其のに
「ロマンだ!」
真鳥隆也の眼が輝く。「続きは?」
「それで終わり。不思議だろ?」
君島楓は後ずさって眉を寄せた。「隆也。近い。離れろ」
「夢は夢。先行くぞ」
真栄田幸雄の右手がひらひらと揺れる。「そんな話したら、隆也が喜ぶの知ってるだろ? 楓?」
「だからしてくれたんだろ? 楓は! 幸雄にはわからんかも知れんが、ロマンだよ。ロマン! 男同士ならわかるだろ?」
鼻で笑った幸雄の背中を隆也が追いかけていく。高校から家までの帰宅路。商店街で別れるのが三人の決め事だった。
『きつつき商店街。ひだり』
錆びれた看板を左折する二人の背中を追う楓。
幸雄と隆也が並ぶ姿を見るのが、楓は好きだった。
日本人らしい、平均さ、普通さの域を下回る隆也。それをあざ笑う幸雄。二人で歩いていると兄弟に間違わられる事が多い。昨日は確か、商店街を歩いているだけでコロッケを貰ったと言っていた。童顔は便利だ。楓にそんな経験は一度もない。
「楓。置いてくぞ?」
「早く来いよ。楓がいないと弟になっちまう」
「揚げ物好きだろ?」
「食い飽きたわ!」
二人の間に楓が入ると、仲良し三人組に見えるらしい。不良と優等生と一般人。アンバランスなバランスだと、楓のクラスメートは笑っていた。
「はいはい。わかったっ」
視界が揺れる。立っている事ができない。大きくなっていく地響き。両膝を付き、四つん這いになった楓は、終わるのを待った。
地震を馬鹿にしてた。あ、家は凄いことになってるな。
楓が初体験に思考を遊ばせている間、音が小さくなっている。ふと思い出し、先を歩いていた友人たちの顔を探そうとした。
浮遊感。
コンクリートに付いていた手足がなくなる感覚。違う。地面が、ない? 俯いた楓には身体以外が見当たらない。視界にあったはずの欠片が何ひとつない。闇に襲われている錯覚に陥ってしまう。
思考がまとまらない。
理解が追いつかない。
理由が思いつかない。
予想が立てられない。
これは、終わるのか? いや、終わったのか?
落下感。
浮いて、落ちる。つか、やばいよな? 自身の姿勢を思い出して身体を丸める。背中から落ちる? 頭が重たいんだよな。やっぱ、背中から落ちて受身とるか。つか、地面あんの?
両膝を抱え、頭を膝にくっつける。
くるくると廻る。
瞼を閉じた楓は友人たちの顔を思い出す。あいつらはどうなった? 俺はどうなる? 生きてんのか死んでるのか。神か悪魔が出てくるか。はてさて、俺はどうなるんだ。
くるくるくるくるくるくるくる。
高校二年。中二病は卒業したけど、そういう展開だよな。つか、そうであって欲しいな。それなら安全だ。きっと。
くるくるくるくるくるくるくるくるくるくる。
ああ、気持ち悪。あれだ。三半規管だ。ああ、気持ちわりい。
くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる。
やべえ。やべえ。
くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる。
あ、ああ。ああ。ああああああああああああああああああああああああ。
くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるく。
衝撃。
いてえ、いてえ。終わった? つか、いてえ。マジでいてえ。
背中を伸ばして首を振る。地面が暗い。立ち上がった楓が地を蹴ると砂が舞った。
なんだ? 固いから地面だろうけど、砂? 黒い砂か。手を払い、姿勢を正す。視界がくらい。目印になりそうなもの、予測が立てられそうな物を探す。
木。
草。
岩。
あ? 地下、じゃない? マジで中二病? 別次元か、別世界。中二だとセオリーだな。つか、くれえ。
陰鬱。
こりゃ、やばいな。んだ、太陽は?
見上げた先は雲で月が隠れている。
雲? 月? おいおい。
風が頬を撫でる。
おいおいおいおい。マジか。
草木が揺れる音が耳に入っている。
マジか。マジだ。決定だ。地下が別世界、は、ナンセンス。取り敢えず、地下に月はねえ。何より、三つもねえって。
異世界。
「はは。決定だ。異世界決定。おおう。マジやばい」
その場で腰を下ろし、右手を顎に添える。「セオリーだ。セオリーを思い出せ。必須は水と食料。それ以外は」
遠吠え。耳を掠めるほどの小さな音を拾い上げる。静かに立ち上がり、視線を巡らせる。
「だな。モンスター。化物。こいつもセオリー。逃げ場所。隠れるとこは」
ない。
狼の群れとはいえない。たった三匹のケモノが、おぼろげに見える。それは楓にとっての驚異でしかない。
ポケットに手を入れる。買ったばかりの携帯。財布。それ以外に持ち物は――ない、持ち物が何もない。
「な、んで?」
息を飲みながらも懸命に思考を再開する。
どこに落とした? 落とした? 落ちた? あ? 俺は、俺は落ちた。だな。俺は回転して“落ちてきた”んだよ。武器は? 盾になるような物は? どこかに、何か落ちてないか? あるはずだ。俺は落ちてきたんだから。
周囲を舐めるように探す。
石。
砂。
血。
枝。
葉。
歯。
光。
なんだ? 光ってる? でも、ダメだ。あんな小さい欠片じゃ、身を守れない。他は?
折れた剣。柄がない。持ったら血だらけだ。他は?
篭手。
よし、これは拾う。素早く動き、篭手を身につける。他!
槍。
短いな。持つところが折れてるよ。まあ、マシなほうか。短槍って、あったよな? セオリーに。右手に持ち、軽く振るう。
「はは。力強い。他!」
折れた剣。柄がある。これは貰い。左手に持ち、掲げてみる。ないよりいいか。
音が近い。腰を落として視線を合わせる。一匹が先行。残り二匹が続いている。短槍を握り締めて向ける。剣で守るように構える。素人らしく見えるか? 餌に見えてんのか? こちとら遊びじゃない。
左手は釵の動き。
右手は棒術の動き。
楓の思考の中に現れる人物は、呆れたように笑っている。
あれだけ馬鹿にされていた古武術も役に立ったぞ。おっさん。あんたの口上、真似るわ。
「琉球古武術が派生。金城流。金城護が弟子。君島楓。参る」
踏み出す。
先手をとる。
楓の思考が一色に染まる。
生死を忘れ、理由を忘れ、時間を忘れて勇気を振るう為に疾駆する。
ケモノが飛び出す。
一閃。
袈裟斬りに入った身体を流す。もう一発!
回閃。
短槍から剣へ。どちらもケモノの顔を狙った。
可愛らしい声を出してケモノが後ずさっている。短槍が掠っただけだ。怪我ひとつさせていない。
残り二匹が威嚇する音を出す。中心に寄っていた視界が広がっていく。
あ? 大きさが違う?
知らず間に混乱していた楓。思考の歯車が、現実を捉える事に成功した。
先に来たのが小さいな。子供か? 狩りの練習といったところか? つか、でけえよ。お前ら。ゴールデンリトリバーより、でけえ。隆也ぐらいか。て事は、一五〇センチぐらいか。いやあ。まじい。
額に流れている汗。自分の息遣いを感じる程の静寂に異を唱える唸り声。くすんだ白毛を持つケモノは日本狼に近い様相であるが、その牙と爪の鋭さは想像に難くなかった。
同時は無理! 何とかしなきゃなあ。ここがスタート。異世界だ。怪我ひとつしても、死ぬ危険がある。いくらなんでも、難易度が高いって。セオリーなら一匹だろうが!
短槍を振り下ろす。
生きる! 生き延びてやる!
短槍を振り上げる。
絶対だ! 俺は生きる!
剣を突く。
死んでたまるか!
短槍を突く。
日本人なめんな!
突進を剣で受け止める。
「俺を! なめんな!」
短槍で払う。
どれくらいそうしていたのか、楓にはわからない。
楓の意思か、抵抗が通じたのか、三匹とも微動だにしなくなった。
睨み合う。
中腰に構える楓を囲んでいたケモノが、遠吠えをあげた。来るか? 足に力を入れる。腕が震えるのを抑える。眼を逸らさない楓に背を向けたケモノたち。小さいのが一度だけ振り向いたが、徐々に離れていった。
「行っ、た」
腰が抜け落ちていく。ケモノは見えない。両手から滑り落ちる武器。「はは。止まんねえ。泣けてくる」
身体が震える。両膝を抱えるように座り、身体を小さくしながら眼を閉じる。
怖い。
怖いな。
死ぬかと思った。
死に目にあった。
生きてる。
まだ俺は生きている。
手に力を入れる。見上げた月が輝いていた。
激震。
「なん、だと?」
四肢に力を入れる為に四つん這いになる。「冗談、じゃ、ねえ、ぞ」
つい先ほど感じた揺れよりも大きい事実に、楓の不安が大きくなる。何重にも見える大地を頭の端に追いやり、楓は自身の無事だけを願う。
揺れは増していく。
もう手足に力が入っているかもわからず、周囲を見る余裕など手放していたが、ついには思考さえ放棄した。
落ちる。
揺れなくなった事に気づいたらコレだ。
二度ある事は三度あるというが、一日に二回も揺れて落ちるとは思わなかった楓は開き直った。
もう、あれだ。もう一回落ちんじゃねえ?
立て続けに同じ経験をした楓が縦回転を始める。
また暗いし、背中から落ちるのか。いてえよな。まあ、次も無事だと嬉しいが……次はどこだ?
くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる。
どれくらい回り続けただろうか。先ほどよりも長すぎる落下感に、楓の思考に余裕が生まれた。
あの大地には月が三つもあった。朱い月。碧い月。白い月。あきらかに地球じゃないし、あいつらは無事なのだろうか。あのケモノたちは、この揺れを察知して逃げたのだろうか。俺は一体どうなるのか。考えても仕方ないだろうけど、不安だけが募るなあ。
鈍痛。
「いてえ」
背中をさすりながら起き上がってみる。「どこだよ」
楓の視界は薄暗い。見上げた先には天井があった為、楓は首を傾げてしまう。つま先で地面を蹴ってみたが、固すぎたせいで足を痛めてしまった。思わず顰め面になる。しばらく茫然と立っていたお陰で、暗さに慣れてきた。
「部屋? 牢獄みたいだな。あ? 何か落ちてる?」
石造りの壁や地面。ぼんやりと見えた先では、柵のようなものがある。「それにしても広いな。んで、何が落ちてるかな?」
首の骨を鳴らしながら、何かに近づいていく。
「槍? 戟ってやつか?」
拾い上げて顔を近づける。
持ち手の部分は一〇〇センチ程で金色に輝いている。刃は四〇センチ。石突は三〇センチ。「ぐらいか。立派なもんだ。何で落ちてるのか、さっぱりわからんが」
刃の部分は、大きめの刃を囲むように小さい刃が四つあった。薙ぎ払う事よりも突く事に向いているように見える得物を、片手で振ってみる。重心を落とし、幾重かの軌道をなぞった。
刃が止まり、両手で握り締める。
突き。
幾度か繰り返した後、額に流れた汗を感じた所で深呼吸をする。
「頼りになりそうだ……俺はどこに行くんだよ」
軽く運動した所で、両手で顔を叩いた。「いてえ。やりすぎた」
思ったよりも痛かったが、気合を入れる事には成功した。
まずは柵の向こうだ。さっきは自然。次は建造物。今度は友好的な出会いをしたいもんだ。
落ちて来たはずの天井には穴がない。小さい光が柵の方角に見える。光に近づいているが、この広さに呆れてしまった。
昨日は球技大会だったから、体育館を走り回っていた。楓が出た種目はバスケットだ。そのフルコートよりも長すぎる直線に、嫌気がさしてしまう。暇をつぶすように、戟を振るっては気を紛らせていたが、格子状の柵に着いただけで安堵してしまう。
「さてさて、鬼が出るか蛇がでるか――行ってみようか!」
2013/03/03 一部編集。