9/5(月) イベント
今朝は曇りだった。僕は雨でなければ別になんでもいい人なので、「曇りか」くらいの感想しか出てこなかった。
平日の始まりの日。学校に着き、一年生の教室が並ぶ三階の廊下を歩いていると、ある男子生徒が前方から歩いてきた。
「よう、神海」
「綿美。おはよ」
「聞いたよ。彼女できたんだって?」
「うん、まぁね」
「まさか波瀬美唯とはな。仲良かったっけ?」
「いや、それが急展開でさ、僕にとっても驚きだよ。奇跡みたいだよね、ほんと」
「そうか。ま、神海なら納得だけどな」
「え? どうして? 僕じゃ全然釣り合わないでしょ。高嶺の花だよ」
「……あー、うん、そうだな」
「なに。歯切れ悪いね」
「いや、気にすんな。あぁ、そういや最近、留萌と話したか?」
「ちょっと前までは毎日話してたけど。そういえばここ数日は話してないな。なんで?」
「んにゃ、別に。……そうだ。図書室に新しく本入ったってよ。また見に行ってみ」
「そうなんだ。うん。そうするよ。態々ありがとね」
「おう。じゃ、またな」
彼はひらひらと手を振ると、僕が今来たほうへと歩いていった。花を摘みにでも行くのだろう。って、男の場合はその表現ではないのだったか。どうでもいいけど。A組側の階段の近くには男子トイレがあり、廊下の反対側、F組のほうの階段の近くには女子トイレがある。昇降口はA組側の階段の近くにあるので、教室から出てきた綿美と登校してきた僕が擦れ違ったのは自然なことだ。しかし、実は彼とこうして話すのは珍しいことだったりする。
彼は綿美傭麻。
僕らは夏休み以前から友人で、偶に話をする仲だ。僕も綿美も、基本的には連むタイプではないが、いつからか話をするようになった。とはいえ、教室移動がなければ滅多に自分の席から離れない綿美と僕が話をする機会など、頻繁にはない。それでも放課後にタイミングが合えば、話しながら駅まで歩いたことは何度もある。言ってしまえば、僕にとって彼はこの学校で唯一の友人だ。僕ほどではないにしても、友だちという存在は彼も少ないらしい。僕らにはいくつか共通項がある。先ず、僕らは群れるのが苦手なのだが、それは人と話を合わせるのが苦手だからだ。興味のないことを話されても面白くないし、楽しくもない。自分が興味あることについて話しても興味を持ってもらえない。これではボッチになるのは仕方がないだろう。他には、本好きというところや、「自分には言葉しかない」と思っているところか。僕は口述、綿美は文章で自分の考えを伝えたり、物事を表現したりすることに少しばかり矜持がある。興味分野も似ているかな。そんな感じで、実は僕にも一人、この学校に友だちがいたのだ。
それにしても、図書室に新しい本か。気になるな。図書室に本が入る時期なんて把握していなかったが、うちの学校では夏休みに仕入れるのかな。
そういえば、なぜ綿美は留萌の名前を挙げたのだろう。そんな疑問を持ったまま自分のクラスの教室に入ると、何人かの生徒の視線が刺さった。とはいえそれは見られる側の感覚で、見る側はほとんど反射のようなものだ。誰しも教室のドアが開けば気になるのだろう。斯く言う僕もあちら側の立場の時はちらちらと視線を向けたりする。教室にはまだ波瀬さんはいなかった。この前の朝は早かったが、彼女はそこそこの頻度で遅刻するからな。今日も遅刻かもしれない。彼女のことを考えると、思わず三日前のことを思い出した。
金曜日の放課後も、僕と波瀬さんは一緒に帰った。その時には雨は止み、曇り空が広がっていた。どんよりとした世界とは対照的に、僕の心は晴れ渡っていた。当然だ。波瀬さんが隣に居てくれるのだから。もしかしたら、毎日のように一緒に帰ることになるのかな。それはなんというか、とても幸せで、僕にはかなり贅沢な青春だ。
朝のSHRの開始時間とされている八時二十分の数分前。いつものように担任の女性教師、美月美月が教室にやって来た。チャイムは鳴っていないが、彼女の登場とともに教室のざわめきが少し収まる。
高身長ですらりとした細身、整った顔つきに切れ長の目は見る者に冷たい印象を与える。それでいて居るだけで周りの視線を引き寄せる。一言で言うと美人だ。パリッとした黒いスーツがそれを一層引き立てる。その見た目に反して口調が快活でフレンドリーなのが、相手に好印象を抱かせるのは必然的だろう。そんな彼女に憧れる生徒は多い。しかし彼女に対して、恐れを抱いている生徒も少なくない。
一年生が学校に慣れ始めた頃、教室中が騒がしくなり、先生が何度も注意しているにも係わらずその状態が続いたことがあった。初めは困った様子だった美月先生の表情が、段々と苛立ちに変わり、終にはぶち切れたのだ。それまで怒ったことなどなかった彼女が突然『黙れっつってんだろ!!』と一喝した。その叫びはまだ僕の記憶に焼きついている。ドアと窓がほとんど閉まっていたのに二つ隣のクラスまで響いたというのだから大したものだ。少しばかり懐かしいことを思い出していると突然、ッバン! と教室のドアが開かれた。驚いて肩が揺れた。なんだか恥ずかしい。が、視界には同じように驚いていた生徒が数人いたので俯瞰的になれた。
結果から言うと、僕の小さな予想は外れた。波瀬さんはチャイムが鳴る十数秒前に教室に現れたのだ。ギリギリ遅刻を免れたようだ。
「セーフ……!」
「はいはい。はやく席に着きなさい」
扉を勢いよく開けた波瀬さんに対して、美月先生は呆れたようにため息を一つ吐いた。同時、『ウェストミンスターの鐘』が僕の鼓膜を揺らす。波瀬さんは走ってきたのか、少しだけ肩で息をしている。
「せんせー、褒めてくれてもいいじゃん」
「むしろ遅刻しそうになったことを注意しなきゃいけないくらいなんだけど?」
「う……」
教室の所々で笑いが起こる。人気者はなにをしても場を明るくするな。波瀬さんは言われたことに自覚があるのか、苦笑しながら着席した。
「はい、では出欠を取ります。いーぬいー」
「はいよ」
「いーまあらぁ」
「はーい」
「おたるぅー」
「へーい」
「きとーう」
「ほーい」
断続的にそれぞれの名前が呼ばれ、それに応える声が聞こえる。ちなみに漢字では、戌威、今新、小樽、鬼島だ。どこのクラスでもそうだろうが、出欠確認の返事には個性がある。そう思うとこんな名前を呼ばれるのを待つだけの時間も少し面白い。美月先生の名前の読み上げ方も独特と言えば少し独特だ。
「わーたなべぇ」
「……あ、はい」
最後に呼ばれた渡邊くんは、どうやら小説を読んでいたことで反応が遅れたようだ。
夏休みが明けてすぐの席替えで、縦七席のうちの前から六番目、つまり後ろから二番目という、比較的後方の座標に位置する席が僕の定位置となった。夏休み前にも一度、席替えはあったのだが、入学以来前方の席だった。後ろだとこんなにも教室内の様子が分かるのか。これからは人間観察でもしようかな。
「おっけー。今日もみんないるね」
今日も一人の欠席もないようだった。うちのクラスには遅刻する人はいても、欠席は滅多にない。それを当然とするか否かはクラスや学校にも依るだろうが、僕の印象としては、みんな意外と真面目だな、といったところか。
「今日も特に連絡事項はない。あ、嘘うそ、ごめん、一つだけあったわ。もう文化祭まで一ヶ月切ったからね。そろそろ準備始めようと思う。文化祭実行委員は誰だっけ?」
美月先生は、教師がよく持っている黒いバインダーのようなファイルのようなものに綴じられた紙をぺらぺら捲りながら、メモでも探しているようだ。
うん? ちょっと待て、文化祭実行委員は、確か──
「あぁ、神海と鬼島だったな。帰りのショートでうちのクラスでなにするかだけ決めるから、その時はよろしく。じゃ、朝のショートはこれで終わり」
黒いやつをパタンと畳むと、後ろで一つ縛りにした長い髪を揺らしながら、美月先生は教室を後にした。