9/5(月) 新しい友だち
僕は完全に忘れていた。
それは夏休み明け直後のある日、帰りのSHRでのこと。文化祭実行委員を決めることになったのだが、当然のように自分から進んでやろうとする者などいなかった。僕もそんな面倒そうなことはしたくなかったのだが、その日は早く帰りたいがためにその役を買って出たのだった。実行委員は二人必要だということだったが、僕が手を挙げた後もしばらくは静的な時間が流れた。僕が早く帰りたいと切実に願っていると、渋々といった感じではあったが自薦した者がいた。それが、鬼島夏帆という女子生徒だった。理知的で真面目だが、なにか裏がありそうな雰囲気の少女。まぁ、実際に裏の顔があるのなら、隠しきれていない未熟さもあるということになるけれど。僕は彼女のことをほとんどなにも知らない。まだ彼女と話した記憶すらないが、これからは実行委員として接することになるだろう。彼女の人柄をまだ把握していないのは、僕が基本的に他人に興味を持たないので、目立つ人の言動くらいしか情報として入ってこないからだ。
「おはよー、神海くん」
「あぁ、おはよう」
声をかけてきたのは波瀬さんだ。今日もはにかむような笑顔がかわいい。淡いピンクのチークカラーが可愛さを際立たせている。
「どうしたの? お弁当忘れたみたいな顔してたよ」
「え、なに、そんな顔してた? ちなみに今日のお昼は『ロンド・カシュカシュ』だよ。いいでしょ?」
「え、なにそれ。ロンドン? ……ってケーキじゃん!」
鞄から取り出して見せると、波瀬さんは驚きつつそれをビシッと指差した。
ケーキとは言っても、この場合、スポンジケーキなどの所謂ケーキだけではなく、小麦粉をベースにした洋菓子全体を指しているんだろうな。……というか
「ロンドンじゃなくてロンド。まさかカシュカシュのこと知らない? ちなみに隠れんぼのことじゃないよ、一応。これほんとに美味しいからさ、お昼に少し食べてみてよ」
「え、いいの? やったぁ!」
「もちろん。そもそも一人じゃ食べきれないよ」
もともとそういうつもりで持ってきたのだ。そうだ、綿美にもこの幸福をお裾分けしに行こう。
『ロンド・カシュカシュ』は表面がカリカリサクサクとしたクッキーのような感触で、噛むとくしゃっと崩れる。カシューナッツのきゅっとした食感とザラメのザクザク砕ける感覚がなんとも楽しい。中はふんわりしていて、口全体にほろほろと甘みが広がるのだ。初めて口にした時、僕はこの大きなリングに魅せられた。波瀬さんもきっと気に入ってくれるだろう。
いつまでも出していても仕方ないので、カシュカシュを鞄に仕舞う。
「神海くん」
「うん?」
一瞬、波瀬さんに呼ばれたのかと思ったが、すぐに違うと気づいた。落ち着いた感じの声に振り返ると、そこには鬼島夏帆が立っていた。僕は椅子に座っているので、自然と見上げる形になる。背が高いからか、それともクールビューティな見た目のせいか、少し圧倒されるな。
「鬼島さん?」
「こんにちは。波瀬さんも」
「やっほ」
「それで、なにか?」
「あら。なにかとはご挨拶ね。実行委員として親睦を深めようと思って声をかけたのに」
「そうだったんだ。それは謝るよ。にしても唐突だね」
「前で仕切れって言われた時に、お互いの距離感を推し量りながらっていうのはやりにくいわ。それなら事前に話して慣れておくのがいいかと思って。でもあなた、自分から声をかけるようなタイプじゃないでしょ? だから挨拶しにきたのよ」
なるほど。それは確かにそうかもしれない。
「鬼島さんは細かいところまで気遣えるんだねー」
「あら、波瀬さんのほうがよっぽど気遣いが上手じゃない」
「え? そう?」
少し驚きだ。流石だな。賢いのだろうとは思っていたが、鋭い観察眼を持っているらしい。波瀬さんの気遣いはあまりにも自然で、他人にそれと意識させないくらいだ。僕は休み時間などに、話し相手がいないこともあって小説を読んでいたのだが、よく波瀬さんの話し声が聞こえてきていたので気づくことができた。当事者よりも、外から見聞きしているほうが状況がよく分かるものだ。ただ、反応を見るに、波瀬さんは無意識でやっていたのかもしれない。それはそれで凄いことだ。
「そういえば、前から気になってたんだけど、点呼の時に鬼島さん『ほーい』って応えるよね。鬼島さんの口調とミスマッチだと思うんだけど」
「そうね。でも前の二人が『はーい』『へーい』って来たらもう、『ほーい』って言うしかないじゃない?」
そういうものなのか? 分かるような分からないような感じだな。
「鬼島さんって大人っぽいけど子どもっぽいところもあるんだね」
いきなりだな、波瀬さん。それは言ってもいい部類のことなのだろうか。僕には、言っていいことと言ってはいけないことの区別というものがよく分からない時がある。ちらと鬼島さんの顔を窺う。あまり気にした様子はなさそうだ。
「外から見て大人っぽい人でも、関わってみれば子どもっぽいところがあることに気づく。人ってそんなもんだと思う。……そう言っていた人がいたわね。多分、誰でも大体そんなものなのよ」
「それは、有名な人の言葉?」
「いいえ。普通の人よ。普通の……優しい人」
鬼島さんは少し目を細めて、優しい表情を見せた。まるで、遠くにいる誰かを想うような。
「好きなんだ」
「好きなんだね」
僕と波瀬さんの言葉が重なる。同じ印象を受けたらしい。いや、誰もがそう感じただろう。
「は? え!? いや! なん、なに言って、私は別に、そんなこと!」
ない、とは言えなかったようだ。というか、狼狽えすぎじゃないか?
「……それに、その人、彼女できたらしいし」
……これはなんというか、申し訳ないことをしてしまったかな。
「そうなんだ。なんか、ごめんね」
「いえ、神海くんが謝ることじゃないわ」
そう言ってはもらえたが、この話題を続けるのは得策ではないな。
「にしても、確かにその通りかもしれないね。大人っぽく見えても子どもっぽいところがある。僕が小学生の頃は中学生が大人とほとんど変わらないように見えたけど、今思えばやっぱり子どもっぽい。うん。言い得て妙とはこのことかも」
いや、違うか。まぁなんでもいい。とにかく気づきを齎す言葉だ。
「私のお父さんもね、昔はなんでもできる大人だと思ってたけど、偶に子どもっぽいことしたりするんだよねー。食べ物の好き嫌いとか。その人の言う通り、人間ってそんなものなのかなーって、納得」
朝のこの時間、こんな風にお喋りするのは初めてかもしれない。いや、入学当初は僕もコミュニケーションを取ろうとしていたから、クラスメイトと話すことはあったな、そういえば。
波瀬さんは人気者で常に人に囲まれていたし、鬼島さんは人の多いところでキャッキャとするタイプではない。それゆえ波瀬さんと鬼島さんは今までほとんど関わりがなかったようだが、話していくうちにすんなりと打ち解けたようだ。そういえば僕といる時は波瀬さんに話しかける人がいないな。気を遣われているのだろうか。
「それでね、私思うのよ。料理できるとか、普段から掃除、洗濯してるとかいうのを女子力高いって言うけどさ、私は生活力だと思うのよ。男女平等が叫ばれてもう長いわけじゃない? 学校じゃ女子のほうが権力持ってたりするし。それなのに今の時代になってから女子力なんて言葉が出てきたことが疑問なのよねー」
僕が少し考えごとをしている間に、随分と話題が変わっているな。それにしても、鬼島さんは面白いことを言う。
「言われてみればそうだね。でも、社会では男性優位なのはまだまだ根強く残ってるらしいからね。実際、夫のほうの主夫って、今でもそんなに多くないと思う」
「まぁ、それもそうだけど。にしても家事ができるとかで女子力っていうのは、やっぱり古い役割分担の感覚が生きてるのよ。一概に悪いとは言わないけどね」
「それも仕方ないよ。人の認識は簡単には変わらないからね。僕自身、将来は僕が働いて、パートナーには家にいてほしいって思ってるしねー」
「そういうものかしら。……あら、波瀬さんどうしたの?」
「ううん、なんでも……。ただ、生活力って言われたのは、心に刺さるよ……」
「意外ね。波瀬さんは料理とかしないの?」
「あんまり……。で、でも、やればできるよ! たぶん!」
波瀬さんは両手を握り締めて僕を見つめる。なんのアピールだろうか。
「うん、分かったから、そんな見つめなくても」
「わっ! えっ! みっ、見つめてなんかないしっ」
えっと、なんでこの流れでツンデレ風なんだろう。顔が赤くなってるのを見ると、恥ずかしがってるんだろうか。取り敢えず、波瀬さんのツンデレいただきました。
「なぜか朝からリア充を見せつけられたわ。もう時間だし席に戻るわね」
鬼島さんは『やれやれ』とでも言いたげなジェスチャーをしながら歩いていった。
リア充って……。いや、否定はしないけど。
時計をちらと見る。一限目が始まる時間だ。
「波瀬さんも席に着いたほうがいいよ。もうすぐチャイム鳴るからさ」
「えっ、あ、そだね」
パタパタと手で顔に風を送りながら、波瀬さんも戻っていった。
一限目が始まる前の独特な空気が教室を満たす。平日にしかない、誰もが改めて一日の始まりを感じる瞬間だ。