雪女
「綺麗だ」
荒れ狂う吹雪の中に倒れ込み、露命の身にあった貴方が零した露のようにか細い言葉を、今でもはっきり覚えています。
前日の朝方に狼煙が見えました。土汚れの目立つ甲冑の重みにも耐えられず雪の上に潰れるように倒れていた貴方はきっと戦に敗れた落ち武者だったのでしょう。
「こんな故郷より遠く離れた雪山が最後だと思うと、言葉にできぬ悔しさと怒りに全身を蝕まれていた。死ねば蛆に蝕まれるというのに、死の間際はやるせなさに蝕まれる。そんな我が身を不幸と思っていたが、君のような綺麗な人に看取られて・・・私はずいぶんと幸せ者のようだ」
そうして貴方は震える腕を上げて、私の頬に触れましたね。血と土と赤黒く汚れたその手は、私が初めて触れた人の温もりでした。指の付け根にできた剣たこの堅さ、そして私の頬に熱を探す貴方の指先の感覚。私は何を思ったのか、貴方のその手にそっと両手を添えました。正体を悟られないように、そっと袖中に手を入れ、布越しにそっと握りました。
「ああ、優しい人よ」
貴方は嬉しそうに笑みを零して、目を閉じました。
今まで貴方のような行き倒れを見つけたら、山男に知らせて麓に担いでもらっていました。でも貴方は今すぐにでも手当をしないと死んでしまいそうな落ち武者。私はまたまた何を思ったのか。甲冑を脱がせ、貴方を担いで館にあげました。男の人の結ぶ紐のまあ堅いこと。甲冑大袖の重いこと、貴方の息が切れる前に、私は無我夢中で甲冑を脱がせ、邪魔な表着を脱ぎ捨て貴方を背負いました。
貴方に潰されそうになったり、初めて雪に足を取られながら、やっとの思いで奥座敷に連れて行った私は、吹雪に山姥への伝言を託し、腰をさすりながらやってきた山姥の手を借りて、貴方の手当をしました。
「あと少し耐えればいいものを、お前はなぜこうも余計なことをする。身を滅ぼす所業ぞ」
山姥にそう言われました。あと少し。つい数刻前にも聞いたその言葉におとなしく頷いていた私はいつのまにか吹雪に連れ去られたようで、山姥の言葉を無視して必死に貴方の頬に滲む汗を拭っていました。
あなたの息が落ち着いて、顔から苦悶が取り払われて、山姥が「もう大丈夫だ」といったときの嬉しさと脱力。思わず吐いた安堵のため息で、部屋がまた冷えてしまったときの山姥のあきれ顔。真綿で首を絞められているような緊張も、張り詰めた糸が切れたような安堵も、山姥のあのあきれ顔も、初めてのことばかり。私は被け物として縫箔の小袖を山姥に与えました。
それからは、蔵の隅に追いやっていた火鉢を引きずりだし、できる限り火鉢からのけぞりながら火をつけて、杉戸で仕切られた隣の部屋に逃げました。
杉の一枚板で創られたその引き戸には、嫌みな絵が描いてあります。苔むした地面から伸びた茎の先に、厚ぼったい花弁が零れんばかりに幾重にも広がる白い花が咲いています。新緑の剣に包まれた甘美な珠玉は蕾でしょう。その蕾に包み隠されていた雄蕊や雌蕊はまるで砂金のようです。その豊満な花は芍薬と呼ぶらしく、そして見上げると見える枝木に仲睦まじく集う五片の白花が山桜。双方ともに、春に咲く花。山姥も山男も、本物はこの杉戸の絵が比にならないほど美しく、陽光を孕む白花だと聞きました。
意地悪な餓鬼たちが本物の美しさを耳元で囁きます。
「芍薬の花びらは血脈を感じる温もりに満ちた女人の肌色」
「山桜の樹皮も女人の黒髪のように美しい」
「人々に愛される春の花」
三匹の餓鬼は各々にそう言うと、顔を合わせて笑います。
「お前は身も外も人型の氷塊!白い肌は血の通わぬ青白い雪の色」
「お前の髪は光に青く輝く不気味な氷柱」
「人々に嫌われる冬の花」
目の奥からこみ上げてくるものを戻すように見上げると、春の花が私を見下ろしていました。皆がその春の美しさを讃えます。私はいつも以上に春を拝めぬ我が身を恨みました。所詮氷塊にすぎないわが身をこれ以上憎んだ日は無かったでしょう。
「大丈夫か」
頬に触れる堅い板張りの床に叩かれるように起こされると共に聞こえた、男性の声。
顔をあげると、開いた杉戸から朝日が差し込み、ずいぶんと血色のよくなった貴方の目が私を見つめていました。
ただ静かに輝く白銀の刃先のような凛とした目は武士の刀のように鋭い形だけれど、かぶさるように長いまつ毛が精悍な形の眼に確かな情の厚さを感じさせます。そんなあなたの目に浮かぶ暗い瞳は、あの時より幾分か澄んだように見え、世を儚み、冥府に着々と生気を吸われたようにくすんでいた貴方の瞳は透明度が増し、心の強さがうかがえるようなくっきりとした一点の光が浮かんでいました。
向こうの部屋を見ると、火鉢の火はとっくの前に消えている。それなのに妙に手先が溶けてしまいそうな熱を感じて、なにかと右手を見ると貴方は私の手を包むように両手で握っておられました。
私は慌てて袖の中に右手をひっこめて、袂に顔を隠しました。
「そなたが私を助けてくれたのか?」
私は声が出せず、ただ顔を隠したまま静かにうなずきました。
「そうか…」
質実剛健の武士らしい深い声が部屋に響きました。けれど鎧を脱いで安らいだあなたの声の優しいこと。まるで耳を絹で撫でられたような心地で、初めて聞いた男の人の声に耳が少しこそばゆくて…けれどどこかでうっとりしている自分もいました。
「貴女様は命の恩人。拙者のようなものを助けていただき、かたじけない」
そう言ってあなたは、板間に両手をついて深々と頭を下げました、
私はただ一言、「滅相もない」あの時の自分には、なぜ貴方を助けたのかも言葉で説明できなかったゆえ、「きまぐれ」と片付けました。
「たとえ気まぐれでも、貴女様に救われたことに変わりありませぬ。残りの命、貴女様捧げとうございます」
ただ袂で顔を隠したまま動けなかった私に、貴方は名前を尋ねました。俗称のような名はあれど、私一人を指す名はありません。そんな私に、あなたは「深雪の方」と名付けてくださいました。人里離れた山奥に、深く積もった雪に囲まれた邸宅に住む女。きっとふと思いついた何の意味のない尊称。けれど私は、その深雪という響きの美しさがうれしくて、その瞬間から私の胸のあたりが熱を帯び始めました。
「あなたのお名前は」
私がそう聞くと、貴方は意趣返しのように自分の名前を言ってくれません。
「今までの人生は捨ててしまいたい。もし私の呼び名が無いと不便でしたら、あなた様に新たな名前を賜りとうございます」
そうして貴方は私をまっすぐと見つめました。その目の凜々しさはまるで鷲の目のよう。だから雪の日に出会った鷲の目のようなお人ということで鷲雪しゅうせつと名を付けました。
日は昇り、鶏の代わりに貴方のお腹が鳴りました。私は朝餉の用意をすると言い残し、逃げるように部屋を出ました。貴方の眼差しを見ていると、訳も変わらず胸の奥が熱くなって、今にも溶けてしまいそうだったからです。
自分が寝間着のような白綾の小袖姿だということに気づいて、さらに頬が熱を帯びます。けれどそれより先に鷲雪様の朝餉とを用意しないとと思い出し、私はちょうど裏庭を歩いていた猫又の娘に朝餉の用意を頼みました。精のつくような、けれど体に優しい何かを。私は裏庭に流れる川の漁業権の譲渡を約束すると、彼女は「はい喜んで!」と早足で駆けていきました。
朝餉の手配が済んで、私は急いで自室に駆け込みました。葛籠を開けて、小袖を広げては派手すぎる、似合わない、これじゃないとひっくり返す。
刺繍の絹糸は撚らない平糸で刺しており、豊満な艶は思わずうっとり頭をかしげたくなる。けれどその刺繍の光沢はわたしとは正反対で、まぶしすぎる。
何枚もああでもないこうでもないと投げ捨てて、散らかりに散らかったあの部屋は貴方に見せられません。派手に着込んで遊里の妓女のようと思われるのは嫌。結局行き着いたのは、紺鼠に共濃の平糸で露芝を縫い表した小袖に、裾から上に駆けて紺鼠白銅のような青みを帯びた淡い灰色になる裾濃に銀色の霰(現代の市松)の摺箔を施した小袖を重ね、白綾の細帯を締め、霧に包まれた松林を墨で描いた描絵小袖を打掛として纏い、貴方のお目汚しにならぬような武家婦人のような装束を身に纏いました。若向きの赤は一色もなく、花もないわびしい形で、もっと良い服が合っただろうにと我ながら思います。でも私には、花というものを身に纏う気にはなれませんでした。
髪を梳き、組紐で下げ髪にまとめると、黒漆の白粉入れを手に取ります。漆器の中には雪。雪の白を顔に塗ると、寝不足の見るに堪えないうつろ顔もすこしは肌色がよく見えるのです。けれどその日は肌に乗せるだけで雪がじんわりと溶け始め、顎からしずくが落ちました。
「奥方様ぁ」
その声に振り返ると、猫娘が開いた襖の陰から顔をのぞかせいました。どうやら朝餉の準備ができた様子で、ちゃんと言いつけたとおりに怪我人の体にも優しい滋養のあるものを準備してくれているのかと立ち上がった瞬間、「奥方様」の呼称が頭に引っ掛かりました。
「よき殿方を見つけられましたね」
茶化す様子のない真面目な顔でそういった猫娘に、私は思わず目を見開きます。
「お武家様でございましょう?武士にしては精悍さに欠けていてあれで人を斬れるのかも疑わしい印象でしたが、よくよく思えば烈火のごとく勇ましい殿方では一歩近づくだけで貴方様が負けてしまいますからあのくらいがちょうどよいでしょうね」
鷲雪様とはそのような間柄ではない、私は鯉のように口をパクパクさせながら訂正しても猫娘はどこ吹く風。「そうですか、しゅうせつ様というのですね」と微笑む始末。
「あら?奥方様頬に紅餅でもこすりつけました?」
突然の言葉に頭をかしげながら鏡を覗き込むと、猫娘の言うようにまるで紅餅を擦り付けたようにほのかに赤く染まっていました。
「桃色の珊瑚のようになっていますよ」
桃色珊瑚…渓流に住まう主の愛娘である魚女に見せてもらったことがありますが、鏡に映る私はまさに桃色のフが浮かんだ白珊瑚でした。彼女の母は海の人魚で、人に囚われ陸に連れ去られたところを運良く逃げ出し、彼女をかくまった渓流の主と結ばれました。だから彼女は母親の珊瑚の首飾りを受け継いでいるのです。桃色珊瑚の玉は、黄身混じりの薄紅色で、その下に脈拍を感じるような熱を帯びた優しい色でした。なぜ私の頬がこの色に…限りなく女人の形でも正体は人型の氷塊、血というものは存在しないはずなのに…
「奥方様、朝餉が冷める前に婿様を」
鏡越しにそういった猫娘の言葉に頬はより一層赤く染まって、私はただ「違います!」と言い残し、生暖かい笑みを浮かべる猫娘の横を裾でしっぺ返しするように通り逃げました。
髪のほつれを直して杉戸の間に戻ると、貴方の姿がありません。次の間にも姿はなく、縁側に出て外を見ると、降り積もった雪の上に貴方が仰向けに横になっておりました。
怪我人には毒のような寒空の下、雪の上にいるなんて。私は急いで居間を抜けてあなた様の側に駆け寄りました。
「お体が冷えまする」
そう言う貴方の口から白い息が漏れて、開いた両目に浮かぶ一層済んだ瞳が私を見ました。
「ああ、美しい」
突然の言葉に訳が分からず頭をかしげると、あなたは周りの雪を溶かしてしまいそうなほどの陽気に満ちた笑みを零します。
「あなたのお顔は珠玉のように澄んだ光を放つ美しさ。雪のように白く、絹のようにきめ細かい。貴方が上等の白練貫なら私めは生成りの麻布でしょう。そしてなんといっても貴方の髪は夜空のように美しい。艶やかで豊かな黒髪、カラスの濡れ羽のようにどことなく青みを帯びている。まるで藍で下染めして檳榔樹を上掛けした練貫のようで、常に艶めいている。不思議です…今まで女人の出で立ちなど気にしたこともなかったのに、このような言葉で頭が溢れている。鎧を脱いだせいか、口まで軽くなったようなきがする」
そう言ってゆっくりと空に向かって掲げた左手には、雪割草。貴方は日差しにかざして見つめます。
「こんな小さな花なんて、咲いていることにも気づかず、知らぬうちに踏みつぶしていたでしょう。自然の景物を愛でるなんて、乱世には不必要だと思っていましたが、こんなに綺麗なのですね。野山でさえ、こうも綺麗な花が咲いているなら‥‥もっと早く、花を愛でていればよかったです」
そういってあなたは指先で雪割草を回転させながらまじまじと見つめます。
「あと少し…冬を越えれば、草木が芽吹き、花々の盛りを迎える春が来ます。」
「それは楽しみですね…貴方と共にみられる日が楽しみです」
貴方は雪割草を眺めながら深呼吸をして、希望に胸をふくらませていました。
「春を待ち望む日が来るなんて思いもしませんでした。ついこないだまでは、情勢を読み、智謀を巡らせ、人を斬る…四季の変化など、夏は鎧が蒸し暑くなって具合が変わるくらいのことしか考えていませんでしたから」
「雪の上で寝そべっておられるからです。重荷が雪さらしで浄化されたのでしょう」
「雪さらし」
貴方は噴き出し、大口を開けて笑いました。
「つかぬことをお伺いします。貴方様には帰る場所はないのですか」
「わたくしめがここにいるのはお邪魔でしょうか」
滅相もない!邪魔だとかそういうことは思っていないと証明するために、一生懸命首を横に振りました。…ただ、ご両親や家族、愛する方などが貴方様の身を心配しているのではないかと思っていただけなのです。
「残念ながら」
貴方はあまりにも悲しい言葉を、笑顔で言ってみせました。
「武家に生まれた男というのは勇猛果敢な武士であるべきで、畢生を武士道に捧げ、軍神を味方につけなければならないのでしょう。けれどそのような才や気質をすべて上の兄弟に搾り取られた私は家督争いの邪魔者と兄たちに目され、父の死と同時に攻め入られたのです」
骨肉の争い、それは過ぎたことと言わんばかりに貴方は遠い空を見つめます。
「兄たちはやれ鷹狩、やれ馬揃と喧嘩早く、みな絵にかいた武人のように血気盛んでした。武力と権力は国と民を守るための手段にすぎぬのに、兄たちはみな揃いも揃いってそれらを手にすることが目標となっていて、誰もがひれ伏す権力とそれを邪魔するものをなぎ倒す武力を求めている。国も平和、隣国との関係も良好。戦や飢饉に疫病の気配もない。それだけで万々歳の幸せであるというのに、それではつまらないとでも言いたげで……たしかにこの乱世に男として生まれたなら兵法書を読み、智謀に長けるべきではあるのでしょう。けれど私は武家の血が流れているにしては異端で、古典文学を読む本の虫でした。そのような私に、待つ者も…帰る場所もありません」
貴方の言葉を吐いた唇は微かに震えていました。血を分けた兄弟に裏切られる、血縁など存在しない私でも、容易にその心中を想像できました。悲しみ、苦しみ…そして居場所である城を、家族同然の家臣らを奪われたことに対する口惜しさ、怒り。入り混じる感情を統制できず、あなたはしばらく呼吸もできず口を固く閉ざしていました。そしてまた雪さらしに身を任せるように、そっと目を閉じました。
「武人の目に本の虫というものは力を持たぬ弱いものに見えるかもしれませんが、知を求める欲は人を傷つけないと私は思います。武力や権力を求める欲は人を傷つけ押しのけ、際限なく突き進めば多くの命を犠牲としますから」
鷹狩や馬揃ならともかく、戦で勝つことなんぞなんの誉にもならない。武将に傭兵、武器商人といった多大な金と死を貪るような才は、本来役立たずで終わるべき。
「戦の才はそれ以外の才の芽を潰し、無能と役立たずにしてします…あなたがそのような人ではないと、私は信じたいです。」
「…戦誉がまかり通り自慢話になるのはどうか私の代で最後であってほしい。父上もそのようなことをよく言っておりました」
そう言って貴方は雪割草を持った腕を上げ、私の髪をそっと指先でかき分けながらその花を耳に差しました。
「あなたは情に厚く、その花のように寸分のよどみもない澄んだお方だ」
澄んで青さを帯びたその瞳が私の顔を捉えます。
「野垂れ死ぬか、武者狩りにあう運命のわたくしを救ってくれたときも、そして今この時も、あなたは私に生きていいと言ってくれている。心の温かい人です」
その言葉が、胸に響いて、寒気が走るように体が震えました。初めて言ってくれたその言葉の嬉しさを心に、頭に、身体全体に刻むように、体中にその言葉の感動が吹雪のように駆け巡っているようでした。
嗚呼、この喜びがずっと続いてほしい。ずっと、貴方のそばにいられたら。
「いいえ、私はあなたが思うようなものではございません」
目の奥からなにかがこみ上げてくるような気配がして、私は自分のその過ぎた望みを払うように首を横に振りました。
「情が厚いとか、澄んでいるとか...心が温かいなんてもってのほか。私の心は氷塊よりも冷え切っております」
「なぜそのようなことを」
「わたくしには、私一人を指す名前はありませぬが、里の者がその名を聞いて恐れる呼び名だけはございます。人間は、私を雪女と言います。触れるだけで貴方の心臓を氷塊に返ることもできる化け物です」
私は、殺気を立てて脅しました。きっと、こんなことを言えばあなたは怯えてしまう。もしかしたら太刀で斬られてしまうかもしれない。私から離れて行ってしまう、でも、これ以上人のぬくもりを知ってしまうくらいなら、貴方に切り捨てられてしまうほうがいい。
「本当ですか?」
貴方は体を起きあげて、私の目をまっすぐ見つめます。
「ではなぜ、貴方は私を救ってくださったのですか?」
「それは…」
「武者狩りに金品と引き換えに差し出すのですか?でもそれなら首だけで済む話。治療を施すのは愚策としか思えません。抵抗する余力を与える行為です」
貴方は微塵もすくむことなく、澄んだ瞳で私を見つめてきました。
「人を凍り殺すことがお好きなのですか?それもまた私に治療を施す意味がありません。私も男、貴方に力量で負けるわけがありません」
「…」
「あなたが人ならざる雪女ということなら、さきほど膳を持ってきた童女から聞いています」
「え」
「前から見れば紅白霰に身を包む童女のいで立ち。けれど振り向けば三毛の尻尾が垂れていましたから、人の子ではないのは一目瞭然。なんにせよ、私は彼女に言われました、貴方を不幸にしたら、目玉をくり抜いて引き裂いてやると。歩けるほどに傷が癒えたのならとっとと去れと。あの形相はまさに、威嚇する猫。やはり猫又の類でしょう。でも私はここに残ることを選びました」
「追手や武者狩りから逃れるためですか…」
「もし後生があるなら貴方のために生きたい。そう誓ったからです」
雪持ちの笹のようにうつむいていた私の頭上から、重みとなっていた雪が一瞬にして溶けたような心地がしました。貴方の真剣な熱い眼差しが雪解けの日差しになったのでしょうか。私を山奥に閉じ込め、我が身を冷気で閉じ込めていた雪が消えたかのように、冷気も、孤独も消え去り、私の胸の奥になにか暖かい物がじんわりと広がっていきました。日差しがじわじわと雪を溶かして地面まで差し込んで照らしていくように、貴方のその嘘偽りのない太陽のような眼差しが私の中に確かに芽生えていた恋心を照らしました。
冬に閉ざされた雪山はいつも藍色の薄衣で覆われたように寒々しいものだったのに、雪の上で煌めくしずくが初めて黄金に輝き陽気を放っているように見えました。
そのとき私は、初めて山桜の堅い蕾を見ました。貴方の頭上にそびえる山桜。その一つも葉のない枝先に集う蕾たち。枝の瘤のようなものが幾千も。その中には、堅い茶色の皮を割くように、緑色が顔を出していました。その色のなんと鮮やかなこと。冬の草木の無口で冷たい色とも、山繭の静かな薄い色とも違います。
茶色の皮がほどけたら、いったいどうなるのだろう。そのさきは、緑色の次はどんな顔を見せるのだろう。蕾が花開いたらどんな風に咲くのだろう。嗚呼・・・叶うことなら見てみたい。一斤染めの貫絹のような花弁に、砂金を掲げる雌蕊に雄蕊。文字で読んでも分からない。言葉で聞いても分からない。けれどきっと、美しいのでしょうね。私はそのとき、山桜が咲いた光景を見てみたいと思いました。考えても、紙に描いたような薄っぺらな姿しか浮かびません。けれど一つ、鮮明で色鮮やかに、まるで金箔地に描いた絵のように輝いて見えたのは、その山桜の木の下、貴方と二人で肩身を寄せて。春を眺める光景でした。
雪の重みから解放された葉のように大きく跳ね上がった私の頭を見つめていた貴方。そんな貴方を見ていると、今度は雪解けの水の重みに頭が沈んでいきました。
「深雪様は何を恐れているのですか」
ええ、恐れていますとも。今まで、春が来ることはどうしようもない運命であり考えても詮無きことと思っていたはずなのに・・・貴方に出会ってから、終わりが嫌で嫌で仕方が無いものへと変わったのですから。
「鷲雪様。私、来世という物があるのなら・・・春に咲く花になって見せまする」
「来世など、そのようなことを言わないでください。まだまだあなたのお傍に・・・」
「それは雪女には難しいことでございましょう」
「え…」
「雪は・・・冬が過ぎれば終いですから」
「そ、そんな・・・」
「もとより嫌われ者です。花も、木も、鳥も獣も人も、生き物にとって冬は耐えがたく、そう言う自然の総意をくみ上げて、お天道様は雪を溶かすのです。お天道様の言うことには素直に従わなければなりません」
下半身が溶け始めてうまく座っていられずふらついた私を貴方はすぐさま抱き上げて、必死の形相で周りを見渡しながら「猫又」と叫びます。
「どこか雪蔵は‼」
貴方は湿りゆく着物に気づくとより一層顔色を強ばらせ、日向は毒と気づいた貴方は陰間に向かいます。
視界もなんだかぼやけ始めてきます。そっとあなたの胸に寄り添うと、貴方の心臓が小刻みに鳴っている。嘘偽りない鼓動の音色は貴方の生きている証であり、私に生きてほしいという叫びである。まるで貴方と相思相愛であると照明してくれているようで、嬉しさが口元から溢れて止まらない。
あなたは雪の上に私を寝かせて必死に雪をかき集めるけれど、熱を帯びた手に触れた瞬間雪は水へと変わります。
嗚呼・・・なんて幸せ者な最後なのでしょう。嫌われ物ではなく、愛され物として溶けてゆけるなんて。
「ねえ鷲雪様、知っていましたか?雪女の寿命が冬の間だけということは言いましたね。それは春を迎えれば陽気が雪を溶かすから。けれど、どうやら人肌の温もりでも溶けてしまうようです」
人間の体温の優しい熱、愛にあふれた暖かい眼差し、そして私の心に共った恋の焔…それくらいの熱でも溶けてしまうなんて、私まったく知りませんでした。それもこれもすべてはあなたに出会えたから知れたこと。
あなたは武士の面目もないくしゃくしゃな顔を涙で濡らしながら「深雪」と叫びます。
「鷲雪さま。私に、恋の熱を…愛の温かさ教えてくれてありがとう」
腕を上げて涙をぬぐってあげることもできず、私は残り僅かな力を振り絞ってあなたの袂を握りました。
あなたは拳で涙を拭います。そしてその腕を下ろしたかと思った瞬間、護身用の短刀を取り出し鞘を投げ捨て自身の腹に勢いよく突き立てました。
「え」
苦悶に眉根は大きく寄って、額に脂汗をにじませながらあなたは倒れこみます。
「なんで…」
私と向かい合わせに倒れたあなたは口元に血をにじませて、そして見る見るうちに苦悶の震えも小さくなっていきます。私は微々たる力を袂を握りしめていた右手にかき集め、袂のひだを辿るようにあなたの腕を探ると、貴方の右手が私の手を強く握ります。
「あなたの側におられぬのなら、蛆の餌になるも本望。ですから…どうか、黄泉ではずっとお傍に」
そう言ったあなたは私を安堵させるように笑みを一つ残し、そっと目を閉じました。
その目は二度と開きません。あなたの右手の熱はどんどん失せていきます。
両目から雫が溢れて止まりません。これが涙というものでしょうか。でも涙がたどるその先で、私は確かに笑みを浮かべました。それまで恐れていたその最後が前倒しでやってきた。早すぎる最後。日差しは無遠慮に刺すように私を照らします。きっと私は日差しに溶けて水となる。けれどその水が春野の草花を生かす。この世に残るあなたの体への手向けの花が咲くなら、それでいい。貴方と共に…空に登れるのなら……それも悪くない。
※noteさんのほうで、JINこなつ名義で同じ作品を投稿しています。




