21 悪魔の手引き
尋問者が何人か変わり、執拗な質問攻めから天上アエルが解放されたときには、外はすっかり暗くなっていた。
幸いその場で逮捕されるという事態は免れたが、アエル自身、あまりにも多くのものを失ってしまった。
東京の夜は暗くならない。代わりに星が見えない。アエルは空気の汚れた東京の夜空を見上げた。
背中に手を回す。かつて生えていた白い翼は、永遠に失われてしまった。
――私、なにをやっているんだろう……。
天界を追われ、地上で、人間となってまで守ろうとしたものは、すべてアエルの手元から奪われていく。
地上で見つけた最も大切なものまで、失ってしまった。
――まだ、失ったわけじゃないわ。
「ミレイちゃんを、助けてあげなくちゃ」
――「それでこそアエルちゃんだ」
なれなれしく呼びかけてくるのが、何者であるのかはわかっていた。
アエルは背後からかけられた声を無視して、道路に出ようとした。
タクシーを探すためだ。
――「あたしの力が、必要なんじゃありませんかねぇ?」
「悪魔の力なんか借りないわ」
顔を一切向けず、まるで見えていないかのように振舞いながら、アエルはタクシーを求めた。
どれだけ嫌われようと、悪魔は気にもしない。実にずうずうしい。それだから、悪魔なのだが。
警視庁の中で、タクシー会社の電話番号は確認してきたのだ。
携帯電話の登録を無駄に増やしたくなかったので、拾ったボーペンで手にメモしてきた。
アエルは、数字としては汚い筆跡の番号を携帯電話でダイヤルした。アエルは機械類の扱いは得意ではない。天界では一切使ったたことがなかったのだ。
必死に携帯電話を使うアエルを、まるであざ笑うかのように悪魔が続けた。
――「あたしの力が必要なくても、アエルちゃんだけじゃあ心細いでしょう? 世間知らずの堕天使様じゃあねぇ」
「悪魔が人間の社会に詳しいとは思わなかったわ」
――「何でも知っていますよぁ。御用があれば、いつでもどうぞ。あたしはいつも、アエルちゃんの側にいます」
「嬉しくないわ」
アエルの本音だった。悪魔の力を借りるつもりはなかった。
ミレイは助けたい。人を殺したなどと、何かの間違いに決まっている。
人間はよく間違えるのだ。とにかく、会わなくては話にならない。
携帯電話を耳に当てた。
『ただいまおかけになった電話番号は、現在使用されておりません。もう一度番号をお確かめの上、おかけ直し下さい』
アエルは携帯電話の画面を見つめた。手に書いてきたメモと見比べる。
間違いではない。
間違いだとしたら、アエルが書いたメモが間違っていたのだろう。
タクシー会社に連絡しなくても、通りがかるのを捕まえればいいのだ。
しかし、さきほどからほとんど通らない。警視庁までタクシーで乗りつける人間があまりいないのだろうか。
首を伸ばしてタクシーを捜すアエルの視界を、まるで遮るかのように車が止まった。どこかで見た車のような気がしたが、無関係の車を眺め回す余裕はなかった。
早くミレイのもとに向かいたかった。タクシーは別の場所で拾うべきだろうかと考え出したとき、車のウインドゥが下がった。
見たことがある男が顔を出した。
「お帰りなら送ります。俺も今日は終りですから」
さきほどアエルにねちねちと質問していた星刑事だった。なぜか少し緊張した表情をしていた。
「いいえ、私はまだ……」
断ろうとしたとき、背後から声がかかった。
悪魔の声だとわかっていた。
無視することに決めたのに、聞こえてくる声は防ぎようがなかった。
――「ミレイちゃんのところまで、送らせたらいいじゃぁないですか」
勝手なことを。とアエルは思った。
先ほど、会うことはできないと言ったのはこの男なのだ。
星刑事の顔を見たまま、アエルは早口で呟くように反論した。
「送ってくれるはずないわ。さっき、はっきり言われたもの」
――「そりゃあ、アエルちゃん次第でしょうよ。お願いしてみたらいいじゃないですか。きっと、送ってくれますぜ。なにせ、この男も、アエルちゃんに気がありますからねぇ」
「どういう意味?」
車の中で、顔を出しながら、男は不安そうにアエルの返事を待っていた。
まるで叱られている学校の生徒のようだ。
――「あたしの言うとおりにしてもらえればわかりますよ」
「じゃあ、これであなたが信用できるかどうか、わかるってことね?」
――「もちろん。まずは、後ろのシートじゃなくて、助手席に座ることですね」
――どういうこと?
思わず背後を振り返る。
悪魔の姿は無く、煌々と明かりを灯した警視庁のビルがあるだけだった。アエルはひとしきり眉を寄せてから車に向き直り、開いた窓に顔を入れた。
――「なにも考えることはありませんよ。いつものように、メイドの衣装を着ているときにやっているような感じでいいんですよ」
声は車の中からした。アエルが横目で見ると、後部座席にはどっしりと悪魔が腰をすえている。
図らずも、日本の刑事が悪魔の運転手と化してしまったわけだ。アエルは星刑事に視線を向けながら、刑事を意識していなかった。
警視庁に勤める男は、緊張しているのか車のハンドルを握り締めたまま硬直していた。
「お願いします。ご主人様」
にっこりと笑って見せると、星刑事は嬉しそうに、困ったような顔をした。
後部座席で、悪魔が額を叩いているのが見えた。
――「『ご主人様』じゃねぇでしょう。お店じゃねぇんだから、そこまで忠実にやることはないんですよ」
「あんたがそう言ったんじゃない。メイド服の時と同じにって」
アエルはすばやく悪魔に文句を言う。星刑事がますます不思議そうな顔をしていたが、アエルの笑顔で帳消しになった。と思い込んだ。
最大限に笑顔を振りまきながら、アエルは助手席の扉を開けてシートに滑り込んだ。
「ごめんなさい。お店に出ていたときの癖で、時々変なことを言っちゃうのよ」
「いえ、いいんです。職業病っていうやつですね」
星刑事は嬉しそうに前を向いた。
アエルがシートベルトを着用するのを待ち、車が動き出した。
人間の作る道は複雑で使いにくい。とアエルは普段から思っていた。
普段から、アエルは覚えた道しか使わなかった。どこかに連れて行かれても、ほとんど解らない。
背後から悪魔に言われるまま、信号待ちで停車したとき、アエルは運転者である男の太ももに手を添えた。
男はずっと話していた。ほとんどが事件の話である。
たまに男自身の話が混ざる。
アエルが手を置いたとき、時間が静止したように男の口が止まった。
そそのかされるまま、アエルは太ももの内側に手を忍ばせた。
男の体温が上がるのが伝わる。アエルは男のほうに身を乗り出す形になっていた。少し、姿勢が下がった。
顔を上げる。横に向かって。
男を見上げた。男の喉が上下した。
何を言うべきか、悪魔に指示されるまでもなくわかった。
「ミレイちゃん会わせて」
「どうして、そんなに拘るんですか? さっきの話では、ただの従業員だったんでしょう? 確かに一年間同居していたかもしれませんが、こういう状況で相手の正体を知れば、むしろ恨むのが普通です」
「『恨む』って、どうして?」
ミレイを恨む理由がない。
アエルは、まだミレイを被害者だとしか思えなかった。
確かに悪いことをしたかもしれない。それでも、事情があるのだ。あのミレイが、アエルを裏切るはずがないのだ。
「アエルさんは、騙されていたんじゃないですか。利用されていた。その結果、警察なんかで取調べをうけなくちゃならなかった。お店だって閉店したんでしょう? 鏑木ミレイがいなかったら、閉店しなかったかもしれない」
「それは違うわ。閉店したのは私の判断だもの。ミレイちゃんはよくやってくれた。私なんかより、ずっとしっかりしているの。私はミレイちゃんを信じている。ミレイちゃんを信じているのよ。ミレイちゃんが悪いことなんか、するはずがないもの」
アエルは星の瞳をじっと見た。星刑事は顔をしかめた。
「どうしてそこまで信じられるのかわかりませんが……駄目です。鏑木ミレイは現在逮捕、拘留中です。面会は認められません。まだ、本人は警察病院ですが……」
信号が青に変わる。刑事はアクセルを踏んだ。アエルが寄りかかっている姿勢だからか、車はゆっくりと動き出した。
どうしていいかわからず、アエルは後部座席に視線を送った。悪魔に知恵を借りるのは屈辱だったが、ここまでは上手くいったのだ。
悪魔はまるで楽しんでいるように笑いながら、口を動かした。
刑事には聞こえていない。
アエルには、悪魔の言葉を聞き取ることができた。アエルは意味も解らず、ただ悪魔が言ったことを復唱した。
「何でもする。私にできることなら」
刑事の喉下が大きく上下した。体温もさらに上がっているようだ。悪魔がさらにアエルに囁く。アエルは続けた。
「もしミレイちゃんに会わせてくれたら、後は何でも言うことを聞くから」
「……『何でも』?」
ハンドルを握る刑事の手が震えたような気がした。
「あなたの、好きな場所で」
車が路肩に止まった。運転を続けては危ないとでも思ったかのようだ。
「アエルさん、あなたがまさか……そんなことを……」
「刑事さんしかいないの。もし、ここでミレイちゃんを諦めたら、私は一生後悔する。そう思うから……もし駄目なら、私を車から突き落とせばいいわ」
悪魔から囁かれた言葉ではない。アエルの本心だった。意識せず、口が動いていた。
「車から突き落とすなんて、そんなことできませんよ」
「刑事さん……経験したこと無いんでしょ?」
星刑事が震えるのがわかった。これは、悪魔から囁かれた言葉だ。
言った後、意味を考えて首をひねった。
「何を?」
解らなかったので、アエルは後部座席に小声で尋ねた。
――「いいから。あたしの言うとおりにしていれば間違いありません」
悪魔は続けるよう促した。アエルは刑事にすがりついた。星刑事の声が震えた。
「しかし……規則では……」
「刑事さんだって、人間でしょ?」
アエルは悪魔に言われるまま、あえて恥ずかしそうに、自分のスーツの胸元をめくった。髪を書き上げ、耳元、うなじをあらわにした。
「……わかりました。鏑木ミレイに会えるよう、取り計らいます。ただし、五分だけですよ」
星刑事は折れた。
車が再び動き出す。
自分が座る本来のシートに戻り、身を沈ませ、アエルは後部座席に視線を送った。
「ありがとう、たすかったわ。けど、どうしてこうなったの?」
自分が口走った言葉の中で、アエルが理解できたのは一割にも満たない。
悪魔は応えず、ただ腹を抱えて笑い続けた。




