プロローグ
うおおぉぉーーぁぁああーー……!
叫び声が聞こえたような気がして、由紀子は辺りを見回した。
ありふれたプラットホームの光景が広がっているばかりだ。
誰も叫び声には気づいていない。
どこから聞こえたのかしら。由紀子は空を仰いだ。
上空を風が吹いている。
プラットホームから望む空は、青く澄み渡っていた。
透明な大気の中、雲がゆるやかに流れている。
夏の気配が近い。
由紀子は携帯を取り出し、兄の電話番号を表示させるとプッシュした。
三度目の呼出音で相手が出た。
「ああ、兄さん、私」
「由紀子か。今どこにいる?」
少し乾いた兄の声が受話口を通して流れてくる。
「今、姫路駅。予定どおり『ひかり』に乗るから、ちゃんと迎えに来てね」
「十六時十四分着でよかったな?」
「うん。遅れないでよ。重い荷物しょってんだから」
「渋滞してなければね」
「はい、はい、期待してます。じゃあね」
短く言って電話を切った。
三連休の初日。
ベンチに座って楽しそうに話すカップル。
売店で弁当やお茶を買う親子連れ。
携帯で声高にしゃべるビジネスマン風の男性。
にぎやかな笑い声を発するグループは女子高生だろうか。
かなりの人出だ。
由紀子は、東京に住んでいる兄夫婦の家へ泊りに行くところだった。
就職して初めての旅行らしい旅行だ。
明日は、東京ディズニーリゾートへ連れて行ってもらう予定になっている。
それを思えば、地面に置いてあるずっしりと重い旅行鞄も気にならなかった。
(明日は、どのアトラクションから乗ろうかしら。どれも混んでいるんだろうなあ。ま、連休だから仕方ないか……)
のんびりと思った。
ふいに人の気配を感じた。
右側に男が立っている。肩が触れ合うほどの近さで。
思わず男を見た。
同時に男も由紀子の方を向いた。
正面から見つめ合うかたちとなった。
年齢は三十過ぎだろうか。
背丈は百七十センチくらい。
水死体のように青白くむくんだ顔の上に長い間、櫛を通していないと思われるぼさぼさの髪が乗っていた。
度の強いメガネの奥、古い沼のように澱んだ目があった。
瞳は焦点を結んでいない。
由紀子の顔を通り越して、遥か彼方を見ている。
ぶつぶつと独り言。よく聞き取れない。
断片的に紡ぎ出される意味不明の言葉。
「……みたいだよ……、うれ……なあ……、……れから……れるんだ……。でも……やって……ああ、そうか……、かんたんな……。ちか……、みんぐ……」
鳥肌が立った。すぐに顔をそらした。
男は由紀子に視線を据えたままだ。
由紀子は鞄を持ち上げ、二、三歩下がり男から離れた。
男は今は正面を向き、相変わらず何やら呟いている。
由紀子は斜め後ろから観察した。
黒のトレーナーにくしゃくしゃの綿パン。
尻ポケットには、無造作に突っ込まれた財布が顔を覗かせている。
よく見れば、トレーナーの肩口に砂糖をまぶしたようにフケが付着していた。
何日も風呂に入っていないのだろう。浮浪者に近い。
男の目を思い出した。身震いした。
(あーあ、せっかくの楽しい気分が台無し。でも、兄さんや義姉さんと会った時の話題が一つ増えたわ)
その時、何を思ったか、突然男がホームから飛び降りた。
男はゆっくりと線路を横断している。
対岸は新幹線の下りのホームだ。
そちらにも、たくさんの乗客が列車を待っていた。
駅員が慌てて駆け寄ってくる。お客さん、危ない! 戻って下さい!
駅のざわめきが消えた。時の静止した空間。
男だけが時間の呪縛の圏外にいる。
右方向に、ぽつんと小さくマッチ棒の頭が現れた。
たちまちのうちに『のぞみ』の姿になる。
流線型の頭部が凶器に見えた。
男は、四本あるレールのうち、こちらから二本目のレールの上で立ち止まった。
男の背中が由紀子を誘っている。
目をそらさなければ。由紀子は思った。
だが、目を離すことができない。
男が振り向いた。体ごと。
由紀子の瞳は男に吸い付いたまま。
再び視線が絡み合う。
駅員が非常停止ボタンを押した。
『のぞみ』は猛スピードで駅を通過しようとしている。
その場の全員が化石のように凍り付いた。
列車の通り過ぎる轟音。
男の姿が一瞬で掻き消えた。
落雷にも似た爆発音。大気が震える。
土煙が舞った。赤い土煙。
だが、由紀子は見えるはずのないものを見てしまった。
見えるはずのないもの。見てはいけないもの──。
男が消える一瞬。
男の唇が動く。ゆきこ、の形に。
男が嗤う。由紀子を見つめて。
戦慄が背を貫いた。
男の欠片がスコールの如く由紀子に降り注いだ。
オレンジのTシャツが真紅に染まった。
火傷しそうなくらい熱いものが頬にぶち当たる。
自分でも信じられないほどの絶叫が放たれた。
『のぞみ』が急ブレーキをかけた。悲鳴のような金属音。
あちこちで怒声、泣き声、叫び声。渦巻く。
構内が狂気の混乱に支配された。