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堕天使が経営するメイド喫茶へようこそ  作者: 西玉
仕組まれた悪意
10/28

10 呼び出された悪魔と堕ちた天使

 レジカウンターの向こうに事務室がある。天上アエルは店に入り、後ろ手にドアを閉めると、まっすぐ事務室を目指した。対犯罪用に本社から支給されている道具が多々あり、同時にアエル自身が集めた対悪魔用の道具も置いてある。

 入り口からレジカウンターまでの短い道程の途中に、火災報知器がセットされている。ガラス張りであり、女の子でも素手で殴れば割れるようにできている。中のレバーを引けば、天井からスプリンクラーが噴出す仕組みだ。アエルは迷わず火災報知器のガラス窓を叩き割った。中のレバーを握る。

 レバーを引こうとしたとき、半身だが、振り向いてしまった。レジの脇で絡み合う女の子と数人の客がいることは、事前に覗いて知っていた。アエルがいた場所から、店の全容が目に入った。男性客が一〇名以上、女子が三名だった。

 その中央に、かつて巨大なクモの悪魔が張り付いていた場所に、まがまがしい化け物が浮かんでいた。

 上半身は人間に酷似しているが、筋肉というにはあまりにも肥大した、肉の塊だった。頭部は剛毛と革に覆われ、頭からは角が伸びている。足は安座状に組んでいるが、中に浮いているのだから、組む必要はあるまい。その足は、人の形状はしていなかった。

 アエルに背を向けていた。アエルの存在に気づいていた。それは振り向いたのではない。ゆっくりと回転したのだ。悪魔と目が合った。黄色く濁っていた。悪魔の首から上は、草食動物を思わせる獣のものだった。

 悪魔とにらみ合い、ためらわず、アエルは握ったままのレバーを引いた。店中に警報が鳴り響き、天井のスプリンクラーが水を発射した。

 急激に我に変える男女を尻目に、アエルは事務室に入った。

 ――大物だわ。いまの私に勝てるのかしら。

 中世以降、何度も絵に描かれているであろう悪魔だ。それだけ力が強く、人間の扱いには慣れている。人間をどう堕落させ、操ればいいのかを心得ている。勝てる自信はなかった。だが、諦めるつもりはさらにない。

 事務室からさらに奥のロッカールームに向かいながら、アエルは衣服を脱いだ。水浸しの店内で、スーツ姿では戦えない。すばやく、行動しやすい服に着替えた。

 汚れても構わないエプロンつきのドレスに、髪を固定できるヘッドドレス、腕の動きを拘束されないふんわりした袖口に、滑り止めの付いたローヒールの靴をすばやく装備する。

いざ戦うとなったために服を選んだ結果、メイド衣装になったのは偶然ではない。メイド服は本来働くための衣装なのだ。最後にタイツを短く白いソックスに替えたのは、ただの習慣である。

 メイドとしての衣装に着替え、アエルはロッカーの奥からハンドバッグには入らない大型の聖書を取り出した。またもや拒絶されるかと恐れたが、聖書だけは静かにアエルの手に収まった。


 事務室から出ると、呆然と座り込んだ一〇人以上の男女が佇んでいた。その中央には、相変わらずまがまがしい巨体が浮かんでいる。

 この場に人間がいてはいけない。収集が付かなくなる。とにかく、人間を追い出すことだ。アエルは聖書を掲げ、悪魔に対して指をまっすぐに向けながら命じた。

「姿を現しなさい! 悪魔……」

 呼びかけようとして、名前を知らないことに気づいた。悪魔の名前など、知っているはずが無い。天使であったころは、悪魔の名前なんか知らなくても、追い払うぐらいのことは簡単にできたのだ。

人間の世界に徘徊している悪魔は、普段人間には見えないことを知らなかったので、いつの間にか下界の人間は悪魔と上手に同居するようになったのだと勘違いしていた。

だから、人間の世界で暮らすようになった後も、名前を覚えようとも思わなかった。そもそも、悪魔は地獄に数万体はいると言われている。とても覚えきれるものではない。

聖書に出ていないだろうか。

慌てて、掲げた聖書のページをめくった。

「パウロ! 違った。これは使途だわ。誰かに聞かれていたら、めちゃめちゃ怒られちゃうわね」

 すでに誰かに聞かれているし、誰にも聞かれていなくても、把握できる誰かの存在を知っているアエルだったが、あえて口に出したのは、自分自身を落ち着かせるためだ。

 残念ながら、キリスト教の使途の名前が出ている段階で、新約聖書である。悪魔の具体名などは出ていない。

――「グリモントバッカードですぜ、アエルちゃん」

 真横から声をかけられた。見なくてもなんとなく察しがついたが、横目でにらんだ。白いスーツが目に入る。

「あれを呼び出すのに利用したルイちゃんの死体は聖水で清めたわ。名前なんかわからなくても、退治してみせるわよ」

――「人間に囲まれたままで、ですか?」

「だから、姿を現させて、人間たちが逃げるようにしようとしているんじゃないの」

 悪魔と戦うのに、悪魔の協力を得るのは気に入らなかった。しかし痴態を披露した客たちに、いつまでもいられても邪魔だ。

――「だから、名前を教えてあげたじゃねぇですか」

「どうして私に協力するの? あんたの仲間でしょ?」

 素直に喜ぶ気持ちにはなれない。

――「あたしはいつも、アエルちゃんの味方でさぁ」

「私の味方なはずないでしょう。悪魔だからって、悪魔どうしみんなが友達じゃないってことかしら?」

 白いスーツの悪魔は答えず、笑いながら一歩下がった。天界でも、天使はみんな仲がいいかというと、実はそうでもない。表立って対立するような幼稚なことはしないが、腹の中では色々と溜まるものもあった。人間となった現在の方が、正直に生きているのではないかと思うほどだ。

悪魔から得た知識を利用するのは気に入らなかったが、迷っている場合ではない。目の前の巨大な悪魔が口を開けた。アエルを食べようとしているのか、威嚇しようとしているのか、どちらかだ。

「悪魔グリモントバッカードに命じます! 姿を現し、地獄に帰りなさい」

 アエルを食べようとしていたのではなく、威嚇だった。巨大な咆哮がアエルの耳をろうした。同時に、店内からいっせいに悲鳴があがった。見えている。すべての居合わせた人間たちに、巨大な悪魔の姿が見えている。

「今日はもう閉店よ! みんな早く、とっとと荷物を抱えて出て行きなさい! ご主人様!」

 周囲の客たちにびしりと宣言した。つい語尾に『ご主人様』をつけてしまうのは、職業病である。メイド服を着ていないときは出ない病気であり、その理由はアエル本人にもわからない。

 アエルは客に命じたため、悪魔に背を向けていた。あまりにも無防備だったかもしれない。悪魔は命令して姿を現したのだ。同じように、命令したように、地獄に帰ると思っていたのだ。

「店長!」

 客の中に混ざっていた一人が叫んだ。悪魔の術中にはまっていたメイドだ。背後で風を感じた。とりあえず、アエルは前方に跳んだ。

 アエルのいた空間を、空中に浮いていた巨大な悪魔の腕が薙いだ。前方に思い切り飛んだアエルは、ソファーの一つにつまずいて倒れかけた。姿勢を崩しながら振り向いた。

 ――地獄に帰らない? 姿を現したのだから、名前はあっているはず……私の命令が利かない?

 悪魔の手は巨大で、四本しか指が無く、指と判別できないほどの太い鉤爪が生えていた。

人間の悪魔祓いさえ、悪魔の名前を把握すれば命令を聞かせることができる。堕したとはいえ天使であるアエルの命令が、後半部分をまったく無視されたのだ。戦わなくてはならない。

なんとしてでも、悪魔を打ち破る方法を見つけなくてはならない。

「メイドのみんな! ご主人様たちの荷物を店から外に運び出して! 外に副店長がいるわ。後はミレイちゃんの指示に従いなさい」

 すでに客の大半は逃げ出していた。痴態をさらしたのが一人だけではないので、ためらいも少なかったらしい。メイドたちは店から出ず、客の荷物を外に放り投げながら、外から見られない位置でかたまっていた。

かたまり、震えていた。余裕のある者はメイド服に袖を通していたが、エプロンドレスで体を隠しながら、呆然と震えているだけの者もいた。

「店長はどうするんですか?」

 誰かの声だった。有難い。こんな状況でも、アエルのことを心配してくれる子がいる。

「落とし前をつけさせるわ」

 ソファーに手をついて体を支え、起き上がりざま、磨かれた床を蹴った。

悪魔がさらに吼える。悪魔のつばが飛んだ。アエルは両手で聖書を振り上げた。

「聖なる力を受けなさい!」

 咆哮を続ける悪魔の横面を、聖書で張り飛ばした。

「店長、聖書の使い方が違います!」

 たぶらかされたメイドの中にも、信仰熱心な娘がいたらしい。アエルは気にしなかった。さらに反対側から張り飛ばす。空中に浮いたままの悪魔が、徐々に押されていく。

「あなたを呼び出すために使用したいけにえは、聖水で封じたわ。もう人間の世界では力を使えないわよ。おとなしく帰りなさい!」

 壁際まで追い詰められた悪魔は、獣の顔をアエルに向けた。まっすぐに対峙する。悪魔の目が、黄色く輝いた。アエルの全身から力が抜ける。アエルの膝が落ちた。アエル自身のメイド服に手をかけた。

「店長!」

 背後からの強い声に、アエルはびくりと震え、正気に返った。汗が噴き出した。客たちの、接客業であるメイドたちの正気を奪ったのは、この力なのだ。ルイの死体を事前に清めておかなかったら、アエルも餌食になっていたに違いない。

 自分の顔をたたき、我に返る。顔を上げた。悪魔の目が再び黄色く光っていた。また、頭がぼうっとなった。逆らえない。服なんか着ている場合ではない。もっと、楽しいことがたくさんあるのだ。自分の体は、求められているのだ。

「店長、しっかりしてください!」

 すでにスプリンクラーは止まっていた。だが、背後から水をかけられた。冷水を浴びせられ、アエルは水浸しになった。上半身が、半ばまで肌蹴ていた。

「……誰に脱がされたの?」

「店長が自分で脱いだんです!」

 背後を振り返る。客は全員逃げだしていたが、メイドの娘たちは誰一人逃げようとせず、ある娘は頑張れと拳を作り、服を着る元気も無く震えていた少女も、両手を胸の前で組み合わせている。アエルに水をかけた少女はバケツを構えていた。

 ――あの娘達を守らなくちゃ。

 二度までもまんまと悪魔に取り込まれたことは棚に上げて、アエルは強く誓った。メイドたちがアエルのいる方向に指を向け、悲鳴を上げた。

見なくとも察しはついた。見たくなかった。三度まで同じ目にあっては、店長としての面子が保てないのだ。

 顔を伏せたままアエルは床を滑るように移動する。見ることを恐れたのが裏目に出た。腕が痛んだ。悪魔に触れられた。自分で脱ぎかけたメイド服を着なおしながら、アエルはエプロンドレスのポケットに手を入れた。武器として使用した聖書をいつの間にか手放してしまった。覚えていなかったが、操られていたときに落としたのだろう。

 ポケットから、銀の聖印を掴み取る。ルイの家でアエルの手を焼いたものとは別物である。あれはルイの死体を清めるために置いてきた。別の聖印なら、アエルを拒むとは限らない。

 アエルは賭けに負けた。

 ポケットに突っ込んだ手が、聖印をつかんだ瞬間に、焼け付くのがわかった。皮膚がただれる感触がする。

 痛い。どうしようもなく痛かった。叫びだしたかった。だが、それだけ強力な聖なる力なのだ。ポケットから無理やり引き出し、アエルは手の痛みを堪えて、悪魔に聖印を投げつけた。

「地獄へ帰れ!」

 単純な叫びだった。力いっぱい投げつけた聖印は、狙いたがわず悪魔の額にぶつかり、床にぽとりと落ちた。何が当たったのかわからないように、悪魔は鉤爪の伸びた手で額を掻いた。

 ――わ……。

「私に利いて悪魔に利かないって、どういうことよ!」

 絶叫した。天井にむかって。本当は、そのはるか上にいるだろう存在に向かって。

 悪魔の鉤爪が迫る。ぎりぎりでかわそうとした。毎日せっせと掃除してきた床は、滑り止めのついたローヒールを凌駕した。足元が滑ったのである。

 盛大に転び、アエルは後頭部を強打した。頭を抱えてもだえる。

 顔を上げると、悪魔が再度咆哮し、アエルに向かって滑るように移動してきた。宙に浮いているので、滑るよりも速い。アエルは慌てて後退する。後ろ手が柔らかいものに触れた。背中がぶつかった。

 首だけで振り向くと、アエルの勝利を信じて疑わないメイドたちが祈っていた。アエルは笑いかけた。

「ここは任せて。みんなは外に。ミレイちゃんがまだいたら、ミレイちゃんのいうことを聞くのよ。っていうか、さっきも私、そう言ったわよね」

「店長、怪我しています」

 気付かなかった。メイドの一人が示したのは、アエルの左腕だった。悪魔の鉤爪を避けきれず、痛んだのは覚えていた。見ると傷口が大きく口を開け、血があふれ出していた。

「私は大丈夫。私に任せて、今日のことは、できる限りはやく忘れて」

「店長も逃げましょう」

 アエルは首を振った。

「スプリンクラーを作動させたから、もうすぐ消防車が来るわ。警察も来るかもしれない。こんな化け物を見られたら、『@ホームIN』グループ全体が迷惑をこうむる。私が何とかしなくちゃいけないの。お願いだから、任せて」

 すぐ背後に悪魔が迫っていた。アエルは悪魔に向き直り、床に腰を落としたまま両腕を広げた。メイドたちを守るように行く手を阻んだ。

「早く行きなさい!」

 メイドたちが移動する。店内に、アエルだけが残った。白いスーツの悪魔も、目の前の巨体の悪魔の名を教えてから、姿を消してしまった。悪魔を追い払うために、いつの間にか別の悪魔を頼っていた自分が哀れだった。アエルの目の前に、悪魔の醜怪な顔が迫る。

 対抗する手段は、もはやない。

「どうすれば、地獄に戻ってくれるの?」

 アエルは、全身の力を抜いた。守りたいものがあった。どんなに犠牲を払っても、守る覚悟だった。もうメイドたちは店内から外に出ていた。人目はない。弱い自分を出してもいいのだ。強くなければいけないわけではないのだ。

 悪魔はただ、うなり声のみで答えた。言葉ではない。だが、アエルは悪魔が何を欲しているのか、なんとなく理解できた。聖印にも聖水にも拒絶されたアエルは、もはや悪魔に近い存在になってしまったのかもしれない。

「……望みは私なの? 私だけでいいなら、好きにしていいわ。だけど、お店の娘にも、お店にも手を出さないで。満足したら……帰って……」

 アエルの思考を、ただ黄色い輝きが占めた。悪魔がまた力を使っているのだと理解した。先の二回よりずっと弱い。確かに力は衰えている。ルイの死体を浄化した効果はあったのだろう。だが、命じても帰らなかった。あるいはアエルに力が足りないのか、そもそも名前が間違えていたのか。

 どちらでもいい。アエルに抵抗する意思の力は残っていなかった。悪魔が望むまま、アエルはメイド服を脱ぎ始めた。


 突如正気に戻ったのは、悪魔自身の咆哮によってだった。アエルは下着だけの姿になっていた。

悪魔から感情が流れ込んできた。アエルは悪魔と一体になりつつあったのだ。果てしない怒りの感情に占められていた。床の上にデッキブラシが落ちる。誰かが投げつけたのだ。

悪魔に対してデッキブラシが有効だという話は聞いたことがない。悪魔はダメージを受けて怒っているのではない。アエルを手に入れかけていたのに、邪魔されたので怒ったのだ。

「店長に手を出すな!」

 その声は力強く、震えていた。

「ミレイちゃん?」

 メイド服を着たツインテールの小柄な少女が、目に涙を溜めながら虚勢を張っている。アエルは下着姿であることが急に恥ずかしくなり、脱ぎ捨てた服をかき集めた。

 悪魔が腕を振り下ろした。怒りで我を忘れているのだろう。近くにいたアエルが標的になった。避けられる距離ではない。アエルは集めた服を抱きしめ、顔を伏せた。

 痛みは無かった。それなのに、血が飛んだ。アエルの体に、ぽつぽつと暖かい液体が付着した。液体が散った方向に顔を上げた。

 アエルと悪魔との間に、ミレイが壁となって割り込んでいた。ミレイの肩に、悪魔の爪が食い込んでいる。服を破り、皮膚が裂けている。舞った血が、アエルの肌に落ちていた。

「ミレイちゃん!」

「店長は、負けちゃ駄目です。アエルさんは、負けちゃ駄目なんです」

 傷は浅い。ただの裂傷だ。だが、血は悪魔を興奮させる。悪魔が再び腕を振り上げる。

アエルは咄嗟に、ミレイが悪魔に投げつけたと思われるデッキブラシを拾い上げた。デッキブラシを掴む代わりに服を捨て、立ち上がり、怪我をしながらも一歩も引く様子がないミレイを抱きしめた。

「ごめん。ミレイちゃん。私が悪かったわ。まだ戦えるもの。でも、独りじゃ無理なの。協力してくれる?」

 腕の中でミレイがうなずくのがわかった。悪魔の爪が迫る。アエルはデッキブラシの先を持ち上げ、悪魔の腕を止めた。

「よくもうちの娘に、手を出したわね」

 戦えない。そう思っていたのが嘘のように、力がみなぎっていた。ミレイに指示を出した。ミレイはアエルの言葉に従い、すぐに事務室に走った。悪魔が口を開いた。また吼えようとでもいうのだろう。開いた口に、デッキブラシをねじ込んだ。

 さらに押し込み、悪魔が苦しそうに上向きながら首を振り、後退したところをさらに押し込む。ブラシの先端がずれ、悪魔の口から外れた。すかさず手元に引き寄せ、デッキブラシの先端部分で殴りつける。

「人間の世界に出てきたこと、後悔させてあげるわ」

 下着姿でデッキブラシを振り回すアエルと、筋肉の塊である化け物との死闘が始まった。


 鉤爪をデッキブラシの柄で弾き、押し込み、殴りつける。悪魔もひるまず向かってくる。果てることのない殴り合いが続いた。

「店長、持ってきました!」

 背後から、副店長ミレイの声が響く。

「投げて!」

「はい!」

 悪魔の攻撃をいなしながら、アエルは身をかがめ、半身で振り向いた。ミレイが投げたのは、アエルが専用の容器に入れて保管していた聖水だ。クモを退治するのには役に立った。この悪魔にも利くかもしれない。賭けだった。効果がなければ、アエルはもはや有効な攻撃手段が無い。

 ミレイは的確に投擲していた。アエルは間合いを計り、デッキブラシを振り上げた。アエルの頭上を越えようとしていた容器にぶつかる。飛んでいた容器が勢いよく跳ね上げられ、天井に激突した。容器が破損する。あふれ出た液体が、二人に降り注ぐ。

「キャーーーーッ!」

 悲鳴を上げたのはアエルだった。下着姿で晒した肌に、浄化された清い水が激しく反応したのだ。体から煙が上がる。痛みのあまり、床に倒れた。しかし、床にも液体が飛び散っていた。

 悪魔の苦鳴がほぼ同時に上がったのだけが救いだった。ずっと宙に浮いていたが、床の上をアエルと同様に転がっている。

「店長、大変! 硫酸なんですか?」

 中身が聖水だと知らないミレイが、アエルも一緒に苦しんでいるのを見て慌てて駆けつけてきた。メイド服を手ぬぐい代わりにして、アエルの体をぬぐおうとする。伸びてきたミレイの手を、アエルは押しとどめた。

「ミレイちゃん、私は大丈夫。一気に退治しちゃいたいの。あそこに聖印と聖書が落ちているでしょ。聖書の中を、どのページでもいいから、読みながら聖印をあの化け物に押し付けて。聖印を持っていれば、ミレイちゃんには手を出せないわ。それに、ミレイちゃんは、これ以上私が傷つけさせない」

 まだ煙が上がる体をしかりつけ、アエルは床に落としたデッキブラシを再び手に取った。床をこする。掃除しているのではない。ブラシに聖水をまきつけているのだ。

「わかりました。やってみます」

 ミレイが店内の奥に向かって走った。悪魔がミレイの動きを察知して、鉤爪を伸ばそうとした。アエルはとしては腹が立つことに、聖水で受けたダメージは、アエルと悪魔がほぼ同程度であるらしい。

 アエルはデッキブラシを持つ手に力を込めた。ミレイには手を出させない。ミレイに向かって伸ばした悪魔の手を叩き落した。ブラシにまとわりつけた聖水が、悪魔の太い腕を焼いた。悪魔が吼える。アエルは容赦なく横面を張った。ミレイから遠ざけるのだ。

 ブラシを振りまわしながら、ミレイが聖書と聖印を拾い上げたのを確認した。ミレイが聖書を開いた。

「ミレイちゃん、早く!」

「店長! 日本語じゃないじゃないですか!」

 ――しまった。

 堕天したとはいえ、アエルにはすべての言語が同じに見えるのだ。

かつて人間は、神の怒りを買った。神は人間に対して孤独の罪を与えた。その結果として、世界には数百の言語が生まれ、現在でも意思疎通を妨げている。

言語を分けたのは人間に対する罰であり、アエルは少なくとも罰を受けた人間の血は引いていない。何語を聞いても同じように理解できるし、発音できる。その効果は文字にも及んだ。

とりわけ、日本人は母国語以外読めない者が多い。

「いいのよ。読めるとこだけで!」

 ――たぶん。

 読んでいる事実が大切なのだ。とはまったく確信がなかったが、他に仕方がない。

アエルが持っていた大型の聖書は、人間の言葉の分類では、ラテン語に属する古代語だったはずだ。正確に読める者は、人間にはいないかもしれないのだ。

「……あ……ま……か……」

 ミレイの声は、言葉ですらなかった。だが、聖書を持つのとは別の手で掲げた聖印が輝いていた。効果はあったのだ。ミレイがどのページを読んでいて、何を言いたいのかはわからないが、聖書は読むだけで効果があるのだ。

「ミレイちゃん」

 アエルは悪魔を殴りつつ誘導し、ミレイの前まで導いた。

「店長?」

「ちょっとそのままでいてね」

「えっ?」

 戸惑うミレイを抱くように持ち上げ、聖印を持つミレイの手の手首をつかみ、側まで来ていた悪魔の腹に押し当てた。アエルは聖印を掴めない。掴めば、アエルの手が焼けてしまうかもしれない。気持ち悪いかもしれないが、ミレイには少し我慢してもらおう。

 悪魔が唇をめくり上げ、歯をむき出しにして鼻の穴を広げた。苦悶の表情なのだろうか。化け物の表情などわからない。だが、苦しんでいるのだ。

「ミレイちゃん、続けて」

 ミレイが恐れると、聖印の光が弱まった。ミレイには、光そのものが見えていない。聖書の力を疑ってはならない。

「店長、怖いです」

「頑張って」

 アエルがしっかりとミレイを抱いた。アエルの突き出た胸が、ミレイに押し当てられる。その感触に勇気付けられたわけでもないだろうが、ミレイは震える声で続けた。

「し……ま……か……」

 意味をなさない。ミレイはおそらく、ローマ字読みが可能な部分だけ発音しているに過ぎないのだ。それでも十分だった。アエルにはまったく力を貸してくれないあるお方が、ミレイの声には答えている。ミレイの言葉をつなげても、まったく意味は成さないだろう。

 アエル自身も辛かった。電子レンジに生きたまま入ったら、こんな感じなのではないかと思うような、全身を焼かれるような感じがした。聖印を押し付けられた悪魔はその程度ではないだろう。

悪魔の腹が溶ける。解けた腹から、内臓がぼたぼたとこぼれた。ミレイがおびえた声を上げた。

幻覚だ。悪魔に、動物のような内臓があるわけではない。人間を動揺させ、惑わせるための手だ。床に落ちた内臓は、ぐすぐすと泡になり、最後には溶けた。

アエルが勇気付けると、ミレイは震えながら続けた。


 巨大な筋肉の塊のような半獣の悪魔は、ミレイによって液状に溶けた。溶けた肉片が床に広がり、壁を這い登り、人間の世界に留まろうと執着したが、やがてどこへとも無く消えてしまった。

 ずっと下着姿だったアエルは脱ぎ捨てたメイド服を着込み、武器として活用したデッキブラシを肩に担いだ。ミレイは悪魔を退治したまさにその場所で、ほうけたように座り込んでいた。

 アエルが近づくと、ミレイがやはりぼんやりと見上げてきた。

「お疲れ様」

 差し出したアエルの手を、ミレイがつかむ。つかみ、両手で包み込んだ。ミレイ自身の胸元に引き寄せた。アエルも仕方なく膝を折り、床に座ったままのミレイに視線を合わせた。

「店長、結局、なんだったんでしょう。全部終わったら、教えてくれるって言いませんでしたっけ?」

「ええ。覚えているわ。もちろん約束は守るわよ。でも、まだ終わっていないわ」

 ミレイになら、すべてを話してもいいかもしれない。アエルは思っていた。悪魔のことも、悪魔に利くはずの攻撃が、アエルにも利いてしまう事実も。アエルが、人間ではないことも。

「『終わっていない』って、まだ何かあるんですか?」

 不安そうにあたりを見回すミレイに、アエルはにっこりと微笑みかけた。

「見てのとおりよ。女の子たちみんな帰しちゃったから、片付けは二人でやらなくちゃね」

 アエルが肩に担いでいたデッキブラシを持ち上げて見せると、ミレイは失笑して立ち上がった。散乱した椅子や机を片付けはじめる。

傷が痛んだのか、一瞬だけ顔を歪めたが、深い傷ではないのだろう。動きに異常はなく、人手不足であるため、アエルはミレイを止めなかった。止めたとしても、ミレイが怪我のために掃除を放棄するとは思えなかったのだ。

ミレイが背を見せたとたん、アエルは真顔に戻った。ミレイにはおどけて周りを示しはしたが、その汚れ方は、アエルにとっては特別なものだった。

 ただの人間であるミレイは気づかない。だが、悪魔を呼び出し使役する、特別な紋章が店内のあちこちに描かれていたのだ。アエルは店の掃除にまで気を配らなくなっていた。店長としては、イベントの手配や会計帳簿の管理で忙しくなっていたためだ。

 普通の人間の目には、見えない汚れがある。悪魔が流した血や汗は、特別な視力を持った者しか見ることができない。

 目立たないように、普段はテーブルと椅子の陰で見えないような場所に、無数の文様が描かれている。何人もかかって描いたとは思えない。一人で描いたとすれば、何日もかかって描いたのだろう。アエルはお店のメイドたちを疑ってはいなかった。おそらく、頻繁に出入りする常連客に、悪魔崇拝者がいる。

 ――あの悪魔の目的は、私だった。私がたまたまいなかったから、騒ぎを起こすために……あるいは、悪魔自身の満足のために、人間たちを支配したんだわ。私を狙っているのなら……私だけを狙えばいいのに。

 ミレイ以外のメイドたちは帰ってしまった。すべてのメイドが立ち直ったとは限らない。深く傷ついた者もいるだろう。客と一緒に騒いでしまったメイドは、自分の視力では見ることもできない悪魔に支配されてしまっただけなのだ。

そのことを理解したとしても、慰めにはならないかもしれない。アエルはメイドたちの顔と名前はすべて把握していた。

 明日があるなら、できるかぎりの償いをしなければならない。

 ――明日があるのかしら……。

 ミレイが椅子と机を戻し、アエルがデッキブラシで掃除を続ける。

 外ではサイレンの音が響いていた。

 消防車が駆けつけたのだ。

 誤魔化すことはできるだろう。だが、すべてとは行くまい。メイドたちのみならず、先に帰した客たちも、この店で起こったことの記憶は残っているはずだ。

「ミレイちゃん、お疲れ様。ここはもういいわ。後は私にまかせて」

 アエルはポケットから自宅アパートの鍵を取り出した。ミレイは鍵を受け取り、その意味を考えていたのだろうか、しばらく動かなかった。

「店長、私も一緒に居ます」

 いい子だ。

「私一人で十分よ。そのための店長ですもの。責任は取らなくちゃ。怒られるのは、一人で十分」

「怒られるんですか?」

「ええ。たぶん、消防署とか、警察とか、本社とかにね。ミレイちゃん、ごめんね。お店、守れなかった。明日から、また別の職場を探してあげる。みんなには、落ち着いたら今日中に、私から連絡するわ。少なくとも、明日はお休みにする。ミレイちゃんも、先に帰って休んで。できれば、晩御飯までに帰るから」

 見つめ返すだけで、ミレイは何も言わなかった。渡された鍵を黙って握り締めただけだった。アエルには、ミレイの気持ちが理解できた。嬉しかった。何も言わないことが。何もいえないほど、アエルのことを心配してくれていることが。

アエルは無理に笑った。ミレイが口を開こうとした。声を発する前に、店の扉が蹴破られるかのように荒々しく開いた。

「大丈夫ですか?」

「ええ。すいませんでした。火は出ていないんです。ちょっと騒ぎが起きて、沈めるためにスプリンクラーを作動させたものですから」

 ホースを抱えた消防隊員は、安心と怒りがないまぜになった顔をした。メイド姿のアエルが深々と腰を折り、頭を下げると、顔を上げた時には消防隊員の表情も崩れていた。アエルはあること無いことをでっち上げながら、ミレイをこっそりと出口に追いやった。

 悪魔は追い払った。

 人間社会は、思いのほか手強かった。


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