壱
わたくしは……公家の姫君らしくなく、道の先にある樹を目指して走っていた。
本当に、姫君としてはしたないことだが……せずにはいられなかった。つい今し方、わたくしに起きたことを信じられず……殿方の前から逃げ出してしまったのだ。
きちんとお話を聞けば良いものの、それが出来ずに今も樹を目指して走っている。その樹はただの樹ではないからだ。
(……あと、少し。もう少し)
足袋も履かず、草履……素足のまま走っているので、いささか痛みは感じるが気にしてはいけない。途中、石や低い草花で足を擦って傷はつくが気にしてはいけない。
木々も、豊かな緑から……白、淡い桃色と葉から花びらへと色を変えていく。その先に……ひときわ濃い桃色の花の樹へ、わたくしは足を早めた。
樹の上……大ぶりの枝の上にいる方へ、わたくしは逢いに来たのだから。
「……月夜様!!」
流れている、美しき黄金色の御髪。
禁色である、紅の直衣を身につけていらっしゃる……ひとりの殿方に見えますが。この方は、わたくしのようなヒトの子ではない。
わたくしが御名を呼べば、気怠そうに枝から体を起こされた。開いた瞳は、漆黒そのもの。
「……どうした? えらく急いで」
そうお声をいただく時には……わたくしは肩で息をするくらい、急いで来たことがよくわかった。
「…………不躾な願いとは思うのですが」
「? おう」
「…………貴方様にお仕えする『巫女』として、ご助力を願いたいのです」
「……お前が? 今日はあいつと居ただろ?」
「……あの方とのことです」
つい先程まで、ご一緒だったあの方。
あの方から……わたくしには信じられないお言葉をいただけたのですから。
「あれか? 辛抱強さが限界に来て、お前にとうとう言ったのか?」
「え? とうとう??」
月夜様が、何故か楽しそうに微笑まれて……身軽に樹の枝から飛び降りて、わたくしの前に立たれた。怪我もなく、ごく当たり前のように立たれたのです。
それよりも……意味がわかりませんでした。
「あいつが……お前さんをってのは。それこそ、お前さんとあいつがこの里で出逢ってからだぞ?」
「え、え!? そ、それでは……!?」
あの方から……わたくしは、求婚を申し込まれた。
ずっとずっと……想いを寄せていましたとお言葉をいただき……けど、わたくしは自分に自信がなく、告げられたことが信じられず……思わず、逃げてしまった。
御簾越しならともかく、お互いに……こちらの桜の神でいらっしゃる、月夜様にお仕えする者同士……直接お会い出来る限られた間柄だったから。
きっと呆れられているでしょうけど……でも。
「あいつも災難だなあ? ずーっと、好きな女にようやく告白出来たのに。その女の心を揺らせて、俺んとこまで逃げられてんだから」
「そ、そそそ、その……信じられなくて!!」
「とは言え、お前さんだって……満更でもないんだろ?」
「そ、そう……です。え、月夜様何故それを!?」
「俺は神格は低くても神だぞ? お前さんは俺の巫女。奉納の舞手の心情なんざ、お見通しだ」
わたくし……とあの方の家系は。
この桜の神でいらっしゃる……月夜様に舞を奉納する一族と雅楽を奏でる一族。
幼き頃から……里で過ごし、里で舞などを稽古したりして、苦楽を共にしていた。あの方は……その雅楽の一族でいらっしゃるが、同時に公家としては身分の高い太政大臣の嫡男。
わたくしは……いささか低い右大臣家のニノ姫。
釣り合わないわけではないが、わたくしとしては身分差があると思っていた。
だから……つい先程、あの方から想いを告げられるまで、胸の奥に隠していた。自分がどれだけ、あの方に心を寄せていたのかを。
「ですが……それでも。わたくしは」
「あったま、固いなあ? ほら、来たぜ?」
「……え?」
月夜様が白い指を向けられた方角、つまり……わたくしがやってきたところと同じ場所から。
あの方が……息を切らせながら、こちらにやって来られたのだった。