15 侵入と役得
深夜になるまでの数時間、その後部屋の明かりが消えてからの数時間、下地ラクゴはアエルのアパートの前で待ち続けた。
深夜になるまでの数時間は、アエルと話せることの期待で体が熱くなっていた。
部屋の明かりが消えてからの数時間は、男の姿がアエルの部屋から出てくることを想像し、体の感覚などなにも感じなかった。
秋である。夜は冷えた。下地は自らの体が冷えていることさえ、感じなくなっていた。
夜が明ける。
アエルの男は、アエルの部屋で一晩を明かしたのだ。ひょっとしたら、同棲しているのではないだろうか。
下地はますます暗い思いを強くしていった。
人々が行きかい始める。さすがに人目にはつきたくなかった。
やきもきしながら、度々場所を移動しては、アエルのアパートを監視した。
――出てこないな。
そろそろメイド喫茶『@ホームIN』の開店準備をしなければいけない時間ではないのだろうか。
いつも、行くと気持ちよく迎えてくれる。ちゃんと毎日掃除をしているはずだ。だからこそ、悪魔から言われた、見えないインクを使用して店中に描いた落書きのような文様も、なるべく目立たない場所に書かなければならなかったのだ。
――店を休んでまで、男と?
時刻が一〇時三〇分を回ったとき、部屋から人が出てきた。下地は身を乗り出し、慌てて隠れた。
アエルだ。
周囲を気にする様子も無く、相変わらず目的地に向かってまっすぐに歩いていく。
迷いのない歩き方は、メイド服を着ると別人のようになることを、下地は知っている。
再び静寂が訪れた。まともな人間なら、仕事なり学校なりに行っている時間である。
アエルのアパートから出てきたのは、アエル本人だけだ。同棲しているはずの男は出てこない。アエルが男と同棲していることが、下地ラクゴの中ではまぎれもない事実となっていた。
下地はアパートの部屋を見つめた。アエルが出てきた扉の場所は覚えていた。窓の位置からいっても、間違えるはずが無かった。
部屋は二階だ。
階段を上り、部屋の前に立った。
周囲を見回した。悪魔の姿を探した。今日はいない。
構わない。下地は思った。悪魔の力を借りるまでも無い。相手がどんな男だろうと、殺すつもりであれば負けるはずが無い。
――殺してやる。
下地ラクゴはインターホンを押した。
中から返事をした者がいた。女の高い声だった。宅配便を名乗った。下地は女の声がしたことを不思議に思ったが、もはや引くこともできなかった。
扉が空き始めると同時に、手を強引にねじ込み、力いっぱい引きあけた。
取っ手をつかんでいたのだろう、姿勢を崩して前のめりに倒れる、若い女性が転がり出た。
どこかで見たことがあるような気がした。メイド喫茶だっただろうか。メイド服を着ていれば解ったかもしれない。思い出せなかった。下地は、アエル以外にははっきりとメイドの顔と名前が一致しなかった。
「何?」
突然乱暴に開けられた扉に、宅配便を名乗りながら訪れた私服の男に、女は声を裏返した。
「アエルは?」
「で、出かけているけど?」
女は立ち上がろうとした。気が強い。下地をにらみながら、服の汚れを払おうとした。下地は女の首をつかむようにして、そのまま部屋に入った。
玄関には女物の靴が一足だけある。男のものはない。
「ちょっと、なんなの? あんたは誰?」
「男がいるだろう? アエルの男はどこだ?」
既に出かけてしまったのだろうか。下地が見落としたのだろうか。だとしても、見つけ出してやる。アエルを解放するのだ。下地のものにするために。
「何言っているの? アエルさんに男なんていないわよ」
「嘘をつくな!」
扉を閉め、怒鳴りつけた。女の顔を殴った。殴られても、女は強気ににらみ返してきた。床に投げ捨てるように押し倒した。下地自身は土足のまま、部屋の中に踏み込んだ。
どこかに男が隠れているに違いない。もしいなくても、男の痕跡を見つけ出す。いつの間にか、下地は憑りつかれたかのように証拠を探し出した。不法侵入してしまった以上、もはや引き返せなかった。
台所で包丁を見つけ、手に取った。男を見つけたら、一刺しにできる。
二DKの部屋割りは、一人で住むには広い。寝室にはまだ布団が敷かれていた。まだ暖かかった。この布団の上で、アエルは男と一緒に寝ていたのだと思うと、切り裂いてやりたい衝動に駆られた。その前に、臭いを嗅ごうと鼻を寄せた。
背後から殴られた。何か硬いものだった。
めまいがした。布団に崩れるように落ちながら振り返った。フライパンを振りかざしたさっきの女が立っていた。
「……お前……」
「アエルさんの部屋を汚さないで!」
――アエルの部屋?
女は言い切った。アエルには、本当に男なんかいないのだろうか。ひょっとしたら、昨日見た影はただの見間違いだったのだろうか。
この女の影だったのかもしれない。しかし、アエルは電話で『もういい加減にして』と言った。しつこい男に向けての発言だと思っていたが、アエルのアパートを突き止めた下地ラクゴに対して発した言葉だったのだろうか。
さらにフライパンが振り下ろされようとしていた。自分でも驚くほどすばやく、下地ラクゴは動いた。
立ち上がり、フライパンを持った女の腕を捕まえ、クローゼットにたたきつけた。女はうめき声を発してフライパンを落とした。
下地が手に持っていた包丁を女の顔の側に刺すと、さすがに観念したようにぐったりと力が抜けた。
「何なの? どうして、こんなことするの?」
気が強い女だといっても、限界がある。女は泣いていた。下地は弱い相手には強く出ることができる。女の顔をつかみ、上向かせた。
――「どうして、警察を呼ばねぇんですかねぇ。不思議だとは思いませんか? 旦那ぁ」
突然横合いから声が聞こえた。まがまがしい姿が、さらに肥大したような悪魔がそこにいた。初めて呼び出したときから比べて、どんどん力強くなっていくよう気がする。見た目で変わらないのは、人を食ったような顔つきだけだと思えるほどだ。
女には見えていない。声も聞こえていない。
「いまさら、何の用だい?」
下地ラクゴは尋ねた。女にどう思われようと、どうでもよかった。悪魔は笑みを深くした。実に不快だ。
――「いやぁ。旦那に用なんかないんですよ。旦那は、もう立派な悪党だ。だけどねぇ、ちぃっと、ほうって置けなくてねぇ。この子はアエルちゃんのお気に入りだ。昨日みたいに殺しちまうと、アエルちゃんは決して許してはくれねぇでしょう。それより、この子を手なずければ、アエルちゃんも旦那を惚れ直しますよ」
「……なるほど」
――「この子も訳ありですぜぇ。どうして警察を呼ばねぇのか、聞いてみたほうがいいんじゃないんですかねぇ」
悪魔はただそれだけを言いに来たのだろう。現れたときと同様に突然消えた。
下地ラクゴは改めて女を見つめた。震えている。すっかり気力が萎えたようだ。おそらく、反抗もしないだろう。下地が手の力を緩めると、女はへたり込んだ。
「どうして警察を呼ばないんだ? 俺を殴ったってことは、警察を呼んでいないんだろう? 警察に通報して、部屋に閉じ込めたほうがずっと効果的だ」
誰でもそうするはずだ。下地が感情にかられて部屋に押し入ったのは、実にまずかったのだ。冷静に考えれば、おろかとしか言えない振る舞いだ。しかし、女はそうしなかった。推測はできる。女には、警察を呼ぶことができない事情があるのだ。
「関係ないじゃない。あんたには」
「確かにそうだな。あんた、名前は?」
「……ミレイ」
思い出した。クモの悪魔が店に出たとき、下地ラクゴのクレームを処理しようとして、結局アエルを呼んだメイドだ。
「本名は?」
ミレイと名乗った女は顔を横に向けた。話す気はなさそうだ。おそらく、どれだけ痛めつけても話さないだろう。店の源氏名だけで、女の素性を探ることはできない。それだけ、恐れているのだ。過去を探られることを。
「まあいい。お前のことになんか興味ない。知っているのか? アエルちゃんは、お前のこと」
「……アエルさんは、私に何も聞かない。名前も知らないのに、私が泊まるところが無いって言ったら、泊めてくれたのよ。それから、ずっと一緒に住んでいる。私のこと、詮索しないのよ。アエルさんになら知られても構わない。だけど、他の人には言いたくない」
「言いたくないならいいさ。ミレイ、携帯電話を出せ」
どうやら、本当にアエルに男はいないらしい。下地ラクゴはクローゼットに突き刺した包丁を抜き取り、ミレイの頬に当てた。ミレイは下地をぬれた目でにらみながら、ポケットから携帯電話を取り出した。
奪い取り、携帯電話を覗き込む。通話記録は、ほとんどがアエルとのものだった。時折、別の記録が混ざっている。ミレイにうらみはない。興味すら無い。
ミレイがアエルのお気に入りだというのも、真実なのだろう。アエルはさすがにミレイの本名ぐらいは知っているのだろうが、何も知らない人間と突然同居を始めてしまうというのも、なんとなくアエルらしい。
浮世離れしている感じは、メイドとしてのアエルの人気の一つでもある。
「ミレイがアエルと親しいのだけは信じてやる。呼び出せ」
携帯電話を渡した。
「どうするつもりなの?」
ミレイの目が、下地ラクゴの包丁に向かった。下地ラクゴは笑顔を作った。どこかで同じような体験をしたことがあった。悪魔の笑いだと気付いた。自分が悪魔の真似をしていることに腹がたったが、今は小さなことだ。
「警察を呼びたくないんだろ? 俺も同じだ。なら、信じてやる。アエルに帰ってきて欲しいと言うんだ。その後どうするかは、俺が決める」
「……アエルさんを傷つけるかもしれないなら、絶対に嫌」
「お前が代わりになるか?」
試しに言ってみただけだ。ミレイはだが、小さく首を動かした。自ら、服を脱ぎだした。
ちょっとした役得だと、下地ラクゴはためらわなかった。




