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祝宴の夜

登場人物

虻田あぶた憶介おくすけ:近頃当選したばかりの若手代議士、芽乃子の婚約者。

白老しらをい芽乃子めのこ:憶介の婚約者、栗路の長女。

白老しらをい栗路りつぢ:大物県会議員。郡下一の地主にして篤志家。芽乃子の父。

 「えー、皆様、県議の白老栗路でございます。先づは憶介君、当選おめでたう。そして憶介君、芽乃子、婚約お慶う。そして皆様、本日は虻田憶介君の当選祝賀会兼、私の娘芽乃子と憶介君との婚約祝賀会にお集まり頂き、誠に有難うございます。御存知の通り、虻田君は艱難辛苦打ち耐へつつ勉学に精励し帝大法科に入学、これを優秀な成績で卒業せる後は、総務官僚として幾らかの重要な政策にも関与しましたが、間もなく退官し、秘書として私を支へてくれてをりました。憶介君は非常に有能且つ誠実な好青年であり、又努力の人であり、内心私の跡を継いで県政を牽引する人材となつてもらひたいと思つてをりましたが、彼の志は大きく、国政選挙に挑みたいと打ち明けられたときには仰天して了ひましたが、えー、とかく然ういふことならば協力は惜しまぬといふことで、県議として、政治の先輩として、又一県民として、この優秀な青年を是非とも我が県の代表として議会に送り出してやらう、やらいでおくものか、と……。」


 この夜、或る県会議員の屋敷で祝宴が開かれてゐた。彼の元秘書が先日衆議院議員選挙に当選し、又彼の娘とその若手代議士との婚姻が決つた為、支持者や地元の名士を招いてそれを祝つてゐるのであつた。県内でも有数の分限者であり、郡下一の地主である彼の為に、県会議員、町村の校長、郵便局長から近所の商店主まで、実に多くの人が集まつてゐた。

 「相変らず冗長ね……もつとスマートに纏められないのかしら。」

 招待客に向かつて長々と挨拶を述べてゐる、恰幅のよい老人を見ながら、薄色の留袖の女性がさも退屈さうに呟く。それを聞き、彼女の隣に座つてゐるラウンヂスーツの男性は苦笑する。まだまだ話を終へさうにない老政治家に目を遣つたその男性は、齢は壮年だがまだ若々しく、容姿は青年といつて差し支へぬほどであつた。白老県議の話はとにかく長い上に纏まりが悪い。然はいへ、話の中で他人を辱めることは決して無く、又、情緒を率直に表現する白老氏の話し方には彼――この祝賀会の主役である、虻田憶介代議士――自身、秘書として尽くしてきた頃から好感を抱いてゐた。もう一人の主役、白老氏の長女であり、虻田代議士の婚約者である白老芽乃子は、父の長たらしい話を嫌つてゐた。細く白い指を額に遣り、前髪を流しながら父の話を聞く。話に飽いてきたときの癖であつた。

 「言葉で纏め切れない程に、先生はよく人を見て下さつてゐるんだよ。有難いことぢゃないか。」

 「ただ頭の回転が緩然ゆつくりしてゐるだけ。「先生」は昔から然うだつたから。そのくせ舌ばかり回転が早いから、思ひ付いたことが整理される前に口から出て来るのよ。」

 然う零す婚約者に、若い代議士はた苦笑した。率直さが持ち味なのに、と思ひつつ、自分の演説は支持者からう思はれてゐるのだらうかと考へる。虻田の演説は、多分に白老県議のそれを参考にしてゐる。政治の師に学ぶことは至極自然であるやうに思はれたし、又彼にとり白老氏の話し方が実際に好ましいものに思はれたからであつた。


 「えー、さて、長い話はこれくらゐに致しまして、本日の主役、虻田憶介君、いや、虻田先生からお言葉を頂くとしませう。改めて皆様、本日は誠に有難うございます。」

 県議は各方面に深々と頭を下げ、席に着いた。芽乃子はやつと終つたと言はんばかりの表情を浮かべてゐる。

 「白老先生、有難うございました。続きまして、虻田憶介代議士からご挨拶です。虻田先生はさきの衆議院議員選挙で当選せられ、……」

 司会が一通り虻田の紹介をする。尤も、その多くは白老氏が既に話して了つたのだが。虻田は立ち上がつて一礼し、再び席に坐つた。


 虻田憶介。この祝宴の主役である若手代議士。招待客の視線が、一斉に彼に注がれる。この地元で生まれ育つた彼にとり、招待客の多くは自分よりも遥かに身分の高い人間だつた者達である。それが、今では憶介がこの場で最も高い社会的地位を持つ人間となつてゐる。媚びる様な笑みを浮かべる者、微笑を浮かべながらもどこか攻撃的なものを感ぜさせる者、招待客の憶介を見る目は様々であつた。つひ最近まで、彼らにとり憶介は同郷の若者の一人に過ぎず、それは彼が帝大を出て奏任官とならうが、県会の重鎮に側近として仕へようが、さして変らぬことであつた。しかし県選出の代議士ともなれば、閉鎖的の地方社会に於ても彼が上位者であることは認めねばならぬのである。そして、それに伴ふ複雑な感情が、招待客らの顔からは十分に読み取れた。


 ――下手なことは言はれぬ。思考が急速に空転し始め、予め用意しておいた挨拶が口から出て来ない。一語一語が全て、聴衆の不興を買ふのではないかと思へてくる。席に坐つた憶介は、人生の中で最大の緊張下にあつた。それを察してか、芽乃子が憶介の右手に左手を重ねる。憶介は、一呼吸置いて、徐ろに口を開いた。

 「皆様、この度代議士として選出して頂きました虻田憶介でございます。先づは皆様にお礼を申し上げます。若輩である私の当選は、偏に皆様の熱烈な御支援に依る所であり、……。」

 語り出しは月並みの挨拶に終始する。ここで変に気を張る必要は無い。自分を警戒してゐる地元の有力者や古老達を前にして今求められてゐるのは、美辞麗句を並べることではなく、自分は敵でないし今後も敵たり得ぬといふことを示すことのみである。芽乃子の気配りのお陰で冷静さを取り戻し、彼が学んだ一つの法を思ひ出した。彼は最も辛かつた時に、他でもない芽乃子からそれを学んだのであつた。


 「本日皆様にお集まり頂いたのは、当選のお礼をお伝へする為でもありますが、今一つ、私の政治の師である白老先生の御令嬢、芽乃子さんとの婚約を、先生及び御友人の皆様に御報告申し上げる為でもあります。」

 当選に就て地元への感謝、今後の抱負、地元産業への社交辞令などを一頻り述べた後、憶介は続けて婚姻の挨拶に入る。報告とは言つたものの、無論、婚約は白老県議の許可を得てゐるのであるが、建前上この宴会で県議を含む各関係者に報告するといふ形になつてゐた。

 「芽乃子さんと私との出逢ひは、小学校高学年の頃でした。母を早くに亡くした私を、父は貧しいながらも愛情を掛けて育ててくれてゐたのですが、子供心にも父の忙しさは感ぜられ、私はなるべく父の邪魔にならぬやうに、放課後の長い時間を校内で過ごしてゐました。私が教室で本を読んでゐた時に、たまたま芽乃子さんが放課後の同好会で作つたお菓子を持つて来てくれまして、それ以来時折会話する仲になりました。」

 芽乃子が隣で小さく頷いたのが、憶介にも伝はる。懐かしい幼い日々、思ひ出るのは、いつも夕刻の学舎と芽乃子の姿だつた。片時も忘れたことのない少年時代、芽乃子と出逢つてから現在までの日々を、憶介は再た憶ひ返す。

 「本と申しますのは、長居してゐても宿題が済んで了へばやることも無いので、よく本を読んでゐたのですが、好きだつたのが警察官が主役の話、それも刑事物ではなく近所の悩みを面白おかしく解決して了ふ派出所のお巡りさんの話で、私も将来は斯ういふ警察官になつて、自転車で東へ西へと馳せ回つて人々を助けるのだと夢見てをりました。無論、小学生と雖も高学年にもなれば少しは現実が見えてゐる訣ですから、疾う疾う安定した職を得て、父に楽をさせてやりたいといふ情も有りまして、高校を下がつて直ぐに勤められて、且つ勉強のできないことが就職時に然程不利にならぬ職としても、警察官といふのは魅力的であつた訣です。」


 憶介は、小学生の自分を思ひ浮かべながら言葉を続ける。一つ一つ記憶を手繰り寄せ、言語に直してゆく。如何に小さな事実でも、憶介はこの場で伝へたかつた。聴衆の視線は憶介にのみ向けられてをり気付くものは無かったが、この時、芽乃子の顔が僅かに曇つた。但し、仮に隣の華奢な女性に目が向いてゐたとしても、微かな表情の変化を読み取れるほど繊細な感受性を持った出席者は無かつたではあらうが。

 「扠措き、芽乃子さんはそれからよくお菓子を持つて来ては分けてくれるやうになりました。『お父様が可哀想な人には施しをしてあげなさいと言つてゐたから。』と言つて、同好会で作つた砂糖菓子やらビスケツトやらを毎度分けてくれました。私の家庭事情は級友全員の知る所でしたし、私自身も痩身で服も裾の解れた汚いものばかり着てゐたので、余程貧乏さうに思はれてゐたのでせう。ともあれ、この優しい心遣ひのお陰で、私は午後のおやつを週に二度は食べられるやうになつたのです。」

 「もうツ……。」聴衆がどつと笑ふ中、芽乃子は口を尖らせて、憶介にだけ聞こえる声で漏らす。芽乃子からすれば、両人の出逢ひの思ひ出である以上に、級友を勝手に困窮してゐると判断して了つたといふ、省みればあまり愉快とはいはれぬ過去でもあつた。

 「今にして憶へば、この頃から芽乃子さんに好意を抱いてゐたのですが、まだ恋といふには余りにも頼りない、曖昧な感情でした。そんな関係のまま、小学校を卒業することになります。」


 憶介は然う言つて、小学校の話を閉ぢた。その刹那、ぎしり、と脚が鈍い痛みを覚える。この痛み――思ひ出に浸るときに、必ず痛む古傷。今ここで話したいことは山ほどあり、記憶は泉水の如く湧き出て来る。この場で全て話したい。憶介は昂りを抑へつつ、言葉を紡ぐ。全ての人の為に、――そして、自分の為に。

R2/5/3

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