9/1(木) 帰宅
気がつくと、外は真っ暗になっていた。
日本国内でも緯度経度によって差はあるが、9月の初めなら、大体午後六時前後に陽が沈む。名残惜しいが、あまり遅くなるのは良くない。彼女を送りたいところだが、それも駅までだ。帰りの電車が反対方向なのがなんとも残念だ。
改札を通ってまっすぐ、ガラス張りになっているところから線路を見下ろす。会話はなく、二人してただ線路を見つめている。まだ一緒にいたいと思う。明日になれば、また関わりがなくなるのだろう。友だちになったからといって、僕の学校生活が劇的に変わるわけではないのだから。
「電車、来ちゃった」
ぼーっと考えごとをしていたから気づかなかったが、彼女が乗る電車がもう来てしまったようだ。
「じゃあね、また明日」
「うん。また明日」
手を振って、彼女はプラットホームに降りていった。
二十二時半。パジャマ代わりのジャージを着て、ベッドに寝転がっている自分を見つけた。どうやらほとんど無意識にルーチンワークを熟していたみたいだ。
それはともかく、今日の出来事を回想する。
実に楽しく、夢のような時間だった。なんせあの可愛さと美しさを兼ね備えた美少女の中の美少女、波瀬美唯と二人きりで話したのだから。その美貌に加え、甘い声、素直な性格、芯があって意外に強いことなどが彼女の魅力を引き立てている。ここまでは誰もが知っていることだろう。しかしそれだけではない。理不尽を嫌い、人の悪口などは決して言わない。人を見下さず、対等な立ち位置を維持して人と接する。それがあまりにも自然で、多分他の生徒は気づいていない。だが気づかなくても、当然彼らの無意識に影響を与える。なぜか感じる心地良さから、男女関係なく彼女に信頼や好意を寄せているのだ。
はっきり言おう、僕には波瀬美唯が女神に見える。今日、僕は女神と対話したのだ。これが幸せというものかと感動した。彼女と駅で別れてからというもの、帰路でも、風呂でも、夕食中もその余韻に浸っていた。
ただ、不可解なこともあった。
それは最初の会話だ。握手を躊躇う僕に言い訳のように言った「こういうの初めてだから」というのはどういう意味だろう、と夕食後ずっと考えていた。
初めて友だちができたという意味ではないはずだ。推測するに、今までは彼女の周りの人が積極的に彼女に関わっていったのだろう。だから、彼女から『友だちになりましょう』と言う機会は初めてだったのだろう。だから『気に入ってる』なんてある意味遠回しな言い方だったのだと思う。慣れないことをしようとした結果だな。なるほど、これなら説明がつく。
僕に声をかけた理由? そんなの、ボッチが気の毒に思えたんだろう。人に囲まれて生きてきた彼女には、誰とも連まないことを、僕が能動的に行っているということが理解できなかったのかもしれない。
なんとか疑問が氷解してすっきりした。と思ったら、もう一つあることを思い出した。コーヒーの話をした時のことだ。僕はドリップがなにかすら知らない。エスプレッソについては濃いということ以外なにも知らない。そもそも僕の言ったことは正しかったのだろうか。調べてみよう。
僕はパソコンは所有していないが、今の時代は便利だ。スマートフォンでサクサク調べられるのだから。いつものことだが、情報の確度を上げるために複数のサイトを回っていく。
どうやら僕の言ったことは間違ってはいなかったようだ。
追加情報については、要約するとこうだ。ドリップとは、ペーパーフィルターで濾して抽出する方式だ。所謂普通のコーヒーだな。僕の両親が毎朝コーヒーを飲むので馴染み深い。対してエスプレッソコーヒーは高圧・短時間で抽出することで出来上がる。ドリップコーヒーに比べて濃いが、カフェインは少ない。当然、それぞれ使用するマシンが違う。
ん? 待てよ、『濾して抽出する』だと意味が重複しているか。ついでだ、それぞれの定義を調べてみよう。言葉の意味を調べる場合でも、複数の辞書を引くべきだと僕は思う。説明文は微妙に言い回しが違っているから、解釈が正しいか確かめることができる。特に例文は当然それぞれ異なるので、解釈を誤る危険性を低くすることができる。まぁ、辞書の説明を正しく汲み取れないことがあるのは僕だけかもしれないが。
閑話休題。
『濾す』とは、布や紙、時には砂などを通すことで、液体からゴミなどの不純物を取り除くという意味か。つまり、『濾す』という言葉は今回の場合、不適切なのかな。次に行こう。『抽出』とは、液体や固体から、特定の成分を溶媒に溶かして取り出すこと、か。やはり『抽出する』と表現すべきだったな。ちなみに今回の場合、溶媒は熱湯ということになるのか。溶媒と聞くと、なぜか有機溶剤を連想してしまう。なんでだろう? いや、それはどうでもいい。疲れたし、今日はもう寝よう。
「おやすみ」
誰にというわけでもなく、僕はそう呟いた。そしてすぐに意識を手放した。