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幼き両人の恋

 ――二十年前、私達が中学生だつた頃の話。誰も知らない話。しかし、先づは、小学生の頃の話をしなければならない。私達の出逢ひは、小学校だつたからだ。放課後にいつも学校に残つて本を読んでゐる貧しい男子児童と、政治家の娘として裕福な家庭で育つた女子児童。生まれた年と町とが同じだつたといふだけの二人の出逢ひは、本当に只の偶然だつた。偶々同じ学級になり、偶々二人とも、それぞれの理由で放課後に校舎に残ることが多かつた、それだけの話だつた。女子児童が、調理で余つた菓子を偶々見かけた男子児童に分けたといふのも、別段変つた話ではない。しかし、私達にとつてはこのことは大きな意味を持つてゐた。共通の話題が有るか、何らか話す必要ある場合でない限り、異性の友人とは殆ど話さないといふ児童は少なくはない。この時も、女子は最低限の説明をして菓子を置き、男子はお礼を言つて受け取り、それで全てが終り、その後の日常で私達が接する機会も無い筈だつた。しかし、私達はそこで会話をしたのだつた。

 先に話しかけたのは私だつた。ただ、これに就てはお互ひ「自分が先だ」と言ひ張つてゐる。しかし、間違ひ無く話しかけたのは私だつた筈だ。私は、自分には想像もつかない相手の生活に、純粋に興味があつた。随分後に何かの本を読んだ時に、英国では貧しい家庭から出世した人間は必死に上流階級の真似をするのに対し、当の上流階級の子弟は労働者階級の風俗を真似することが往々にして見られると知つたが、その時、小学生の私が持つた興味は、ここで紹介されてゐた英国人達の感情と似たものなのだらうと思つたのだつた。

 後に両人でこの頃の話をしてゐて、お互ひに記憶がいい加減だといふことがよく判つた。どちらが会話のきつかけを作つたのかといふのも然り、これが春のことだつたのか秋のことだつたのか、晴れの日だつたのか雨の日だつたのか、改めて確かめてみると、食ひ違ひの多さに笑つたものだつた。しかし、相手は覚えてゐなくとも私は判然と覚えてゐたこともあつた。最初の菓子が、ビターチョコレイトだつたことだ。

 「ねえ知つてゐる?ビターチヨコレイトの『ビター』は『苦い』つて意味なのに、本当はカカオよりも砂糖の方が多いんだつて。」

 私は、確かにあの時然う言つた。大した意味の無い話。単に、小学生が偶々知つてゐた断片的な事実をそのまま口にしたに過ぎない。それでも、これがきつかけで会話が始まつたのだ。然は言つても、遊びや流行りものには共通の話題がない。話は直ぐにお互ひの家のこと、そして将来の夢のことに収まつていつた。私達はお互ひの夢……警察官と政治家の秘書とに就て語り合つた。方向性は違つても、自分の父親を支へたいといふ目的は同じで、又そこに共感したのだつた。

 今思ふと、自分の親を支へることを将来の夢としてゐた子供は私達だけではなく、恐らく級友の半分程度は似たやうなことを考へてゐたのだと思ふ。国語の授業で将来の夢を発表し合つても、親の店を継ぐといふやうな内容のことを話す旧友は少なくはなかつた。しかし、異性の、しかも今まで殆ど話したことの無い級友と初めて正面まともな会話をしたといふ緊張感も相俟つて、両人の間に何か特別な繋がりを見つけた様に思はれた。向ふ先は違つても、私達は両人とも同じ夢を見てゐる……、その時の私には、然う思はれたのだ。


 この日のことは、父が仕事から帰つて来ると直ぐに話した。私にとつては、仲良くなれさうな友人ができたといふだけの報告で、特別の意味は無かつた。しかし、父は私の口ぶりに何か嫌な予感を得たのだらう、少し間を置いて、斯う言つた。

 「然ういふ子とは、相手にも困つて了ふだらうから余り親しくし過ぎないやうにしなさい。」

 これも今思へば、異性を意識し始める年齢の我が子が、珍しく異性の友人の話をしたことに対する、親の複雑な心裡が漏れただけだつたのかも知れない。しかし、父の言葉を聞いた私は、家柄の違ふ相手を拒絶する態度の様に覚えたのだつた。恰巧ちやうどその頃に読んだ歴史漫画で、貴族の嫡男あととりと使用人の娘との悲恋の話があつたからかも知れない。主人公の貴族の青年は、相手の家柄が相応しくないことを理由に父から結婚を認められず、遂に駆け落ちを企てるが、今度は娘の父親が、主人の家は身に余るから娘のことは忘れて欲しいと言ひ、その後娘は行方を眩ませて了ふのだ。上古の厳格な身分制のことなど理解してゐた筈も無い私は、漫画に登場する二人の父親のいづれの考へ方も共感できなかつたし、自分の父親も彼らと同種の、古めかしい因習に囚はれてゐるのだと思へて、反感を抱いたのだつた。

 それから私は、稍無理をしてでも話す機会を作るやうになつた。然うはいつても、お互ひ放課後は残つてゐることが多かつたので、遭遇することは難しくなかつたのだが、依様話せるやう意図してゐたのは間違ひなかつた。それは友人への興味だけではなく、もしかしたら父への反撥の情も有つたのかも知れない。然うして二人切りで会話することが重なるうちに、少しづつ今までに感じたことのない充足感を得るやうになつた。今でも、この時のこの感情が何だつたのかと問はれると、答へられる自信が無い。恋といふには余りにも頼りない、曖昧な感情……。それでも、幼い私はこの感情が恋であると、確かに認識したのだつた。


 中学校に上がり、私達は別の学級に分けられた。話す機会は減つて了つたが、この頃には相手の感情も自分に向いてゐるやうな気がしてゐた。県会議員の娘で生徒会役員の女生徒と、貧しい家庭出身の自転車部員の男子生徒。放課後や休日に会ふ口実は無い。私達の会ふ場所は、自然と限られていつた。それが、昼休みの図書室であつた。お互ひ、自然な風を装つて毎日の様に図書室で本を読んでは、時折気付いたやうに言葉を交した。初めは、それだけで十分だつた。

 或る時、よく一緒に過ごしてゐる級友が私に尋ねた。

 「昼休み、よくあの人と二人でゐるみたいだけど、会話できる?つまり、話噛み合ふ、……といふか、何で一緒にゐるの?」

 その友人は、口には出さなかつたが、私の好意を見抜いてゐたのだらう。私達が二人でゐること自体が不思議だとは言はなかつた。不思議だとは言はなかつたが、妙に耳に残つた。

 (『何で一緒にゐるの』、か……。)

 流石にこの頃には、相手と自分との身分の違ひがこの恋愛の障壁となるだらうといふことは理解できてゐた。友人の問ひも、暗に身分差のことを言つてゐるやうに思はれた。釣り合はない恋は不幸な結末に終る。それは、自分だけではなく相手を不幸にする可能性もある。解つてゐても、自分の感情に嘘を吐くことは既に不可能だつた。友人の問ひが気にはなるが、次の日も、その次の日も、私は図書室に通つた。前進も後退も無い膠着した状況だが、図書室で両人話をしてゐる間は、他のことに気を取られずに過ごすことができた。しかし、その状況も間もなく変はつて了つた。

 部活動も生徒会活動も、三年生の引退に前後して忙しくなる。私達は昼休みの予定がなかなか合はなくなつた。部活動の昼練習、生徒会役員の臨時会合、一方が図書室に来ても相手はゐない。そんな日も多くなり、いつしか、一日のうち廊下で擦れ違ふくらゐしか相手の顔を見ないことが多くなつて了つた。それでも、自分が微笑みを向ければ相手が返す。縦令会話はできなくても、それだけで通じてゐる様に思へた。

 然うしてゐるうちに夏になり、秋になり、自転車部の郡大会が近づいてゐたことに気付いた。久々に図書室で会ひ、その話をする。以前の様にゆつくりと時間を取れなくても、立つたまま伝へれば十分だ。

 「今度の郡大会に出るんだけど……、次の土曜日に、運動公園で走るんだ。」

 「へえ、一年生なのに、凄いね。……私も見に行くね。」

 これだけで、可い。廊下の向ふから「アブ、昼練行くぞ」と呼ぶ声がした。部活動に忙しい一年生選手はそのまま図書室を駆け出し、生徒会活動に忙しい書記は休日に公園に行くやう予定を入れる。ここで時間を掛けて話さなくても可い。両人の関係は、これだけで可かつた。


 大会当日、意外なことは来賓として県会議員白老栗路が招かれ、開会の祝辞を述べたことだつた。それまで知らなかつたのだが、その時の紹介では、地元選出の県議として公園の整備に尽力したとのことだつた。私達は、競技の合間に会話することができた。

 「先生のお陰でこんな公園ができたんだね。」

 「然うみたいだね。先生は施設の整備とか寄付とか、然ういふのが好きみたいだから。」

 この頃には、お互ひに白老県議を「先生」と呼んでゐた。中学に入つた頃からか、当の娘が家の外では「先生」と呼ぶやうになつてゐたので、他の級友も白老県議のことは「白老先生」と呼ぶことが多く、それで通つて了つてゐた。

 「一等賞なら、もしかしたら先生に顔を覚えてもらへるかな。」

 「人の顔を覚えるのは得意らしいから、入賞して表彰台に登れば覚えて下さるかもね。」

 そんなことを言つて笑い合つた。しかし、結果は五等。表彰台には登れず、県大会にも進まずに終つた。

 「猛練習して次は県大会、全国大会に行くぞ。」

 「ふふ、期待してゐるね。」

 閉会式の後、そんな風に短い会話をして、その日はそこで別れた。その後はこれといつて一緒に過ごす機会もなく、冬になり、春になり、一年度が終つた。


 あの事故が起らなかつたら、両人の人生はその後怎うなつてゐたのだらう。時折、そんなことを考へて了ふ。あの事故が無く自転車を続けてゐたら、県大会に進み、そのまま全国大会まで進んだのだらうか。警察官になつたのか、それとも自転車を極め、競輪選手になる可能性も有つたのだらうか。足を痛めた男子生徒が現れない世界では、白老先生は自分の娘を秘書にすべく教育したのだらうか。然うすると、警官と県議の秘書、又は競輪選手と県議の秘書といふカツプルが誕生したのだらうか。そもそも、その世界では先生が交際、婚約を許すのだらうか。

 しかし、直ぐにそんなことは考へるだけ無駄だと自分に言ひ聞かせる。自分は望んだ未来を手に入れたし、あの事故が起こつたから今の自分に辿り着いたのだ。運命が怎う分岐してゐたとしても、自分はこの運命を選んだ。

 然う――選んだのだ。

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