

「考えたら、婦長と軍医が二人で居ても別に不思議は無いと思ったので」

「そうですね、・・・なら良いのですが」

 迷惑では無さそうな雰囲気だ、愛子はその顔を確認出来て安心して景山の横に立ち同じ様に柵に肘を乗せて星空を見上げる、幸せだ、隣に居るだけでこんなにも心が満たされる事が有るのだと、愛子は感じていた。

「婦長何か有りますか?」

 景山は愛子に何か言って欲しい様子だ。

「なんだか元気が無さそうなので、心配で」

「それなら心配ご無用です、見事自信が弾け飛んだだけです。まだまだなのは解っていたのですが、今日は本当に何も出来なかった。それに引き換えて婦長は大した働きでした、見事です」

 愛子に頭を下げる景山。

「止めて下さい、頭を下げられる程大した事なんてしていません。軍医長殿も言っていらしたじゃないですか、役割分担だと。だからあまり買かぶりしないで下さい」

「解りました。でも初日からいきなりでしたね。こんな展開は予想不可能です」

「本当ですね、着いた早々にですからね、後方部隊と言え、実戦部隊なのですね」

 景山は{はー、}と背筋を伸ばし、愛子の方を向くとニコリとして見せた。よかった、愛子が思っている程は落ち込んではいない様子だ。

「死んだ二人の搭乗員の事、無念です。内地で設備が確りしてれば、もしかしたら助けられたかもしれません。それを思うと・・」

 景山は言葉に詰まってしまう。

「軍医殿、気持は私も同じです。出来る事はやりました、余り気にし過ぎです、元気だして下さい」

「解っています、気に過ぎるのが私の欠点でね、それじゃあ跡継ぎは務まらんと父にも言われました」

「お父様もお医者様ですか?」

「ええ、東京の板橋で個人病院を経営しています。でも今のままでは後を継げませんね、もっと強くならないと。精神をもっと鍛えないと駄目ですね」

 そう言うと景山は星空を見上げながら、深く息を吸い込み、フーと吐息を吐き出す。暫し無言で星を眺めていた。繊細な心の持ち主で有る事が愛子に伝わって来た、そんな景山が愛子は更に愛しく思えた、その見上げる横顔がとても可憐に見えた。普段は意識して平静を装っていても、こんな時はそれを抑えるのが辛かった。出来る事なら告白して、

自分の思いの丈を伝えたかった。でも今はじっと我慢するより手は無いのだと、愛子は心に言い聞かせていた。

「婦長聞いていいですか?」

「はい?何でしょうか」

 質問?何だろう、行き成りそんなハズは有る訳が無い、でも、もしかしてと思うと愛子は体が硬直してしまう。

「婦長の顔は誰に似たのですか?」

 そんな事かと思ったが、自分に興味を示してくれただけで嬉しかった。

「母です、母の若い時に似ています」

「そうですか」

 景山はほほ笑む。

「素敵なお母様なのですね、好きです、その笑顔、元気がでました」

 そう言って景山はドアをさっと開け、去っていった。今のは何だろう?似ていると言った母が素敵とは、私の笑顔で元気が出る?それはもしかして?愛子は心の鼓動が高まるのを押さえる事ができなかった。

 

 愛子達の宿舎は三棟並びの一番端がそれに

充てられていた、食堂兼会議室には五人が対面式に十名座れる長テーブルが二脚おかれ。

一同が会して集まれる様に成っていた、愛子以外の皆が集まり今日の反省をしていた。小百合が進行係を務め、皆に駄目出しをしていた。

「いい、皆に足りない事は自主性よ、愛子が一々指示出さないと何も出来ないじゃない。それぞれ自分が今何をするべきか、考えなさい、何時までも愛子を頼らないの」

永久子「副長殿、でもそれじゃあ何を頼りに動けば良いのですか?」

幸絵「そうです、班長殿が指示して下さるから安心して動けます、それが無いのならどうしろと」

「それが駄目なの!いい、何時までも愛子を頼らないの、もう此処は学校じゃ無いのよ、今日みたいな事が平気で起こる実戦部隊に居るの、常に自分で考えて行動しないといけないの。いずれ自分が愛子の立場になったら如何するの?誰を頼るの?」

永久子「今は班長殿を頼っても良いのではないですか、まだ着任したてだし」

美佐子「私もそう思います、班長殿が居るだけで安心です」

志保「でも、それじゃあ班長殿の負担が減りませんよね」

 一番年下の志保の的を獲た意見が皆を沈黙させる。この一言が皆を納得させた、一同は小百合の指摘を真摯に受け止め、これからの

立ち振る舞いに己の成長を約束する。皆が納得したのを確認して、お開きになり、三々五々食堂を出て行った。丁度そこへ愛子が帰って来た。

「お帰り、軍医どうだった?」

「うん、落ち込んでいた、けど大丈夫そう」

「良かった、じゃあ安心だね」

「うん、まあ・・・あれ何か話していた?」

「今日の反省会、明日からの業務に生かす為に話していたの」

「で、何を題材に話していたの?」

「うん、皆に少しガツンとね、何時までも学校気分が抜け無いから。自立しなさいと言ったの、自分で考えて、判断してと」

「何時も御免ね、嫌な役割させちゃって、感謝している」

「良いの、最初に決めたでしょ。恨まれ役は私がやると」

「本当に有難う」

 話ながら愛子の表情が明るく、喜びに満ちているのを小百合は見逃さない。

「愛子、何にやけているの、軍医に何か言われたね」

「何でも無い・・・」

 惚けようと思ったが、小百合は先刻承知の中だ、胡麻化してもすぐに解ってしまうと思い、会話の内容を小百合に伝えると。

「え!本当に、やっぱり脈有だね、決まり」

「そうかな」

「そうだよ、遠回しに{素敵}と言って、笑顔が好きだなんて」

 小百合に言われると妙に説得力が有る、小百合の言う通りなら、そう思うだけで心が

弾けそうになる、でも此処で、今の立場でと思うと複雑な思いでいた。

「でも今の状況で色恋とかって、そう思うと」

 慎重すぎる愛子に小百合は少しけしかける

「あーあその性格損だよ、私なら鉄は熱いうちに打て、だと思うけど」

「そうかな、今は我慢した方が良いのかと」

「何も直ぐに恋仲に成る訳でも無いのに、話し友達とかからとか、色々方法あるでしょ」

「そうか話し友達か、それなら変な目で見られずに済むかな」

「そう、だから脈が有るなら逃さず掴めよ」 

 初日に余りに多くの事に出くわした御かげで、二人の話はあれこれ多岐に渡り、尽きる事がなかった。最初の夜が更けていった。

 それから暫くの間は大した大事も無く、日々の仕事は内地に搬送する負傷兵の応急処置が殆どだった。空いている時間は皆の技量が上がる様に、実戦形式の訓練に費やした。その為か、短期間の間に皆の技術はメキメキと向上して行った。それもこれも、早く役に立ちたいという、皆の思いがそうさせていた。三ヶ月が経ち、誰に見られても恥ずかしくない位に一人前の看護婦に皆が成長していた。


 診察室で午後の仕事を終えた篠田が椅子に座りタバコを吹かしていた。傍らでは景山と愛子が書類の整理をしていた。

「おい景、それと婦長、ちょっと来い」

 何時ものべらんめえ調だ。

景山と愛子「はい何でありますか」

「こっちに来てどれ位に成る?」

「大体三ケ月程になります」

「そうか、もう三ヶ月か。その間に良く頑張ったな、景も己の技術を、婦長の方も新人看護婦の技量を良く高めてくれた。まともに休みもせずに良くやったな」

「軍医長殿、当然です。下手をやれば人の命に関わる事です。努力するのは当たり前です」

「私も同じ思いです」

「謙遜するな。褒めているんだ素直に喜べ。それでだな、余り張り切り過ぎて怪我でもされたら如何と思ってな、明日は前線基地からの負傷兵の搬送も無さそうだから、気晴らしに休暇を取って島内巡りでもして来い。その為の車は用意する。こっちに来てから未だまともに島の名所は行ってないだろう?」

「嬉しいのですが、私達看護班は大丈夫です」

「光栄であります、ですが我々も半休は頂いていますし」

「良いんだよ。俺が行って来いと言ったら良いんだ」

「ですが」

「クドイ!(笑いながら)これは命令だ、部下の精神面の管理も上官の役目だ、休めば良いんだ」

 豪放磊落な篠田の性格らしい休暇の取らせ方に、愛子と景山は戸惑いながらも感謝していた。確かにこの頃疲れとまで言わないまでも、少しストレスが溜まって来ていた、皆にも良い気分転換に成るだろう。



 翌早朝。集合場所でバスに乗り込んで行く一同、新参組で始めて団体での外出だ。勢い雰囲気も学生時代の遠足気分だ。

 バスの車中で愛子が皆に向かって今日の行動予定を伝えていた。

「急な事で余り良く段取れなくて御免なさい。一日と言う事で近場に行こうと思います。案内役は地元出身の綾に任せます。それで綾からの提案で、先ずチャランカノアの市街に行って、各自買い物、飲食をしたいと思います。行動に不安有る者は綾の行く所に着いて来るも良し、個人で行動したい者は、個人で行動しても良し、選択は自由です。現地に着いたら地元の名物品屋さんへは綾が案内してくれます。綾、色々お願いね」

「任せて下さい。まあそんなに大したお店

は無いけど、飛び切り美味しい甘味屋さんが

一軒だけ有ります、そこは期待して下さい」

 さすが育ち盛りの女子の集まり、甘い物の話に成ると直ぐに反応して、歓声を上げて喜びを露わにする。

「軍医殿達は如何されますか?街までご一緒してそれから別行動されますか」

 愛子はそれとなく景山をさそう、出来れば同行して欲しかった。この三か月の間、話し友達に成ろうとしたが、その性格が災いしてか、未だ個人的な話は出来ていない。景山の気を引こうと立ち振る舞いには気を付けていたが、肝心の話しになると、つい仕事の事ばかりを中心にしてしまい、全く進展はしていなかった。今日こそはこの機会を生かそうと、愛子の心は小躍りしていた。

「お邪魔でなければご一緒して宜しいですか」

 同行してくれる、嬉しかった、出来るなら何処かで二人で話がしたい、はやる気持ちを抑えて冷静に答える愛子。

「良いのですか、女子に付き合って嫌じゃないですか?」

「いいえ、むしろ望んでいます。なあ!」

 そう言うと、景山は部下の衛生兵達を一瞥する。見られた兵達は照れくさそうに頷く。

「この通りですので、是非にお願いします」

 良かった念願叶って景山と二人で個人的な話しが出来るかもしれない、愛子の心は有頂天になる。

 一行を乗せたバスは一路市街地を目指しサトウキビ畑を突き抜けて行く。走り抜ければ、チャランカノアの街まではバスでなら直ぐだ。間伐から海が散見出来るようになれば、街まではあと少しで到着する合図だ。

志保「わあ、近くで見るとやっぱりサイパンの海は綺麗だな、せめて水遊びしたいな」

綾「大丈夫、私が良く遊んだ浜へ行くから、

そこで遊べるよ。そこは珊瑚が綺麗でね、内地では絶対見られない景色だから、楽しみにしていて」

志保「本当に、楽しみです」

幸絵「志保は小さい時から海が好きでね、良く夏には家の近くの海に志保を連れて行ったのよ」

綾「じゃあなお更楽しみなんだ」

志保「はい!」

 普段は歳に反して大人の発言をする志保だが、今日だけは童心に帰っていた。

 バスは市街地に入り或る店の前に横付けして停車する。店には大きく看板が掲げて有り、それには陸軍徴用指定店と書かれ、元のお品書きや掲載内容が判別不可能に成っていた。バスを降りた綾がその看板を見上げ不安げな表情をみせていた。

綾「あれ、此処で間違い無いのに、看板が全然違う」

永久子「綾、如何したの」

綾「うん看板が違うの、でも入って聞いてくる」

 綾は開けっぱなしの入り口を入って、店主

を呼びだす。

綾「御免ください、あのすいません」

 直ぐに奥から店主らしき中年の女性が現れる。

女店主「いらっしゃい、何人だい?」

 何処かで見た事が有るような、無愛想な態度の店主。

永久子「此処で合っているの、いやに無愛想じゃない」

綾「うん、間違い無い、あの無愛想な感じが当時と少しも変わって無い、ここで間違いないよ、店主は無愛想だけど、此処の蜜豆は名物でね、私の大好物だったの」

 この会話を聞き、愛子と小百合は顔を合わして笑い合う。

「甘味屋さんは、何処も無愛想なのが美味しい店の条件なのかしら」

「どうかな。でもその通りなら、此処の店は期待出来そうね」

 全員が揃って着席して蜜豆が来るのを待っていた。奥から店主が大きな配膳盆で蜜豆を運んで来た、皆も手分けして配り、手にした蜜豆を食べ始める。砂糖が不足している内地と逆に此処は黒糖の本場、之でもかと黒蜜が掛けられている。一口食すると甘すぎると感じる位に、黒蜜の甘味が舌全体を支配する。甘味から暫く遠ざかっていた一同にはその感覚がむしろ新鮮に感じていた。

小百合「あまーい」

永久子「甘くて美味しい」

美佐子「あぁ、母さんのオハギに匹敵するこの美味しさ。感動です、オハギ思い出します」

 愛子は部下の喜ぶ姿がこんなにも見ているだけで楽しいのかと、自分が少し大人に成れた気がした、男子陣を見やると、一様に舌鼓を打っていた、良かった満足されているようだ。

「軍医殿達はこれから何をするのですか、私達は街で少し日用品を購入して、それからは浜に行って少々はしゃごうかと」

「良いですね、我々も是非ご一緒させて下さい。ご迷惑でなければ」

「迷惑どころか大歓迎です、うちの子達も喜びます」

 浜まで一緒でいられる、時間があれば話がしたい、愛子の気持ちは息せき切っていた。


 チャランカノア近くの浜辺にノンビリとした空気が漂っていた。浜は何処までも白く、椰子の木が点在し、遠浅の海は外洋に大きく張り出した珊瑚の環礁を持ち、それが打ち寄せる波の力を半減させて、浜辺の波の力を穏やかにしていた。浅い浜辺の浪打際は素足で遊ぶには格好の場所だ。まだ若い看護班の皆は裾をたくし上げて水に入り、ある者は水をけり、ある者は魚観賞に精を出していた。また何人かは衛生兵達と海水を掛け合いはしゃいでいた。何処から見ても戦争中を忘れさせるのどかさを醸し出していた。その光景を愛子と小百合は少し離れて眺めていた、見つめる表情も穏やかだった

「愛子折角だから軍医殿と二人で散歩でもしてきたら?」

「そうね、じゃあお言葉に甘えてそうしようかな」

「あれ?愛子、景山軍医殿は何処」

「さあ、何処かしら」

「せっかく浜に来たのに何処に行ったのよ」

「見当たらないのでは、どうしよもないよ」

「もう!男ってこうゆう時に鈍感よね、今のこの時以外に何時話すのよ」

 小百合が気を使って景山を探しに行くと申しでるが、そこまではしなくてもと、愛子

は小百合を止めて、一人で浜辺を歩く事にする。

「じゃあ後で交代するね」

「うん、そうして、荷物番は私がしてる」

小百合を残して一人で浜辺を歩く愛子、裾をたくし上げて海に入ると、海水は意に反して生暖かく、内地の海水温を想像していた愛子を驚かせた。よく目を凝らして見ると、この浅瀬でも南国の小魚が泳いでいる姿が確認出来た、さすが南の島の魚は色鮮やかで見ているだけで目を楽しませてくれる。この青く透き通った海を見つめ、そこで泳ぐ魚を眺めていると、今が戦時中なのが嘘に思えて来ていた、このまま何も大事無く時が過ぎて行って欲しいと思っていた。愛子は立ち止まり砂浜に腰を降ろしてそんな事を考えていた。

「はぁ、ここは南の楽園かぁ」

 独り言をぼそりと呟くと、それに呼応する

返答が後ろから聞こえる。

「確かに楽園ですね」

 背中側から聞き覚えの有る声がした、少しドキッとして愛子が振り向くと、防暑服のボタンを胸まで外し、少し開けたた姿の景山が立っていた。開いたシャツから太陽を浴びキラキラひかる汗が眩しかった。

「すいません、驚かしましたか?」

「えぇ少しだけ、何時からそこに?」

「今来た所です」

「お姿が見えませんでしたが、何方にいらしていたのですか」

「海に来ると童心に帰ると言いますが、私も

海の生物を観察していると、童心に帰るのです、岩場で色々観察していました、実に興味深いですよ」

 子供の様に屈託の無いその顔も、愛子の心を引き付けた、こんな一面も有るのだと思うと、うれしさがこみ上げていた。

「ところで婦長、お一人で何か考え事でも」

「そんな大した物じゃ有りません、只このまま何も大事無く時が過ぎて行って欲しいなと思って。だってこの景色を見ていたら戦争なんて考えられなくて」

「そうですね、私も先程から同じ事を考えてました。あそではしゃぐ部下達の姿や、この

青い空と海とを見ていると、何処で如何して戦争が行われているのかと。軍人としてはいけない事ですが、このまま此処だけは平和であって欲しいと勝手な事考えていました」

 愛子は景山が自分と同じ考えを持っていた事が嬉しかった、何よりこうして二人だけで同じ場所で同じ時を過ごせる事が出来て、言葉に成らない幸福感を感じていた、叶う事ならずっとこうしていたかった。

「婦長、少し歩きませんか?」

 期待はしていたが、景山からの誘いに愛子は胸の鼓動が高まるのが解った。

「はい」

 愛子は景山の後を着いて行った。只の歩くだけの行為が、之ほど楽しく思えたのは初めてだ。

「婦長聞いても良いですか?」

「はい?」

「ご家族は?お父様は何を生業に?」

「両親は私が十歳の時に事故で無くなりました、以来親類先で引き取られ育ちました」

 愚問をしてしまったと思ったのだろう、景山の表情が気まずそうに成る。

「すいません、余計な事を聞いてしまいました。どうかご勘弁下さい」

「良いのです、別に誰にも隠していませんから気にしないで下さい」

「そう言ってもらうと少し安心です。じゃあご苦労されたのですね」

「苦労だなんて、天涯孤独な訳ではありませんし、良い院長に出会えて住み込みで働かせてもらえて、そして看護の道を目指しました。大した苦労などしていません」

「それでも十分苦労です、頭が下がります」

 愛子に正対して軽く頭を下げる。

「止めて下さい、それより軍医殿のご家族は?聞いても大丈夫ですか」

「はい、両親は健在です。前に話ましたが父は開業医です。それと弟が一人います、それも双子の」

「え!双子ですか」

「はい、双子なのに弟は私が逆立ちしても敵わない位優秀です、私はニ浪をして何とか

慶應に拾ってもらい、その上留年までしたのに、弟は現役で一高に合格して東京帝大の医科に進み資格試験も一発で合格です。全く持って敵いません」

「じゃあ弟さんも、軍医さんをやられているのですか?」

「いえ、弟は実習でクランケから結核を貰いまして、今はまだ自宅療養中です、病気持ちは兵役免除ですからね。暫くは平穏無事で居られます、」

「何だか不思議ですね、もう一人軍医殿と

同じ顔の方が居るなんて」

「はい、そうですね、そうそう、不思議事と言えば、双子は本当に理解出来ない事が多いのです。離れていても同じ事を思っていたり、趣味とか好みも同じだし、数えたら結構あるのです、頭の出来は同じでは無いのに何とも理不尽ですね」

 自分の出来の悪さをネタに笑いを振りまく

景山の言葉に愛子も釣られて笑顔になる。

「離れていても同じ事を思うなんて、それ凄いですね、そんな体験してみたいです」

「私達は慣れましたから不思議とはもう思わなくなりましたが。普通はそんな経験しませんからね、そうだ見てください」

 景山は袈裟懸けしていたバックから、写真を取り出し愛子の前にみせる。

「二人で撮った写真です左が弟です、そっくりでしょ」

 双子は似ていて当たり前だが、しかし多少の個性は有る物と認識していた。だが景山が言う通りに見分けが全くつかない程にている。

「本当にそっくりです」

「えぇ、実の処を言いますと父と母も稀に間違えるのです」

 景山はマジマジと写真を見つめていた。

「学生時代に弟と二人で不思議体験に付いて調べた事がありました。自分達でも何か有るなと感じていましたから、それで色々書物を漁って読んだのですが、ある医学博士の著書に載っていた事がそれだと感じたのです、何か霊的な繋がりが有るとする説です、本当か如何かは確証が無いのですが、私と弟は納得しました、二人共に信じています」

 他愛の無い会話でも、愛子は楽しくてしかたがなかった。何でも良いから兎に角景山の

事がもっと沢山知りたかった。そして長くこの時が続く事を願った。

「婦長、実は聞いて欲しい事が有ります」

 どんな内容だろう、愛子は早くその続きが

聞きたかった。

「な、何でしょう」

「こんな時期にこんな事を話して良いのか、

悩んでいたのですが、聞いて貰って不謹慎と思ったら、はっきりそう言って下さい」

 まさかと思うが、待ち望んでいた展開が期待出来た、愛子は益々高鳴る胸の鼓動を押さえ切れずにいた。

「始めて婦長に合った時の事覚えていますか?」

 忘れるはずが無い、愛子はあの時体に電流が走る程の衝撃を受けたのだから。

「はい、はっきりと覚えています」

「実はあの時に婦長と握手をした時に、私の心に有る感情が生まれました、ただそれが何なのか確証が無くて、自分でも如何にも出来ずにいました」

 愛子は黙って景山を見つめていた。景山も

改めて愛子を見つめ返して来た。いつ見ても

その凛々しい瞳が眩しかった。

「自分でもその感情の整理が付かず、正直困っていました、こんな時に誠に不謹慎だと。だが、こちらに来てから、婦長の仕事振りを見ていて、そして婦長の人となりを知り得て、その感情が一時の物では無く、確かな物だと確証が持てました」

 期待通りの展開に愛子の心は正に破裂しそうだった。早くその次の言葉が聞きたかった

「もし、もしです、このまま無事で内地に帰る事が出来たら、そして戦争が終わり平和な時が訪れたら、その時は」

「その時は?」

 愛子の心は今絶頂を迎えていた。景山の瞳を片時も逃さず見つめ続け、噛みしめる言葉に反応して一々頷いていた。

「その時は、私と、いえ、私の嫁」

 景山が此処まで言いかけた時に遠くの方から、けたたましくサイレンが鳴り響いて来た

。空襲警報のサイレンだった。

「何だ!どうした?」

「なんですか?」

 遠くで部下の衛生兵が大声で此方に叫んでいた。

衛生兵「軍医殿!空襲警報です、直ぐにバスへ戻って下さい」

「解った直ぐ行く。婦長しかたありません、また今度に、今は兎に角分院に戻らないと」

「はい」

 愛子は邪魔が入り、悔しくてしょうがなかった、しかし緊急時だから今は諦めるよりしかたが無いと自分を納得させた。少なくとも

景山が自分を気に入ってくれている事だけは、

確かな確証が持てたのだから。




 




 


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