その九 マドリッド
二十二日目 五月三十日(日曜日)
ホテルをチェックアウトし、タクシーでRENFEの駅に向かった。
九時半のAVANTと呼ばれる特急に乗って、マドリッドに向かった。
途中、アマポーラが咲き乱れる紅い絨毯を所々で見ることが出来た。
三十分ほどで、アトーチャ駅に着いた。
ホテルはそこから、歩いてすぐのところにあった。
ホテルのカフェテリアでお茶を飲みながら、チェックインまでの時間調整をした。
チェックインし、部屋に荷物を入れ、室内金庫に貴重品を入れてから、ホテルを出た。
地下鉄のアトーチャ駅から地下鉄・一号線のピナル・デ・チャマルティン方面の電車に乗り、ティルソ・デ・モリーナ駅で降りた。
そこから、西に歩いて、サン・イシドロ教会を経て、カスコロ広場に行き、ラストロ(日曜開催のノミの市)を見物した。
ここは掏りが多いところと聞いています、注意してください、と三池が小声で注意した。
大丈夫です、三池さんのご忠告に従い、お金は分散して持ち、パスポートはコピーしか持っていませんから、と香織は笑みを湛えながら三池に言った。
ラストロ見物後、カスコロ広場、サン・イシドロ教会、有名なレストラン・ボティンを横目で見ながら、マヨール広場に出た。
夕食はメソン・デル・チャンピーニョンというレストランに決めていた。
午後六時の開店を待って、店に入り、名物とされるマッシュルームの鉄板焼きを食べながら、白ワインを飲んだ。
「この大きなマッシュルームはクエンカ産のブラウンマッシュルームで、このように生ハムを載せて焼くのです。シンプルですが、コクがあって、あとを引く味だそうです。どうです、美味しいでしょう」
三池は注釈を付けながら、旺盛な食欲をみせて食べていた。
二人は大きなマッシュルームを口一杯に頬張りながら、その芳醇な汁を味わうという至福の時間を十分楽しんだ。
食事の後、そのレストランを出て、プエルタ・デル・ソル近くの地下鉄・ソル駅から地下鉄・一号線のバルデカルロス方面の電車に乗り、アトーチャ駅で降りて、ホテルに戻った。
二十三日目 五月三十一日(月曜日)
朝食は食べずに、ホテルを出た。
「今日は、プエルタ・デル・ソルと王宮周辺を廻りましょう」
三池は香織に言った。
二人は、アトーチャ駅から、地下鉄・一号線のピナル・デ・チャマルティン方面の電車に乗って、ソル駅で降りて、五分ほど歩いて、チョコラテリア・サン・ヒネスという店に行き、チュロスとチョコレートのセット・メニューを注文して朝食とした。
「どうしよう、私、肥ってしまう。困るわ。けど、美味しい」
香織はぶつぶつと不平を溢しながらも、美味しい、美味しいと食べていた。
プエルタ・デル・ソル、デスカルサス・レアレス修道院、王宮と見物した。
但し、デスカルサス・レアレス修道院は月曜休館ということで入れず、外観だけ眺め、写真におさめた。
プエルタ・デル・ソルはマドリッド市民の待ち合わせ場所として知られるところで、人が一杯たむろしていた。
広場中央には、カルロス三世の騎馬像が建っている。
王宮は百五十メートル四方の建物の中に二千七百の部屋を数える巨大建築物である。
三池たちは豪華さに圧倒されながら、時間をかけてゆっくりと見物した。
昼食は、マヨール広場近くの名門レストラン・ボティンで食べた。
このレストランは創業が千七百二十五年ということで世界最古のレストランということでギネス・ブックにも登録されている有名なレストランである。
「確か、ヘミングウェイの小説、『日はまた昇る』だったと思いますが、その小説にも登場するレストランです」
名物料理である『子豚の丸焼き』は一人前だけ注文し、お皿を貰って、取り合って食べた。
「今日は入ることはできませんでしたが、デスカルサス・レアレス修道院のデスカルサスという言葉はスペイン語では『裸足』という意味です。おそらく、修行のため、いつも裸足でいることを義務付けている教団なのかも知れません。ドン・キホーテにもこの言葉は出てきます。日本語訳では確か、跣足会と訳されていたと記憶しています」
ボティンを出て、二人は昨日同様、マヨール広場、サン・イシドロ教会と廻り、プエルタ・デル・ソルまでゆっくりと歩いて戻った。
「三池さん、夕食は野菜中心にしません。昼のお肉がまだお腹に一杯あるみたい。確か、バルセロナで食べたあの野菜サラダ・ビュッフェのお店、マドリッドにもあるとかおっしゃっていましたよねえ」
「ああ、フレスコという店のことですか。そうです、マドリッドにもあるという案内を見ましたね」
香織に促され、三池は観光案内書を捲った。
フレスコという店が掲載されていた。
その店は、プエルタ・デル・ソルから三百メートル足らずの地下鉄・グラン・ビア駅の近くにあった。
二人は、エル・コルテ・イングレスの中に入り、内部を見ながら、時間を潰した。
確かに、日本人が喜びそうなものがたくさん売られていた。
チョコレート、トゥロン、オリーブオイル、生ハムのパテ、シーフードの缶詰、パエーリャの素といった食料品の他、お土産として喜ばれそうな雑貨もたくさんあった。
ここだけで、お土産類は間に合ってしまいますね、と香織は喜んでいた。
七時頃、歩いてフレスコに行った。
早い時間であったせいか、バルセロナより混んでおらず、二人はゆったりと食事を取ることができた。
ピザとかスパゲッティといった料理も並べられ、スペイン人の若者たちは三池たちが驚くほどの食欲をみせてたいらげていた。
「何だか、僕は野菜はそれほど好きでは無いんですが、このところ油っこいものが多かったせいもあるのか、ここのように野菜サラダ系統の料理を見るとホッとしますね」
しみじみと話す三池の様子が可笑しかったのか、香織も笑いながら頷いた。
二十四日目 六月一日(火曜日)
ホテルを出て、王立植物園を右手に見ながら、プラド通りを歩き、プラド美術館に入った。
入館し、インフォメーションで館内案内図を貰い、それを片手に館内を廻った。
また、音声ガイドも借りた。
日本語の音声ガイドは無かったので、三池はスペイン語、香織は英語のものを借りた。
途中、カフェテリアでお茶を飲んで休憩しながら、五時間ほどかけてじっくりと観た。
名画があり過ぎる、と三池は思った。
「ここを一時間程度で鑑賞するコツを書いた記事をどこかの雑誌で昔見たことがあります」
館内のベンチに腰を下ろし、三池は笑いながら、香織に言った。
「その記事では、鑑賞する名画の順番まで書いてあって、この絵を見たら、次はここを通って急いで歩き、この絵を見ます、とかいった書きかたで人気のある絵を要領よく見て歩くコツが事細かに書かれています」
三池の皮肉な口調に、香織も笑い始めていた。
「日本人に人気がある絵は何と言っても、フラ・アンジェリコの『受胎告知』、エル・グレコの『羊飼いの礼拝』、ベラスケスの『ラス・メニーナス』、ムリーリョの『無原罪のお宿り』、ルーベンスの『三美神』、ゴヤの『着衣のマハ』と『裸体のマハ』といった絵でしょう。この記事は、それら有名な絵を効率良く見て廻るためのノウ・ハウ本というか、ノウ・ハウ記事なんです。いくら、忙しいツァーだから、しょうがないじゃあないか、と言ってもあまりにもナンセンスだと思いませんか」
口を少し尖らせて語る三池の話に香織は思わず笑ってしまった。
「そうですよねえ。いくら何でも、ひどすぎるかも。この間、スペインに来る前、旅行会社のツアー案内のパンフレットを見ていたら、行動予定の中に、プラド美術館は盛り込まれておらず、バスでソフィア王妃芸術センターで『ゲルニカ』鑑賞二十分、と記載されていました」
「今日はたっぷりと時間をかけて廻ることができましたが、人は結構居ましたね。人気のある絵では人が多過ぎて、長時間かけて鑑賞するということは叶いませんでした。実は、ゴヤに限定することですが、ほとんど無人の部屋で、僕は、あの『裸体のマハ』、『着衣のマハ』といったゴヤの名画をじっくりと鑑賞したことがあるのですよ」
三池が思わせぶりな口調で語り始めた。
香織は三池を見ながら、じっと聴き入った。
「もう、三十年以上も前のことになりますが、僕がメキシコに滞在していた頃、遊びでメキシコシティに行ったことがあります。確か、千九百七十八年だったと思います。そして、日本に帰る前に一度、国立芸術院で演じられていた民俗舞踊を見たいと思って、芸術院に行ってみたのです。しかし、あいにく、その日は公演が休演日ということで空振りに終わりました。仕方が無い、と諦め、出口に向かって歩いていたら、たまたま、二階の展示室でゴヤ展が開催されていたのです。見ると、スペイン・プラド美術館所蔵のゴヤの絵画が展示されていたのです。もしかすると、あの有名な『裸体のマハ』も展示されているのかな、と思い、入場料を払い、入ってみました。すると、ありましたね。『着衣のマハ』と『裸体のマハ』が展示されていました。勿論、『カルロス四世の家族』とか『マドリッド、千八百八年五月三日』、『巨人』、『我が子を食らうサトゥルヌス』などの名画もありました」
三池は両手の掌を目の前で擦り合わせ、過去を思い出すような眼差しをしながら、言った。
「でも、一番感動したのは、何と言っても、『裸体のマハ』です。今日観られて、お判りになったと思いますが、『着衣のマハ』と『裸体のマハ』とでは、マハの眼が全然違うのです。『着衣のマハ』の眼は、お澄まし顔の眼、一方、『裸体のマハ』の眼は、挑むような、男を挑発するような眼なのです。こんなことを、香織さんの前で話すのはまことに不謹慎なんですが、その当時、僕は二十九歳の男でした。あの『裸体のマハ』の艶めかしい色っぽい眼には思わずぞくぞくとしたものです。香織さんには到底判らない男の生理的感覚です」
三池は、こんなことを話して申し訳無い、というような顔をした。
『旬』という言葉がある。
人にも旬があるとするならば、あの頃が俺の旬であったかも知れない、と三池は苦笑いした。
「信じられないような話ですが、その展示会では警備員を除けば、入場者は僕一人くらいでした。ゴヤの名画展示会では普通考えられない話です。何故だか、分かりますか?」
「実を言えば、その日は平日で、時間帯はメキシコ人のシエスタの時間帯だったのです」
香織は思わず噴き出して笑った。
「実は、香織さん。今日、僕は新発見をしましたよ」
三池がまた、思わせぶりな言葉を吐いた。
「僕は、長い間、マハ・デスヌーダとか、マハ・ヴェスティーダと思い込んでいましたが、それは間違いでした。今日、絵の標題を見たら、ラ・マハ・デスヌーダであり、ラ・マハ・ヴェスティーダであることを発見したのです。つまり、定冠詞のラがちゃんと付いているのですよ。何と、マハはその女性の名前、つまり、固有名詞では無く、一般名詞だったんです。一般名詞のマハは、日本語で言えば、『カッコいい女』とか『いい女』という意味なんです。ラ・マハ・デスヌーダというのは、裸のいい女、という意味になります。ラ・マハ・ヴェスティーダは、服を着たいい女、という意味になるんですねえ」
香織は三池の話を興味深く聴いていた。
「マハは『いい女』であり、『いい男』は、マホ、と言います。イメージとしては、そう、フラメンコを踊る女はマハであり、フラメンコを踊る男性はマホ、となります」
プラド美術館を出た二人は、レティーロ公園まで足をのばして昼下がりの公園内を暫く散策した。
「このレティーロ公園は、夜間は物騒なところらしいです。強盗がやたら出る、とインターネット情報にありましたから」
「それでも、私たち、ラッキーだったのか、怖い思いをすることはありませんでしたね」
「実は、僕は旅行中、これをいつも持ち歩いていたのです」
三池はポケットから、小さな防犯ブザーを取り出して、香織に見せた。
アラッ、私も持っていました、と香織も防犯ブザーを取り出して三池に見せた。
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
レティーロ公園を暫く歩いた後で、二人はホテルに戻り、少し休憩した。
夜は、生ハムで有名なところに行きましょう、と三池が提案した。
地下鉄・アトーチャ駅から地下鉄・一号線のピナル・デ・チャマルティン方面の電車に乗り、ソル駅で降りた。
少し歩いて、『ムセオ・デル・ハモン』という立ち飲みバルとレストランが併設されている店で、赤ワインとハモン・イベリコ、パン・コン・トマテで夕食とした。
ハム博物館という名前を付けているだけあって、天井から何十というハムが所狭しとぶら下がっていた。
口に入ると、一瞬でとろけてしまうハモン・イベリコはさすがの味であった。
三池もかなり食べたが、香織の健啖振りには驚かされた。
肥ってしまう、困る、ダイエットが辛い、とこぼしながらも、香織はなかなかの健啖家振りを発揮した。
二十五日目 六月二日(水曜日)
昨夜のハモン・イベリコのせいか、空腹感が全然無かった。
朝食は抜きましょう、とどちらかとも無く言い出した。
二人はホテルを出て、近くのソフィア王妃芸術センターに入り、あまりにも名高いピカソの『ゲルニカ』を鑑賞した。
三池はこのモノクロの巨大な絵の前でひとしきり感慨に耽った。
灰色には無限のグラデーションがある。
ピカソはこの灰色という立派な色彩を用いて、怒りと悲しみをこの巨大なキャンバスに描いたのだ、と三池は思った。
悪い平和も無ければ、良い戦争も無い、と言った誰かの言葉がふと脳裏を過ぎった。
二十世紀は戦争の世紀と言われて久しいが、今生きている二十一世紀も実は戦争の世紀であったと、後世の人から言われないという保証は何一つ無い。
歴史は二度繰り返す、一度目は悲劇として、そして、二度目は喜劇として、という言葉がある。
二十世紀の戦争は悲劇で、二十一世紀の戦争は喜劇、いや、そんなことは無い、戦争である限り、喜劇はあり得ず、何度似たような戦争が起こっても、悲劇はいつまでも悲劇でしか無い、戦争を喜劇にしてはいけない、と三池は思った。
その美術館を出て、プラド通りを歩き、ティッセン・ボルネミッサ美術館に向かった。
その美術館の前に、『銀座』という名前の日本食レストランがあった。
トレモリーノス以来の日本食もいいでしょう、と三池が香織を誘った。
入ってみて、驚いた。
回転寿司コーナーがあり、日本人以外の客でほとんど満席の状態だった。
少し待って、何とか二人分の席が空いたので、二人は緑茶を飲みながら、寿司をつまんだ。
お腹を満たしてから、ティッセン・ボルネミッサ美術館に入った。
予想外に素晴らしい絵がたくさんあった。
元々は、ティッセン・ボルネミッサ男爵という人の個人的蒐集物であったが、二十年ばかり前に政府が買い上げて、美術館としたということだった。
三時間ばかり見学して、そこを出た。
地下鉄・セビーリャ駅まで歩き、地下鉄・二号線のクアトロ・カミーノス方面の電車に乗り、オペラ駅で降りた。
駅近くのラ・ボラというレストランでソパ・デ・カスティーリャというスープから始まる、地元マドリッドの料理を食べて、夕食とした。
二十六日目 六月三日(木曜日)
RENFEのアトーチャ駅のカフェテリアで朝食を摂った。
それから、地下鉄でグラン・ビアに行き、スペイン広場、歴史博物館、ゴヤのパンテオンなどを見物した。
スペイン広場にはセルバンテスのモニュメントと、ご存知、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像がある。
「メキシコのグアナフアトにも、ドン・キホーテの博物館があり、ドン・キホーテとサンチョ・パンサ、それに愛馬ロシナンテに関する絵画、彫刻が所狭しと陳列されています。とにかく、世界的な人気者であることは間違い無いです。また、ドン・キホーテという小説は当時スペインで語られていた格言・諺がぎっしりと詰まった小説でもあり、多くは狂言まわしの役どころを担ったサンチョ・パンサによって引用されますが、なかなか面白い表現がたくさんあります。例えば、・・・」
三池は少し目を上に上げて思い出すようにして、香織に言った。
「『十字架の後ろに悪魔がひそむ』、これは日本の諺で言えば、『外面如菩薩、内面如夜叉』と同じ意味です。『羊の毛を刈りに行って、刈られて帰る』、これは『ミイラとりがミイラになる』という諺と一緒ですね。『愛については、全てのものを平等にする、と言われる』という諺は、『恋に上下の隔て無し』いう日本の諺と同じです。その他、『燕一羽で夏にはならず』という諺は、日本の『早合点は禁物』と同じ意味で使われています。何でも、ドン・キホーテを詳細に調べた人の話によれば、四百以上の格言・諺が随所に散りばめられ、小説に彩りを添えているという話です。セルバンテスの好みか、当時の文学的作品の一般的な傾向だったかは知りませんが、僕もこのスペイン旅行から帰ったら、また再読し、格言・諺らしい言葉を全て抽出してみようか、と思っているのです。何せ、時間だけはたっぷりありますから」
三池の言葉を聞いて、香織は好意的な微笑を浮かべた。
二人は三日前に行ったサラダ・レストランの『フレスコ』を再訪し、サラダ・ビュッフェを食べて昼食とした。
その後、サラマンカ地区周辺を散策した。
コロンブスの塔が立っているコロン広場、アルタミラの洞窟壁画が再現されている国立考古学博物館、画家ソローリャが住んでいた住居を改造して美術館としたソローリャ美術館といったところを廻った。
その後、ホテルに戻った二人は明日の帰国に備えて、思い思いに荷物の整理を始めた。
スペイン最後の夜くらいは外出せずに、このホテルでのんびりと過ごしましょうか、と三池は香織に提案した。
それで、夕食はホテルのレストランで食べることとした。
ホテルのレストランのテーブルには赤いグラスに入った蝋燭が置かれ、ロマンティックな雰囲気を醸し出していた。
「このような蝋燭が置かれたテーブルを見ると、僕はメキシコのタスコのホテルのレストランを思い出しますね。慕情の街と呼ばれるタスコは山沿いの街で、夜になると、オレンジがかった黄色の光を放つカンテラが通りを一斉に照らします。その照明に照らされる夜の道もロマンティックなんですが、高い丘の上にあるホテルのバルコニーから見る夜景もとてもロマンティックなんです。僕はそのホテルのレストランで夕食を食べたのですが、そこのテーブルにもこれと同じような赤い容器に入った蝋燭がちらちらと炎を揺らしながら燃えていました。マルガリータというテキーラ・ベースのカクテルを飲みながら、その時はステーキを食べました。今はあまり肉は食べないんですが、当時の僕はどちらかと言えば、肉食系統でして、ミディアムに焼いて貰った、そのフィレテ・デ・チャンピーニョン、マッシュルーム入りヒレ・ステーキは美味しかったですね。今度、またご一緒に旅行する機会があったら、今度はメキシコにしましょうか。メキシコならば、僕は今回よりもっと上手にエスコートできますよ。その自信はありますから」
三池の言葉を聴き終った香織は、いつでも結構ですから、今度はメキシコに連れて行ってください、と三池に言った。
「それなら、今度は、新婚旅行という線で行きましょうか」
三池は冗談めかして、香織に言った。
香織は笑いながら、本気にしますわよ、と香織も冗談めかして三池に言った。
二人はそれっきり黙ったまま、か細く揺れる蝋燭の炎を凝視めるばかりであった。