異世界マッディール
「ん……」
日野葵が目を覚ますと、白い天井があった。天井の中央には、八面体型の照明が取り付けられている。
起き上がって、ベッドの左にあるカーテンを開く。窓の外はどこまでも広がる大海原。昇り始めた太陽の光が波に反射してきらめく。
青の広がる風景の向こう。水平線の遥か上の空に、途方もなく巨大な岩が浮いていた。岩の上には木々の緑がある。島だ。
(この光景、まだ慣れないなぁ……)
葵が地球からこの世界に迷い込んで、既に二日が経っていた。
この世界は『マッディール』と呼ばれていると、リリアが教えてくれた。陸地が全て空に浮いているらしい。
実際、葵は森の中で助けられた後、日本へ行く手がかりを探して出航した銀竜号から、いくつもそんな島を見てきた。
ベッドから降りる。着用しているワンピース型のパジャマは、彼女にぴったり。リリアが葵の寸法を計り、すぐに手縫いしてくれたものだ。作業開始から完成までおよそ一時間弱。神速の縫製技術だ。
葵は眠気でふらつく足を引きずりながら、船内に与えられた自室のドアを開く。廊下へ出て左、その先にある洗面台へ。
鏡に丸っこい顔をした黒のショートヘアが映っている。葵の顔だ。
蛇口の栓を捻れば水が出る。それはどこの世界でも変わらないようだ。冷たい水で顔を洗いながら、葵は初日にリリアから教えてもらったことを思い出していた。
『マッディールにぬしらの世界と違うところはいくつもあるが、一つはなんと言ってもわしら『精霊』の存在があることじゃ』
精霊というのは、この世界に古くから存在する精神生命体……らしい。その精神生命体というのがいまいちよくわからないが、とにかく人間や動物とは大きく違う存在ということのようだ。
リリアも実年齢は数百歳を超えているらしい。
ちなみに山田なでしこは二十歳。なでしこはリリアと契約した契約士で、彼女と契約してその力を借りているそう。
『じゃあ、私を襲った狼男も精霊なんですか?』
葵がそう訊ねるとリリアは苦い顔をして、
『あれも精霊の一種じゃが、他の精霊や人間を喰らう性質を持っておってな……。一般に邪霊と呼ばれておる。わしらの天敵じゃ』
と教えてくれた。
そうらしいとかようだばかりなのは、二人が不親切というわけではなく、むしろそういうのを後回しにして、葵の環境を整えてくれたからだ。
客間として使っていた部屋を使わせてくれたのはもちろんのこと。さらに食べ物の好みやどういう環境が落ち着くか、どんな服が好きかなど事細かに聞いてきて、葵が要望すればそれを可能な限り用意してくれると言ってくれた。
例えばエビやカニが苦手と言うと、甲殻類は食卓に出さないと約束してくれた。
幸い、この船で出された料理はどれも美味しいかった。食事はなでしことリリアが交代で行っているそうだ。
(なんだか申し訳ない……)
命を救われ衣食住を世話され、その上で何もしてないとそんな気分になってくる。
それに、帰れるかも判らない以上、この世界でできることを増やすのは得策だと思う。
そういったことを昨日の夕食時に告げると、二人は簡単な船の仕事の一部を葵に手伝わせてくれると言った。今日はその初日だ。
顔を洗い終わると、ようやく眠気が飛んできた。廊下に戻り、今度は居間へ入る。
「あれ?」
広い食卓と台所が一緒になった部屋には、誰もいなかった。昨日まではなでしこかリリアがいて、朝食を作ってくれていたのだが。
(寝てるのかな?)
台所には調理器具が揃っているが、葵はあいにく、生まれてこの方包丁すらろくに握ったことがない。それに食事はいつも二人に世話になっていたので、この世界の食事の作り方も判らない。
そういえばと、葵はいつかリリアが言っていたことを思い出した。
『わしらはなるべく早起きして飯を作るようにしているが、たまに寝過ごすことがある。日が出ても飯が出来てない時は、遠慮なく起こしてくれ』
(じゃあ、起こしに行った方がいいんだよね……?)
というより、起こしに行かねばならない。さすがに空腹のままでいるのは葵も辛い。彼女は廊下に戻り、来た道を逆に辿る。自分の部屋の隣、洗面台と反対方向にあるのがなでしことリリア、二人の部屋だ。
ドアをノックし、控えめに呼びかける。
「リリアさ~ん、朝ですよ~」
今日の食事当番を呼ぶが返事はない。もう少し待とうかと思ったが、遠慮なく起こしてくれと言われた以上、中途半端で終わらせるのはダメだろう。
「入りますよ二人とも」
ドア越しに少し声量をあげて呼びかけると、葵は意を決して部屋のドアを開けた。
ベッドの上で全裸の二人が抱き合っていた。
「うわあぁ~~~~!?」
葵はびっくりして叫んだ。その声でリリアが目を覚ました。
「ん、なんじゃ葵か。いったいどうし……そうじゃわし今日当番ではないか。いやすまん。今から作るぞ」
「な、なにをしてたんですか……?」
素っ裸のままベッドから降りたリリアに、葵は震える声で訊ねた。
「なにっておぬし……そりゃナニじゃよ。わかるじゃろ? 昨日は少し白熱してのう。遅くまでかかった」
「ふ、二人ってそういう関係だったんですか!?」
「うむ。そうそう。いわゆるこういう関係じゃ」
とリリアはひとしきりうなづいた後、小指をびっと立てて見せた。
(ジェスチャー古っ)
心の中で突っ込む葵に、リリアがぬっと顔を近づけ、熱っぽい視線で彼女を見上げる。
「なんなら、おぬしも混ざるか?」
「え……!?」
とんでもない申し出に葵は固まる。
「いやでも、私……そういうのは、ちょっと……。それに、これって浮気じゃ……」
「なぁに気にするな。楽しいことは大勢でやるともっと楽しくなる。それに、おぬしが混ざるならなでしこも喜ぶ」
「で、でも私そういう経験ないですし……」
羞恥に頬を染める葵に、リリアは顔をにやけさせる。
「かわいい反応じゃのう。心配せずとも、わしらが手取り足取り教え……痛たたたた!!」
いつの間にかベッドから起き上がっていたなでしこが、リリアの両頬をつねった。
「な……なんじゃなでしこ!? 心配せずともおぬしのことは一番に……」
「子供をこういうことに誘っちゃだめでしょ……!!」
ちなみに、葵が未成年であることは二人に伝えてある。酒やタバコのような、子供には影響の強すぎる嗜好品があるかららしい。
なでしこがつねる力をさらに強める。
「いや、冗談!! 冗談のつもりだったんじゃ!! すまん!! やめてくれ! ほっぺ千切れる~~~~!!」
尻尾を情けなく垂れ下げながらリリアが懇願すると、なでしこは彼女の顔から手を離し、
「反省したら食事の用意! ゴー!!」
「了解!!」
犬のように忠実に、リリアは部屋の外へ飛び出していった。なでしこはそれをやれやれといった様子で眺める。
「悪いね、ウチのエロトカゲが……」
「い、いえ! そんな、気にしてないです……」
首を横に振る葵の視線は、ふと気がつくとなでしこの身体に移っていた。
全身にシミ一つない、透き通るような白い肌。肩には下ろした黒髪がかかっている。筋肉で引き締まった腕や脚、腰。
それでいて胸と尻はすごい。ぼんっと脂肪が詰まっていて、存在感が大きい。その上形もいい。
(な、なんかドキドキする……)
さっきリリアに誘われたからだろうか。生唾をごくりと呑み込む。その視線に気づいたなでしこが、両手で股間と胸を隠し、涼しい顔でひとこと。
「えっち」
「わっ!! し、失礼しましたーー!!」
恥ずかしくなった葵は、勢いよく頭を下げると部屋の外へ。
「ご飯の用意、手伝ってきます!!」
部屋から出る瞬間、葵の目に壁に取り付けられたあるものが入った。
壁に埋め込まれた棚、ガラスのように透明な蓋の向こうに、白い壷があった。高さは20センチくらい。飾りも模様もない。金属製の蓋が金具でしっかり固定されている。
(インテリアっぽくない……)
ああいう風に飾るにはそぐわないように思えた。場違いな感じがする。
葵は妙にその壷が気になったが、じっくり見る余裕などなく、急いで朝食の準備へ向かった。
次回の更新も二日後です。