9/2(金) 放課後
あのちょっとした事件の後、昼休みが終わる少し前に、戌威が教室に戻ってきた時、彼は波瀬さんと僕に謝ってきた。外で頭を冷やしてきたんだ、悪かった、と。本当に水道で頭に水を被ってきたようだった。僕らは二人ともそんな彼を咎めるようなことはしなかった。SHRで先生はなにも言わなかったから、少なくとも教師陣はなにも知らないのだろう。
「あ、ほんとにいた。やっほ。神海くん、待っててくれたの?」
放課後、いつも通り教室に残って本を読んでいると、波瀬さんが姿を現した。普段通り屈託のない笑顔を湛えている。
「波瀬さん? いや、いつも通り読書をね。家じゃだらだらしちゃうから」
「そうなんだ。ってか、そこは嘘でも『君を待ってたんだ』って言うところでしょ」
彼女は真剣な表情を作り声色まで変えて、画面の中の俳優のようにそんな台詞をロマンチックに言ってみせた。
「僕はそんなこと言わないよ」
「はぁ〜。せっかく彼女になれたのにぃ。それくらいさぁ」
彼女になれた、か。なんというか、ストレスのかかることを言う。なんだかお腹の中でコルチゾールが分泌されるのを感じる。いや、これはただの感覚で、実際にそうかは知らないが。今の僕にはストレスを感じるとコルチゾールという副腎皮質ホルモンが分泌されるらしい、くらいの知識しかない。
「……って、え?」
「ん? なに?」
待て待て。待ってくれ。よし待とう。……その言い方では、まるで波瀬さんが僕のことが好きでやっと付き合うことになった、という風に聞こえないか? ん? んんん? ちょーっと訳が分からないぞ。どういうことだ? どういう意味なんだ? 分からない。波瀬さんに直接訊くしかないか。けど、どう訊けば……。
「あ、あの、ちょっといいかな」
「なに?」
きょとんとして無邪気に見つめてくる彼女と目が合って、胸が高鳴る。頭の中が真っ白になった。僕はなにを言おうとしていたんだ。なにを言えばいいんだ。
「どうしたの?」
黙ってしまった僕に不思議そうな目を向けてくる。僕はまぬけな顔をしてしまっていただろう。意識して少し顔を引き締める。だからといって言葉は出てきてくれないが。とにかくなにかを言わないと。
「えっと、波瀬さんは、その、好きな人……彼氏って前はいなかったの?」
「へっ!? えっと、あの、好きな人がいたことはある……けど、恋人は初めてなの」
波瀬さんは恥ずかしそうに俯いて、ちらちらと僕の顔を見る。ほっぺたをほんのり紅く染めて照れているその表情は、今まで見た中で一番かわいい。
「……神海くんは、その、前に彼女とかいたの?」
「いたことないよ」
「そっか。なんだか嬉しい。私が初めての彼女なんだね。……あ〜もう、なに言ってんだろ私。今の忘れて! 恥ずかしいから!」
波瀬さんは手をぱたぱたさせて、火照った顔に風を送っている。いちいちすることが可愛いな。
「うん。努力はするよ」
ごめん、しっかり記憶に残っていくと思うし、忘れる努力もしない。一つ嘘を吐いてしまった。
……にしても、なるほど。いくら鈍い僕でも理解した。つまり、昨日のあれは彼女なりの告白だったんだ。でも、分かりにくいよ。『気に入ってる』だなんてさ。僕の返事は、あれで良かったのだろうか。あまりはっきりとは覚えてないけど、曖昧な感じだった気がするんだよな。それにしても、僕が波瀬美唯の彼氏、とは。現実味がまるでないな。これが夢ではないことを切に願うばかりだ。
それに、いろいろ納得した。みんなに注目されていたことも、波瀬さんが昼食を一緒に食べようと言ってくれたことも、それに、戌威の言葉の意味も。僕は戌威に、随分と的外れなことを言ってしまったのかもしれない。
あと、昼休みに思い出せなかったことを思い出した。僕が今朝『すごい噂になってるね』と言ったのに対して、彼女はこう言ったのだ。
────なによ、他人事みたいに、と。
そうか。僕は当事者どころか、中心人物だったんだ。本当に僕は、今日の僕は一人だけバカだった。波瀬さんにはこの勘違いを伝えないでおこう。言っても仕方のないことだ。
「じゃ、帰ろっか」
波瀬さんは踵を返して教室の出入り口へと歩みだした。僕は静かに深呼吸を一つしてから彼女に声をかけた。
「波瀬さん」
「ん、なに?」
「改めて、よろしくね」
「え、うん……よろしく」
また顔を紅くした彼女に、僕は小さく微笑んだ。
こうして、僕らの記念日は、僕にとって過去に遡ることになった。まさか昨日が二人の記念日だったとは。
そんなことを思うと嬉しい気持ちが胸いっぱいに広がった。なんだかわくわくしてきた。これまで生きてきた中で最も新鮮な気分で、そしてどこまでも幸せだ。ここから僕の高校生活はどんな風に色づくのだろう。彼女と一緒に幸せになるためなら、なんだってできるような気がしてきた。