9/2(金) 雨の降る朝
朝。スマートフォンのアラームが起動した。部屋に鳴り響く音楽に意識を覚醒させた僕は、ある独特な感覚を覚えた。窓から外を見ると、案の定、雨が降っていた。
「雨か」
雨は嫌いではない。寧ろ部屋の中から雨が降る様子を眺めるのは好きだ。
「はぁ……」
だけど、ズボンが濡れてベタベタするのも、電車の中で人と雨の臭いが混ざった空気を吸うのも、車が撥ねた水にかかるのも御免だ。雨の日は外に出たくない。
それでも例外的に、外を歩くのが楽しくなる場合もある。真っ白な空と、降っているのかいないのか分からないような雨。それが僕のお気に入りだ。気にならない程度に濡れるのは嫌いじゃない。寧ろそれは心を落ち着かせてくれる。まぁ、そんな天気はあまりないが。
雨だからという理由で学校を休むわけにはいかない。そんな常識を軽く飛び越えるようなポップな生き方も良いかもしれないけれど、自分を甘やかし始めたらキリがない。自制すべきだろう。今日は意外に早起きだったので、ゆっくりと朝食を食べてから家を出た。朝食はミルクティーと苺ジャムを塗った食パンが二枚だ。
結局、学校に着いた時にはズボンの裾から膝くらいまでが濡れていた。傘を差したってどうしても濡れてしまうものだ。思わずため息が漏れる。靴は防水スプレーでコーティングしてあるので靴下はなんとか無事だ。雨で最もテンションが下がるのは、靴下が濡れることだからな。それが防げただけよしとしよう。やたらと大きい折りたたみ傘をハンカチで拭いてから畳んで鞄に仕舞う。所謂普通の傘は傘立てに入れておいて盗られたことがあるので、それ以来学校には持ってきていない。まったく、他人の傘を勝手に持っていくなんて、窃盗だぞ、犯罪だぞ。高校生なんだからそれくらい理解してほしいものだ。そういえば、普通の傘のことを昔はコウモリ傘と呼んだらしいな。嘘か真か、外国の商人が持ち込んだコウモリ傘を差していた人が攘夷論者に殺されたとかいう話があったな。いや、それは作り話だったか。そんなことを考えながら靴から上履きへと履き替えて階段に足をかけた。
僕ら一年生の教室は三階にある。階段を上りきって廊下を歩いていると、いつもより騒がしい気がした。A組の教室の前を歩いていると、廊下側に近い席に座っている女子生徒の会話が耳に入った。
「ねぇ聞いた!? 波瀬さんに彼氏ができたって!」
「あ〜なんか、マジらしいね」
「誰なの相手は!?」
「それが分からないんだよね〜。それこそ本人に訊いてみないと」
「そっか〜。でも、ついに! って感じだね」
それを聞いて、思考が一瞬停止した。
……なるほど、それは確かに大ニュースだ。でも、あぁ、なんだかショックだな。入学してからずっと片想いしていた相手に恋人ができるというのは。雨と相まって気分が沈む。女子はきゃっきゃと楽しそうに話しているが、これは多くの男子生徒にとって辛いニュースだ。悲報とも言いたくなる。いや、しかし、他の男子ならともかく、僕は自分から行動を起こしたことすらないのだから、ショックを受けるのも烏滸がましいというものだ。ここは友人として祝うべきなのだろう。
それにしても、いつ付き合い始めたのだろう。昨日は僕といたから違うな。SHRが終わってから僕と話すまで一時間ほどあったが、まさかその間に恋人ができたなんてことはないはずだ。恋人ができた直後に違う男子と一緒にカフェに行くはずがない。それは異常というものだ。それに、波瀬さんに彼氏ができたからといって、すぐに噂が広がるわけでもないだろう。
なら一週間くらい前か、あるいはもっと前、夏休みか。これが夏休みでなければ、一ヶ月以上前という可能性は否定できるのだが。というのも、先ほどの会話で「彼氏ができたんだって」と言っていたからだ。普通付き合って一ヶ月も経っていれば「彼氏がいるんだって」とか「実は彼氏がいたんだって」などと表現するはずだ。けれど夏休み中に交際がスタートしたなら、「彼氏ができた」という表現もあり得る。……いや、冷静になれ。その表現の違いは僕の感覚ではそうだという話であって、言語的タイムスケールは人それぞれ異なるのだから、今の分析には意味がない。
視点を変えよう。夏休み中であれば、各種SNSですでに話題になっていても不思議はない。その場合、少なくとも休みが明けるとともに学校で噂になっていてもいいはずだ。いくら彼女がそれを隠そうとしても、友人が多く、常に周囲に人が集まる彼女には至難の技だろう。ただ、夏休み終了直前であれば、友人も気づくのに時間がかかることもあるだろう。加えて、波瀬美唯が自分から言うともあまり思えない。
つまり、彼氏ができたのは夏休みが明ける直前から一昨日までの二週間ちょっとの間だと推測される。
「……はぁ」
虚しい。そんなことを予想したところで、なんの意味もない。疑問に一応の予想をつけたところで、僕には気を紛らわせるものがなくなってしまった。
僕の所属するC組の教室に入ると、教室前方の入り口に近い席に座っていた波瀬美唯と目が合った。瞬間、甘美な花が咲いた。
「あ、神海くん。おはよ」
思わず見惚れてしまった僕に、彼女は挨拶をしてきた。不意打ちだ。それでも僕はなんとか冷静さを演じる。それが成功しているかどうかは、僕には分からないが。
「おはよう。なんか、すごい噂になってるね」
「なによ、他人事みたいに」
そう言って彼女はくすくすと可愛らしく笑う。
実際、他人事なんだよな。残念ながら僕は当事者じゃない。それに、否定しないということは噂は事実ってことか。事実確認ができてしまっては、噂を単なる噂とは言えなくなった。
こうなればもう、僕は曖昧に笑うしかない。
それにしても、彼女に声をかけられたことによって、彼女の周りに(心なしかいつもより多く)集まっていた人たちだけでなく、教室中から注目されてしまった。当然だ。なんせ今までこうして関わることなどなかったのだから。不自然極まりない。
曖昧な微笑みを顔に貼りつけたまま、自然な流れで僕は再び少し離れた自分の机に向かって歩き始めた。鞄をかけ、そのままいつも通り席に座る。その一挙手一投足を、みんなが見てくる。なんだなんだ。そんなに珍しかったか? 確かに僕は普段から女子どころか男子ともあまり喋らないが、それでも少しくらいはクラスメイトと言葉を交わすことだってある。会話したのが波瀬さんだったにしても、注目されすぎではないだろうか。彼女は僕以外の地味キャラとも話すではないか。……今のは失礼だったかな。しかし大丈夫だ。僕自身が最も地味であると自負している。それよりも、僕はなにか見落としているのか? なにかおかしなことをしてしまったのか? 分からない。分からないぞ。いや、自意識過剰なだけか。本当は誰も僕のことなんて見てないんじゃないか。それならとても助かる。
おずおずと周りを見渡してみる。……うん。見られてる。めっちゃ見られてる。全く気のせいじゃなかった。なんだよ、恐いよ。僕がなにか悪いことでもしたのか? とはいえ誰も話しかけてきたりはしないみたいだな。なら放っておこう。僕はなにも知らない。
僕は世界から孤立するように、イヤホンで耳を塞いだ。