堕とされた天使と地獄の悪魔
東京上野にある教会で、天上アエルはただ一人、祈りをささげていた。
誰が見ても美女だと疑わない容貌と、艶やかな長い髪を与えられていた。手足もすらりと長く、何もせずただ立っているだけで、職業モデルに間違えられることも珍しくなかった。高級なブランドもののスーツをまとい、いかにも賢そうに見せることもできる。外見に欠点はない。それが天上アエルである。
教会の中央にひざまずいて祈りを捧げ続けた後、落胆と同時に息を吐き、アエルは顔を上げた。
――聞こえない。何も。友達の天使たちすら、もう私には声をかけてくれない。
天上アエルが天界から地上に堕とされて、数年が経過していた。
人間の体に、人間の経歴を持って地上に存在していた。
あるはずのない両親の記憶に、ご丁寧に両親が死に、天涯孤独となったという記憶までが与えられていた。
まるで、アエルが天界にいた時の記憶が、すべて夢物語だったかのようだ。
実に巧妙に、アエルは人間としてこの世界に存在していた。
それが夢ではないこと、アエルの戸籍上の立場も住民票も、人間の文明の及ばない力で作り上げられていることを理解しうるのは、ただアエルのみである。
膝を払い、ゆっくりと立ち上がる。人間達が十字架と呼んでいる、正面に掲げられた巨大な聖なる印に背を向けた。
「いつもご熱心ですね」
神父に声をかけられた。礼拝堂で祈り始めた時には、確かにアエルだけだったのだ。祈っている間に入ってきたのだろう。
「……あなたは、あの方の声が聞こえるの?」
アエルはまっすぐに見つめた。性別で男と呼ばれる人間の九割以上が、アエルの視線を受けると狼狽するか性欲を顔に表す。だが欲にまみれた世俗男達とは違い、神に仕える職業である男は顔色を変えなかった。異性を性欲の対象としては見ないのだろう。ただ、あからさまに驚いた顔をした。
「そのような奇蹟、たとえローマ法王でも叶わないことです」
――奇蹟……ね。
「そう。変なことを言ったわね。有難う」
「それほどにお悩みなのですか?」
親しく会話を交わした間柄ではない。いつも挨拶をするだけだ。アエルは毎日教会に通っていた。よほど信仰熱心だと思われているのだろう。
「悩んでいるわけではないわ。悩んでも仕方ないもの。ただ、ここに来ると落ち着くのよ」
「良い心がけです」
互いに小さく会釈した。天上アエルは教会を後にした。
教会の敷地を出たところで、門柱に背を預けた男に目が留まった。
――「これはこれは。アエルちゃんですね。いいところで会いました」
「私を待っていたんでしょ。悪魔が何の用?」
真っ白いスーツを着た、青白い男だった。白い帽子を目深に被り、肌の露出はほとんど無いにもかかわらず、異様な肌の色が目立つ。手足は長く、身長もアエルとほとんど変わらない。天上アエルは女性としてはかなり背が高い。
『悪魔』とは、地獄に住む邪悪な者たちの総称である。かつては天界に住んでいたものもいる。アエルと同じように天使であった者が、神を裏切って堕とされる場合もあれば、規律正しい世界を嫌い、自ら混沌が支配する地獄の住人となることもある。
あるいは、かつては人間たちによって神と扱われていた土着の精霊が、人間の信仰を失い悪魔と化す場合もある。いずれも、アエルにとっては敵対すべき邪悪な者である。
――「そういきり立たねぇでくださいよ。あたしはただ、どうして堕天使様がいまでも熱心に教会に通っているのか、知りたくなっただけなんですがねぇ」
門柱から背を離し、アエルの行く手を阻むかのように男は進路に立った。迂回することはできる。だが、アエルは男の姿をした悪魔を見据えて立ち止まった。
「あなたには関係ないことよ。放っておいて」
――「『関係ないことよ』ですか」
男はいかにも面白そうに笑い、アエルに向けて手を伸ばした。明確に、胸のふくらみを狙っていた。
「何の真似?」
語気を荒げ、アエルは男の手が胸に触れる前に打ち払った。男はさらに笑いながら言う。
――「いやねぇ、天界の天使様が、いまじゃあすっかり女の子だと思ってねぇ。かわいらしくなっちまったもんだ。天界から落とされるとき、性別は選べないのかい?」
天使には、性別はない。人間であれば、原生動物を除いたほとんどの動物で、性別が存在する。体には雄か雌の身体的特徴が現れる。その差異が、天使には存在していない。地上に堕ちたアエルは、まず自らの胸が大きく膨らんでいることに驚いたものだ。筋肉が天界にいた時より細くなり、体の線も華奢になった。何より、背中の翼を失ったのは衝撃だった。頭部には、暗闇を恐れない勇気を示す光輝の輪が浮かんでいたはずなのに、ただのキューティクルを示す光沢があるだけだ。
もっとも、男に生まれるよりましなのかもしれない。人間の男という生物には、股間に理解しがたい突起がついていることを、人間の世界ではじめて知ったのだ。
天上アエルの手が男の襟首をつかんだ。
「放っておいて。これ以上付きまとうなら、警察を呼ぶわよ」
――「警察に、あたしが見える奴がいるのかい?」
アエルの手が緩んだ。
「あなた、人間には見えないの?」
――「よっぽど、特殊な奴以外にはねぇ」
意外だった。天界から落とされたとき、天使としての能力はすべて奪われていると思い込んでいたのだ。今までにも何度も悪魔を見かけていた。特に退治しようとは思わなかった。周りの人間にも見えていて、悪魔の存在を許容した上で生活しているのだと勘違いしていたためである。今のアエルに、悪魔を退治するような能力があるとも思えなかった。
アエルにも、悪魔を見る能力は残されたのだろう。他にもまだ何か、人間にはない能力が残っているのだろうか。
――あるいは、私にも悪魔を撃退することはできるのかしら。
天界から堕とされたことに、意味がないとは思わない。アエルの願いを叶えると言われて堕とされたのだ。検証する必要がある。いまのところ、目の前の悪魔と戦う方法は、アエルには思いつかない。毎日教会に通っていても、天界からの言葉は得られていない。
「……そう。あなた、名前は?」
ため息混じりに尋ね、男を迂回して、天上アエルは道路を歩き出した。車道と歩道が分かれていない、下町の狭い道路である。悪魔が追ってくるものと思っていた。案の定、追ってはきた。付きまとうような追い方ではなかった。アエルの少し後方から、足並みをそろえて歩いていた。世間話をするかのように語りかけてきた。まるで、古くからの知り合いであるかのようだ。天使であった経験から、悪魔のことが好きなわけはない。親しくされること自体が不快だったが、人間の世界のことはよくわからない。理由もなく敵対する理由が思い当らなかった。
――「悪魔と知って、あたしの名前を聞くんですかい?」
「私のことを知っているなら、お互いに名乗るべきじゃない? 私の名前をどこで知ったのかは知らないけどね」
名前を知られることを悪魔は嫌う。よほど高位の悪魔でなければ、名前を教えるはずがない。アエルは天界での経験からそれを知っていた。名前を呼ばれて『命令』されると逆らえないという、変わった特性を持っているらしいのだ。素直に名乗るかどうかで、悪魔の立場が多少はわかる。高位の悪魔が名乗るのは、名前を知られても『命令』を跳ね除ける力があることを、悪魔自身が理解しているからである。
――「アエルちゃんの言うことも最もですね。解りましたよ。あたしは大魔王ムニエルと覚えておいてください」
――本当の名前じゃないわね。
アエルは確信していた。大魔王などと名乗るのは、小物に違いない。名前にエルがつくのはかつて天界にいたものだけである。男風の悪魔の外見からは、とても堕とされた天使だとは思えなかった。そもそも、ムニエルは魚料理の名前だ。
「お魚系のそこそこの悪魔と覚えておくわ」
男は舌打ちした。大方当たっていたのだろう。天上アエルのハンドバックの中で、携帯電話が鳴った。
背後の悪魔に気を遣う必要も無いだろう。取り出して耳に当てた。着信の画面から、誰がかけてきたのかは考えるまでもなかった。
「ミレイちゃん、どうしたの?」
『店長、出勤前のところすいません。困ったお客様がいて、どうしても店長を出せと言ってきかなくて』
メイド喫茶『@ホームIN』の雇われ店長、というのが現在の天上アエルの正式な立場である。天使としての力をほぼ奪われた以上、生きていくためには働かなければならないのだ。
ミレイというのは、秋葉原店の副店長を任せた、信頼できるしっかりした子だ。まだ二〇歳にもならないが、接客業にあっているのか、アエルの不在時にもしっかりと店を切り盛りしてくれている。アエルは店長でありながら、不在にしていることは多い。アエルが経営する『@ホームIN』はチェーン店であり、大手のアミューズメント会社が経営している。アエルは秋葉原店の店長と同時に、関東の系列店を掌握するマネージャーも兼ねていた。
ただし、ほぼ毎朝不在なのは、仕事のためではない。気が済むまで教会で祈り続けているからだ。そのことを知る者は、副店長のミレイだけである。仕事中ではないことを知っているからこそ、何か困ったことがあればすぐに電話をくれるのだ。
「いいのよ。いつもごめんね。いま、そっちに向かっているから、三〇分ぐらいでつくと思うわ。それまで待てる?」
『はい。なんとか頑張ってみます』
気丈でいい子だ。アエルは小さくうなずきながら、足に力をこめて歩く速度を上げた。
「手に負えなくなったらまた電話して。私が直接話すわ」
『電話で、ですか?』
「それしかないでしょ」
『有難うございます』
なんども謝罪しながら、ミレイは電話を切った。携帯電話をハンドバックに戻しながら、アエルは後方に視線を送った。白いスーツ姿の悪魔はまだついてきていた。
「聞いていたでしょ。忙しいのよ。用がないのならお引取り願えるかしら?」
――「用があればいいんですかい?」
「歩きながらでも、話しを聞くぐらいはできるわよ」
すでに、天上アエルの歩行速度は普通のものではなくなっていた。競歩の競技者とは比較にならないが、のんびりと会話を交しながら、といった速度ではない。
――「いやあ、実は用なんかはじめからありゃあしませんよ」
もともと、用があるだろうと推測していたわけではない。アエルが言ったのは、単に言葉のあやである。悪魔の用事の対象になるほど、まだ落ちぶれてはいないはずだ。
「悪魔って暇なのね」
背後で大笑するのが聞こえた。悪魔の笑い声である。アエルがただの人間だったら、身の毛もよだつ声だったにちがいない。現在のところ、悪魔の姿を見たり会話ができるだけの、人間と何も変わらないアエルだが、最近まで天界にいたのは事実である。悪魔の笑い声を恐れたりはしなかった。
天使にとって最も恐ろしいのは、神の怒りを買って堕天させられることである。経験してしまった天上アエルに、これ以上の恐怖など存在しないのだ。
「この世界が出来てから、悪魔が忙しかったことなんてありませんよ。天界だって同じでしょう? 作った世界を、ほったらかしにしているだけなんだから」
「聞き捨てならないわね」
アエルは立ち止まろうとしたが、やはり歩き続けたままで首だけを向けた。教会から離れ、JR上野駅に向かって歩いていた。アエルが店長を努める『@ホームIN』は秋葉原にある。電車に乗っている時間は五分とはないが、電車に乗るまでと下りた後を考えると、三〇分はかかる。電話で副店長に告げたのは、妥当な時間だ。これ以上遅れたくはなかった。店が心配だったのである。
――「『聞き捨てならない』と言いましたね。 天使様は忙しかったんですかぃ?」
「当然でしょ。毎日毎日、人間を救う方法をみんなで考えていたのだから。神様は一度決めたことは絶対に曲げないのよ。だから、神様のスケジュールどおりになったら人間にどれだけの被害が出るのかを計算したり、少しでも被害を減らすにはどうしたらいいのかを、みんな必死に考えていたのよ」
――「考えるだけですかい?」
嫌な言い方だ。アエルは機嫌を害して口をへの字に曲げた。
「人間の世界に直接関与するのはルール違反だもの。でも、できるかぎりことはしているのよ。たとえば、地中に住む巨大な鯰の食事に、ほんの少しだけ眠たくなる成分を含んだ餌を混ぜたり、死んでしまう運命の人の目覚まし時計の電池の減りを遅くして、事故にあうのを防いだり」
地震そのものは防げない。事故は止められない。言いながら、アエルは情けない気分になってきた。だが、何もしない悪魔よりはましだ。もっとも、悪魔に神の立てたスケジュールが事前に配られるはずがない。何が起こるか事前に知ることはできないはずだ。
――「で、その挙句に地上に堕とされたんですかい?」
「……悪い?」
出来る限り目つきを悪くして、アエルは悪魔を睨んだ。
――「いゃあ、とんでもない。ご立派ですよ」
「で、いつ私から離れてくれるの?」
――「暇なんですよ。あたしの気が向いたらですかね」
本当に暇なのだろう。アエルは舌打ちをしながら、再びハンドバックに手を伸ばした。
十文字の形をした聖印を取り出す。手の中で、それは冷たく、沈んで見えた。悪魔が怖がるだろうか。自信がなかった。黙ったままバックに戻した。
上野駅が見えてきた。周囲に行きかう人は数えきれないほどだ。ほとんどの人間に悪魔が見えていないとしたら、これ以上会話を続けると、おかしな人だと思われてしまう。アエルは背後の悪魔は気にせず、電車に乗るために電子カードを取り出した。
人間の文明が生み出した一品である電子カードは、アエルにもちゃんと使うことができた。アエルはきちんとお金を払ってチャージしているので、いつの間にか戸籍ができていることよりも、よほど自然なことである。アエルは電子カードが好きだった。魔法使いになった気分が味わえると、お店で言って客に笑われたこともある。
それぐらい好きだったが、現在はただ便利な道具に降格している。慣れとは、実に不幸なものだ。




