17 事件と逃走
下地ラクゴは下着だけの姿で、ミレイが作った料理を掻き込んでいた。
「電話、出ないのか?」
傷だらけの体を隠すように部屋着を身に着けたミレイは、小さく首を振った。
「いまは話したくない」
おそらく、アエルからなのだろうと下地ラクゴは思っていた。アエルに手を出さない代わりに、ミレイは下地ラクゴに体をささげた。
そこまで尽くした相手と、『いまは話したくない』と言う。アエルと話せば、きっと泣き出してしまうのだろうと、下地ラクゴは勝手に想像していた。
ミレイは気が強い女の子だが、アエルの存在がなければきっと壊れていただろう。ミレイのちょっとした表情や言動に、内面に抱えたもろさを感じていた。まるで、自分を見ているかのようだった。
もはや、ミレイは下地ラクゴの命令には逆らわなかった。下地ラクゴに言われるまま、食事を作り、目の届く範囲からは出ようとしなかった。いまはただ、目の前に座ってマグカップをもてあそんでいた。
ルイを殺したことは言っていない。本当に殺されるかもしれないとは、思っていないのだろう。
考えが浅い。下地ラクゴはそう思っていた。
アエルが帰ってきたら、ミレイを人質に、アエルを自由にできる。ミレイのためなら、アエルもきっと言うことを聞く。ミレイを味方にすることは、もはや不可能だ。脅して命令に従わせるしかない。
「アエルはいつ帰ってくるんだ?」
「アエルさんのことは、諦めるんじゃなかったの?」
ミレイはアエルの身代わりになったつもりなのだろう。下地ラクゴは鼻で笑った。
「誰がそんなことを言った? アエルのことは絶対に諦めない」
「約束が違うじゃない」
魂を抜かれたかのようにぼんやりと座っていたミレイが、突然声を張り上げた。
「約束なんかしていない。ミレイが勝手にそう思い込んだんだ。約束したというのなら……俺からアエルを呼び出すことはしていない。それだけだ」
ミレイの顔が、急に曇った。さらに険しく、視線が鋭くなった。下地ラクゴは台所から持っていった包丁を思い出した。
すっかり油断して、手放してしまっていた。ミレイの手が床を滑るのを見た。ミレイが立ち上がる。右手に、包丁を握っていた。
玄関のインターホンが鳴る。
「おい、落ち着けよ。誰か来たぞ」
下地ラクゴは上半身裸だった。ミレイは下地から目を離さない。包丁の切っ先を持ち上げた。
「アエルさんなら、インターホンを鳴らさないわ。部屋の鍵を持っているもの。あなたが出れば? 私に背中を向けないことね」
――こいつ、本気だ……。
下地ラクゴはミレイの動きを注意深く観察しながら、ゆっくりと玄関に向かった。下地ラクゴも包丁を振り回したことがあったが、あくまでも威嚇するつもりでしかなかった。
ルイの時も、殺すつもりだったわけではない。ミレイは違う。下地ラクゴを殺すつもりでいる。
玄関の鍵が回った。金属の部品が奏でる音が、重く響いた。
――アエル?
他のだれかが、鍵を持っているはずがない。
下地ラクゴは思わず玄関を凝視した。ミレイも同じことを考えたのだ。
「アエルさん、逃げて!」
逃げたいのはこっちだと思いながら、下地ラクゴは玄関に走った。
アエルなら解ってくれる。アエルなら助けてくれる。アエルなら、ミレイを説得してくれる。アエルなら、人質に取れる。
様々な考えが、一瞬でよぎった。
背中に刺すような痛みが走る。
玄関の扉が開いた。
「アエル……」
「警察です」
扉の先にあるのは、期待したのとはまったく違った光景だった。背広姿の二人の男が手帳を見せていた。
下地ラクゴと目が合った。
下地ラクゴのことを探しているのだと、すぐに解った。それほど、劇的に表情が変わった。
下地ラクゴは逃げようとした。
足が滑った。
力が入らない。
下が濡れていた。
妙にぬるぬるとする液体が広がっていた。
膝が落ちた。
立ち上がろうと手を付いた。
手が赤く汚れた。
背中が痛むのに気が付いた。
――あの女、本当に刺したのか……。
力強い大きな手が肩に置かれた。
下地ラクゴはがっくりとうな垂れた。




