不潔な呼吸
人生というのはなかなか疲れるものだ。
目が覚めた状態で数時間天井を見つめたまま思う。
何もしていなくても体は疲れる。
こうして考え事をしたり
瞬きをしたり、唾を飲み込んだり
呼吸をしたり、心臓を動かすには
結局のところ体力を使っているからだ。
生きている限り「何もしない」ということだけが出来ない。
自分の呼吸する音を聞きながら、そんな風に思った。
しかし困ったことに
僕は瞬きや唾や呼吸や心臓を動かしていることに
意識をしないと気が付かない。
つまり何もしないでいると、生きている実感に欠ける。
と、そこまで考えてから、考えすぎだと思考を振り払い
思い出したようにトイレに駆け込んだ。
僕には好きな人がいる。
もちろん女性だ。
こんな風に生きてる実感を求めて探してしまう時に
好きな人のことを考える。
すると、意味だとか意義だとかどうでもよくなって
好きな人に何かを与えたくて仕方がなくなる。
普通好きな人に笑って欲しいとか、見つめられたいとか
好きという感情は何かを求める気持ちかと思っていたけど
そうじゃないパターンもあるみたいだ。
しかし残念なのは、僕と彼女の間柄は
まだ何かを与え合うようなものじゃなく
僕はこの与えたい願望を抑えている。
彼女が求めていないものを与えようとするのは
自分の気持ちを満たしたいという欲だ。
じゃあやっぱり、僕は与えたいのではなくて
本当は彼女に「受け入れて欲しい」だけなのかも知れない。
やっぱり好きという感情は、求めるものなのかもなと思って
今まで満たされていた気持ちが、ひどく汚れたもののように思えた。
今日、街で彼女を見かけた。
偶然という驚きと興奮で、以前から親しかったような錯覚に襲われ
思わず声をかけてしまいそうになったけど、理性を取り戻した。
彼女は笑っているわけでも、特別お洒落な格好をしているわけでもなく
ただスマホを眺めて立っているだけで美しかった。
できればその姿をこのまま見ていたいところだけど
それもきっと彼女を傷つける汚い気持ちだと思ってやめた。
こんな風にいちいち考えて、我慢しなくちゃいけない気持ちも汚く思えて
好きになるっていうのは、あまり正しいことじゃないのかも知れないと不安になった。
人生というのはなかなか疲れるものだ。
相変わらず天井を眺めながら思う。
他人を利用して自分を満たすというのは
ズルくて自分勝手で自己中な気持ちだ。
そう考え直した僕は、好きな人を好きになることをやめる決意をした。
よし、これで僕は汚れずに済むし、好きな人を汚すこともない。
安心した僕はトイレに行って用を足し
そして戻ってきたら再び天井を眺める格好をしていた。
なんだろう、真面目に考えて正しいことをしているはずなのに
生きている実感に欠ける。
そう思った時に、ふっとあの時のスマホを見て立ってる彼女の姿が頭に浮かんだけど
文字通り、記憶を手で振り払った。
僕は好きな人を自分の都合よく利用しない男だ、と覚悟を決め直し
こんな時に他人に甘えようとするからいけないんだと思い
自分で楽しみを作る努力をしようと決めた。
僕は本を読み、音楽を聴き、映画を見て、様々な場所へ出かけた。
それでも満たされることが出来ず
僕は本を書き、音楽を作り、映画を作るために、部屋に閉じこもった。
世の中には人を楽しませる本や音楽や映画や場所が
こんなにたくさんあるのに、僕はそれでも満たされず
そんな娯楽を自ら作ることも出来ないことを知った。
今まで在り来たりだと思って馬鹿にしていたシナリオも
作ろうと思って作れるものじゃなかった。
そしてそれは、そんなに楽しめる作業でもなかった。
「何も出来ないじゃないか」
文字通り、僕は膝を抱えていた。
清潔に人を好きになることも出来ない。
自ら楽しみを作り出すことも出来ない。
人を必要と出来ず、人に必要とされるものを持たない自分は
やっぱり、生きている実感に欠け、意味のない存在のように思えた。
前向きになった気持ちが折れてしまう時というのは
後ろ向きな時よりもさらに後ろを向いている。
後ろの後ろは、もはや前のような気もするけど
そんな矛盾も気にならないほど後ろ向きだった。
窓の外では鳥の鳴き声や
近所のおばさんの話している声が聞こえる。
みんなどうやって楽しみを見つけているんだろう。
そう思うと、すぐ近くの話し声がひどく遠くに感じて
ここに居ながら、誰にも気付かれない透明人間になったような気がして寂しくなった。
僕は僕の意味を探している。
何をやっても、どう考えても
「自分」という欲がしつこい汚れのようにこびりつく。
洗っても落ちないし、それでも擦ると痛んでしまう。
その時、ずっと探していた物が、諦めてから見つかった時のようにハッとした。
そうか、僕は痛んでいるのか。
その日の僕は久々に街へ出かけていた。
忘れものを探すように、街の中を彷徨い歩いた。
というのも、目的は場所じゃなかった。
「意味なんてない」
そんな答えが僕を後ろのさらに後ろに向かせたけど
意味なんてないからこそ自由なんじゃないかと思った。
そうは言ってもまだスッキリはせず、モヤモヤとした気持ちを残していたけど
だからこそ、だったかも知れない。
僕はスッキリしたいだけなんだ。
こんな偶然は出来すぎているかも知れないし
随分と都合がいい話かも知れない。
でもそんな偶然を奇跡って言うんじゃなかったっけ。
僕はモヤモヤを壊し、スッキリを得るために街へ飛び出し
そして居場所なんて分からない彼女を、見つけた。
その時の感動といえば、親しさを錯覚してすぐに声をかけてしまいそうだったけど
僕はその気持ちを抑えた。
我慢するためじゃなく、自分を満たすために。
大きく息を吸って、そしてゆっくりと吐き出した。
同時に今までのモヤモヤが息と一緒に出たような気がしたけど
それはさすがに思い込みかも知れない。
緊張が足を揺らす、けど緊張よりも喜びが勝っていた。
「あの」
彼女は振り返り、僕の存在を認識した。