9/2(金) 昼休み
それから午前中はなにごともなくいつも通りだった。そう、午前中は。お察しの通り、昼休みにはまたイレギュラーなことが起こった。なんと波瀬美唯が声をかけてきたのだ。こんな風に。
「こ、神海くん、お昼ご飯一緒に食べよ?」
「……え?」
は? いや、なんで? 意味分からないよそれ。彼氏できたんでしょ? 僕が殺されるよ。てゆーか、彼氏がいなくても誰かに殺されちゃうよ。例えばほら、そこで僕を憎しげに睨んでいる大男の戌威とか。や、マジでめっちゃ睨まれてんだけど。やめてくれないかな。ほんとに命の危険を感じる。
でもそれも仕方ないといえば仕方ないんだろう。
夏休みも過ぎ、当然ながらもうすでに学校内で波瀬さんを中心としたグループが形成されている。それは彼女がそうしたのではなく、いつの間にか常に側にいる友人がいて、済し崩し的にグループが出来上がっていた、という感じだ。学校では『波瀬グループ』と呼ばれ、ちょっとした憧れの対象になっている。
彼はその一員で、謂わば波瀬グループの用心棒……というより波瀬美唯のボディーガード的存在だ。191cmの長身に、ガッシリした体格。我が校弱小野球部の救世主、4番バッターのホームラン王。戌威虎白。ゴリマッチョでも細マッチョでもないミディアムマッチョで、ほどよく焼けた小麦色の肌、整った顔立ちにさっぱりした爽やかな髪型。自信に溢れた凛々しいその姿は、人々の憧れを体現したような男の中の男だ。認めたくはないが、波瀬さんと戌威はお似合いだ。もし彼が波瀬さんの彼氏になったらその時は仕方がないと思わざるを得ない。そういう意味では、それ以外の男子が波瀬さんと付き合うのは納得できない。実際には波瀬さんが誰と付き合うかは波瀬さん次第だけれど、やっぱりそんな風に思ってしまう。彼自身にもそういう自負があるのかもしれない。もしかして波瀬さんの彼氏は戌威か? いや違うか。もしそうなら波瀬さんの意図がまったく掴めない。しかし戌威でないとしたら、先輩か、他校の生徒か。どちらにしろ戌威以上の男だろう。
とはいえ、なんにしても常に側にいた彼からしたら、今までなんの関わりも持たなかった僕が波瀬さんと昼食を取るなんて許せないのだろう。こんなことを言ったら怒られるかもしれないが、その気持ち、分かる気がする。戌威の立場になって考えてみれば、ね。
「ん? どうしたの?」
「あ、いや……なんでもないよ。そうだね、一緒に食べよう」
だけど、僕に拒否権がないことも確かだ。断ろうものならアイドルの誘いを断った無礼者として名が知れ渡ることになる。それはダメだ。了承すれば男子に恨まれる可能性があるが、断れば男子のみならず女子も敵に回すことになりかねない。
「おなかすいたー。あれ、神海くんあまり食べないんだね。それで足りるの?」
波瀬さんは僕の弁当を見てそんなことを言う。確かに他の男子に比べれば少ない。というか女子と同じくらいか、下手をするとそれ以下だ。
「まぁ運動部でもないし、そんなに食べる必要ないからね」
「ふーん。そんなものかな〜? おっグラッセ入ってる! お母さんありがとう!」
「あっはは、良かったね」
彼女は弁当箱の中身を見て喜んでいる。見ると小さくカットされた光沢のある人参が入っていた。波瀬さんは人参のグラッセが好きなのか。グラッセというのは確か、野菜が浸かるくらい入れた水に砂糖やバターを加えて煮た料理だったか。ちなみに僕は、弁当のおかずの中ではアスパラと人参の肉巻きが好きだ。あとグラタンも。あのレンジでチンする冷凍のやつだ。肉巻きもグラタンも入っていない自分の弁当箱から視線を上げ、彼女の嬉しそうな顔を眺める。美味しそうに頬張る姿も可愛い。いつまでも見ていたくなる。こうなってしまえば周囲からの視線はもうどうでもよくなってくる。それほど僕は彼女に魅せられている。彼女はすべてを優しく包み込むような不思議な雰囲気を持っているのだ。
とはいえ、やはり引っかかるところがある。この状況は本当に一体どういうことなんだろうか。そもそも彼氏は? ……いや待て。まさか、僕の勘違いか? 波瀬さんは確かに否定はしなかった。だから彼女が噂を事実だと認めたのだと思った。僕は勝手にそう思い込んだ。でも実際には、肯定もしていない。そうだ。思ってみればおかしいことがある。この状況もそうだし、今朝のことも。波瀬さんに彼氏ができたのなら、もっと人が集まっていてもいいはずだ。それなのに今朝、彼女の周りはいつもとあまり変わらなかった。噂を聞きつけて彼女の許に集まった人たちがいたとして、彼女がはっきりと噂を否定した後であれば、今朝の教室内の状況も理解できる。寧ろ否定していなかったなら、C組は生徒で溢れていたはずだ。彼女は多分、その噂を否定したことまで僕が知っていると思ったのだろう。実際には僕だけでなくA組で噂していた女子も、そのことについて知らなかったみたいだから、噂が冷めるのにはまだ時間がかかるだろうが。そういえば、彼女は僕になんて言ったんだっけ? あれ、思い出せない。少し引っかかるな。なにを言ったんだ?
「神海くん。神海くん?」
「え、な、なに?」
「食べないの?」
考えごとをしていたせいで、ぼーっとしてしまっていた。
「や、食べる食べる。ちょっと考えごとをね」
「なにか悩みごと?」
「ううん。大したことじゃないよ。って、もうそんなに食べたの?」
「え、ちょっと、大食いみたいに言わないでよ。私はお腹がすいてたから……」
「言い訳になってないよそれ。食いしん坊みたい」
「そこまで言う!? ちょ、笑わないでよー!」
「ごめん、ふふはっ」
「まだ笑う!?」
楽しい。こんなに楽しい昼休みはいつ以来だろう。なんて思ったその時、机に両手を叩きつける音と、野太い声が聞こえた。
「おい」
振り向くと、そこには先ほど僕を睨んでいた大男が立っていた。
「え、戌威くん?」
波瀬さんが驚いたようにその名を呼んだ。戌威は波瀬さんを一瞥すると、再び僕に視線を合わせた。
「神海。俺と決闘しろ」
「……へ?」
「ちょっと戌威くん、なに言ってんの!?」
「波瀬。悪いな。俺はそいつを認めたわけじゃねえんだ」
言葉は波瀬さんに向けているが、戌威の視線は僕の目をまっすぐ射貫き、僕に圧倒的な威圧感を与えてくる。思わず唾を飲み込んだ。
彼氏説のせいで混乱してしまっていたが、それが否定された今、今日こうして昼休みに僕のところに来た理由は察しがつく。僕は波瀬さんに気に入られているらしい。それは昨日、波瀬さん本人の口から聞いたことだ。多分それは建前で、彼女はいつも一人でいる僕に同情しているのだと思う。彼女は優しいからな。僕が言葉の裏を読んでいるとは知らない彼女からしたら、この行動は『友だちになったのだから仲良くしましょう』ということだろう。ただ、そのことを彼女は波瀬グループに話しているのだろうか。多分言っていない。なぜなら彼女は誰に対しても対等であることを大切にしているからだ。彼女は人を見下すような言動をしない。では彼女のこの行動を波瀬グループはどう捉えるだろうか。そう、波瀬美唯が一人の男を選んだように見えないか? 僕にとってこれは、なんというか……不味い。それこそ戌威のような男なら波瀬さんに相応わしいと思われるだろう。しかし実際にお昼をともにしているのは、この僕だ。
スポーツが得意ということもなく、リーダーシップもユーモアもなく、勉強だってそんなにできるわけでもない。休み時間にはほとんど誰とも話さず、一人で本を読むような根暗男子。クラスでの影は薄く、学校全体で見れば存在が希薄すぎてほとんどの生徒に認識されていないレベルだ。一言で言えばモブキャラだ。生徒たちの見解としての学校のアイドルがこんな僕を選んだという事実を、男女問わずほとんど誰も良く思わないだろう。だけど、どうする。こんなことで波瀬さんの人気が下がる心配はない。しかし少なくとも僕が学校内で創り上げた、地表付近でのアルゴンのようなポジションは悪い意味で変化することになるだろう。つまり明日からここに居づらくなるということだ。
いや、そんなことは今は問題じゃない。戌威は僕に決闘をしろと言った。勝てば僕は許されるのだろうか。否、僕に勝てるはずのない勝負を持ちかけてきている時点で、戌威にそんなつもりは毛頭ないのだ。もともと体格に大きな差がある上に、戌威は部活でバリバリ鍛えているのに対して、僕は運動部にすら入っていない。黙っている僕を戌威が睨み続けている。思わず唾を飲み込んだ。心臓の拍動が速まるのが分かる。いつの間にか昼休みとは思えない静寂が教室を満たしていた。廊下からはフィルターにかけられたような、どこか現実感のない、そして逆説的だが現実に引き戻すような喧騒が聞こえてくる。
戌威がゆっくりと近づいてくる。僕は思わず立ち上がった。心臓がより強く速く波打ち始める。心拍数が上がるのは、体を温めるためだ。運動パフォーマンスを上げるための機構だ。喧嘩に際して奥の手はあるにはあるが、こんなことで使っていいものではない。となれば、あれしかない。そうだ。初めから僕にはそれしかないのだ。つまり、言葉だ。この場は言い逃れるしかない。
「いや……あの、戌威くん、決闘罪って知ってる? 決闘を挑んだ者、それに応じた者は六ヶ月以上二年以下の懲役になるんだよ。協力者だって罰せられるし、良いことなんかないよ」
「ふん、なんだよ。ビビってんのか?」
「第五条、決闘に応じないことを理由に名誉を毀損した者は、刑法に照らして罰せられる。今のそれ、微妙にアウトだよ」
僕は少し語気を強めて言ってみた。完全に虚勢なのだが、戌威の目が一瞬だけ見開いたのが分かった。
「……お前」
「分かってると思うけど、無抵抗な相手に暴行とか、論外だよ? 話し合おうじゃないか。平和的にいこう。なにが気に入らないのかは、まぁ分かる。立場が逆なら僕も嫌だと思う。けど、勘違いだよ。波瀬さんはグループより僕を優先するわけじゃない。彼女は平等を重んじる人だ。あくまでそれだけだよ」
「……そういうこと言ってんじゃねぇよ。俺はな、……。チッ、神海、お前は波瀬を守れるか。どんな奴が来ても勝てるのか? 波瀬を悲しませることも、傷つけることもなく、ちゃんと一緒に居られるのか」
なんでそういう話になるんだ。今まで通り君が守ればいいじゃないか。僕はただの友だちで、君は波瀬グループの一員なんだから。
イライラしているのを隠そうともせずにそんなことを言う戌威に、僕はなぜか少しだけ苛立ちを覚えた。
「僕がそんな完璧人間に見えるかい? 別に努力をしないという意味ではないよ。ただ、それを確約できないのが現実だ」
「テメェ……ふざけるな! 覚悟もねぇくせに波瀬の隣に居られると思ってんのか!?」
終に堪え切れなくなったのか、戌威は僕の胸倉を掴み上げ、そして叫んだ。テレビなどでよく見るが、実際されるとかなり恐いな。間近で見ると迫力倍増だ。先の苛立ちなど一瞬で消し飛んだ。入れ替わるように再び恐怖心が顔を出す。物理的にも精神的にも若干息が詰まる。それでも、僕は黙るわけにはいかない。僕には言葉しかないのだから。
「……僕はね、必要ならなんだって言うよ。僕には言葉以外なにもないからね。でも、だからこそ上辺だけの言葉なんて吐きたくないのさ。未来を断定することは人間には不可能なんだから。別に努力しないという意味じゃないって言ったろ。感情的になるな。守るとかなんとか、そんな言葉だけの約束なんて、この場合まったく意味がない。それくらい、本当は分かってんだろ」
戌威は僕を睨みつけたまま、黙り込んだ。たっぷり十数秒くらいそのままでいたが、もう一度舌打ちすると、やっと手を放してくれた。恐いよ、戌威くん……。
「神海、言葉だけじゃ守れねぇもんもあるぞ。分かってんのか」
戌威は僕に背を向けて、そんなことを言った。
「……分かってるよ」
僕がそう返すと、戌威は若干イライラした様子で教室から出ていった。
言葉だけでは守れないものもある、か。分かってはいるさ。そんなことくらい。
僕は喧嘩も格闘技もしたことがない。自分である程度は鍛えているが、運動部ほどじゃない。昨日のように二人でいる時に複数のヤンキーに絡まれたら、対処しきれない可能性が高い。実際には僕が波瀬さんと行動をともにすることなど今まで通り今後も滅多にないだろうが、偶然そんな状況に陥った時、僕になにができる? 言葉の通じない相手だったら、ハッタリが効かない相手だったら……。現実は甘くないと頭では分かっていても、なにをどうすべきかが分からない。あぁ、ほんとに、こんな自分が嫌になる。
「あ、あの、神海くん。ごめんね、私のせいでこんなことになっちゃって……」
波瀬さんは申し訳なさそうにそんなことを言った。
「えっ? いやいや、波瀬さんは悪くないよ。僕は気にしてないから、波瀬さんも気にしないで。取り敢えず昼休みが終わる前にお弁当食べちゃおっか」
「う、うん」
君はなにも悪くないじゃないか。そんな悲しそうな顔をしないでくれ。君にはいつも笑っていてほしい。少なくとも、悲しんだり苦しんだりしてほしくない。そんな思いを上手く言葉にできなくて、すごくもどかしい。僕には言葉しかないのに……。ただ、しゅんとしてしまった彼女に、無理して笑顔を作らせたいわけでもない。自然に笑えるようになるまで、今はただ少し時の流れに身を任せるしかないのだろう。
僕の無能さを表すように、昼休みは少し気まずい静けさとともに流れていった。
地球大気の地表付近での成分は、多い順に窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素、その他なのですが、その中でアルゴンの存在感が薄いというか、認知度が他に比べて著しく低いことと、神海の学校内での影の薄さをかけているんですね。あくまで神海本人の主観的な自己評価ですが。