表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/18

9/2(金) 放課後

 あのちょっとした事件の後、昼休みが終わる少し前に、戌威(いぬい)が教室に戻ってきた時、彼は波瀬さんと僕に謝ってきた。外で頭を冷やしてきたんだ、悪かった、と。本当に水道で頭に水を被ってきたようだった。僕らは二人ともそんな彼を(とが)めるようなことはしなかった。S(ショート)H(ホーム)R(ルーム)で先生はなにも言わなかったから、少なくとも教師陣はなにも知らないのだろう。

「あ、ほんとにいた。やっほ。神海(こうみ)くん、待っててくれたの?」

 放課後、いつも通り教室に残って本を読んでいると、波瀬さんが姿を現した。普段通り屈託のない笑顔を(たた)えている。

波瀬(はせ)さん? いや、いつも通り読書をね。家じゃだらだらしちゃうから」

「そうなんだ。ってか、そこは嘘でも『君を待ってたんだ』って言うところでしょ」

 彼女は真剣な表情を作り声色(こわいろ)まで変えて、画面の中の俳優のようにそんな台詞(セリフ)をロマンチックに言ってみせた。

「僕はそんなこと言わないよ」

「はぁ〜。せっかく彼女になれたのにぃ。それくらいさぁ」

 彼女になれた、か。なんというか、ストレスのかかることを言う。なんだかお腹の中でコルチゾールが分泌されるのを感じる。いや、これはただの感覚で、実際にそうかは知らないが。今の僕にはストレスを感じるとコルチゾールという副腎皮質ホルモンが分泌されるらしい、くらいの知識しかない。

「……って、え?」

「ん? なに?」

 待て待て。待ってくれ。よし待とう。……その言い方では、まるで波瀬(はせ)さんが僕のことが好きでやっと付き合うことになった、という風に聞こえないか? ん? んんん? ちょーっと訳が分からないぞ。どういうことだ? どういう意味なんだ? 分からない。波瀬(はせ)さんに直接訊くしかないか。けど、どう訊けば……。

「あ、あの、ちょっといいかな」

「なに?」

 きょとんとして無邪気に見つめてくる彼女と目が合って、胸が高鳴る。頭の中が真っ白になった。僕はなにを言おうとしていたんだ。なにを言えばいいんだ。

「どうしたの?」

 黙ってしまった僕に不思議そうな目を向けてくる。僕はまぬけな顔をしてしまっていただろう。意識して少し顔を引き締める。だからといって言葉は出てきてくれないが。とにかくなにかを言わないと。

「えっと、波瀬(はせ)さんは、その、好きな人……彼氏って前はいなかったの?」

「へっ!? えっと、あの、好きな人がいたことはある……けど、恋人は初めてなの」

 波瀬さんは恥ずかしそうに俯いて、ちらちらと僕の顔を見る。ほっぺたをほんのり紅く染めて照れているその表情は、今まで見た中で一番かわいい。

「……神海くんは、その、前に彼女とかいたの?」

「いたことないよ」

「そっか。なんだか嬉しい。私が初めての彼女なんだね。……あ〜もう、なに言ってんだろ私。今の忘れて! 恥ずかしいから!」

 波瀬さんは手をぱたぱたさせて、火照った顔に風を送っている。いちいちすることが可愛いな。

「うん。努力はするよ」

 ごめん、しっかり記憶に残っていくと思うし、忘れる努力もしない。一つ嘘を()いてしまった。

 ……にしても、なるほど。いくら(にぶ)い僕でも理解した。つまり、昨日のあれは彼女なりの告白だったんだ。でも、分かりにくいよ。『気に入ってる』だなんてさ。僕の返事は、あれで良かったのだろうか。あまりはっきりとは覚えてないけど、曖昧な感じだった気がするんだよな。それにしても、僕が波瀬(はせ)美唯(みゆい)の彼氏、とは。現実味がまるでないな。これが夢ではないことを切に願うばかりだ。

 それに、いろいろ納得した。みんなに注目されていたことも、波瀬さんが昼食を一緒に食べようと言ってくれたことも、それに、戌威(いぬい)の言葉の意味も。僕は戌威に、随分と的外れなことを言ってしまったのかもしれない。

 あと、昼休みに思い出せなかったことを思い出した。僕が今朝『すごい噂になってるね』と言ったのに対して、彼女はこう言ったのだ。

 ────なによ、他人事みたいに、と。

 そうか。僕は当事者どころか、中心人物だったんだ。本当に僕は、今日の僕は一人だけバカだった。波瀬さんにはこの勘違いを伝えないでおこう。言っても仕方のないことだ。

「じゃ、帰ろっか」

 波瀬さんは(きびす)を返して教室の出入り口へと歩みだした。僕は静かに深呼吸を一つしてから彼女に声をかけた。

「波瀬さん」

「ん、なに?」

「改めて、よろしくね」

「え、うん……よろしく」

 また顔を紅くした彼女に、僕は小さく微笑んだ。

 こうして、僕らの記念日は、僕にとって過去に(さかのぼ)ることになった。まさか昨日が二人の記念日だったとは。

 そんなことを思うと嬉しい気持ちが胸いっぱいに広がった。なんだかわくわくしてきた。これまで生きてきた中で最も新鮮な気分で、そしてどこまでも幸せだ。ここから僕の高校生活はどんな風に色づくのだろう。彼女と一緒に幸せになるためなら、なんだってできるような気がしてきた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ