月と狼
その日、月と狼は誓いを立てた
その繋がれた鎖を外そう、その代わり絶対に月の傍から離れるな、と
時間は傷となり、狼につきまとう
「それじゃあ、行ってきまーす!」
とある屋敷からそう聞こえた、そこには誰も住んでいないというのに時には声が、時には騒音が聞こえてくる故、人里の人間からは少し不気味がられていた
「るっとぅるる〜♪」
一人の少女が地を跳ねる、彼女の名は寂滅、騒霊だ。
「今日はどこに行こうかなー?音廻ちゃん達のとこに遊びに行こうかなー?」
そう言いながら、手を2回叩く。すると、彼女の右肩あたりからすぅっと楽器が現れた。まるで魔法のようだ
その楽器は金属でできていた、ぐるぐるとした部分はどうやら指をかけるようだ、飛び出した部分に穴が空いている、どうやら何かを通すようだ
「今日も吹きますか〜」
寂滅はそう言い、穴に口をつける。そして己の肺から息を通した、反対側にあった穴からぷぇ〜と高い音が鳴る
「ぷっぷくぷー♪」
楽しそうに彼女は楽器に己の息吹を通した
「…ふぅ、このくらいにしておくか」
彼女は再び2回手を叩く、すぽんと楽器が消えた
「・・・ん」
しばらくして、とある匂いが彼女の鼻をツンと刺した
「…んっ!?」
慌てて彼女は鼻を塞いだ、その匂いをシャットアウトする
「んっ…んんっ…」
じわり、と汗が流れる
「もしかして…この近くで…?」
彼女は視覚を、嗅覚を、聴覚を塞いだ
「…不味い、早く帰らなきゃ」
踵を返そうとした、その時だ
足音が微かに聞こえる、何者かがこちらに来る
「…振り返るな…振り返るなッ!」
そう自分に言う、足を動かそうにもまるで地面に足裏がくっついたかのように動かない
「何でッ…!動けよ!!…見るなッ!!聞くな…!!
嗅ぐなッ!!」
己の意思に反して、顔が後ろを向いた
「…ッ!!あ…あぁ…」
彼女の後ろにいたのは狼だった
その狼は獲物を咥えていた
その獲物は…人間であった
狼は時には歩を進め、時には人間の肉をもごもごと食う
その光景を見た彼女
「食べてる…人間食べてる…」
途端に口から涎が出た
羨ましそうにその狼を眺める
「…美味しそう」
そうボソッと言った瞬間、彼女は我に帰った
瞬時に頭を振って、その場から去る
「…何も考えるなッ!走れッ…!!」
ドアが豪快に閉まる音がする
「…くっ、…ふぅ」
寂滅は体から力が抜けたのか、ふらりとその場に座る
「おかえりなさーい!!」
「ふぐっ!?」
はしゃげた声が聞こえたかと思うと、彼女の身体に衝撃がのる
「…あっ、あぁ…ただいま幻」
幻、寂滅の妹であった。幻は寂滅に頬擦りをする
「んっ…ぐぅっ…」
「姉さんっ、好きぃ〜」
「わ、わかった。わかったからやめて、やめ…
ヴッ…!!」
寂滅の口からまるで獣のような声が出る
咄嗟に彼女は口を押さえる
「…う」
「あ…ご、ごめんね?さっき思い切り抱きついた…から?」
「だ、大丈夫だよ。思わず声出しちゃっただけだから」
「…でも、顔色良くないよ?」
「へ、平気だから…ね?」
彼女は妹の頭を2、3回撫でて、優しく退かす
ふらりと立ち上がり、よろよろと自分の部屋に戻った
自分の部屋に入った寂滅は、ベッドにぼふりと身を投げた
「・・・」
自分の歯に指を置く
「…危なかったなぁ…あのまま見てたら…うぅ…
明日…三人でリハーサルやるけど…大丈夫かなぁ…」
枕に顔を埋める、だんだん意識が沈んで最後には完全に消えた
・・・
・・・?
そこは夢であった、夢であるはずだった
そこに居たのは自分だった
でも自分ではない気がする
その者は口を少し開いた、少し鋭い歯が見える
…何で、「お前」はお前なんだ?
何で死にたいと願ったくせに生きてるんだ?
どうして消されるのは嫌なんだ?
あんなに私を嫌ってたくせに
そっちから嫌いになったくせに
どうして奪おうとすると怒るのさ?
消えたいとか言ったんだから
お前の代わりでもいいじゃんか?
生きる意味を与えられた
お前を恨んだ、羨ましいな
私に無いもの頂戴よ
ねぇ
捨てるくらいなら下さいよ
何で?
返せとか言うの?
存在を忘れられる前に…
「下さいよ」
「・・・」
ゆっくり瞳を開ける、ぴりぴりと頭が痛む
「…幻」
目の前に妹がいた、何やら心配そうに見つめてくる
「うなされてたよ、大丈夫?」
「…」
彼女は静かに頷く
「…姉さんは?」
「後ろ」
「…え?」
言われた通り、後ろを見る。そこには姉が居た、ぎゅうっと彼女を抱きしめている
「おはよう、かな?夜だけど」
「え、あ、そう、だね。えっと…いつから居たの?」
「二時間前」
「ずっと起きてたの?」
「そうだよ」
そう言って姉、叡智は寂滅の肩に顎をのせる
「…良い匂い」
「わわっ、匂い嗅がないでっ!」
「叡智姉ずるいっ!私も嗅ぐっ!」
そう言うと幻は布団の中に潜る
「やっ、やめっ、くすぐったいっ!」
妹はやがてひょこりと頭を出す、そして体を姉に密着させた
「・・・?」
妹を見る、いつのまにか眠っていた
「…寝ちゃった」
「寂滅の匂いは安心するからね、私も正直眠い」
「…姉さんのすけべ」
「妹の傍に居られるのならお姉ちゃんは一生変態でも一向に構いません」
キリッとした顔で言う叡智、寂滅は少し頬を染めて
「…おやすみ、姉さん」
「…うん、おやすみ」
くぁぁ、と姉は欠伸をして眠る、彼女もそれに続いて瞳を閉じた
・・・黄泉帰る、あの時が
次の日、騒霊三人は外に居た
「・・・ん」
「どしたの叡智姉」
「…雨が降るな、だけどまだ大丈夫だ。降る前にリハーサルを済ませよう」
そう言った叡智は腕を降る、彼女の左肩辺りから木製ですらりとした楽器が現れる、それには弦が何本かあった
「よいしょっと」
幻も続いて指を鳴らし、楽器を出す
彼女の楽器は姉二人とは少しかけ離れていた
何といえば良いだろうか、人の手がより加えられたとでも言えば良かろうか
「・・・・・・・」
「…?おーい、姉さーん?」
寂滅の目が少し虚ろな気がする
「姉さん?ほっぺむにゅむにゅ」
幻は彼女の頬をつまむ
「…いてっ、え?あれ私何してた?」
「ぼーっとしてた」
「あ、ごめんね」
慌てて彼女も楽器を出す、ふわふわと朧気に現れた
「・・・」
いつもと違う姉の様子に幻は首を傾げる、だがこれといったおかしいところもなかった
「…それじゃあ、始めるよ。1…2…」
三人は息を合わせて己の音を合わせる
始めに聞こえたのは幻の音だ
白と黒の和音が空気を震わせる、不秩序も規則正しいその音に叡智はそっと優しく音を重ねる
しばらくすると、立場を入れ替えるかのように寂滅の音が入る、始めは静かに…そして優雅に力強い音でリハーサルは締められる
…はずだったのだが
そこで、音が外れた。ぷぅーい!となんとも間抜けな音が鳴る
「…んっ…ふっ…けふっ…」
寂滅がむせるような素振りをした、そこで音は止まってしまう
「姉さん、大丈夫?」
「…う、うん。ごめんね、変な音出ちゃった」
彼女はゆっくり深呼吸をして、息を整える
「それじゃあ、ミスしたところの少し前からやろう」
「はーい」
姉の言葉を聞き、幻は再び指を楽器に置く
「…」
「・・・寂滅姉?」
寂滅は喉元を押さえ、苦しそうにしていた
額からは脂汗が滲み出ている
「…はっ…くぅっ…」
「だ、大丈夫姉さん!?息できてる!?」
ヒューヒュー、と彼女の喉奥から音が出る
ポタポタ、と彼女の口から涎が垂れる
「…演奏…しなきゃ…」
震える手で楽器を掴む彼女、それを見た叡智は
「…いや、今日はもうやめよう。寂滅の体調が優れないのであれば、これ以上やっても無意味だし、寂滅の体力のほうが優先だ、ゆっくり休もう」
「…だけ…ど…」
「空も…暗い灰色になってきた。雨が降ってきちゃうよ」
叡智はポケットからハンカチを取り出し、妹の額を軽く拭う
「・・・?」
ふらふらしている寂滅を担ぐ叡智を横に、幻は何かに感づき、警戒する
「どうしたの?」
「何か、くる」
目の前にある芝生がガサガサと鳴る
幻は唾を飲んだ、しかめっ面をして芝生から片時も目を離さない
「・・・」
ガサッ、と音がした。その音とほぼ同時に何かが現れた
「…竜!」
幻は次に竜の尻尾を見る
「…鋭い!まさか…」
そのまさかであった、竜は鋭い尾を幻に向かって勢いよく振る
「…うぅっ!」
瞬時に幻は後ろに下がる
「幻!!大丈夫か!?」
「う、うん。ちょっと手が切れちゃったけど」
竜は右足を2回、地に擦ると再び彼女に襲いかかる
「コイツ…!!」
すかさず叡智は前に出た、牙が彼女に触れる寸前
「・・・。・・・?」
竜が暴れていた
「ど、どうしたんだ?」
右往左往し、のたうち回っている。竜の尾に何かあった
「…寂滅!?」
奴がのたうち回る理由、それは寂滅が奴の尻尾に噛み付いていたからだ
「アギャウアギャウ!!」
暴れた衝撃でやがて竜の尻尾が引きちぎれる
竜は負け犬のようにその場から逃げた
「・・・・・・・」
寂滅は何も言わず、ちぎれた尻尾を口に咥えていた
「…姉さん?」
幻は姉の腕をつつく
「…うわっ!?姉さん!?」
「な、何食べてるんだ!!?早く吐き出しなさい!!!」
突然、竜の尾を食べ始めた。鋭かろうが何だろうがムシャムシャと食べる
「・・・」
ごくり、と飲み込む音がする
彼女は、何も言葉を紡がない
「ね、姉さん?」
「・・・・・・肉」
「…肉?」
「あっ…あぁ…」
彼女の体が震え始める
「忘れ・・・られないよぉ・・・あの時食べたあの味がッ・・・忘れられないんだぁッ!!!」
そう大声で言う、そしてそのままどこかへ走り去ってしまった
「ちょっ、姉さん!!」
幻は慌てて声をかけて追いかけようとする、しかし彼女の圧倒的なスピードには追いつけず視界から消えてしまった
思い出した
あの日、人の血を飲んだこと
あの日、人を殺したこと
あの日、人の肉を食べたこと
夜、人里は静かだった
寂滅は静かな人里を放浪していた
「・・・」
何やら騒ぎ声が聞こえてくる、近所迷惑だ
彼女は騒ぎ声がする民家を覗く
「・・・暴力」
彼女の瞳に、人間が人間に暴力を振るう光景が映し出される。中には幼子もいるではないか
「…酔ってる」
彼女はその家の屋根に登る
ガチャ
扉が開く音がする、ふらふらと千鳥足の人間が現れた
「・・・」
彼女は屋根から飛び降り…
その人間に襲いかかり、首の骨を折って殺した
「・・・・・・」
「…あ、あの」
背後から怯えた声がする
「・・・・あ、ありが――――」
「勘違いしないでほしいな」
寂滅は重い声でそう言った
「私はただ食糧を探しにきた、それだけだ
まぁ、これを知らせるか知らせないかはアンタ次第だけどな」
彼女は人間の頭を掴み、どこかへ去って行った
あれは罪だったのか
私は暗闇の中、開いても意味のない瞳を開ける
誰かの温もりを感じること
共に笑うこと
幸せを求めること
これは、この現状はそれらに対する罰なのか
私の手は少し痙攣していた
そんな中私の頭にとある人物が浮かぶ
「…俺も、お前と同じ人殺しだ。
目的が違くても、正当防衛であっても…
人を殺したという事実は揺るがない
もちろん、お前の姉も、お前も、お前の妹も…
俺は…ただ自分の欲のために色んな奴を同時に殺した
俺らは所詮、人外だってことだ
そうだろ?人喰い」
私は無意識に耳を塞いでいた
「…じゃあな、また次の世界で」
過ぎた時は戻らない
それは脳を蝕み、己を呪う
秋晴、日の暗さに私は浸る
私は…永遠に変わらないみたいだ
また…鎖に繋がれるみたいだ
この世に確かなものなんて、無いってことなのかな
せめて、幻でも良いから…見せて欲しいなぁ…
…数ヶ月経った
「・・・・」
「…叡智姉、ボロボロじゃない。休みもしないで…
次は私が探しに行くから姉さんは休んでてよ」
「・・・あの子が見つかるまで、休まない」
「だけど…」
「…捜索範囲を広げる、また帰りが遅くなるけど
良い子で待ってるんだよ」
「…はぁい」
叡智は道を歩いていた、その道は一本道で草木が生い茂っていた
「・・・さっき人間達が噂してたが、ここは人喰い狼が出るらしいな。警戒しないと」
足を引きずりながら、よろりよろりと歩く
「・・・?」
微かに歪む視界の中、誰かが映る
「…エルドラド?」
そう彼女は言った、目の前には金色の龍が居た
「…やけに、傷だらけじゃないか」
「人の事…言えるのか?」
「…言えないな、妹を懸命に探してたらこうなった」
「・・・ちと用事があって、来たんだが…突然狼に襲われてな…もし、この先に行くのなら…気をつけろよ」
そう言うと、エルドラドはゆっくり叡智の来た方向へ歩いていく、その際に放った言葉
「・・・影に紛れる一筋の銀の光、それを見た者は居ない。もし、妹に会ったとしても…そいつは…」
「…おい、どういう意味だ?」
叡智は聞こうと振り返る、しかしもう既に彼は姿を
消していた
「・・・あの子が無事だと良いんだが」
「・・・」
叡智は歩を進めていた
「・・・ん」
足を止め、辺りを見回す
「・・・何も、いないか」
そう確認し、再び進む
その直後
「・・・ガウッ!!!」
「…ッ!?」
背後から獣の声がし、叡智は振り向く
そこには狼がおり、彼女に襲いかかる
狼に押し倒される叡智
「…ぐっ、全然気がつかなかった…!
茂みが擦れる音も…何なら足音も私以外一切聞こえはしなかった…!!体毛に僅かに浮かぶ赤黒い色…!
まさか…こいつが…!!」
「バウッ!!バウッ!!!」
狼は牙を剥き出し、爪を剥き出し、彼女に噛みつこうとする、引っ掻こうとする
「・・・?」
必死に抵抗する最中、叡智に疑問が浮かんだ
「…狼にしては、小さい…?それに…牙も…そんなにとんがってないし…爪も…思ったより痛くない…
襲ってるというより…じゃれてる…?」
「グゥ!グゥ!!」
叡智は狼を凝視した
「…この体毛の色…どこかで…もしかして…
寂・・・滅・・・?」
叡智がそう言葉にした時、狼は途端に彼女から離れる
「・・・危なかった〜…」
「…え?」
突然聞こえた声に叡智は動揺する、まさか狼が喋ったとでも言うのだろうか
狼は彼女を一瞬だけ見ると、茂みの中へ入ろうとする
「…待って!!」
叡智の声に狼はぴたりと足を止める
「行か…ないで、行かないで…せっかく会えたんだから…」
さっき聞こえた声が、本当に狼から発せられたのだとしたら…
「寂滅…だよね?そう…だよね?その毛の色に…
声…間違いない…私の可愛い妹だよね…?」
狼はしばらく返事をしなかった、くぅくぅ、という鳴き声が漏れ出すだけであった
やがて、答えた
「・・・いかにも、私は黄泉 叡智の妹、そして
黄泉 幻の姉である、黄泉 寂滅である」
叡智には恐怖などなかった、狼に近づき懐かしげに頭を撫でた
何故帰ってこなかったのか、と姉は問うた
妹の声が答えて言う、自分は今や獣の身となっている
おめおめと姉妹の前に憐れな姿をさらせようか
そして、この姿を見れば誰でも畏怖嫌厭とはいかずとも、恐れるに決まっている。しかし、今ここで血族と会えたことを得て、それさえも忘れるほど懐かしい
どうか、刹那の間だけで良い、私の怪奇たる姿を厭わず、かつて貴方の妹であった自分と話を交わしてくれないだろうか
後で考えれば不思議と考えるのが普通であった
だが姉はこの怪異を素直に認め、少しも毛嫌いしなかった。前と変わらぬあの口調でどうしてそのような姿になったのかを尋ねた、狼は次のように語る
…竜の尾を食らったあの日の夜、まだ騒霊の姿を保っていた私は人里の人間を殺した。叢の中でそれを喰うた時、声が聞こえた。闇の中から私を手招いている。まだ空腹で飢えていた私はその声が聞こえる方へ走った、その先には人間が居た。私はその人間を捕らえ、喰うた。しばらくして気がついた、そこは山道であった。しかも私は手を使わずに口だけを使い肉を貪っていた、左右の手は地を掴んでいた、何やら身体中に力が溢れ毛を生じている。少し日が昇り、明るくなった後近くにあった水溜りを覗き己の姿を映した、そこに居たのは口を紅く染めた狼であった。自分は最初、それを信じはしなかった、そしてこれは夢であると考えた。夢の中で何度かこれは夢であると感じた時があったから。しかし、夢の支配者はいくら待っても現れぬ
夢ではないと悟らねばならなかった時、私は自分を
懼れた。人喰らいの経験がある自分がまさか本当に
人を喰う狼になってしまうとは、深く深く己を懼れた
自分はすぐに死を思うた、こんな姿では護身もできぬ
狩人に撃たれるという死を思うた
その時、目の前に一羽の鳥がひょこひょこと現れた
それを見た時、たちまち私の中の騒霊は姿を消した
再び騒霊が目を覚ました時、辺りには鳥の羽が散らばっていた、これが己が狼であると自覚していた時の始めの経験だった。それ以来どんな所行をしてきたのか
語る必要もないだろう。ただ、一日のうちに数回は騒霊の心が還ってくる、うまく楽器を演奏することはできずとも、人の言葉を話すこともあれば、難解な思考にも耐えうるのだ。その心で、狼としての己の残酷な行いを振り返る時が、もっとも情けなく、恐ろしい。
貴方に会うまで、騒霊としての思い出、そして今となっては騒霊としての自分の姿さえも、あまり思い出せない、霧がかったように、ぼんやりとしか見えない。
貴方に名を呼ばれるまで、私はどうして狼になったのだを考えていたというのに、この間ひょいと気がついた、どうして騒霊だったのか、と。これは恐ろしいことであろう、かつての騒霊は狼の習慣にすっかり埋もれ雲隠れしかけていたということだ。
ちょうど、かつての故き里が消え、新しい土地に塗り替えられるかのように。
だとすれば、私は自分の過去を全て忘れ一匹の狼として荒れ狂い、今日のように道で貴方と会っても姉と認める事なく、骨の髄まで喰らうなんぞ一片の悔いも無いだろう。ああ、私のあるべき姿とは、本当の私とは一体狼と騒霊どちらなのだろう。
私の中の騒霊が完全に消えてしまえば、私はしあわせになれたであろう、だのに騒霊の私はそれをこのうえなく恐れている、あぁ、全く、どんなに、恐ろしく、
哀しく、哀れに、切なく思っているだろう!
私が騒霊だった時の記憶、おそらく覚えているものは限りなく零に近いであろう、そしてそれさえも消える恐ろしさ。この気持ちは誰にもわからないであろう。
私と同じ身の上になったものでなければ。
私は血族とともに騒霊としての生を全うするつもりであった、しかし今狼に変化したという運命に至っている。だが、かつては騒霊、騒がなければ失礼だというもの、思い切りこの身に宿る力を余す事なく使い切りたいのだ。どうか、私と音を風にのせてくれないだろうか。
それを聞いた姉はすぐさま指を鳴らした、目の前には木製の楽器が現れる。狼も続いて楽器を出した
二人の音色が重なる、姉は喜びながらも感じていた
どこか彼女の音の何かが欠けている、と
ふぅ、と息を整えた後の妹の声
憐れなことだが、こんなあさましい姿になった今でも
かつて、舞台上で貴方と貴方の妹とで演奏した日を
夢見る時がある、嗤ってほしい
騒霊とはかけ離れ、さらには狼にも成りきれぬこの私を。
人喰いである自分に嫌気がさしたら狼となった
次々に起こる災厄からは逃れられなかった
今日は誰がこの爪と牙の餌食となろうか
昔は貴方も私も同じ騒霊
私はもはや異物となりて
貴方は今日も世界に音楽を届けに奏でている
闇の中地を照らす月に向かって
私は音を奏でられずただ吠えるのみ
空に昇り始める月
狼は言った、はて月の光はこんなに冷たいものだっただろうか、私の知っているものはもっと暖かったはずであったのだが。
狼の瞳から白露が流れる
狼は続けた
私は他人を傷つけるということをひどく嫌っていた
私はそこに居ればそこに居る者を傷つけてしまう
だから遠くへ行ってしまおう、そう考えたこともあった。だが、一人というのもまた嫌気さすもの。
誰かを傷つけるということへの臆病と孤独への恐れが私の中で巡り巡った。誰でも猛獣を従えている、それに当たるのが各人の性情だ。私の場合、この孤独への恐れが猛獣だ、狼だったのだ。これが私を損ない、血族を傷つけ、私の外も内もことごとくふさわしいものに変えたのだ。
私にはもう騒霊としての生き様を謳歌できぬ
今、私が素晴らしい曲を作ったとてどうやって他人へ伝えようか、どうすればいいというのか
私のかつての過去はどうなる?
私はたまらなくなる、そして私は山の頂に登り天の原に向かって遠吠えする、私は昨日月に吠えた
私の記憶に僅かながら残っている月に向かって。
しかし、私の声を聞いたものはみな畏れひれ伏してしまう、森羅万象全てがただ狼がと喚いているとしか考えていないであろう。天に懺悔し、地に伏して泣き叫ぼうが誰も理解はしてくれない。
「・・・」
「・・・」
しばらく二人は黙っていた
「…貴方は、このままここで過ごして…ずっとみんなに恐れられるままで良いの?」
「…構わない、と言えば嘘になる。だけど、姉さん達のところに行ったら、姉さん達を傷つける。
だから、私はここに居る。傷つけるくらいなら、私は…孤独を選ぶ。たとえそれが自分をひどく苦しめようとも」
「…私は、そんなの嫌だよ。幻だってそう思うはず」
「でも、もう私は騒霊の時の姿を覚えてないんだ。
ずっと…このまま狼の姿で過ごすんだよ」
「・・・・・」
すると叡智はポケットに手を入れ、何かを取り出す
「…それは」
「…あの時から、ずっと大事に持ってたんだよ。
ほら…これ、あの時最初に撮った写真」
彼女の手に握られていたのはロケットだった
カチリと開き中身が開く
三人の姉妹が写っている写真であった
それを見た狼は息が止まりそうになる
「…貴方は臆病じゃない、誰かを傷つけたくないのは貴方が優しいから…それは良い事だから、だから貴方はそれを誇りに思って良いんだよ?それに、孤独が嫌ならお家に帰ってくればいい、私は貴方を歓迎する。
貴方が騒霊の姿でも、狼の姿でも…
貴方は私の大事な妹なんだ」
「・・・・」
やがて狼から再びくぅくぅ、と声が鳴る
叡智は狼の頭に触れる、手は首へ、そして背中へ
ゴワゴワとした感触は、彼女が狼だということを証明する
トコトコ、トコトコ
「…誰か、来る」
遠くから微かに聞こえる足音を二人は聞きとった
「・・・貴方を見たら、大変なことになる」
「・・・」
「…貴方は人間に恐れられている、きっと貴方は人間に退治される。それは、姉として一番避けたいこと」
「…どうするの?」
「・・・ならばいっそ、貴方は死んだということに
しておこうか」
山道、人間が通る
「・・・ん」
目の前に、一人の少女が見えた
少女の目の前には、狼が倒れていた
血生臭く、ぴくりとも動かない
「あの…そ、それは…」
少女の手には、ナイフ
「…背後から襲ってきてね、思わず刺してしまったよ」
「その狼…もしかして」
「あぁ、そういえば人喰い狼の噂があったね。
まぁ、次の日から人が喰われた形跡も伝達もなければそういうことだ」
「なる、ほど」
「もったいないから持ち帰って剥製にでもしようかな
それじゃあ私は行くよ」
少女は狼を抱え、歩いていく
「・・・よし、起きて良いよ」
「・・・クゥ」
「…狼の毛ってゴワゴワしてるんだなぁ、てっきりすごいモフモフだと思ってたんだけど」
そう言い叡智は狼を撫でる
「…あ、凄い毛が抜けた」
彼女の手に大量の狼の体毛がくっついていた
彼女が歩くたびに、パラパラと軌跡に体毛が落ちる
「・・・バウッ!」
「あわわっ、どうしたの?」
狼が暴れ、叡智の腕から降りる
ブンブンと身体を振った、体毛が勢いよく舞う
「・・・?」
宙に舞った毛が大人しくなった時、叡智は目を見張った
彼女の目の前には、かつての騒霊としての妹が居た
「寂…滅…?」
「姉…さん」
ふらふらと立ち上がる寂滅、よろけながらも叡智に近づき、抱きしめた
「…やっぱり、狼じゃなくて騒霊の方が良いな…
自分は狼じゃなくて騒霊…そうだよね?」
「・・・うん」
姉は妹を抱きしめ返した
「・・・帰ったら、お風呂だね」
叡智は寂滅の血が付着した頬を拭いながら言う
「…姉さん」
「…ん?」
「幻に会ったら…謝らなきゃ。帰るの遅くなって
ごめんって」
「…ん、姉さんおかえり〜…」
玄関を開けると、妹が目を擦りながら現れる
「幻、ずっと起きてたのか?」
「今さっき起きたの」
幻は叡智の奥の方を見る、その瞬間寝ぼけ眼が嘘のようにぱっちりと覚醒した
「…寂滅…姉」
「…ただいま、幻」
幻は寂滅の腕の中に勢いよくダイブする
「あの日から今までどこ行ってたんだよ!
ずっと…寂しかったんだから!!
あっ!何か凄い自然の匂いがする!!!」
「ごめんね、帰るの遅くなって…
あー、でもまず部屋に入らせてくれないかな…?」
「あっ、今日姉さんと一緒に入る〜」
風呂場へと向かう姉妹
「あー、それは構わないんだけど…姉さんは?」
「あれ、叡智姉いつのまにか居ないや。部屋かな?」
「…まぁ、姉さんお風呂入るの一番最後だし、先に入ろうか」
「うん!背中流しっこしよう!!」
幻がそう言った少し後、後ろからドタドタと音がする
「二人共!背中流しっこTimeか!?混ぜてくれ!!」
叡智が勢いよく飛び出す
「わぁっ、姉さん何してたの?」
「着替え取りに行ってた、置いていくなんてひどいじゃないかー」
「いや、いつのまにかいなかったし」
「叡智姉もする?」
「もちろんだ!妹のありとあらゆる部位を合法的に
触れる!こんな好機を無駄にしてたまるk」
「・・・やっぱあの時喰えば良かったかなー」
「きもちいいとことかある?」
「んーとね、あっ、そこ気持ちいい、ふぁ〜♪」
風呂場にて、寂滅は妹の髪を洗っていた
「・・・ぶくぶくぶく」
叡智は湯船に入っていた、鼻より下を湯の中に入れている
「姉さんそんなことしてると溺れるよ?」
「…いやぁ、二人がそうしているの見てるだけで
私は嬉しくtごぼごぼがぁっ!!!」
「ほーら言わんこっちゃない」
若干呆れ気味に言う妹
「それじゃ、流すよー」
「はーい」
泡立った幻の髪を湯で洗い流す
泡と湯が妹の肌を伝ってゆく
それを払うが如く、ぷるぷると身震いをした
「じゃあ、次は背中洗うよ」
寂滅は手に取ったタオルを濡らし、石鹸で泡を立てる
泡まみれのタオルが妹の背中に触れる
「ひゃうっ」
ぴくり、と妹の体が跳ねた
「…くすぐったい?」
「ちょっとだけ」
背中をゆっくりタオルで擦る、そのうち妹の背中は
白い泡で埋め尽くされた
「そろそろ流すね」
再び湯が泡を流す
「んー…」
突如、寂滅は何かを考える
「姉さん?」
「…えいっ」
「ひゃぐっ!?」
幻の首根っこを軽く揉む
「ひゃっ、姉さっ、それだめっ、やべっ気持ちいぃ…」
「ほれほれ〜」
親指でぐりぐりと押す
「ひうっ、ひぃっ」
体がぴくりぴくりと反応する
「…すんごい可愛い」
その光景を見た叡智は真剣な顔つきで言う
「ね〜」
「もうやめてって、お願いっ、ひぐっ!」
しばらくして、ぴたりと寂滅の手が止まる
「はぁ…やっと…止まったぁ…」
幻の体はまだぴくぴくしている
「・・・」
寂滅は黙っている
「…寂滅?」
「…へっ?」
「ぼーっとしてたよ」
「あっ、ごめん」
「・・・・姉さんにもやってやる!!」
「わっ、ちょ、幻危なっ、わひゃっ、くすぐったい!」
妹二人がじゃれるのを叡智は微笑みながら見ていた
「・・・・やべ、のぼせた」
「・・・三人で寝るのは、久しぶりだね」
「うん」
姉妹は川の字になってベッドに入る
「ぎゅ〜」
「わわっ」
幻は寂滅を抱きしめる、猫のような欠伸をした後
そのまま眠った
姉二人は目を見合わせて
「…おやすみ」
「おやすみ、姉さん」
ともに目を閉じた
・・・・・。
目の前に、誰かが居た
私だった
過去の私だった
何で、私は泣いてるんだ
私は私なりのつもりなのに
何で笑ってる私を見てさ
死にたがりのお前が泣いてるの?
…悲しくて泣いてるんじゃない
嬉しくて泣いてるんだ
好きな人達と一緒に過ごせて
幸せだから泣いてるんだ
…お前の声も、お前の私も全て私には愛しくて
お前が嫌いだった毎日を、私は愛して生きたいんだ
消えかけてる私の瞳は涙一つも流れないや
このまま私が消えてしまうとしたら
誰か私のために泣いてくれるのかな
悲しむ人がいる人達が羨ましくてたまらないんだ
私はお前と同じだというのに
姿形も同じだというのに
お前は全力で私を否定した
助けを求めても
誰も私を助けてくれないんだ
お前を、他人を憎んでいたんだ
ただ私は自分という存在を認めてほしかったんだ
それだけなのに、挙句の果てには
私のせいにされて…
私は世界が嫌いだ
それ以前に自分が嫌いなんだ
だけど悪いばかりじゃない
嫌いになりきれない
それが余計に嫌気がさすんだ
私は貴方を抱きしめた
「これが私なんだ、ごめんね…ごめんね…」
泣きながら私はそう言った
どうか、お願いだから、最後にさ
生きててありがとうと言ってくれ
私の存在を認めてくれ
私が生きたしるしを忘れないで…
(・・・・まだ、夜か)
目を少し開ける
(…姉さんは、トイレ…かな)
重い瞼を閉じようとする
ガチャリ、とドアが開く音がする
「・・・・」
聞こえる頭を掻く音、欠伸の音
「・・・んふっ!?」
寂滅の体が後ろに引っ張られる
叡智が彼女の体に密着し、寝ている
「・・・」
気づけば姉の右手と彼女の右手が絡みついていた
姉の手の甲に自分の頬を擦りつける
彼女の柔らかい頬が姉のすらりとした手に触れる
「・・・・食べたい?」
突然聞こえた声、喉奥から心臓が出そうだった
「お、起きてたの?」
「今起きた」
「べ、別に美味しそうだとかじゃなくて、単に綺麗な指してるなって思ってただけだよ」
「そうなんだ」
「それに…姉さん達だけは…ほんとに食べたくない」
「んー…」
少し考える素振りをした叡智は
「んふっ!?」
寂滅に覆い被さる、布団のように上にのる
「ね、姉さん?」
右手が妹の頬に触れる、左手はベッドのシーツを
握りしめていた
「私は…貴方のこと、食べたいな」
「…へ?それってどういう…」
彼女が喋る途中、口が突然何かに塞がれた
叡智の唇が彼女の唇に重なっていた
「・・・・え?…え?」
今起きたことが理解できなかった、理解してはいけないような気がした
叡智は顔を伏せながら言う
「…ごめん、久しぶりに貴方に触れられたことが
嬉しくてさ…貴方をしばらく視界に入れてなかった
それが本当に辛かったんだ…ごめん…ごめん…」
姉は震えながら謝った
「…触れられなかった分、たくさん貴方に触りたいんだ、いっぱい…いっぱい貴方を感じたいんだ…
傍にいるって思いたいんだ…甘えたいんだ…
大好きな貴方に…甘えたいんだ…」
妹は何も言わず、萎縮した姉の頭を撫でる
今、目の前には自分しか知らない姉がいる
伏せていた顔を妹に見せた、赤面したその顔は
まるで好きな人と対峙した時のような
甘い吐息が妹の顔に当たる
「…はぁ…はぁ、貴方達からしたら…私はきっと
かっこいいお姉ちゃんか何かなんだろう?
だけど…私はかっこよくも何でもない
ただの妹が好きすぎる変態な姉なんだ…
いつもは変な言葉平気で口走ってるのに…
今となってはそれすらも出てこない…
姉の威厳なんてどうでもいい…
ただ、貴方に触れたい…甘えたい…
そんな私を…許せとは言わない…
明日は…またいつもの姉に戻る…
だから…今夜だけ…今夜だけ変態な姉で居させて…」
姉の口から次々と出る言の葉
妹は何も言わない、ただ頬を赤くしているだけ
こんな姉でも愛しいと思える私はおかしいのかな?
いや…おかしくはないな
だって、大好きだし
私はいつから寂滅であったのだろう
でも、姉さんと居られるのなら
幻と居られるのなら
私は寂滅で居たい
何度でも過去を振り返るし、呪うし、嫌う
もう立ち直るだなんてやめたやめた
誰かと生きられるのなら、それで構わない
忘れられない時間はまだ終わってないのだから