23 堕天
刑事と一緒ではあったが、天上アエルは医療関係者にミレイの容態を尋ねることができた。
幸いにも手足の骨はひびが入っただけだったので、固定しておけば自然に治るらしい。現在は痛み止めの影響で眠っているだろう言われた。
夜にはなっていたが、深夜というわけではない。
警察関係の医療施設であり、患者でごった返しているということはなかったが、厳しい顔をした男たちと頻繁にすれ違った。
医療関係者から容態を聞いた後、アエルはミレイとの面会を求めた。星の運転する自動車の中で、引き合わせると約束したのだ。
本当は駄目なのだと念を押されたが、星はアエルの望みを聞いてくれた。
「鏑木ミレイは寝ていると思うけど、それでもいいのかい?」
長い廊下を歩いている途中、足を止めた星刑事がアエルに尋ねた。
確かに、眠っていては話を聞くことはできない。
アエルはちらりと悪魔を見た。車から降りても、ずっと後をついて来ていた。
悪魔はよほど暇なのだ。悪魔の指示に従っていることを、既にアエルは違和感無く受け入れるようになっていた。
――「あたしが起こします。大丈夫」
「そんなことができるの?」
思わず悪魔に問い返した。怪訝な顔をした星刑事に、慌てて訂正する。
「会えればいいわ。とりあえず、私の気は済むし」
――「あなたも待ちきれないでしょ?」
悪魔が言い添えた。アエルが振り返る。
悪魔が復唱しろと促した。
意味は解らないが、アエルは刑事に向かって復唱した。星刑事は顔を真っ赤にして、廊下を急いだ。
見張りに立っていた制服姿の警官がいた。
鏑木ミレイが拘留されている病室だった。
アエルと同行した星刑事が話しかけると、警官は姿勢を正して敬礼した。刑事が様子を尋ねると、まだミレイは寝ているらしい。
星刑事は警官の肩を叩いた。アエルは何気なく病室に入る。
警官は止めようとしたが、星刑事に話しかけられて見過ごしてしまった。星を入口に残し、アエルは悪魔と病室の奥に進んだ。
「こんなに上手くいくとは思わなかったわ」
――「あたしに任せれば、こんなものですよ」
白いスーツ姿の悪魔は、得意げに、相変わらずの笑顔で言った。
「悪いのは下地ラクゴで、あなたはいい悪魔なのかもね」
――「『いい悪魔』? そんなものはいませんよ」
さらに笑みを深めた悪魔の表情は気になったが、アエルはそれどころではなかった。
病室の奥に、ベッドは一つしかなかった。カーテンで仕切られ、見ることはできなかった。アエルはカーテンの内側に入った。
ミレイが寝ていた。室内灯がつきっぱなしだった。
手足をギブスで固定されている。痛々しかった。
ミレイの体には、ただでさえ無数の傷があるのだ。これ以上、ミレイに傷ついて欲しくなかった。
「ミレイちゃん」
深い眠りではなかったのだろう。耳元でアエルが囁いただけで、ミレイはびくりと震え、目を開けた。
固定されているので動けないが、仰向けに寝たまま、ミレイの目がアエルを捕らえた。
アエルは背後を見た。ミレイが目を覚ましたのは、悪魔の力だろうか。
悪魔はただにやにやと眺めているだけだった。
どちらでもいい。ミレイと話ができる。アエルはミレイの顔を覗き込んだ。
「……夢?」
ミレイが呟く。思いついたことが口に出たのだろう。
「違うわ。ミレイちゃん、会いに来たのよ」
アエルは微笑んで見せた。笑えるような状況ではなかった。ただ、ミレイを落ち着かせるためだ。
何も心配しなくていい。そう伝えたかった。
「アエルさん……」
「なあに、ミレイちゃん」
「……ごめんなさい」
ミレイの目に涙がたまる。アエルはバックから急いでハンカチを取り出した。
「どうして謝るの? ミレイちゃんは巻き好まれただけじゃない。下地の狙いは私だったって聞いたわ。変な奴よね。お店には、ミレイちゃんみたいな可愛い子でいっぱいなのに、私なんかを狙うなんて。だから……私こそ、ごめんなさい。危ないことに巻き込んじゃって。ミレイちゃんに、怪我までさせて」
ミレイの両目からこぼれた涙を、アエルは急いでふき取った。
一滴に収まらず、次々にあふれ落ちる。
アエルは謝った。ミレイに謝って欲しくなかったからだ。ミレイが謝る前に、さらに謝り続けた。
ミレイはアエルの言葉を聞いた後にも、自分の話を続けた。
「私……両親を殺したの。他にも、たくさん殺したの。今まで黙っていてごめんなさい。私、アエルさんを騙していたの。いい子なんかじゃない。両親を殺してから、人を殺すことも、ぜんぜん怖くなくなったの……アエルさんに会う前まで……インターネットカフェで男を捜して……出会った男を殺していたの。もう、どうでもよかった。警察に早く捕まえて欲しかった。私には、もともと、何にもなかったから。アエルさんに……会うまでは」
アエルのハンカチが濡れ、染み込んだ水分が、ハンカチを持つアエルの指先にまで及んだ。
それだけ、ミレイは泣き続けていた。
アエルはミレイの涙を拭きながら、口を挟むこともできず、唇を噛んだ。
なんでこんな子が、人を殺さなくてはならなくなってしまったのだろうか。ミレイの口から聞かされても、アエルは信じられなかった。
ミレイの言葉が止まる。代わりにアエルが口を開いた。
「『何にもない』なんてことない。ミレイちゃんはとてもいい子だわ。立派に副店長を勤めて、お店の子達だって慕っている。私なんかより、よっぽどしっかりしているもの」
「アエルさんが……私を助けてくれたんです。何も聞かないで、黙って部屋に上げて、好きなようにさせてくれた。人に親切にされたの、初めてだったから……アエルさんのためなら、なんでもできたんです。でも……本当は、私が側にいないことが、アエルさんにとって一番いいんです」
「そんなこと無いわ」
アエルはぴしりと言った。
――「そうですぜ、そんなことはない。アエルちゃん、天使様がこんな子を見捨てていいんですかい?」
悪魔は相変わらず、アエルに寄り添うように背後にいた。
ミレイには見えていない。
アエルは小さくうなずいた。
「アエルさん?」
ミレイが問い返した。アエルが言葉を続けないことに不安を抱いたのだろう。
泣いていたときより目を大きく開け、アエルの表情を凝視していた。
ミレイは、アエルを求めている。
アエルはミレイに言った。
「絶対に助けてあげる」
「駄目です!」
ミレイはアエルを求めている。だが、求めていたのは救出ではなかったのだ。
アエルの決意を知り、激しく反応した。寝起きとは思えない、強い口調だった。
ミレイは動けない。動けないことをもどかしく感じているようだった。アエルはミレイの額を押さえた。
「私に任せて。必ず、ここから助け出してあげる」
――「そうですとも」
隣で悪魔も請け負った。
「やめてください。これ以上、アエルさんに迷惑はかけられません」
ミレイの手足はギブスで固められた上、動かないようにベッドの支柱につながれている。
安静にしているように、だけではないだろう。逃げることができないように拘束されているのだ。
アエルは支柱との接続を断ち切り、ミレイを抱えあげようと体の下に手を入れた。
「痛かったら言ってね」
「アエルさん、何をするつもりなんですか!」
「ミレイちゃんをこんなところには置いておけないわ」
「やめて!」
ミレイの胴体が震えた。手足が動かせないので、せめてもの抵抗なのだろう。
アエルは突然の振動に腕が震え、ベッドの上にミレイを落とした。痛かったのか、ミレイがのけぞる。
手足が痛いのか、衝撃で背中を撃ったのかはわからない。
「どうして? 私には、ミレイちゃんが必要なのよ」
「私は……アエルさんには相応しくありません。別の人を探してください。お店の副店長だって、アエルさんの生活を助けてくれる子だって、すぐに見つかります。男の人だって……アエルさんに近づかないよう、私が邪魔していたんです。私が邪魔しなければ、アエルさん、すごい人気なんですよ」
アエルは悲しかった。どうしてミレイがアエルを拒むのかがわからなかった。
ミレイを助けたいのだ。ミレイがアエルを拒んでいる。
その事実だけしか理解できなかった。アエルの耳元で、悪魔がそっと囁いた。
――「警察に、何か吹き込まれたんでしょう。連れ出せば、考えも変わるでしょうよ」
あえて悪魔を振り返らず、アエルは小さくうなずいた。
「ミレイちゃん、どうしてなの? どうして助けさせてくれないの? 私は……お店を守れなかった。女の子を守れなかった。守るために、すべてを投げ打ったのに、私にはできなかった。せめて、この小さな世界でみつけた、大切なものぐらい、守らせて」
「……私のことですか?」
ミレイの問いに、アエルはしっかりと首肯した。
ミレイが瞳を閉ざした。再び涙がこぼれた。
アエルがミレイを抱き上げようとした。もう、ミレイは何も言わなかった。
病室の扉が開けられた。
「もうとっくに五分は過ぎています。そろそろ良いですか?」
星刑事だ。カーテンに仕切られているから、まだ見られてはいない。ミレイは瞳を開けた。アエルを見つめ、小さく首を横に振った。
アエルが同じ方向に振り返した。
諦めるつもりはない。絶対に諦めない。
カーテンが開けられた。アエルは、ミレイを抱き上げようとした姿勢のままだった。刑事の目が見開かれた。
「何をしているですか!」
「助けたいの! 力を貸して!」
アエルは言った。
「何を言っているんですか! できるはずないでしょう!」
星刑事は言った。
――「よろしいでしょう」
悪魔は言った。
アエルは星刑事をにらみ、視線を悪魔に転じた。
白いスーツの姿はしていなかった。まがまがしい姿をしていた。まさに、地獄から這出てきた悪魔そのものの姿だった。
「お願い」
ミレイから見ても、星刑事からも、アエルは誰もいない方角を向いていた。特に刑事は怪訝な顔をしていた。アエルの目には入らなかった。
――「代償が必要です。解っているんでしょうね?」
悪魔が片手を出した。
不気味に変形した四本の指が、奇怪に長く伸びている。爪は壊死したかのように真っ黒だった。その手のひらに、小さな力強い輝きがともっていた。
かつて悪魔が見せた、アエルの魂だ。
すでに魂の一部は悪魔に握られている。さらに力を求めれば、もはや引き返せない。地獄に引きずりこまれ、おそらく二度と戻ってはこられないだろう。
恐ろしかった。
永遠に続く地獄の苦しみに、自ら飛び込むことを意味していた。
アエルは、その苦しみを理解できない人間ではない。かつて天界にいた記憶がそのまま残っているアエルにとって、地獄に引きずり込まれる以上の苦しみなど存在しないのだ。
アエルは口を開いた。何も言えず、閉ざした。肯定の返事をすれば、自らの破滅を招くことを理解していた。
――「どうしたんです? ミレイちゃんを助けたいんでしょう? それとも、天界のお偉い方に頼りますか? 今まで、助けてくれたことがありますか?」
――助けてくれるはずないわ。私は、逆らって地上に堕とされたのだから。そもそも、計画に逆らって、破壊されるはずのものを守りたくて、私は地上に堕ちたのだから。
アエルは口を開いた。ぱくぱくと動かした。それでも、言葉は出てこなかった。
星刑事の手がアエルの腕を押さえた。持ち上げかけていたミレイの体を下ろさせた。
ミレイが、下からアエルを見上げていた。そのミレイが、小さくうなずいた。それでいい。ミレイがそう言ったような気がした。
嫌だった。
「助けて」
アエルは声を絞り出した。すべてを捨てる覚悟ができた。頼るのは、もう悪魔しかいなかった。
――「承知しました」
悪魔の姿が掻き消えた。アエルの全身が脈打った。気のせいだったのかもしれない。だが、アエルは感じた。
力が湧き上がる。
全身から、黒い蒸気が上がっているような感覚だった。
ミレイを抱く手が、悪魔の手そのものに変化した。それは、アエル自身の手だ。視界が赤く染まった。自分が、血の涙を流していた。
失われたはずの、翼が戻った。背中を破り、真っ黒い翼が生えた。
アエルの変化は、人間の視力には映らないものだったのだろう。刑事は相変わらず怪訝な顔を崩さない。ミレイはアエルを心配そうに見上げている。
自分が警察の手によって、人間自身の手によって罪に問われているのに、ミレイはアエルの心配をしている。
なんていい子だろう。必ず助けなければ。
「……これが、悪魔の力……」
アエルは星刑事を見据えた。目が合った。目に力を込めた。星刑事の思考が失われるのがわかった。アエルを止めようとしいたはずなのに、ぽかんとただ立ち尽くした。
――「いいえ、それはアエルちゃん本人の力です。人間の殻に押し込められていたのが、解放されただけですよ」
隣に悪魔がたたずんでいた。同じ姿だった。
ただ、もう醜いとは思わなかった。
今のアエルは、肉体さえなければ、悪魔と変わらない姿をしているのだろう。
「アエルさん、一体どうしたの? 急に、別人みたいに……」
ミレイが尋ねた。姿は変わっていないはずだ。ミレイの目には、何かが変わったように見えたのだろうか。
「別に。さあ、今なら……ミレイちゃん……」
アエルは言葉を失った。自分が抱いていたミレイが、真っ黒に汚れて見えたのだ。
悪魔の力により自らの力を堕天使として取り戻したアエルは、人間の魂をはっきりと見ることができた。
ミレイの中に、真っ黒に汚れた魂を見ることができた。
自分の身を守るために人を刺したというだけでは、ここまでは汚れない。そう思われる汚れ方だった。
ミレイはもともと汚れていたのだ。
そのミレイを助けるために、アエルは悪魔に魂を売った。
自分のしたことが、アエルは急に恐ろしくなった。
「……アエルさん、どうしたんですか?」
いつものミレイの声だった。どす黒く汚れていた。
きれいな瞳から、黒い染みが広がっているように見えた。そう見えるだけだ。
ミレイは変わっていない。変わったのはアエルなのだ。
「こうなること、知っていたのね」
アエルは悪魔をにらんだ。悪魔は笑った。
――「もちろん。あたしは、悪魔ですからね」
「いやぁーーーー!」
アエルは自らの頭を抱え、絶叫していた。




