To be, or not to be
『ghoul』と同じ町での話です。
ぴちゃぴちゃと歩く度に音がする。
原因は床一面に広がった赤い液体。
足の裏に纏わりついてくるそれを不快に思うが、それでも足を進める。
ぴちゃぴちゃという音が頭に響く。
それに呼応して心臓の鼓動も速くなる。
その先に何があるかなんてわかりきっているのに。
その先にあるものなんて見たくないのに。
体が勝手に動く。
先に進んでしまう。
手も、足も、震えている。
地面が揺れている気がする。
世界がぐるぐると回る。
手足の感覚がなくなっていく。
頭の芯が徐々に痺れていく。
いっそ意識を手放せればいいのに、手放せない。
体に止まれと命じても、止まらない。
まるで機械のようだ。
と、そこで何かに躓いて転んだ。
手が生温い液体に触れて赤く染まる。
服も少し汚れてしまったようだ。
何に躓いたのだろうかと、後ろを見る。
嗚呼、
目の前には×××××があった。
十二月に入ったせいか今日は一段と気温が低い。
まあ寒いとは思わないのだけれど。
白い息を吐きながら学校へと向かう。
まだ早朝だからか周りに人は全くいなかった。
もっともこの辺りは普段から人通りが少ない。
まるで世界に自分一人しかいないような感覚。
その一瞬の錯覚は、次の瞬間泡沫の如く消え去った。
「お早う」
聞き覚えのない声。
振り返ってみると、見覚えのある少年がいた。
同じ学校の制服を着ている。
「少し訊きたいことがあるんだけど……いいかな?」
「何かしら?」
彼の声に聞き覚えのない理由。
「昨日さ、」
彼の顔に見覚えのある理由。
それは、
「僕を殺したのは君だよね」
彼の声を聞く前に殺してしまったからだった。
「ええ、そうね」
「あれ、否定しないんだ」
「否定してほしかったの?」
彼が苦笑する。
「いや、拍子抜けしただけ」
「あらそう。そう言えば私も貴方に訊きたいことがあるのだけれど」
昨日確かに私は彼をこの手で刺した筈なのに
「どうして貴方は今生きているのかしら?」
話は歩きながらにしようと言われて、彼と並んで学校へ向かうことになった。
ちらりと空を見ると雲一つない快晴だった。
自己主張の激しい太陽が誰もいない道路を照らし出している。
「僕は少し変わった体質でね、……死んでも生き返ってしまう、みたいなんだ」
〝少し〟変わった程度なのだろう。異常が正常になってしまったこの町では。
「はっきりしない言い方ね」
「自分が本当に死んだのかなんてわからないじゃないか。ただ死んだと思われる状況で何故か生きている、それだけさ」
「怪我は残っていないようね」
昨日私は彼の喉を掻っ切ったというのに彼の首は傷一つないきれいなものだ。
「………生き返る体質、ね」
だから私は―――
「何か言った?」
「いいえ、何も」
相変わらず周りに人はいない。
死んだような世界に死んだような時間が流れていた。
「それで、貴方が私に声をかけてきたのは何故?」
「出会い頭にいきなり刺してくる女が気にならない人がいると思う?」
「殺されても生きていて尚且つ翌朝けろっとした様子で話しかけてくる人は稀なんじゃないかしら」
「その言い方だと僕が変わった奴みたいじゃないか」
「私はそう言っているのだけれど……あら、もう時間切れだわ」
もう私たちは校門の目の前まで来ていた。
「続きは…………そうね、昼休みに屋上でどうかしら」
「屋上は確か鍵が掛かっている筈だけど」
「今壊れているのよ」
「……僕は全くそれを知らなかったんだけど、どこで聞いたんだい?」
「風の噂よ」
あと階段を少し上れば靴箱だ。
「そういえば貴方って何年生?」
「君と同じ三年生だけど…………同学年の人くらい覚えておこうよ」
「私、他人の顔を覚えるのは苦手なの」
靴を履きかえて教室へと向かう。
三年は三階だ。
階段を上るのが億劫である。
「じゃあ昼休みに」
「ええ」
そう言って彼と別れる。
教室に入ると朝早くから学校で勉強している酔狂な人たちがいた。
まあ高校受験が迫っている中これを酔狂と思う私の方が酔狂なのだろう。
昨日の事ははっきりと覚えている。
覚えているが、現実味がない。
まるであの時だけ時間軸から切り離されたような、そんな感覚だ。
昨日私は学校から帰った後、何となく外に出た。
そして目的もなくただ歩いていたその時に偶然彼を見かけたのだ。
彼の事は一切知らなかった。
ただ、彼を見た瞬間にこう思ったのだ。
ああ、彼は×××××だ、と。
午前の授業が終わり、私は弁当を片手に教室を出た。
向かうのは勿論屋上。
鍵の壊れた扉を開けるともう彼が来ていた。
「早いのね」
「授業が早く終わったから来てみたんだよ。そしてここに人が来ないわけがよくわかった」
冒頭にも書いたが今は十二月。
「この季節に屋上は寒すぎるって。何で君上着も着ずに平気でいられるの?」
屋上は風が強いので寒さが更に増す。
「別に私は気にならないのだけれど」
私は適当に腰を下ろして持ってきた弁当を食べ始めた。
「で、結局私に朝話しかけてきたのは何故?」
彼も私の隣に座った。
「君が僕を殺した理由が聞きたかったんだ」
「理由………ね」
箸を少し止めて考える。
「殺したいと思ったから、かしら」
「……は?」
「殺したいと思ったから殺した、きっとそれ以上でもそれ以下でもないわ」
「いわゆる通り魔的な?」
「そうかもしれないわね。あの時あの場所で貴方と出会った。きっとその内どれか一つでもずれていれば私はあんなことしなかったでしょう」
嘘ではなかった。
嘘ではなかったのだが、本当の理由は話していなかった。
「じゃあ別に僕に対して何か思うところがあったわけではないんだよね?」
「そうね。というより貴方こそ私に思うところがあるんじゃないの?だって貴方一度私に殺されたのよ?」
「……僕は死ぬのも怪我するのもあんまり抵抗ないんだよね。死んでも生き返るから変わりない。怪我しても一回死ねば治るって思っちゃう。痛いのは慣れてるしね。……この体質になってから怪我する回数も死ぬ回数も増えたよ。だから今回の事を特別どうこう思えないんだ」
「そう」
痛いと思える彼が、
ほんの少し羨ましい。
「それで、聞きたいことは終わりかしら?」
弁当はいつの間にか空になっていた。
腕時計を見るとまだ昼休みは時間がある。
「終わったのなら私は教室に戻るけれど」
台詞を言い終わらない内に彼が慌てるように言った。
「ちょっと待って!あと一つ言いたい事があるから!」
「何?」
やはり文句を言われるのだろうか。
そんな予想の斜め上を行く返事がきた。
「僕と付き合ってほしい」
「……………………………………………………は?」
聞き間違いかと思った。
「何を言っているの?」
というより思いたかった。
「何って……………告白?」
さらりと言われた。
「冗談じゃなくて?」
「本気だけど」
「貴方馬鹿じゃないの?自分を殺した相手に告白するなんて」
「だからさっき確認したんじゃないか。僕の事が憎いとか嫌いとか言われたらあきらめるつもりだったけど違うみたいで安心したよ。まあ僕、昨日の事は死んでないから気にしてないし」
気にしていないのはお互いさまだったので何も言えなかった。
「返事は別に今じゃなくていいよ。僕は言えただけでも満足だし。それじゃ」
彼が立ち去ろうとする。
私は、どうするべきなのだろう?
「明日」
口をついて出たのはそんな言葉だった。
「ん?」
彼が扉の前で立ち止まり、こちらを振り返った。
「明日は土曜日でしょう?昨日のお詫びに明日一度だけ貴方とデートをするわ」
彼に背を向けてそう言った。
私は今どんな表情をしているのだろう。
自分ではわからなかった。
「それは嬉しいんだけど……えっと一回だけってその後はないですよっていう事?」
「後の事は明日が終わってから決めるわ」
彼は一気に嬉しそうな表情を浮かべた。
そして私たちは明日の待ち合わせについて話してから別れた。
結局昼休みは殆ど時間が余らなかった。
魔法でも超能力でも呼び方はどうでもいい。
この町にはそういった異常な力を持つ人が少なからず存在する。
それはこの町の人なら誰もが知っている噂だった。
何故か噂以上のレベルにはならないそれが事実であるということを私は知っていた。
きっと彼の不死だってその「力」の一つなのだろう。
それが噂になるようになったのはこの町の人口が減りだした頃らしい。
もっともその時まだ私は生まれていないので本当かどうかはわからないが。
わかるのは、この町では異常が正常になってしまっているのだということ。
そして自分がそれに慣れてしまったのだということだった。
学校が終わってから家に帰る。
私はマンションで独り暮らしをしている。
両親が亡くなったときに嫌そうに私を引き取った叔父が中学入学と同時にこの部屋を私に押し付け、家から追い出したのだった。
別に私も叔父が嫌いだったのでこれは双方合意の上での事なのだが。
お金は毎月振り込んでくれるので生活に困ることはない。
叔父は子供が嫌いなだけで、最低限の養育義務は果たしてくれているのだ。
部屋は一階にある。
これは叔父が決して譲らなかった点だ。
まああの頃私がしていたことを考えると当たり前の事ではある。
鍵を開け、部屋に入る。
鞄を置き、着替えをしながら私は明日の事を考えた。
私は楽しみにしているのだろうか。
自分でもわからない。
わかっているのは明日私が×××××する事だけだった。
「君ってジャストの時間に来るタイプの人間だったんだね」
翌日待ち合わせ場所に着いた私に彼は開口一番そう言った。
「そう言う貴方は何時来たのかしら。五分前?」
「いや、二時間前」
「………何故そんな早くに?」
「待ちきれなくて来ちゃった」
「その台詞、男が言うと気持ち悪いだけね」
「結構酷いな。……そう言えば君、今日はデートだって自分で言ったよね?」
「ええ」
「なのに何で君は制服姿なんだ?」
「これが私の一張羅だもの」
「…………嘘だろう?」
「ええ、嘘よ」
因みに言うまでもないことだが彼は私服だった。
「まあ別に格好なんてどうでもいいじゃない。それより行きましょうよ。私今日は早く帰って惰眠を貪りたいわ」
「それは決してデートの相手に向かって言う台詞じゃないだろう……って行くってどこへ?」
「あら、言ってなかったかしら」
「僕今日のコースとか聞いてないよ。僕は誘ってもらった立場だから君の行きたいところでいいけれども。…………で、結局どこなの?」
「それは着いてからのお楽しみということで」
「とても不安になるんだけど……………」
そんなわけで「デート」は始まった。
「一つ訊いてもいいかい?」
目的地に着いてすぐ彼は言った。
「ええ」
「僕の目が間違っていなければこれは工場のように見えるんだけど」
「そうね」
「しかもボロボロで扉も窓も壊れてて誰も使っていないような工場なんだけど」
「そうね」
「…………何でこんなところに?」
「だって今日は廃墟巡りの予定なんだもの」
彼はとうとう耐えかねたかのように叫んだ。
「何でよりにもよってそんなチョイスなんだよ!」
「私の行きたい所でいいって言ったじゃない。私、廃墟巡りが趣味なのよ」
本当は少し違うのだけれど。
「それは変わった趣味だねとしか言いようがないんだけど」
「そうかしら」
「大体ここ、勝手に入ってもいいの?」
「今まで文句を言われたことは一度もないわ」
というよりまずこういう所で他の人に会ったこともない。
「因みにここの次はもうちょっと西の方にある廃ビルに行く予定よ」
「それを聞かされて僕はどうしたらいいんだよ…………」
「楽しみになるかと思って」
「僕に廃ビルに興奮する趣味はない」
あ、でも、と彼は言葉を続けた。
「君とこうして普通に喋れるのは嬉しいかも」
「私は特に嬉しくないわ」
「それは思ってても口に出しちゃいけない台詞だよ……」
彼は呆れたように溜息をついた。
「君って高い所が好きなの?」
「好きか嫌いかと言われれば好きよ」
結局彼は私に文句を言いながらも一緒に回っていた。
ここは廃ビルの屋上。
電気は通っていないので階段で上がってきた。
「しかし学校もだったけどここも寒いな…………」
「そうかしら」
私は落下防止用のフェンス越しに下を見る。
人がゴミのようだとまでは言わないが結構高さがある。
このビルの付近は元々人気がない。
それでも万が一の可能性があったので一応確認する。
………下に人はいない。
私は何気ない風を装ってフェンスの傍に立った。
「ねえ、少し来てくれるかしら」
「何?」
彼は不審がることなくこちらに近付いてくる。
私はその体に抱き付き、自分の方へ引き寄せた。
そしてフェンスにもたれかかりながら耳元で囁く。
「私、貴方に言いたい事があるの」
フェンスは私の体を支えず、空中へと投げ出した。
――――このフェンスは壊れており、もたれかかる位置によっては体が壊れている部分をすり抜けてしまう。
ここには何回か来たことのある私はそれを知っていた。
一瞬の浮遊感。
全てから解放されたような錯覚。
しかしすぐに体は重力に引っ張られて下へと落ちていく。
彼の表情は見えなかったが多分驚いているのだろうなと思う。
悪いことをしたなと少し思わないでもないが、死ぬのは気にしていないと昨日言っていたから構わないだろう。
地面はすぐに近付いてくる。
風の音でうるさいが、それでも最後に一言彼に言いたかった。
「こんな茶番に付き合わせて御免なさい」
彼が返事をする前に私たちは地面と衝突した。
痛みは、なかった。
――――嗚呼、また死ねなかった。
私は地面と衝突したその一瞬後にはもう意識を取り戻していた。
また死ねなかった、その思いは五年前から何回目なのだろう。
彼と抱き合ったままの体勢だったので手を離し、立ち上がる。
どこも破れていない制服には大量に土が付着していたので一応払っておく。
汚れることがわかっていたので今日は制服で来たのだ。どうせあと数か月しか着ない服なのだからせいぜい有効活用しなければ。
程なくして彼も目覚めた。
ぼんやりとした目がこちらを認識し、それで漸く直前の出来事を思い出したようだった。
「そうか。君も不死だったんだね」
彼は立ち上がりながらそう言った。
驚いた様子はなかった。
「何となくそんな気はしていたよ」
私は彼を初めて見たときこう思った。
この人は私と同じだ、と。
生きているという事はいずれ死ぬという事だ。
つまり死なないという事は生きていないという事になる。
生死という概念から外れてしまった存在。
それが不死だった。
外れてしまった者は自分と同じ存在に敏感だ。
何となく、そう、本当に何となくとしか言いようのない感覚なのだが、そうだとわかってしまう。
きっと彼も私と同じように感じていたのだろう。
「君はそれを伝えるためにこんな回りくどい事をしたのかい?」
「いいえ。私は、」
五年前からずっと、
「死にたかったの」
生を奪われてしまったあの時からずっと。
「………聞いてほしい話があるの。いいかしら?」
彼は返事をしなかった。
ただ表情で先を促した。
「五年前の冬にね、親戚の法事があったの。とても寒い日だったわ」
私が寒さを感じたのはその日が最後だ。
「私は両親と家族三人で出席したわ。でも子供にとって法事って退屈でしょう?つい抜け出してしまったの。それでも叱られるのを覚悟で戻ってみたら、それどころじゃなかったわ」
今でもあの光景は夢に見る。
「玄関を入ったら赤い液体が一面に広がっていたの。後から思えばそれは血だったのだけれど。――――いえ、きっとそれが何なのかなんてわかっていたんだわ。わかっていてわからないフリをしたのよ。その辺りに転がっていた、もう誰なのか区別のつかないほど滅多切りにされた死体だって見なかったフリをした。――――何が起こっているのかさっぱりわからなかったわ。後から聞いた話では精神異常者が刃物をもって家に入ってきたらしいの。集まっていた親戚はそこそこの人数がいた筈なのに両親も含めて全員殺されてしまったわ。かなり抵抗した跡はあったらしいのだけれど」
目を瞑ると浮かぶのは赤い風景。
あの時は何が何だかわからずにとりあえず奥へ進んだ。
その途中で見たものは全て見なかった振りをして。
でも私が躓いて転んでしまったあの時。
振り返って、そこにあった首から上しかない父親と目が合って。
私はとうとう自分を誤魔化せなくなった。
そこからは記憶が途切れている。
「私はその後母方の叔父に引き取られたの。だけど自分一人が生き残ったのが嫌で自殺しようとしたわ」
その時の私が取った手段も飛び降りだった。
叔父は高級マンションの最上階に住んでいた。
私はそこから叔父の目の前で飛び降りたのだ。
「だけど死ななかった。今と同じように、死ねなかったの。その時にやっと気づいたわ。私はあの日を境に変わってしまったんだって。死なないだけじゃないの。痛みも感じなくなった。さっき貴方は寒いと言ったけれど、私は寒さを感じられない。私は生きるという事を奪われたのよ。今の私は生きてもいない死ぬこともできない、さしずめ幽霊だわ」
叔父は当然飛び降りても死ななかった私を見て驚いた。
しかし、この町は異能者のいる町。
叔父も噂程度に聞いたことがあるらしく、納得するのが早かった。
叔父はそれからも私の事をそれまでと変わりなく扱った。
つまり嫌っていた。
私は叔父の事など気にせずに死ぬ方法を探した。
何回自殺しただろう。
リストカットに入水自殺、睡眠薬もガスも試した。
全て無駄に終わったが。
「君は今も死にたいのかい?」
「ええ」
「それは意地になっているだけじゃなくて?」
「確かにもう私は一人ぼっちが嫌だとは思っていないわ。でも私はね、生きていたいの。五年前のあの日までの私に戻りたいの。その為には死ぬしかないじゃない。だって本当は私、五年前に死んでいるのだもの」
私はいつの間にか泣いていた。
泣くのは久しぶりだった。
まだ泣くことのできる自分に驚いた。
ぽん、と頭の上に手が置かれた。
彼はそのまま私の髪をくしゃっとしてからこう言った。
「君は馬鹿だね」
その口調に嘲るような調子はどこにもなかった。
「生きていないからって存在しちゃいけないわけじゃないのに」
私は飛び降りる前と同じように彼の体に抱き付いた。
そして泣き止むまで顔をうずめていた。
誰かに縋り付いていたい気分だった。
「前言撤回するわ。やっぱり私、貴方に自分の事を伝えたかったみたい」
結局落ち着くまでには数分かかった。
「他人に昔の事を話したのなんて初めてだわ。……自分と同じ存在っていうのに安心してしまったのかしら」
彼は私の髪を梳きながら柔らかい口調で言う。
「君が今まで溜め込みすぎていたんだよ。一人でそんなに抱えきれるわけがないだろうに」
その彼の手つきと体の温もりが心地よくて、私は彼にもたれかかっていた。
こんな風に他人に触られる事なんて久しく無かった。
きっと五年ぶりなのだろう。
その心地よさに身を委ねて私はしばらくぼんやりしていた。
「まだ死にたい?」
不意に彼がそう訊いてきた。
「わからないわ」
さっき流した涙と一緒に何か自分の芯みたいなものも流れてしまったようで、今自分は何をしたいのかと考えてもぼんやりとその思考はまとまらないままだった。
「わからないの」
もう一度繰り返してそう言った。
「死にたいのかと訊かれてそうだとは答えられないわ。でも、死にたくないのかと訊かれてもそうだとは言えないの」
死にたかったのはある面では意地だったのかもしれない。
でも、自分が世界の外側にいるような居心地の悪さもあったのだ。
死にたいという気持ちが流れてしまっても、死にたくないという気持ちが代わりに入ってくるわけではない。
後に残ったのは虚ろな自分の心だけだった。
「だからね、私に死にたくないって思わせてほしいわ。貴方がそんな感情を私に抱かせてみせてよ」
彼は少し驚いたようにその手を止めた。
でも間が空いたのはほんの数瞬。
「いいよ」
くすりと笑った、気がした。
「結局さ、僕の告白ってOKされたんだよね?」
「え?…………ああ、そういえばそんな話があったわね」
「そんな話扱いは酷いと思うんだけど……」
「そうね……まあいいわよ。付き合っても」
「そんなに軽く了承されると逆に不安だよ……」
「じゃあその代わりに条件でも付けましょうか」
「どんな?」
「さっきの約束に期限を付けるの。私が死ねる方法を見つけるまで、でどうかしら」
「……それは破った場合どうなるんだい?」
「私と一緒に死んでほしいわ」
「そう言われる気はしてた」
「死ぬときには貴方と一緒に死にたいわ」
「それ、この場面じゃなければいい台詞になりそうなのに……ま、いいよ。要は僕が期限を守ればいいだけの話だろう?」
「そうね。…………指切りでもする?」
「君の口からそんな言葉が出るのが意外なんだけど……ってちょっと待って。何で君はナイフを取り出しているの?何に使うのか、いやそもそも何でそんなものを携帯しているのか聞きたいんだけど」
「一応護身用よ」
「一応ってつけてる時点でそれ違うよね?」
「まあリストカットに使う事も多いけれど」
「予想通りの回答をありがとう。で、結局それ何に使うの?」
「指切り、するんでしょう?」
「なんでリアルに指切るんだよ!今は現代なんだけど!」
「右の小指が適当かしら」
「勝手に話を進めないで!」
「ああ、左が良かった?」
「そういう問題じゃないからね?そもそも指を切りたくないから!」
「あら、そう」
「何で残念そうなんだよ……あ、そうだ。僕も君に約束してほしい事があるんだけど」
「何かしら?」
「絶対一人で死なないでね。あと自殺行為は控えるように」
「後半は保証できないわ」
「じゃあ前半だけでいいから」
「それならいいわ」
「約束する。二人で一緒に死ぬって」
「じゃあ僕は断言するよ。君は死なない。死なせない」
そう言ってどちらともなく小指を絡ませた。
こうして中三の十二月、私達は付き合うことになったのだった。






