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25 下された裁定

 力を解放した堕天使アエルは、ミレイを抱いたまま警察病院から出た。

何人もの人間に見咎められた。

職員は全員警察関係者である。ミレイが被害者ではなく、逮捕された被疑者であることを知っている者も多かった。

若干一九歳の殺人鬼として、鏑木ミレイの名は瞬く間に知れ渡っていた。

 それでも、アエルはミレイを抱いたまま外に出た。

立ちふさがる者、邪魔する者は、すべて支配下に置いた。

アエルが目に力を込めてにらむだけで、魂を抜かれたように立ち尽くし、命令すれば従った。

 抱かれているミレイも、アエルの力に驚嘆し、同時に恐れた。


 外に出た。夜気を浴びる。

「アエルさん……怖い」

「心配しないで。ずっと一緒よ」

 アエルと一緒にいることをミレイが恐れているとは、思いもしなかった。

 タクシーを拾う。

行く先を聞かれ、アエルは迷った。

アパートに帰れば、すぐに警察に見つかってしまう。

教会に行こうかとも思ったが、悪魔に魂を売り、力を得たアエルが、どうして教会に行くことができるだろうか。

 ミレイが体を起こし、時間を尋ねた。

 夜一〇時だった。時刻を知ると、ミレイは顔を輝かせて行き先を告げた。

「ミレイちゃん、どうして?」

 アエルもよく知っている場所だった。

「ちょっと、約束したことがあるんです。それに、閉店したお店に人がいるなんて、誰も思わないでしょ?」

 タクシーは『@ホームIN』秋葉原店へ向かった。


 きちんと料金を支払い、アエルとミレイはタクシーを降りた。

支払わないこともできたはずだが、アエルはそうしなかった。

閉店になったとはいえ、長く店の長を勤めてきたのである。商売の厳しさはよく知っていた。タクシー運転手に迷惑をかけたくなかった。何も恨みはないのだ。

「忘れ物なら、取ってきてあげるわ」

 手足を動かせないミレイを、階段に座らせようとした。

ミレイは首だけでいやいやした。

「私も行きます。連れて行ってください」

「そう。仕方ないわね」

 理由を尋ねないのは、アエルの習慣でもあった。

お店の娘の自主性を重んじ、信じることを重視した結果でもある。

アエル自身、基本的に人を疑うことを知らないこともある。とにかく、アエルはミレイを抱えたまま階段を上った。

エレベーターを使うと遠回りになるのだ。ミレイが小柄だといっても、抱えて階段を登るのは大変だった。

悪魔から力を得たといっても、筋力が上がったわけではなかった。黒い翼が生えたといっても、人の目に見えない類のものだ。実際に空を飛べるわけではない。

 一汗掻いた頃、なんとか二階に辿りついた。

「……また、戻ってくるとは思わなかったわ」

 暗闇で沈みこんだ、可愛らしく飾られた扉を見つめ、アエルは感慨深く呟いた。

悪魔に魂を売っても、堕天使として覚醒しても、人として過ごした記憶は、濃厚だった。

拭い去られることはないだろう。

人として生きた記憶さえあれば、この後待ち構える永遠の苦しみにも耐えられる。アエルは少しだけ、嬉しくなった。

「私は信じていました。また、戻ってくるって」

 ミレイはアエルに抱えられたまま、笑った。

魂は真っ黒いが、関係なく、無邪気に笑った。

どうしてこんな汚れた魂をして、屈託無く笑えるのだろうと思えるほどだった。

アエルは、ミレイを恨む気にはなれなかった。あるいは、ようやくミレイと対等になれたのかもしれない。

「逮捕されたのに?」

 アエルはちょっと意地悪して尋ねた。

「そうですね……逮捕されてからは忘れていました。でも、その前はずっと、戻ってくるって信じていたんですよ。アエルさんが店長として、閉店するって言ったけど……正しい判断だって知っていたけど……もう一度だけ、戻ってくるって信じていました」

「意味がわからないわ。どういうこと?」

 ミレイは応えなかった。ただ、アエルの胸に顔をうずめた。

アエルの弾力ある、豊かな胸の感触を楽しむかのようだった。

顔をこすり付けた。

動かない手で、精一杯甘えてみせた。

「……扉、開けるわよ」

「うん」

 まるで子供だ。

副店長として頑張っていたミレイを知っているアエルは、おかしくなった。今のミレイが、本当のミレイなのだろう。

アエルにいいところを見せようとして、いままでは無理をしていたのだろう。

両親を殺さなければならないほど追い詰められ、ずっと、甘える相手を求めていたのだろう。

 扉を開けた。静かだった。閉店したのだ。誰もいるはずがない。

 奥に進んだ。

 明かりが点った。

 周囲から、いっせいに声が上がった。

「「「「アエル店長、お疲れ様でした!」」」」

 唱和だった。

 見事にそろい、一つの声として聞こえた。

 居並んだのは、メイド服姿の一〇名もの女の子たちだった。

 アエルはあまりのまぶしさに目を細めた。

 まぶしかった。お店の明かりは営業時と同じだった。まぶしいのは、メイドたちの清浄な魂の輝きだった。

 いままでは見ることができなかった。いまは、はっきりと見ることができる。

 ――私は、穢れている。

 涙があふれ、伝い、落ちた。

「店長」

 ミレイの声だった。アエルの腕の中にいた。

 穢れていた。ミレイだけが、メイドたちの中で穢れていた。

一人のメイドが進み出て、ミレイにメイド服をかけた。穢れていた魂が、突然浄化されたように輝きだした。

 ――ご主人様に使えるメイドだからなのね。メイド服を着て……奉仕するからこそ、こんなにもまぶしいのだわ。やっぱり……私が守ろうとしたものは間違っていなかった。

「どうしたの? みんな……お店は閉店したのよ。どうしてここにいるの?」

 美しい魂たちに囲まれ、自らの穢れに絶望しながらも、顔をほころばせた。

アエルが尋ねる。

ミレイが微笑みながら語った。

「昨日のうちに、相談していたんです。アエルさんが閉店するって言っていたから、たぶん閉店は間違いないだろうって。あんなにお店を大事にしていたアエルさんがそう言う以上、もう仕方ないんだって。だから……最後ぐらい、アエルさんに言いたかったんです。だから、みんなに声をかけておいたんです。今日の夜一〇時に、集合しようって。アエルさんは、私が必ず連れてくるって。怪我をしたときは、みんなとの約束を守れないかもしれないと思ったけど、神様が見ていてくれたのかも」

「『神様が』……そうね。きっとそうだわ」

 アエルは涙を抑えられなかった。

ミレイを抱えているので、涙を拭くこともできない。

進み出たメイドがアエルの目元をぬぐった。みんなが、アエルの周りに集まってきた。

アエルはメイドに囲まれた。

美しい魂をもったメイドたちだった。

アエルは天国にいるような気持ちになった。

「それで、私に言いたいことってなに?」

 ミレイは言った。『最後ぐらい、アエルさんに言いたかった』と。

アエルは視界がかすんでミレイをまともに見られなかった。

あれだけ穢れていたミレイの魂も、メイド服をかけられたとたん、他の女の子と同じように輝いていた。

「言うわよ」

 声をかけたのはミレイだった。アエルの腕の中である。

アエルは緊張した。

何を言われるのだろう。

メイドたちも承諾の返事をした。みんなが息を吸った。

「「「「お帰りなさいませ。ご主人様」」」」

「……みんな……ただいま」

 目を硬くつぶった。ミレイの上に、花束が載せられた。

アエルのために用意されたものであることは疑いがなかった。

 ――嬉しい……でも、私には相応しくないわ。

 アエルは穢れているのだ。

 涙で霞む視界で、アエルは女の子たちを見回した。

「アエルさん、おろして下さい。私がアエルさんを独占しているみたいで、悪いから」

 輝きを取り戻したミレイが言った。

アエルはミレイの額に口付けしてから、メイドの一人が用意した椅子にミレイを座らせた。

花束をテーブルに置き、メイド服を着られないまでも、ミレイの体をできるだけ隠すように体に乗せた。

ミレイはメイド服越しでなければ、あまりにも穢れて見えるから。

他のメイドたちも同じなのだろうか。メイド服を脱ぐと、穢れて見えてしまうのだろうか。

 少なくとも、いまほど輝いては見えないのだろう。

証拠はないが、アエルは漠然と感じた。

だが、メイドたちは人間だ。アエルがメイド服を着たからといって、外見だけでも浄化されるというわけではない。

 アエルは立ち上がり、あらためてメイドたちを見回した。みんないい表情をしている。

とても綺麗だ。

このまま立ち去ることもできるだろう。

店長という立場のまま、みんなに礼を告げて解散することもできるだろう。

 ――この子達を騙したくないわ。

「私、こんなことしてもらうほど、立派じゃないのよ。誰か、私のロッカーから荷物を持ってきてくれる?」

 二人のメイドがロッカールームに走った。アエルは何もない空中に向かって呟いた。

「悪魔、いるわね」

 すぐ背後で気配が生まれた。

以前なら、気配だけで悪魔の存在を知ることはできなかった。

見ることはできても、話すこと、殴ることはできても、それ以上の感覚は無かった。

――「ずっと見ていましたよ。あたしが必要な状況とは、とても思えませんけどねぇ」

 メイドたちに、悪魔の声は聞こえていない。アエルの呟きも、聞き取れてはいないだろう。

「この子たちに、私の正体を見せてあげて」

 堕天使である、アエルの正体だ。

全身をまがまがしい瘴気で覆われ、手足が不自然に変形したアエルの姿である。

背中からは漆黒の翼が生え、皮膚は血色無く、瞳からは黒い涙がとめどなく流れている。

メイドたちには見えていない。

だが、アエル自身が見ている自分の姿は、まさしく忌まわしい地獄の住人そのものだった。

――「アエルちゃん、いいんですかい? せっかくこんなに、アエルちゃんを激励するために集まったんでしょう? きっと逃げ出しますぜ」

「この子達を、騙したくないの」

――「人間としての体が壊れるまで、あたしは地獄に連れて行くのは待つつもりですよ。普通はそうするんです。人間の寿命なんて、あたしらから見れば、ほんの一瞬ですからねぇ。アエルちゃんも、その体が壊れるまでこの世界で生きなくちゃならない。それでもですか?」

 アエルは悪魔を振り返った。

すぐ近くにいた。

いつものにやけた表情が消えていた。ずいぶん殊勝に振舞っている。

「ずいぶん優しいのね。ミレイちゃんをだしに、私を穢した悪魔なのに」

――「アエルちゃんは、もともとの存在はあたしよりずっと高級ですからね。アエルちゃんの魂は、あたしにとっても宝物なんです」

「そう。でもいいの。私はもう、満足だから」

 ロッカールームから、二人のメイドが不思議そうに戻ってきた。

手には、アエルがそろえた対魔道具を抱えている。

聖印に、聖水を詰めた水鉄砲に、聖書、それらの山である。

「店長、これなんですか?」

 アエルの指示で、全員に行き渡った。手を動かせないミレイを除いて。

「私には扱えなかったけど、みんななら扱えるわ。使い方は、その時がきたら解るわ。お願い」

 最後の言葉は、背後の影に向かって言った。

――「では、お望みのままに」

 悪魔が言った。

 力が広がっていく。

いまなら、はっきりと感じることができた。

店内のいるメイドたちの目が開かれていく。本来は見ることができないはずのものを、強制的に見せられているのだ。

 同時に、店内が光で満ちた。

 建物内なのに、天空から強烈な光が降り注いだ。

 背後で絶叫が聞こえた。

 アエル自身も、全身を焼かれるかのような苦痛に覆われた。あたかも細胞の一つ一つを火にあぶったような痛みは、一瞬で収まった。

 ――何が起きたの?

 メイドたちから悲鳴が上がり、手にした聖なる道具でアエルを撃退するものと思っていた。

メイドたちの口から漏れたのは、ため息だった。

「店長……素敵」

 ――えっ?

 手を組み合わせひざまずく者、涙を流す者、反応は様々だった。ただ一様に、アエルを仰いでいることを除けば。

「アエルさん、天使みたい」

 動けないため、ただ目を細めていたミレイの言葉に、アエルは自分の姿を見回した。

不吉に歪んでいた手足は、彫刻のように優美な線を描き、背中の翼は純白に光っていた。

頭上を振り仰いでも輪を見つけることはできなかったが、その残像を認めることができた。

アエルの体に光が満ちていた。

 ――私……許されたの?

――「どうして、いまさらぁぁぁぁぁ!」

 悪魔の叫びが聞こえた。悪魔の姿はメイドたちにも見えているはずだ。だれも悲鳴は上げなかった。悪魔は苦しそうに床の上でもがき、メイドたちには天使がついているのだから。

「いまよ」

 それが当然のことのようにアエルは指示した。

メイドたちはいっせいに応え、手にしていた道具を悪魔めがけて振り下ろした。

 絶叫を上げ、もがき苦しみながら、悪魔は溶けるように消えてしまった。


 天上アエルは、自分の体があまりにも軽いことに驚いた。まるで肉体を失ってしまったかのようだった。

 上空に引き上げられる。きっと天井を貫いてしまう。

 アエルは上を見上げ、小さく首を振った。

 足が床を踏んだ。

 実現された奇蹟は、実現されたときと同じように、突然消えた。

 メイド喫茶『@ホームIN』秋葉原店店長、天上アエルはメイドたちに囲まれ、みなの労をねぎらい、正式に閉店を告げた。


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