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ビターチヨコレイトの話

 二年度は同じ学級になつた。初詣で祈つた御利益が有つたのかも知れない。席は離れてゐるが、一年生の頃よりは自然に話をする機会も増えた。それでも気恥しさもあり、なかなか教室では会話することができなかつた。また、この頃から自分達の日常に一寸した変化が起こるやうになつた。

朝の昇降口。女生徒同士の他愛無い会話。

 「メノメノ、再た再た後輩からお手紙貰つたの?私にも見せてよ。」

 「駄目だよ……書いた子は私だけに宛てたんだから。」

 「でもでも、再た再た断つちやうんでせう?」

 「それでもだーめつ!……あつ、お早う、憶介君。」

 男子生徒の姿を見て、一方の女生徒が封筒を慌てて隠す。もう一方の女生徒は、友人を置いて悪戯さうに笑ひながら去つて行く。こんな光景が、学期の中頃には私達にとつて恒例となりつつあつた。

 「恋文ラヴレター、再た貰つたんだ。」

 「うん……でも、断るよ。」

 そんな会話を、半月に一度くらゐはしていたと思ふが、もしかしたらもう少し頻繁だつたかも知れない。後輩から人気の先輩の噂といふのは、大抵どこにゐても耳に入る。無論、入つて来る情報には他人事でないものも有るので、後輩達には悪いが斯うした出来事が起こると気が気ではなかつた。家に帰り、机に向かひながらその日の会話を思ひ出す。課題のプリントを広げ、ペンを持つが、上の空だ。あの時、会話をしながら自分はどんな表情だつたらうか。あの人は、どんな表情で私と話してゐただらうか。思ひ出せない。課題は全く手に付かず、背凭れに深く凭れて白く古い天井を見上げる。灯の脇に、黴の様な黒い斑点が目に入る。

 相手の感情が気にならないと言へば、嘘になる。その頃までは何となく、自分が思つてゐるのと同じ様に、相手も自分を見てゐるだらうと思つてゐた。自分が相手に怎う思はれてゐるのか、何の保証も無いのに。今日の私はどんな風に見えたのだらう。……いや、そもそも私を見てゐるといふ事自体が思ひ違ひではないだらうか。考へてゐると、ふと視界が歪んだ。天井の小さな斑点が蠢き、一つに合はさる。水に落ちた墨水インクの様に、不安が心を暗く染めてゆく。この時の私は、どんな表情だつたらうか。


 梅雨の終りの頃、久し振りに図書室で話をした。教室で毎日顔を合はせてゐても、図書室で会ふのは、依様両人にとつて少しだけ特別だつた。最初のうちは大した事のない話をしてゐたが、何かの拍子にその少し前の日の出来事の話題になつた。何のことはない、学校にはよくある、珍しくもない出来事。生徒会役員の一年生男子が、同じく役員の二年生女子を呼び出して告白したといふ話――珍しかつたのは、この会話をしてゐた両人のうち一方がその当事者だつたといふことだつた。この時の会話は、あまり思ひ出したくはない。……今でも、自分を嫌ひさうになる。

 「然ういへばさ、一年生の堅物さうな書記に告白されたつて聞いたよ。」

 「本当に真面目といふか、お堅いといふか、皆手紙ばつかりなのに呼び出すんだもん。吃驚しちやつた。流石お坊ちやま育ち。」

 「あいつの家つて東の方で山とか畑とかたくさん有るんだつてね、お金持ちで、育ちが良いんだらうな。」

 「然うらしいね。」

 この時、相手の表情を見てゐなかつた。少し声のトーンが下がつた様な気がしたのは、恐らく気の所為ではなかつたのだ。

 「いい育ちの男なら、白老さんと釣り合ふんぢやない?折角だし、少しくらゐ話を聞いてみたら?」

 「……何、言つてるの?」

 「ほら、白老さんはお嬢様だし、同じ様に良い家の相手の方が色々といいんぢやない?」

 会話しながら、いつかの記憶を捺擦つてゐた。嫌な記憶、父との会話の記憶。――然ういふ子とは、相手にも困つて了ふだらうから――。然ういふ子。身分の違ふ子。相手と同じだけの生れなら、同じだけの育ちなら。いつか反撥し、いつからか見ないやうにしてゐた私達の現実。何故こんな会話を始めて了つたのか、今となつては判らない。しかし、私のそれほど長い訣ではない人生の中でも、二番目に不快で、二番目に忘れたい記憶となつたのは確かだ。

 「お嬢様だから何?何でそんなこと憶介君に言はれなきやいけないの?生れた家が何なの?生れる家を自分で選んだ訣ぢやないのに、何で、怎うして……。」

 「ごめん、落ち着いて、変な意味で言つた訣ぢやなくて……。」

 「それぢやどんな意味?ふざけないで。皆、皆、誰も私のことなんて見ないで『お嬢様』、『県議の娘』!馬鹿ぢやないの?親が偉かつたら子供も偉いの?私は普通の子でゐちやいけないの?何度普通の家に生れたら好かつた、『先生』が父親ぢやなかつたら好かつたのにつて思つたか解る?たつたそれだけのことでどんなに我慢することが多かつたか、どんなに周りの子が羨ましかつたか、憶介君に解る?友達が楽しさうに遊んでゐるのに、危ないから、『お嬢様』らしくないから、どんなに我慢したと思ふ?今度は好きな人まで『お嬢様』らしくないといけないの、ねえ、教へてよ?私は誰なの?私は何なの?ねえ、ねえ、……。」

 「やめろよ、そんな言ひ方、自分がどんなに……、ごめん、何でもない。本当に……ごめん。」

 司書や周囲の生徒が皆、自分達を呆然と見てゐるのに気づくと、両人で図書室を出た。教室に戻るまでの間、一言も口を利かなかつた。

 私は、この時のことを一生忘れられないと思ふ。お互ひに触れてこなかつた、両人の間の壁。それは、自分を縛り付ける鎖となりつつあつた、生れといふ変へやうのない事実。しかしこの頃の私には、まだ相手の生れまで思ひ遣る余裕は無かつた。自分だけが不幸に生れ、相手は然うではないと勝手に思つてゐたのだ。あの人がこの時見せた表情を忘れられない。悲しみ、困惑、怒り、諦め、然うした感情がぐちゃぐちゃに混ざつた、冷たい目……。あれから後、この日のことを何度後悔したか判らない。そしてこの日、私は意を決したのだ。壁を、鎖を壊す決意を。


 翌日、図書室での出来事をお互ひに謝り合つた。級友の間でも噂になつてゐたらしく、揶揄ふ様なことを言つてくる友人もゐたが、私の心は既に次に向いてゐた。

 放課後の行動パターンはお互ひ判つてゐる。女生徒は生徒会役員として生徒会室と他の部屋を往復する。男子生徒は運動場の端にある自転車部の部室に行く。雨の日ならば、自転車部の活動場所は体育館になる。決まつた生活パターン、これ以外の動きになることはほぼ無いことは、この一年で判つてゐる。これが問題だつた。就ち、帰りのホームルームを終へると、最早自然に遭遇することは有り得ない。昼休みも同じ様な行動になるが、いづれにせよ偶然に出会でくわすことは無い。考へながら、その問題となつてゐるいつものパターンを実行する為に階段を急ぎ下りてゐると、部活動や委員会などの活動を纏めてゐる、学校指定の筆記を教室に忘れてゐることに気付いた。考へ過ぎる余り、持ち物を忘れたらしい。今下つて来た階段を上らうと振り返つた時、踊り場の窓から差す日光が目に入つた。稍々目眩がし、そして俄に全てが繋がつた。心の中に一つの道筋が浮かび上がる。

 (然うか……、これならいける……!)

 初詣の御利益を受けながらも、神が存在するか否かはあまり考へてゐなかつたし、今でも判らない。しかし、あの時私に知恵を授けたのは、紛れもなく悪魔だつた。そして、最も不快で、最も忘れたい事件を、私は自ら起こして了つたのだ。


 両人の関係に就て、全ての鍵を握るのは先生だつた。先生……白老栗路は郡一番、県下でも有数の大地主である白老家の当主であり、帝大を出た後、一族の経営する地元企業の社長となつたが、一方で気取つた様な態度を見せずに寄付や慈善事業を積極的に行つてゐた。彼が最も力を入れたのは傷病者や貧困層などへの支援であり、然うした弱者への温情から人気を得て県議に当選したのだつた。小学校以来、「地元の立派な人」として度々学校にも招かれてゐたので、友人も皆知つてゐることだつた。

 しかし、飽くまで彼は郷紳であり、上流階級の人だつたのだ。先生の考へでは恐らく、弱者は博愛の精神で助ける対象ではあつても、親しく接し縁を結ぶ対象ではない。それは、親の言ふままに如何にもお嬢様らしい習ひごとをし、乱暴な遊びには決して参加しなかつた彼の娘と何年も一緒に過ごした同級生は、皆知つてゐることでもあつた。……偽善者め。しかし、その時はそれに感謝した。それを利用して、自分の望む未来を手に入れられる。その道筋が、私の頭の中には組み立つてゐた。


 決行の日。その日は朝から何も手に付かず、ただただ時間の経つのを待つてゐた。一分一分が長い。授業も休み時間も、普段の三倍以上長く感じる。余程異様な表情を浮かべてゐたのだらう、四限を担当する教師が、体調が悪いなら無理をするなと言つてきた程だ。時間の過ぎるのを只管待つた。そして、放課後になる前にしておくべき下準備が有る。下準備……自転車部の活動日誌を、こつそりと鞄から出して机に入れておくこと。部活動が始まつたら、その日校舎に戻る理由は無く、部活動を抜け出すことも有り得ない。しかし、活動を全て記録することになつてゐる日誌を教室に忘れてしまつたら怎うだらうか。これを忘れた自転車部員が大急ぎで教室に戻つたとしても、何も不思議ではない。道具の出し入れや準備運動などをするまで日誌を使ふことは無いので、鞄を開ける頃には校舎に残つてゐる生徒も文化部の生徒と生徒会役員とだけになつてゐる。加へて、文化部の生徒は部室に閉じ籠もつて出て来ない。これも一年余りの間で確認済みだつた。この日に限つての例外でなければ、校舎は実質無人と言つて可い状態になる。

 しかし、問題はいつ取り出すのかだつた。部活動以外で使ふことは無いのだから、常に鞄に入つたままであるし、取り出すのを人に見られる訣にはゆかない。何故取り出したのかと友人から尋ねられることは容易に想像できるし、然うしたらその場で鞄に戻さぬと不自然だ。取り出したことが自然になるやうな状況……思ひ浮かんだ唯一の機会が、掃除だつた。机を運ぶ時に鞄を落とし、中身を集めるふりをして机に戻せば、仮に他の自転車部員がその場にゐたとしても自然に映るだらう。……完璧だ。思はず笑みが零れる。後はその時を待ち、如何にも自然な風を装つてゐれば可いのだ。

 放課後。私はあまりの緊張に、気が狂ひさうになつてゐた。お互ひの放課後の活動は毎日ほぼ変らない。機を過たず、決して惑はず、淡々と動けば可い。何をすべきかは全て決まつてゐる。そして、4階まで続く校舎の階段を急ぎ駆け昇る足音が反響する。大急ぎの二段跳ばし、モデラートの足音が、一歩一歩強く響く。タイミングは間違つてゐない。後は階段を上りきつたところで――。


 忘れ物を取りに階段を駆け昇つて来た男子生徒。生徒会の書類や冊子を運ぶ女生徒。何が不自然だらうか。タイミングは完璧だつた。私達はぶつかり、舞ひ散る書類、後ろに倒れる女生徒、床に落ちる冊子、……そして階段を転げ落ちる男子生徒。誤算だつたのは、怪我の程度は覚悟したよりも酷かつたことだ。自転車部の継続は不可能、それどころか後遺症が一生残る。後日それを知らされた時には、流石に動転した。怪我をすることは当然に予測してゐたが、やや重い捻挫程度で済むと思つてゐたのだ。この時初めて、取り返しのつかぬ過ちをしたのだと気付いた。私は、その程度に愚かだつた。

 次に私達が教室で会つた時の話は、改めて思ひ返すまでも無い。駆け寄る女生徒が、怒鳴りつけられる。

 「おい!君の所為で、脚が……、部活が……、一体怎うしてくれるんだよ……!」

 対して、女生徒は力無く跪いて「ごめんなさい」を繰り返し、次第にそれは涙声になる。それでも、怒声は止まなかつた。

 「何がごめんなさいだよ……この脚が治るのか?然うして謝れば何でも解決できるのかよ?」

 「ごめんなさい、何でもする、治療費だつて払ふし、大きな病院で見てもらへるやうに先生にお願ひするから……。」

 この言葉が、火に油を注いだのは言ふまでもないだらう。無論、悪意有つての発言でないことも言ふまでもない。しかし、この時には両人ともとても冷静ではなかつたし、図書室での諍ひの後なら尚更適切な言葉とは言ひ難かつた。

 「然うだよな、金が有れば何だつて解決できるよな?親が偉ければ貧乏人が怪我したつて何ともないよな?どうせ相手の気持ちなんか何時だつて考へてなんかないんだらう?」

 大声で怒鳴りつける男の声に、隣の教室からも野次馬が飛んで来た程だつた。彼らは最初、泣きながら何度も土下座する女生徒にぎよつとしてゐたが、怒鳴り声の主を見ると、何も言へず黙つて了つた。脚に包帯を巻き、松葉杖を突く自転車部のエース選手。土下座する女生徒。事故に就て詳しく知らない生徒も、この時に大約おほよその事情を悟つたらしかつた。

 「……どうせ、僕に優しくしてゐたのだつて、先生譲りのお情けなんぢやないのか?」

 「待つてよ、それは言ひ過ぎ……。」

それまで傍観してゐた他の女生徒が口を挟むが、構はず罵りは続いた。

「どうせ『可哀想な子には優しく』とか何とか言はれてたんだらう。こつちのことなんか何も見えてないくせに、困つたら金を出して逃げればそれでお終ひだもんな。」

泣きながら謝罪の言を繰り返すばかりだつた女生徒は顔を上げ、反論した。

「それは違ふ、違ふよ……!先生なんか関係無い、私が然うしたかつたから、憶介君と話したくて、近くにゐたくて、だからずつと……でも、ごめんなさい。迷惑だつたよね。こんなの嫌だよね。本当にごめんなさい、ごめんなさい。」

 「……言ひ過ぎた。もう泣かないで、……ごめん。」

 今度は男子生徒が謝罪し、女生徒を抱き締めた。普段だつたら誰が見ても茶化しただらうが、この時、両人とも泣きながらの抱擁を笑ふ級友は一人も無かつた。男子生徒も涙を流し、泣き止むやう言われた女生徒も依様涙を流したままの抱擁は長く続き、結局、担任が教室に入つて来るまで私達は抱き合つたままだつた。

 この朝の出来事で、脚の怪我については同級生皆の知る所となつた。中には痴話喧嘩の末に男子生徒が階段から突き落とされたといふ様ないい加減なものもあつたが。この時の私は本心で行動してをり、打算は無かつたものの、結果として両人とも学年中の生徒から同情を買ひ、今日まで終に誰からも怪しまれなかつた。然う、あの人すら、あれ以来私を怪しまなかつたのだ。

 しかし元々、友人の同情を得たいが為に危険な計画を立てた訣ではない。本来の狙ひが有つた。そして、この後は恐ろしい程に物事が狙つた通りに動いて行つたのだ。更に、一生残る後遺症がここでは天の与へた贈り物となつた。


 「この度は……、私の娘が誠に申し訳ないことを致しまして、親として遺憾に堪へざる限りでございますが、しかるにご子息……憶介君の為に、全く申し訳ありませんが、微力ながら私に可能なことならば如何なる支援でも喜んで致します故に、……。」

 哀れな県会議員は、古びたアパートの床に娘と共に頭を擦り付けて長々と謝罪を述べ、可能な支援は何でもすると誓つた。これまで弱者の為に活動してきたといふ事実が、先生にとつて大きな鎖となることは間違ひないといふこと。これは最初から予測できてゐた。自分の娘の所為で怪我をした人間を捨て置く筈が無い。傷病者への支援が支持される大きな理由となつてゐるのだから、非道なことをすれば政治生命を絶たれる。当時ですらその程度は想像できた。しかも、一生後遺症が残る……これを利用しない手は無かつた。ふと相手の顔を見ると、気まずさうに目を伏せた。自分の企みを知つてゐる筈は無い。申し訳無いとは思つたが、私の所為で降り掛かつた不幸を最大限利用させてもらふことにした。この後遺症により、警官になるといふ小学生からの夢は投げ出さざるを得なくなる。そして、先生の言ふ「可能な支援」……。娘を秘書にすべく教育しようとしてゐた先生ができる支援……。そして、その支援は私にとつて本来の目的であつた。即ち、身分の差を取り去る、数少ない手段。有力政治家をして、警官になれなくなつた少年を、政治の世界に導かせること。警官になりたい少年と、政治家の秘書になりたい少女といふ、幼い頃からの両人の夢を、私は自分のためだけに粉々に打ち砕くことを選んで了つたのだ。

 実際、その後のことにはあまり語るべき所は無い。全て私の計画通りに動いた。私の想定と最も大きく違つたことは、先生は偽善者ではなく性根からの善人だつたことくらゐだつた。虻田憶介は白老栗路の支援を最大限受けた。先生が進学の面倒まで見るとは思はなかつたが、お陰で学力を伸ばして私達は両人で同じ高校に進み、帝大に進んだ。警官を目指してゐた筈の貧しい少年は中央で政治と法律とを学び、代議士にまでなつた。政治家の秘書を目指してゐたお嬢様は政治家の妻になり、身分の差が阻んでゐた私の初恋は叶つたのだ。しかし、運命の輪が回り始めたあの日のことは、誰にも話さず私の胸の内に鍵を差して閉まつて置かうと思ふ。思ひ出す度に罪の意識が私の心を焼く。望んだ未来を手に入れても、消えることの無い後悔。悪魔の知恵を借りた代償なのだらう。苦いやうで実は甘みの多いビターチヨコレイトが引き合はせた私の初恋は、中身までは甘美な結末を迎へられなかつた。外から見れば何一つ欠けたものの無い甘い成功を得たのに、私は死ぬまで苦い芯を噛み続けなければならないのだ。

 全てを知つたら、あの人は怎う思ふのだらう。私の悍ましい行ひを糾弾して自らに降り掛かつた災害を嘆き、私との縁を絶つて了ふだらうか。それとも、先生との関係を保つ為に厭々私と共に生きてゆくことを選ぶだらうか。しかし、そもそも先生が私を許しさうにないから、依様私は全てを失つて了ふだらうか。万一にもあの人が全てを受け容れて私を赦し、いつもの様に、今までの様に、優しい笑顔を私に向けてくれる可能性があるなら、全て吐き出して了ひたい。しかし、それは虫が良すぎる。最も大切な相手を傷つけ、夢を奪ひ、自分の為だけに多くの人を不幸にした罪は、私一人で負ふしかない。


 今日は婚約を祝ふ日。既に結婚式の予定も決まつてゐる。両人の新しい人生がもう直ぐ始まる。同時に、私の古い罪も消えてくれたらいいのに。一人で抱へることに苦しみを覚えるが、然はいへ両人で分け合ふ訣にはいかない過去。結婚する前から隠し事があるなんて、何とをかしな話。お菓子で始まつた恋愛はをかしな話になるのだ、と下らない考へが浮かぶ。顔を上げて広間の時計を見ると、予定の時間を幾らか過ぎてゐた。婚約祝ひの宴会も、もう終ひだ。先生を見ると丁度目が合つた。何も知らない先生はニコニコと笑ひながらこちらに手を振つてゐる。私が微笑み返すと、先生は立ち上がつた。かなり酔つてゐるらしく、途中客とぶつかりさうになりながら、私達の方に歩いて来た。

 「芽乃子、本当にお慶う。何があつても、憶介君をしつかり支へてあげなさい。」

 「ええ、勿論です。今までも然うして来たんだもの。」

 私は笑顔で答へた。隣で憶介君が優しく笑ふ。真相を知つてゐるのは、私だけで十分だ。私の為に苦い思ひをした憶介君には、甘いビターチヨコレイトを舐めてゐて欲しい。

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