24 天上アエル
星黒也刑事は、立ったまま寝ていたようだ。一時的に記憶がない。
気が付くと天上アエルが絶叫し、拘留中の鏑木ミレイに覆いかぶさっていた。
――何があったんだ?
思い出せない。星は額に手を当てた。やはり、何も思い出せなかった。
懐に手を当てた。ボイスレコーダーを作動させてあった。
証拠としては使えない。録音した声を証拠として使用するには、使用する前に本人の了承を取らなければならない。だが、何が起きたのかは後でわかる。
いまはアエルを、ミレイから引き剥がさなければならない。ここから連れ出さないと、アエルを逮捕しなくてはならない。
いや、星自身も厳密に言えば罪を犯しているのだ。
「もういいでしょう。アエルさん、気はすみましたか?」
天上アエルが顔を上げた。
泣いていた。血の気の無い顔に、真っ黒い涙が流れているような錯覚を覚え、星は言葉を失った。
「邪魔しないで」
星の脳裏に浮かんだ映像は、すぐに消えた。アエルが泣いているのは間違いなかった。
透明な涙が、アエルの滑らかな頬を伝い落ちていた。
すこし、化粧が落ちたのかもしれない。そうは見えなかったが、化粧が流れることはありうるだろう。
きっと、化粧が崩れたのを見誤ったのだ。
「アエルさん、あなたを逮捕したくない」
「あなたにはできないわ」
別人のようだった。自信に満ちた声に聞こえた。アエルの皮を被った何者かと、入れ替わりでもしたかのようだ。
「どういう意味ですか?」
「私にもミレイちゃんにも、あなたは手出しできないわ」
応えになっていない。なんの根拠があるというのだ。
星はアエルの手をつかんだ。ミレイを掬い上げるように抱き上げた、細い力強い腕だった。
アエルの目が、星に向けられていた。
星刑事はアエルの瞳を見た瞬間から、何も考えられなくなった。
――さっきも……これが起きたのか?
ボイスレコーダーでは役に立たない。ビデオカメラを回していたとしても同じことだ。何が起きたのかはわからない。
ただ、星は崩れ落ちた。
膝が床に凄まじい勢いで落ちた。膝の皿が割れていても不思議ではない。それなのに、痛みは感じなかった。
何も、感じなかった。
星の顔が、床の上に落ちる。
顔だけではない。
星刑事は床に横倒しになって倒れた。アエルの足が目の前を通り過ぎる。星の頭をまたぎ越した。
――上を向けば、スカートの中が覗けるのに……。
男の悲しいさがである。
何も考えられない。それでも、二度目である。意識は失わなかった。
アエルが廊下へ出たことは、音でわかった。
星は懐に手を入れた。
上手く手が動かない。震える指で、携帯電話を引っ張り出した。
『星先輩ですか? どうしました?』
大塚刑事だ。相変わらず力強い。頼りになる、というのとは少し違うが、困ったときには有難い存在だ。
星はしゃべろうとした。震えてはいるが、なんとか声は出せた。
「……いまどこだ?」
『警察病院の駐車場ですよ。先輩に言われたとおりです。先輩大丈夫ですか? 声が変ですよ』
「……大丈夫だ。もうすぐ天上アエルが病院から出て行くはずだ。たぶん、鏑木ミレイを抱いている」
しばらく返事が帰ってこなかった。驚いているのか、理解できずにいるのかもしれない。
普通に考えて、起こるはずの無い事態なのだ。
『逮捕しますか? 先輩、怪我をさせられたんですか?』
「いや……怪我はしていない。俺も、できるだけ早く外に出る。大塚……頼みがある」
『……なんです?』
珍しく警戒した声だった。取調べの時にはよく聞く言い方だ。星に対して発するのは、初めてのことだ。
「始末は俺がつける。天上アエルには……手を出さないでほしい」
『命令でしたら、拒否するべき状況だと思いますが……』
「だから、頼んでいるんだ。俺の個人的なお願いだ。頼む。アエルは必ずタクシーを拾う。どこのタクシー会社か確認しておけば、追跡は簡単だ。被害者がこれ以上増えないことは約束する。俺が行くまで、天上アエルには手を出さないでくれ」
星は、だんだんはっきりと舌が動くのを自覚した。
床を腕で押す。足を胴体に引き寄せる。
――動ける。
『仕方ないですね、貸しにしてきますよ』
「恩に着る」
星は携帯電話を懐にしまいながら床を蹴り、アエルを追って走り出した。




