9/1(木) 始まり
人生とは、ぶっつけ本番の即興劇だ。
この言説は二つのことを意味している。先ず、哲学的に大事なこととして、時間は逆行しないということだ。ゆえに、なにごとも、なかったことにはできない。もう一つは、社会学で重要な意味を持つことがあるだろうが、人は演じながら生きているということだ。それは必ずしも意識的ではなく、寧ろそのことに無意識である場合が多い。
そんな即興劇の一つである僕、神海龍二の人生の一部をご覧に入れよう。
「私、あなたを気に入ってるの」
いくつかの感情が入り混じったような微妙な微笑みを浮かべながら、波瀬美唯は僕の顔を指差してそう言った。
涼しい風が窓から流れ込み、廊下に抜けてゆく。彼女の短めの髪が軽やかに靡く。風には夏の香りがまだ微かに残っている。
運動場のほうから野球部の声が聞こえる。テニス部のボールを打つ音が断続的に響く。陸上部の笛の音、砂を蹴る音も飛んでくる。
陽が傾き、放課後に特有の雰囲気が教室を支配している。
入学してから五ヶ月、夏休み明けすぐのなんてことない一日。夏休み以前と変わりなく、毎日のように続く同じような日々。ルーチンワークに従うだけの日常。例に漏れず、今日も、──そうなるはずだった。
いつもならSHR終了後、一時間半もすれば僕以外は誰もいなくなるこの教室に、しかし彼女は現れた。可愛らしい女の子。話したことのないクラスメイト。茶髪にピアス。校則違反と遅刻の常習犯。
僕は彼女とは直接関わったことがない。僕に彼女との共通項などほとんどない。
彼女はなんというか、愛されるタイプだ。友だちに囲まれ、女の子同士でじゃれあい、無邪気に笑う。男女ともに可愛いと評価され、先生ともなんだかんだ仲良くしている。
対して僕は基本的に独りで過ごしている。偶に何人かのクラスメイトと雑談することはあるが、登下校も昼食も独りで、授業の合間の休憩時間は本を読んだり音楽を聴いたりしている。話しかけられれば愛想よく返してはいるが、相手を楽しませる努力は皆無だ。結果的に僕は“近寄りがたくはないが、話していても別段楽しくもない”という感覚を周囲に植えつけることができた。これは僕にとって快適な距離感だ。多分このクラスにおいて僕は、無害でちょっと根暗なボッチという立ち位置なのだろう。ただし、ここでいう根暗とは、愚痴や不平不満を常に漏らしたり、根に持つタイプであるなどの意味ではなく、単に内向的で、また流行に疎いという程度の意味だ。僕にはそれくらいがちょうど良い。
「あの、なにか言ってくれない?」
「え、あぁ。ごめん。えっと、ちょっとよく分からないな。どうして僕は気に入られたのかな?」
「そんなこと別にいいじゃん。大事なのはきっかけより結果だよ。それより、返事を聞かせて?」
返事? 返事とはなんのことだろう。感想でも言えばいいのか。
「まぁ、嬉しい、かな? うん」
状況がよく分からないけれど、気に入られているのは悪い気分じゃない。というか、素直に嬉しい。
「ほんと? 嬉しい?」
はしゃいだように訊いてくるその顔は、先ほどとは違い、満面の笑みだ。僕よりよっぽど嬉しそうだな。
「うん。率直に言うと、そうだね」
「そっか。良かった。私も嬉しい……」
そう呟いて、彼女は安心したように息を吐いた。
「あ、えっと、じゃあ、これからよろしくお願いします」
言いながら、彼女はおずおずと手を差し出した。
僕が戸惑っていると、言い訳のように
「や、こういうの初めてだから、分からなくて……」
なんて言ってくるものだから余計によく分からなくなる。こういうのってどういうのだ? 先から僕と彼女の会話はどこか噛み合っていないような気がする。
僕は「そうなんだ」と言うことしかできなかった。
取り敢えず握手に応えておく。
「ねぇ、私が来る前はなにしてたの?」
「見ての通り読書。ま、いつも通りだよ」
「なんの本?」
「ジャンルは社会学かな。マクロな現象は、場合によってはミクロな現象のロジックだけでは説明できないとか」
あれ、ジャンルって使い方これで良かったっけ。普通は文学とかフィクションとか、そういう大きなくくりに使うような? まぁそんなことはどうでもいいか。
「へぇ〜。なんか難しそう……」
「そうでもないよ。それより、用件はそれだけかな?」
「む、それだけとは失礼な。私にとっては超ビッグイベントだったんだから! すっごく緊張したんだよ?」
そうだったのか。 やっぱりよく分からないな。突然「気に入ってる」なんて言われて、しかもそれが唯一のメインイベントで、彼女は緊張して……。一体なにが起こっていたんだ? そしてこれからなにが起こるのだろう。状況が把握できない。……考えても仕方がないか。
「そっか。いや、ごめん。そうだね」
しかし確かに、話したことのないクラスメイト、それも異性に話しかけるのは、緊張するものだろう。さて、少し失礼なことを言ってしまったわけだが、これはお詫びが必要だろう。
「あの、他に用事がなければ、一緒に帰りたいのだけど。どうかな、お茶でも奢るよ?」
「え、いいよ、そんな。自分の分くらい払えるよ。気を使わないで」
相手に気を使うなと言われてしまえば、無理に奢ることもない。あと、一緒に帰ることに関しては、暗黙の了解を得られたようだ。
「分かった。じゃ、準備するからちょっと待ってね」
「はーい」
彼女のほのかに甘い、友だちと談笑するときのような弾んだ声が脳に染み込み、僕の心に不思議な余韻を残した。