14 深夜の訪問者
天上アエルは白いスーツの悪魔をにらみつけた。
――「『もういい加減にしてよ』なんて、冷たいじゃあねぇですか」
悪魔は片手を挙げた。手のひらを上にしていた。
手の上に、小さな輝きがあった。宙に浮いていた。美しく、力強い、小さな輝きだった。とても好ましい光だったが、アエルはなぜか、不安になった。
アエルの足元で、ミレイがもぞもぞと動いた。起こしては可哀そうだ。アエルは明かりを消した。
小さな輝きだけが、暗闇で光っていた。暗くなると、その光が通常の人間には見ることができないものだと理解できた。
「あなたが私に教えた悪魔の名前、間違っていたわよ。命じても言うことを聞かなかった」
――「いいえ。名前はまちがっちゃあいませんよ。ちゃんと姿は見せたでしょうに」
悪魔はくすくすと笑った。おぞましい笑い声だったが、アエルはその笑い方よりも、どうして笑っているかのほうが気になった。悪魔が笑っているのはよくあることだ。特別なことではない。そのはずなのに、アエルはいてもたってもいられないほど不安になった。
不安の正体が理解できないまま、押し殺して話を続けた。
「確かに姿は見せたわ。でも命じたのはそれだけじゃない。地獄に帰るよう命じたのに、ちっとも言うことを聞かない。姿を見せたのだって、私が命じたからじゃないかもしれない。あのクモのときみたいに、あなたがちょっかいを出したんじゃないの?」
――「いいえ。あたしはただ、あれの名前をアエルちゃんに教えただけですよ。姿を現したのは、まさにアエルちゃんのお力ですよ。地獄に帰らなかったのは、アエルちゃんの力不足ですかねぇ」
さらににたりと笑った。アエルは鳥肌が立つのを感じたが、我慢した。悪魔に弱いところを見せたくなかった。
「悪魔になれなれしくされる筋合いはないわ。悪魔の言葉なんか信用できない。本当に、つきまとうのもいい加減にして欲しいわね」
ミレイを起こしたくなかったので、声は小さかった。だが鋭く突き放した。そのつもりだった。悪魔の笑みは揺るがなかった。
――「いつまで、天使のつもりなんです?」
初めてだった。白いスーツの悪魔が、アエルに敵意を向けた。悪魔はただ笑ったままたたずんでいるだけだ。それでも、アエルには雰囲気が変わったように感じた。
「わ、私は……天使よ。人間じゃないわ。悪魔でもない」
――「確かに、人間じゃねぇ。悪魔でもねぇでしょう。まだね。だからといって、天使といえるですかねぇ? 教会に行ってもお偉い方の声も聞こえず、聖水に火傷し、聖書を読めば全身が痛む、聖印に触れられもしないアエルちゃんがねぇ」
アエルは悪魔をにらみつけた。すべて事実だ。否定はできない。だが、素直に認める必要も無い。
「私は、私が守りたいもののために戦う。それはあのお方も認めてくれたわ。だから地上に降りたのよ」
――「堕ろされた。でしょう?」
「同じことよ」
暗闇で、悪魔の顔だけははっきりと見ることができた。口角が耳まで達するほど、はっきりと裂けていた。人間ではない。人間の顔ではない。
――「昨日までは、そうだったかもしれません。でも、今は違うでしょう」
悪魔の手がかすかに上がる。小さな輝きは、単に輝くだけで周囲を照らしはしなかった。通常の人間には、見ることのできない輝きだ。
「それは何? あなたは一体、私をどうしたいの?」
聞きたくない。真剣にそう思っていた。だが聞いてしまった。その問いが、重要な意味を持っていることを、アエルは感覚で理解していた。
悪魔が口を開く。
アエルは耳を塞ごうとして持ち上げかけた手を、寸前で堪えた。
――「昼間、アエルちゃんの店で暴れた悪魔は、間違いなくあたしが放ったもんです。名前を知っていたって当然でしょう? だって、あたしが世話してやっている奴だ。アエルちゃんは、言ったでしょう? 『私はどうなってもいいから、地獄に帰って』って。奴は地獄に帰りましたよ。あたしは受け取った。これがなんだか、解らねぇはずはありませんよねぇ」
「……いや……」
アエルの膝が布団に落ちた。地上に降りて、悪魔に会って、本当に恐ろしいと思ったのは初めてだった。
――「まだ、ほんの一部ですよ。でも、一部でも、アエルちゃんの魂があたしの手の中にある。これが、どういうことか解りますよねぇ。アエルちゃん、もう逃げられねぇ。人間の世界にいて、罪を犯さずに生きることなんてできませんよ。あたしは、確認に来たんです。アエルちゃんの魂は、悪魔にとってはたいしたお宝です。間違いねぇ。あたしが買った人間の魂なんて、もうどうでもいいほどですよ。ただ、あれはまだ役に立ちそうですけどねぇ」
自らの体を抱き、アエルはただ震えていた。悪魔の声は届いていた。理解していた。言われなくとも、解っていた。
生きたままの魂を、悪魔が手にすることはできない。ただし、ごく一部を手に入れれば、ゆっくりと魂全部を手に入れることができる。そのためには、魂の持ち主が穢れることが必要だ。
昔から言われていることである。アエルは自らを犠牲にしてでも、『@ホームIN』秋葉原店を守りたかった。あのときは必死だった。
自分が悪魔のものになる。永遠の苦しみを課されるも同然だった。しかも、お店を守れるかどうか解らないのだ。
「あなたが言う、『あれ』って何?」
人間の誰かだろうか。
――「そのうちに解りますよ」
悪魔を見るのを怖いと思った。アエルは布団の一点を見つめたまま、顔を上げなかった。悪魔が近づいていたことも気付かなかった。悪魔の顔が近くにあった。頬を舐め上げられた。
「ひっ……」
思わず声が漏れた。全身から汗が噴出した。悪魔の高笑いが響いた。
暗闇で、アエルは震えたまま動くこともできなかった。
誰も動かない。気配も無い。ミレイは眠っている。アエルは一人だ。それでも、動きたくなかった。何をされても、今のアエルには抵抗することはできなかっただろう。それほど怯えていた。
悪魔は消えていた。
肉体には興味がない。ただアエルの魂だけを欲している。それは、ムニエルとかつて名乗った男が、生粋の悪魔である何よりの証だった。
ミレイが寝ぼけて立ち上がった。アエルはミレイの手をつかみ、抱き寄せた。迷惑そうな声を上げかけたミレイだったが、抵抗することなくじっとしていた。ミレイにも解っていたのかもしれない。アエルの全身から震えが収まるときは、来る気配も無かった。
いつの間にか夜が明けていた。
眠ってしまったようだ。アエルは目をこすりながら顔を上げると、こざっぱりした部屋着のミレイが、廊下からひょっこりと顔を出した。
「お早う……いつも早いわね」
「もう一〇時ですよ」
「大変、遅刻じゃない。お店を空ける準備をしないと。どうして起してくれないの?」
慌ててまくし立てたアエルに、ミレイはほぼ無反応でじっと見つめ返した。寝室に入ってきた。マグカップを両手に一つずつ持っている。アエルのために用意してくれたのだろう。
「起す必要がありました?」
――あ……。
落ち着き払ったミレイの態度に、アエルは思い出した。店はしばらく閉めることになっていたのだ。メイドの一人が殺されたことでも、警察が捜査を始めている。店内でいかがわしい儀式めいたことが行われたのは防犯カメラに映っていたし、男性客の口止めをする余裕もなかった。消防車を呼びつけて、消防署からも注意を受けている。
「……今日は本社に行かなくちゃ。昨日行ったばかりだから、今日もだけど。お店をどうするか、相談しないと」
「じゃあ、頑張って来てください」
ミレイが持っていたマグカップのうち、一つを差し出した。暖かい湯気が上がっている。ミルクが湯気を昇らせていた。
「うん……ありがとう。ミレイちゃんは、今日はどうするの?」
「仕事、探すのは早いですよね?」
まだ閉店だと決まったわけではない。仕事がなくなったら世話をすると約束していたが、店を続けられるなら、ミレイを他所に取られるのは痛いのだ。
アエルはミルクを傾けながら、言葉を選んだ。
「うん。まだ……ここに居てほしい」
普段はミレイを慰めるために使う言葉を、アエルは自分のために使用した。一人になるのが不安だった。
悪魔の顔がちらついた。夢だと思いたかった。
あまりにも、はっきりと覚えていた。
「仕方ないですね。もうしばらくだけですよ、アエルさん」
立場が逆になった。ミレイは笑いながら、アエルに肩をぶつけるように、布団の上に座った。ミルクの入ったカップを口につけ、傾ける。アエルはミレイの髪をゆっくりと撫でた。
――私には、まだ居場所がある。
悪魔に魂を奪われる。心底からの恐怖を押さえつけ、アエルはしばしの平和に身をゆだねた。




