前編
その神は、記憶の奔流のなかにいた。
神の名はルジヴァ。
神罰を下す役割を持つ、天秤を司る神である。
ルジヴァ神は八十年に一度行われる、人間が住まう地上に降りる神降ろしに選ばれていた。
神降ろしに選ばれた神は、期間である五年を地上で過ごす。
八十年は、初めて神を宿した乙女が生きた時間でもある。
神々に気に入られた乙女の子孫がどう生きるかを、ただ覗き見するだけの五年だ。
そこに人間が意味をつけ、神降ろしは祭事となっている、らしい。
なにせ、ルジヴァは神降ろしを経験するのは初めてである。
数多存在する神々から一柱だけが選ばれるのだから、それも当たり前だ。
現在のルジヴァは、地上に降りていた。
神降ろしが成功したのだろう。
ルジヴァは、ひとりの乙女に宿っていた。
「ふうむ……」
声を出せば、鈴のように可憐な音が喉を震わす。
これが肉声というものかと、ルジヴァは感動していた。
きょろきょろと辺りを見渡す。
肉眼ゆえに、見えるものが狭い。なんという新鮮な感覚だろうか。
さらりと肩から流れる髪は、もとは何色なのかはわからない。
何故なら、神を宿した者は髪色が変化するからだ。
内側から波打つように白銀と黄金に変化する様は、宿した神の力が漏れている証拠だった。
ルジヴァは、自身を宿した者の記憶を見ていた。
時間にして十八年分。
様々な情報があったが、神としての能力ゆえか。
混乱することなく俯瞰して見ることができた。
「これが、人間が生活する場か」
ルジヴァの目には、薄暗く小さな部屋が見える。
配置された家具も少なく、窓は締め切っていた。
確かこの体の知識では、ここは人間の王が住む場所であったと思う。
ルジヴァは、体の記憶を見たが。
それを理解するかは、また別問題だ。
体の持ち主には、夫がいる。
夫は、持ち主とは違う女をそばに置いていた。
だが、問題ない。
体の持ち主が、神を降ろせる清らかな体であることが大事であり、五年間をルジヴァに捧げられるのならば問題ない。
体の持ち主にも見返りはあるのだ。
五年というささやかな時間を自由に使うべく、質素な寝台から起き上がる。
「しかし、人間の王たる者の妻であるのに、斯様に狭き部屋を使うとは。人間は不可思議なものよな」
ルジヴァたち神々の頂点に立つ創世神の妻となった大地の女神は、創世神から黄金を生む羊から始まり、飢えとは無縁であるようにと望む食物を出し続ける巨大な釜を与えられていた。
妻とは、そういう存在である。
人間を妻に迎えた神が、妻を大切に守り続けているのが当たり前の世界だ。
前回神降ろしを経験した神からは、人間は不可解であると聞いていたが。
「確かに、理解できぬ」
ルジヴァを宿した者は、この狭い部屋でずっとひとりであったようだ。
女神たちのように付き従う眷属のような存在もいない。
人間にとって、王の妻とは軽い存在のようだ。
「神が降りたというのに、誰も来ぬとは。だが、こちらから行けばいいだけのこと」
ルジヴァは寝台から降りる。
生身の肉体による歩行を経験することに比べれば、出迎える人間がいないことはあまりにも些事であると思う。
ルジヴァは堂々と絢爛な廊下を素足で歩く。
神たちは、毎回同じ国に降りる。
名前は覚えてはいないが、始まりの乙女が生きた国だ。
廊下にはたくさんの人間がいた。
見た目は神々と似通ってはいるが、神気を感じないので人間であることは間違いないだろう。
元々、創世神が自分に似せて作ったのだから、似ていて当然である。
似たような服装をした人間たちは、廊下を歩くルジヴァを見て眉を寄せている。侮蔑の色が一様に浮かぶが、ルジヴァの髪を見て驚愕に染まっていく。
彼らは感謝するべきだ。
あのような目を大地の女神に向けていたのならば、創世神により瞬時に目を焼かれていた。
この体に宿ったのがルジヴァであるから、無事に済んでいるのだ。
ルジヴァは、創世神の飼う山犬が生んだ神だ。
その流れで愛玩されてはいるが、罰を下すほどのことはないだろう。
ルジヴァ自身が神罰を下す神だ。
自分でやれば良いと考えていそうである。
「おい」
ルジヴァは固まる人間たちのなかから、ひとりの女に声を掛ける。
びくりと、女が震えた。
「神に仕える者、もしくは、王はどこにいる。神降ろしが成されたゆえ、会わねばならぬ。法の神エルジッドから作法だと言われた」
「あ、あ」
女は声を震わすだけで、言葉を成さない。
ルジヴァは不快になった。
「創世神から言葉は授かっているだろう。何か言わぬか」
ルジヴァが睨めば、女がへたり込む。
ルジヴァにはわからない。
彼は愛玩される神だが、親たる山犬が天秤を掘り起こした時から神の力が強まっている。
肉声であるから抑えられているが、ルジヴァの言葉は人間の罪を浮き上がらせるのだ。
女――王宮の侍女はルジヴァが宿った者に嫌がらせをしていた。
卑しい王妃、嫌らしい声、言葉を交わすのも汚らわしい。
それは侍女が言ったもの。
神罰を下す神であるルジヴァに声を掛けられた時に、侍女は罰を受けてしまったのだ。
まだ地上に降りたばかりのルジヴァは、力の加減を知らなかった。
罰として言葉を奪われた侍女から目を外し、ルジヴァはまた歩き出す。
王宮で働く人間の殆どがルジヴァが宿った王妃を蔑んでいた。
本能で感じたのだろう。
人間たちは、ルジヴァから距離を取る。
「まあ、よいわ。エルジッドが神官なる者さえいればどうにでもなると言っておったしな」
素足では冷える。
薄着の状態も何とかしたいものだ。
長い廊下を曲がると、ルジヴァはとあるものが目に入った。
廊下の天井に刻まれた、剣を斬りつけた痕だ。
そこからは白銀の光が漏れていた。
神の仕業だとすぐにわかった。
「あれは、軍神のものだな」
軍神ニーギスは神降ろしを経験している。
天界に帰還した際に荒れ狂っていたが、神剣を抜くほどの何かがあったようだ。
天井の傷の周りは天幕で囲われている。
あれは神の怒りを形にしたものだというのに、飾り立てるとはやはり人間は不可解だ。
傷を見上げていれば、複数の足音がした。
振り向けば、白い服を着た男たちがルジヴァへと近づく。
創世神の錫杖に刻まれた紋様を簡略した刺繍が施された服と、ルジヴァを見る目に畏敬が込められている様から彼らの正体がわかった。
「そなたらが、神官か」
声を掛ければ、男たちは深々と頭を下げる。
「はっ! お待たせしてしまい、申し訳ありません!」
神官たちは言い訳を口にしなかった。
ルジヴァは離れた場所にたくさんの人間がいるのに気がつく。
体が馴染んできたようだ。
感覚頼りだが、感知できる。
「ああ、そういうことであったか! 神降ろしの儀は祭事であったな?」
「はい。国を挙げて、資格を持つ乙女を招集しておりました」
資格。
神は清らかさを好む。
それは心身揃ってのもの。
創世神が心の輝きを発現させる宝玉を与えていたはず。
心は、それで測っていたということか。
「神官よ、弁解を許す」
「ありがとうございます」
先頭で深く頭を下げた老齢の神官が、ゆっくりと頭を上げた。後ろに控える神官たちも倣う。
「あなた様が降りられたのは、我が国の王妃にございます」
「ふむ」
記憶を見たので、それは知っていた。
「王妃が王宮に招かれて二年が経っており……まさか、白き身だとは思っていなかったのです」
「つまり、資格なしだとみなしていたのか」
「その通りでございます」
「ならば、罪はそなたらにはない。我が権能が動かぬのが証よ」
ルジヴァが持つ神としての権能は、神罰を下すものだ。
神々に動きがないのであれば、ルジヴァが責める理由もない。
遠くに感じる多くの気配は、資格ありの乙女たちか。
まさか、あんなにも狭い部屋に閉じ込められていた王妃が選ばれるとは、誰も思わなかっただろう。
ルジヴァは神官たちに視線をやる。
「して、王はどこだ」
神自ら言を賜ってやろうと思い問えば、神官たちは顔を一様に強張らせた。




