クレーマー
下地ラクゴはメイド喫茶『@ホームIN』秋葉原店の常連客である。入店するたびに『お帰りなさいませご主人様』といわれるのに相応しいのは、自分だけだと信じていたわけではない。店の遊び方は心得ているつもりだった。文句を言ったことは、いままでなかった。
だが、今日ばかりは我慢も限界だった。
「店長はまだかい?」
「申し訳ありません。いまこちらに向かっています。もうすぐ来るはずですので」
いつもは猫撫で声で甘えてくるメイドたちも、一度クレームをつけると態度を変える。ラクゴにぺこぺこと頭を下げている目の前の女の子は、他のメイドたちから副店長と呼ばれていた。『ミレイ』というネームプレートをつけている。
「一体どういうつもりなんだ。僕はオレンジジュースのハワイアンを頼んだのに。オレンジジュースのブルゴーニュを持ってくるなんて。こんないい加減なところ、二度と来ないぞ」
「申し訳ありません。ご注文をお受けしたのが、まだ入ったばかりの新人の子なんです。オレンジジュースに種類があるとは知らなかったんです」
「そんな言い訳が通じるはず無いだろう。僕が店に来るとき、君たちはいつも何と呼んでいる?」
「『ご主人様』です」
「そのご主人様がハワイアンを頼んでいるのに、ブルゴーニュを持ってくるなんて、考えられるのかい? どう責任を取るつもりなんだ」
ミレイという副店長は、長い黒髪をツインテールにした、可愛らしい顔をした小柄な少女だった。喫茶店のメンバーの中でもまだ決して年長だとは見えないが、副店長を任せられているだけあって、賢そうな目つきをしている。
メイド喫茶は現実を忘れて異世界を楽しむ、一種の仮想空間である。『@ホームIN』は全国にチェーン展開している老舗メイド喫茶であり、秋葉原はその中でも本店に位置づけられている。資本は某アミューズメントパーク経営会社が親会社としてついているはずで、メイド服を着たスタッフは、接客業についての一流の教育を受けているのだ。
クレームを言う客はほとんどいない。クレームをつけても得られるものはない。メイドからも他の客からも、軽蔑されるだけである。店は活況を呈していた。下地に対して、冷たい視線が向けられていた。そのことを承知していながら、下地は引くつもりは無かった。
「店長がもうすぐ参ります」
「もう待てないな。今すぐ出してもらおう」
ひときわ感じの悪い声を出した。上手くいった。ミレイ副店長の目が潤むのがわかった。もし泣かしたりしたら、さぞかし痛快だろう。もう一押しだ。
「わかりました」
――なに?
驚いて声を出すところだった。この場にいない店長を、すぐに連れてくるなどできるはずが無い。ミレイが背中を向けた。客に対して背を見せた。いや、ご主人様に対して背を向けたのだ。許されるはずがない暴挙である。背を向けたというのは、背信行為そのものだ。そのはずなのだ。下地は罵倒してやろうかとも思った。下地が口を開く前に、別のメイドが駆け寄った。何を言うのか不思議に思い、聞き耳を立てた。
――「ミレイちゃん、大丈夫?」
――「大丈夫よ。店長の携帯へ電話して」
――「どうするの?」
――「いいから」
命じられたメイドが、事務室があると思われる方向へ駆けていく。ミレイが下地ラクゴに向き直った。
「どうするんだ?」
あえて声を殺し、どすを利かせた。利いているかどうかはわからなかったが、精いっぱいの感じ悪い声を出した。
ミレイは目に涙を溜めてはいても、気丈にふるまった。それが、さらに下地の気に入らなかった。
「すぐに店長に代わります」
事務室から、先ほど駆け込んだメイドが出てきた。手に電話機の子機を持っている。
「ミレイさん、店長です」
「ありがとう。もしもし……ミレイです。店長ですか?」
下地はあえて鷹揚に待った。周囲からどう思われようと、メイド喫茶に訪れるすべての客に嫌われようと、どうでもよかった。あるいは、メイドたちに嫌われることさえ厭わなかった。クレームをつけた段階で、メイドに嫌われるのはしかたのないことだ。
ツインテールのミレイが子機を差し出した。
「店長です」
片手で受け取る。下地は電話機を見つめた。この先に、店長がいる。軽く息を吐き、耳に当てた。
「もしもし……アエルちゃん? いまどこにいるのよぉ。寂しいじゃないかぁ」
目いっぱい甘えた声を出した。
『その声はラクゴね。うちの子ら苛めるってどういう了見よ』
厳しい口調だ。電話口でメイドが泣きついたのだろうか。直接会ったらぶたれるかもしれない。天上アエルに殴られることを想像し、下地は股間が熱くなるのを自覚した。
「だって、アエルちゃんに会いたかったからこの店に来たのに、ずっと留守なんだもん。こうして話せたのも、クレームをつけたからだしぃ」
『こんなことを続けたら、出入り禁止にするわよ。いま行くから、首を洗って待っているのね』
「うん。楽しみにしているよ」
電話が切れた。子機をミレイに渡す。
メイド喫茶の副店長は、口をぽかんと開けていた。この『@ホームIN』秋葉原店には何度も来たが、店長に会いたいためにクレームをつけたのは、下地ラクゴにとっても初めてだった。
ミレイは子機を受け取りながら、険しい視線を向けてきた。睨まれるようなことをしただろうか。下地には解らなかった。アエル以外のメイドに嫌われようと、どうでもよかった。
子機を渡したのとほぼ同時に、凄まじい勢いで『@ホームIN』の扉が開かれた。長身のすばらしい美女が姿を見せた。
「アエルちゃん!」
思わず腰を上げた。下地はほぼ店内の中央に陣取っていた。アエルが大またで近づいてくる。抱きつこうとするかのように、下地は両腕を広げた。アエルが立ち止まらなければ、抱きしめていたかもしれない。
願いが叶わなかったのは他でもない。天上アエルが両手で、下地の胸倉をつかみあげたからだ。
「店の者が失礼しました」
青筋を浮かべながら満面の笑みをつくるのは、アエルの得意技だ。それを目の前で見ることができた。下地の顔が自然ににやけた。
「久しぶり。ずっとお店に出ていなかったじゃない。どうしていたの? 調べたら、店長とかになっているから、つい『店長を呼べ』って言っちゃった。口実がないと呼んでもらえないと思って、ちょっとね……やりすぎたかな?」
「私は店長になってから、経営のほうだけで忙しいのよ。経理もイベントの手配も、すべて私がやっているんだから。もう店には出ないの。それに、最近はエリアマネージャーとかいう肩書まで増やしてくれて……本社は私に何をさせたいのかしら」
最後の言葉はただのぼやきである。誰に向けたのでもない。独り言だ。
「だから、そんな似合わないスーツなんか着ているんだね。アエルちゃんがいない『@ホームIN』なんて、来る意味無いのに」
下地の胸倉が解放された。下地はさらに言い募ろうとしたが、アエルは小さく肩をすくめた。観念したかのように嘆息したため、下地は言葉を待った。
「私に会いに来たの?」
「うん」
「店長の私に?」
「……メイドのアエルちゃんに」
アエルの動きが止まった。動揺しているのが、下地にわかった。下地は、胸を躍らせて反応を持った。ひょっとして、メイドのアエルに会えるかもしれないと思った。
アエルは、本名で店に出ていた。源氏名と呼ばれる、店の中でのニックネームをつけるということは、考えもしなかった。そのような習慣があることも知らず、できるとも思っていなかった。天使や悪魔にとって、名前と言うのは神聖なものである。名前を隠すことは珍しくない。だが、偽称するなどということは考えられない。
現在では源氏名を使うことに禁忌を感じることはない。店の女の子たちで、本名で出ているのは、知る限り『ミレイ』だけだ。この習慣を知ったとき、人間の悪知恵に、身震いがしたものである。あるいは、そのために神はメイド喫茶を滅ぼすことに決めたのかもしれないとも思ったが、実際にはもっと古くからある習慣で、銀座などでは当たり前に使われていることを知り、安堵したのを覚えている。唯一本名で出ている『ミレイ』を副店長に命じたのはアエルである。無意識のうちに、本名を出して恥じないミレイに好感を持っていたのかもしれない。もちろん、アエルにとってメイド喫茶は誇るべきお店であり、メイド喫茶で働いていることを隠す必要があるとは思えない。だから、源氏名を使うことも、理解できなかった。それは、いまでも変わらない。
下地の言葉に、アエルは動揺した。
店長となったのは、望んだことではない。ただ、より強い立場に立てば、メイド喫茶という文化を守るための力になると考え、本社の要請を受け入れたのだ。巨大会社の本社といえば、アエルの立場からは、かつての天使と神の関係を思いだした。そもそも、逆らうことを考えて良いものかどうかもわからなかった。
だが、メイドとして働くことに、今でも未練はある。メイドのアエルに会いたいと言われて、嬉しくないはずがない。
下地には腹を立てていた。ミレイを泣かせたのだ。許せなかった。しかし、少しだけなら、メイドに戻るのも悪くない。
アエルが視線を上げると、周りの客たちが注目していることがわかった。ここでかたくなに断れば、アエルは二度とメイド服を着られなくなるような気がした。メイドになりたかったわけではない。だが、もちろん嫌いなはずがない。
「解ったわよ。着替えてくる。今日だけよ」
「うん! 待っているよ!」
下地が嬉しそうな声をあげると、客のうちの数人が呼応した。わずかの間だけでも、店内が活況を呈する。アエルのメイド時代を知っている、古株の客だろう。
かつて、アエルは『@ホームIN』の一番人気のメイドだった。アエルを目当てに多くの客が通っていたのだ。男性だけでなく、女性にも人気があった。実績が買われて店長になり、しだいに接客はしなくなっていた。惜しむ声もあり、ネット上などで話題となったが、アエルが切り盛りする『@ホームIN』は逆に繁盛していった。その結果が、現在の店長兼エリアマネージャーという立場である。
事務室に入っていくアエルをミレイが追っていく。下地はテーブルに出されたままのオレンジジュースブルゴーニュに口をつけた。
――いつ飲んでもブルゴーニュは美味しいな。ハワイアンというのはどんな味なのだろう。
誰も注文を間違えたりしていなかったのだ。




