絶望
「うっわ、貧乏くさい弁当」
教室の窓際から2列目、一番うしろ。
そんなあたしの席の横をわざわざ通り抜けていったのは、その言葉を投げつけるためだけに他ならない。
彼女の名前は──はあ、どうでもいいか。記憶を探ることさえ嫌気が差してくる。
強いて言うなら「玲奈帝国の下っ端」だ。
教室のど真ん中で、大勢の下っ端女子に囲まれている、栗色のゆるふわロングの美人──。
あれが、玲奈帝国の親玉、飯塚玲奈だ。
最も美人で、頭も良く、家もお金持ちのお嬢様。
学校生活を送る上で彼女の影響力は大きく、気に入られれば天国、嫌われれば地獄が待っている。
だから、クラスで玲奈に逆らう女子はいない。どんなに嫌っていようとも、それをひたすら笑顔で誤魔化し、彼女の機嫌を損ねないようにしている。
逆に気に入られ、より快適な学校生活を送ろうと、玲奈様のご機嫌取りに必死な女子も少なくない。
そんな人達のことを、あたしは皮肉を込めて「玲奈帝国の下っ端」と呼んでいる。
なお、その行動があまりにも目に余るもので、ついこの間「玲奈帝国の国民」から「玲奈帝国の下っ端」に降格させたばかりだ。
このままいけば、「玲奈の奴隷」に降格する日も近いだろう。
まあ、あたしの心の中の呼び方など、彼女たちはお構いなし──というか、それ以前に知るよしもないだろうけど……。
事の始まりは、玲奈のひとことからだった。
あたしのお弁当を見て「貧乏くさい」とけなしたのだ。
そりゃ、お嬢様からしてみれば、庶民の手作りお弁当など貧乏くさいかもしれないけど、なぜあたし?
男女含めて手作りお弁当を食べている人なんてたくさんいるのに?
まあ、理由はなんとなくわかっているんだけど……。
その次の日からというもの、毎日毎日、下っ端連中が入れ替わり立ち替わり、あたしがお弁当を広げるたびに同じコトをしてくる。
それが玲奈の命令なのか、それともご機嫌取りの一環で、下っ端連中が勝手にやっているのかは知らないけど、あまり気分の良いモノではない。
前に購買のパンに替えたこともあったが、けなす対象がお弁当からパンにシフトしただけだった。
少ないお小遣いをやり繰りしている身なので、どうせけなされるならお弁当の方がまだマシだというのが、あたしの出した結論。
それからは何を言われても無視。
どうせ昔から、人付き合いが苦手で1人で居ることが当たり前、孤立することには慣れていた。
むしろ、余計な気を遣わなくて良いので楽だ。
実害がなければそれでいい。
──と、思っていたのだけど……。
これはひどい。
だし巻き卵にミートボール、焼き鮭に、ポテトサラダ、そしてごはんにふりかけ──という定番を隙間なく詰め、多少傾けても平気な仕様にしたはずなのに……。
全てがグチャグチャに入り交じっていた。
まるで力いっぱいシェイクをしたかのようだ。
いや、ここまでになるには、そうする他は考えられないだろう。
とうとう実害が出始めた……。
さっきの「玲奈帝国の下っ端」を含めた数名が、あたしを盗み見て、クスクスと笑っている。
あいつ等の仕業なのは、ほぼ確定だ。
玲奈は──他の人との会話に夢中で、我関せずといった様子だ。
彼女は決して男子の前では本性を見せない。
ゆえに、男子からの人気も高い。
そのずる賢さに、怒りを通り越して呆れてしまう。
食べないという選択肢もあったけど、いつもと違う反応を見せたら、あいつ等を喜ばせるだけだというのは既に学んでいる。
パンに替えたときがそうだった。
だから、あえて何事もなかったかのように、それを口に運ぶ。
作った時のことが脳裏に蘇ってきて、そこに悔しさが入り交じり、鼻の奥がツンとする。
味なんてわかったモノじゃない。
──いや、かえってそれで良かったのかもしれない。
これだけぐちゃぐちゃなら、きっとひどい味になっていたかもしれないし……。
それにしても、もしこのままエスカレートしていったらどうなってしまうのだろう?
それを考えると不安で仕方がなかった。
昼食を食べ終えたあたしは、読書をする気分にもなれず、机に突っ伏して、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。
しばらくして、左前の席に人の気配を感じた。
あたしは慌てて上体を起こし、何事もなかったように授業の準備を始める。
そこは三浦遼──くんの席。
常に学年トップクラスの成績で、美術部でありながら、運動系の学校行事ではクラスをまとめ上げ誰よりも活躍する。
誰隔てなく接し、困っている人は放っておけない性格の良さと、アイドル並の整った顔立ちで、彼に想いを寄せる女子も少なくはないはずだ。
そんな彼の唯一の欠点は、女子に好かれる要素を持ちすぎてしまったことだろう。
いや、欠点というか、不運と言うべきだろうか。
なにせ、あの玲奈に好きになられてしまったのだから。
もちろん、三浦くんも玲奈のことが好きだというのなら、不運でも何でもない。
両想いだね、おめでとう──で、話は終わりだ。
でも、そうでないのなら、色々な意味でご愁傷様──と言うしかない。
玲奈の好きな三浦くんに手を出したらどうなるか──。
そんなことは、玲奈を知る女子なら容易に想像できるからだ。
もし、どうしてもできないというのであれば、あたしを見るといい。
言っておくが、決してあたしから手を出したわけではない。
たまたま三浦くんが、あたしのお弁当を見て、ほとんど社交辞令で褒めてくれて、「その卵焼き一個くれない?」と言ってくれた──それだけなのだ。
人付き合いが苦手で、クラスの女子ですらほとんど話したことのないあたしが、男子から──しかも少し気になる相手から、そんなことを言われた日には、緊張と嬉しさで頭の中が真っ白になるのも仕方ない。
思わず頷いてしまったからといって、誰が文句など言えよう?
それなのに──。
さすがは玲奈様。庶民の常識の通じる相手ではなかった。
しかも三浦くんが、あたしの卵焼きを絶賛したものだから、余計に面白くなかったらしい。
彼が席を外すや否や、あたしのお弁当をけなしてきたのだ。
そして、その次の日からは、玲奈帝国の下っ端連中……。
卵焼き1つでこれだ。
もし三浦くんに告白でもされようものなら、その女子はどれだけの地獄を見ることになるのだろう?
ああ──でも、そうなれば、あたしの地獄は終わるだろうか?
自分が良ければそれでいい──そんな考え、良くないことはわかっている。
わかってはいるけど、今の状況できれい事など言ってはいられない。
それくらい、あたしの精神は追い込まれてしまっているのだから……。