「あと半年早く婚約破棄してくれれば、王宮女官の試験に間に合ったのに!」と言ったら婚約者が泣いた
グレース・モンテリア伯爵令嬢は怒っている。
淑女たるもの、冷静で、感情を見せてはならないと教えられて、それを守って生きてきたけれど、今回ばかりは黙ってほほ笑んでいるわけにはないかない。
婚約者のブライアン・アルチェスター公爵子息が、「本当は婚約なんてしたくなかった」とうそぶいていたと聞かされたのだから。
グレース・モンテリア伯爵令嬢は、モンテリア伯爵家の三女である。モンテリア伯爵領は、高山地帯に領地を持ち、めぼしい農業も産業もない。そんな彼らが伯爵家としての地位を存続できているのは、彼らの持つ頭脳にある。
資源にも恵まれなかったモンテリア伯爵家は、「人」に投資をした。すなわち教育である。モンテリア伯爵が運営する私設の学院は、家庭教師を雇えない家計の苦しい貴族や、貴族にも劣らない教育を子どもに与えたいと考える商人に支持され、独自の教育文化を編み出して領地を運営した。
そして、数代前には、その類まれなる知性から、伯爵でありながら宰相を務めた者も輩出し、貴族としての地位を確固たるものとしたのである。
知の巨人を生み出すモンテリア伯爵家のグレースは、兄や姉たちと比べると平凡ではあるが、一般的には非凡の部類に入る令嬢だ。グレースはとくに言語に才能を現し、大人顔負けの話術を操ることができる。十歳にして、大人が集まる商談で堂々と交渉してみて、父のモンテリア伯爵を驚かせた。そのときの商談の相手がアルチェスター公爵であり、そのグレースを見たブライアンがグレースに一目惚れをし、ブライアンの強い希望でグレースとブライアンの婚約はなされた。
グレースは自身の話術の才をいかし、王宮女官の道を志していたが、公爵家嫡男のブライアンと婚約し、将来のアルチェスター公爵夫人となることが決した瞬間、その道をあきらめざるを得なかった。もちろん、現在の彼女は、そのことをひとつも恨んでいない。公爵夫人であっても、話術をいかすことはできると理解しているからである。
だというのに、今さら「婚約をしたくない」とブライアンが駄々をこねているとは。
しかもそのきっかけが、シルヴィア・ナイトレイ侯爵令嬢にあることも、グレースの怒りの原因のひとつであった。
モンテリア学院は、私設の学校である。よって、貴族や平民で区別をせず、一定以上の学力を有する者であれば入学を許可している。さらに、教養に裏打ちされた人格も必要だ。モンテリア学院は山間部に設立された学院で、学院生は原則寮暮らしとなる。貴族や平民で差別をするような人間に、モンテリア学院で学び続けることはできない。そういった事情から、平民も貴族と同じように扱うというモンテリア学院のありかたを、一部の保守的な貴族は嫌っている。もちろん、彼らはそもそも学院に自身の子らを入学させたいと思わないので、棲み分けはできていたのだけれど。
ところが、保守派筆頭とも言えるナイトレイ侯爵家の子女、シルヴィアの入学が決まったのだ。ふつうならあり得ないことである。
表面上は、貴族間の派閥の対立を憂えた王家が、保守派と革新派の溝を埋めるため提言したことになっているが、実際はただの色恋のもつれである。シルヴィアは、ブライアンに幼いころから懸想していたのだ。本来なら、すでに婚約者のいるブライアンをあきらめるよう説得するべきところを、娘かわいさにモンテリア学院に入学させたのである。
しかも、この話をさらにややこしくさせているのは、アルチェスター公爵の思惑にある。なんと婚約関係になって三年になるというのに、公爵は嫡男のブライアンに、より高位の令嬢をあてがいたいと考えているのだ。ブライアン自身も父の思惑はなんとなく感じていながらも、これまでのらりくらりとかわしてきた。それは、アルチェスター公爵自身が、いずれ伯爵令嬢になど飽きるとたかをくくっていたからである。ところが、あと数年で成人となろうタイミングになっても、ブライアンはグレースにまっすぐであった。そこで、シルヴィアの想いを知り、これ幸いと裏から支援したのである。
通常であれば、モンテリア学院の入学試験に合格できるはずもないシルヴィアに、ナイトレイ侯爵家とアルチェスター公爵家の二家が、「入学試験に合格するための家庭教師」をつけ、なんと正常なルートで入学をもぎとったのである。どう考えてもグレースとブライアンの婚約を邪魔するためだけの事態だったが、正しい手続きで入学するシルヴィアを受け入れないということはできず、理事長であるモンテリア伯爵は、シルヴィアの入学を承認した。
この話を父から聞いたグレースは、「世の中には暇な人もいるものだわ」とむしろ大いに感心した。ブライアンのことは嫌いではないし、王宮女官の道をあきらめてもよいと思えるくらいには婚約を前向きに考えていたけれど、ブライアンからの申し出がなければ、まず間違いなく、グレースは婚約をしていなかった。
たしかにブライアンは、公爵家の嫡男で、性格も申し分なく、容姿にも恵まれているが、それはグレースにとって重要な価値となり得るものではない。ところが世の中には、相手の肩書や見た目に固執し、醜聞も気にせずに自身の想いを遂げようと考える人もいることは、グレースにとって新大陸の発見と同じくらいに驚くべき事実であった。グレースにとっては、費用対効果の見合わない行為でしかない。
なので、ブライアンが父の公爵から圧力をかけられ、シルヴィアの面倒を見ることになったと聞いても、「大変そう」としか思っていなかったし、面倒を見ないと学院に残れないと悲しそうにするブライアンを見ても、「論理が破綻していることでも貴族にとっては重要なことなのかしら」と呑気に考えていた。
にもかかわらず、グレースは怒っている。「婚約をしたくない」というブライアンの言葉に。
ブライアンという婚約者に、何一つ固執していないはずの彼女が。
グレースが憧れた王宮女官は、貴族女性の職位としては最高位と言われている。王宮女官は、国王と王妃を公私ともに支え、影の宰相とも呼ばれる存在だ。王国の法律上、宰相は男性しかなれないが、王宮女官であれば才能ある貴族女性であればなることができる。
ただし、それは、王宮女官になるための試験を受ける権利を持っている、という話であり、そう簡単になれるものではない。
まず、王宮女官の試験には、年齢制限がある。十六歳以下の貴族女性と定められているのだ。十八歳は、王国では成人となり、貴族女性のほとんどは結婚をして家庭に入ることになる。王宮女官になった女性も、結婚するとなるとほとんどが王宮女官を退職する。王宮女官は、最低でも三年はその職務に務める義務があり、王宮女官になって適齢期を過ぎてしまうことがないようにという配慮と、婚約者のいない――要するに特定の派閥に色濃く染まっていない令嬢を求めているという二重の事情によるものだ。
グレースは今年十六歳になり、試験を受ける年齢制限ギリギリを迎えていた。
さらに、王宮女官の試験は、不定期で実施される。王宮女官に空きができたときに募集がかけられるのだが、ほとんどの王宮女官は、未婚のまま老齢までその職務を全うすることがほとんどだ。つまり、募集がかけられるタイミングは完全に神のみぞ知る、というのもである。
王宮女官の試験を受けるだけでも強烈な運が必要で、当然、試験内容も外国語、歴史、数学などの学問はもちろん、いざというときのための護身術まで多岐にわたる。本当に選ばれた人間しか、王宮女官になることはできない。
「どうして、「今」なのかしら!」
――グレースの怒りは、「今」、ブライアンが言い出したことに帰結していた。
学院のカフェテリアで「密会」をしていると同じクラスの男子生徒に聞き、グレースは躊躇なく踏み込んだ。陽の当たるカフェテリアは学院でも人気のスポットで、学院生たちにとっては一種のサロンのような場にもなっていた。
「アルチェスター公爵子息様、ナイトレイ侯爵令嬢様」
グレースは努めて慇懃にふたりに声をかけ、カーテシーを披露する。突然やってきた「恋敵」に、シルヴィアがむっとした表情を見せた。
「まあ、モンテリア伯爵令嬢様。会話に割っていらっしゃるなんて、よっぽど火急のことなのかしら」
「シルヴィア、私の婚約者に無礼だろう」
間髪を入れずブライアンに指摘され、シルヴィアの肩が下がる。しかし、グレースの笑みは崩れない。いつもと違うグレースの様子に、ブライアンの背筋に汗が伝った。
「ええ、ええ、火急も火急でございます。なぜならわたくしの将来がかかっていることですもの」
ブライアンは、そこではっとした。シルヴィアと自分が実は想い合っているという根も葉もない噂が流れていたからである。もちろん婚約者であるグレースには、自分がシルヴィアに想いを寄せることはあり得ない理由を十枚のレポートにまとめて提出し、口頭でも懇切丁寧に説明済みだ。であっても、婚約者が他の女性と仲良くしている様子は不愉快極まりないだろう。
「グレース、実は――」
「おふたりが想い合っていようといなかろうと、そんなことはどうでもよいのです。人の感情は時として爆発するものですし、惹かれ合うときもあるでしょう。わたくしにはよくわかりませんが……とにかく、そこが問題なのではありません」
グレースの早口に、ブライアンもシルヴィアも閉口した。グレースが何に怒っているのか、このふたりにはとんと見当がつかない。
「わたくしとの婚約が嫌になっても致し方のないことですわ。わたくしは、ナイトレイ侯爵令嬢様のような美貌もございませんし、お兄様やお姉様と比べると平凡ですもの。アルチェスター公爵子息様に釣り合わないと思われるのは当然のことです。でも、それも、どうでもよいのです」
グレースはそこで一呼吸置き、すうと小さく息を吸い込んだ。
「婚約をやめたいなら、それも受け入れましょう。でも、でも……!どうしてあと半年早く言ってくださらなかったのですか!?」
目にたっぷり涙をため、体を震わせるグレースに、カフェテリアにいた他の学院生たちの視線が集まる。しかし、グレースはそんなことには一切頓着しない。
「あと半年早く婚約破棄してくれれば、王宮女官の試験に間に合ったのに!試験を受けられるならば、喜んでアルチェスター公爵子息様と婚約破棄いたしましたっ!わたくしはもう十六です。もう王宮女官の試験は受けられません。わたくしは、アルチェスター公爵子息様と結婚して、公爵夫人になる以外、希望する進路がなくなってしまいました。もちろん、このまま独身を貫いて教師になるのも楽しそうですが……はあ……」
重苦しいため息をつくグレースに、ようやく出てきたブライアンの言葉は次の通りである。
「何があっても婚約破棄はしないよ!?」
「だから、今婚約破棄されたら困ります!もっと早く言ってくだされば……」
「そもそも、最初から婚約破棄するつもりはないです!」
「では、『婚約したくなかった』とおっしゃっていたのはなぜですか?レポートもいただいたのでただの噂だと思っていましたのに、同級生がわざわざ心配して声をかけてくださったんですよ?」
「『婚約したくなかった』なんて死んでも言わない!言わないです、言うわけないです!信じてください」
今にも頭を下げんばかりに声を上げるブライアンに、グレースはぱちぱちと目を瞬かせる。
「正直に言っていいのですよ?他に想う女性ができたと――」
「そんな人いるわけない!グレースしか愛してないんだから!」
「ちょっと、お待ちください!」
ブライアンの一世一代の告白を遮ったのは、すっかり存在を忘れられていたシルヴィアである。
「ブライアン様、モンテリア伯爵令嬢様の言うとおり、正直になってください!」
「いや、正直なんだけど……」
「どうしてわたくしではなくて、モンテリア伯爵令嬢様なのですか!こんなに一途に想っているのに……」
悲しげに伏せられたシルヴィアの目に、まつ毛の影が落ちる。絵画のような美しい令嬢に、ここまで熱烈に想われているのに、たしかに彼女を選ばないブライアンはおかしいとグレースは呑気に考えていた。
「だって、シルヴィアはグレースじゃないじゃないか」
「……へ?」
「僕は、他の誰でもなく、グレースが好きなんだ。グレースじゃない人なんて、無理だよ」
――無理だよ。
ブライアンの言葉が、シルヴィアのなかでこだまする。無理、無理、無理……。想い人に一言で拒絶された深窓の令嬢シルヴィアは言葉を失い――そして、意識も失った。
シルヴィアが倒れたことで騒然となったが、騒ぎを聞きつけた教師たちによってその場は収められ、学院生たちには異例の箝口令もしかれた。理事長でもあるモンテリア伯爵に呼び出さたグレースは、悪びれることなく、「あと半年早く婚約破棄していたら王宮女官の試験を受けられた」と言ってのけ、同じく事情聴取で呼び出されていたブライアンを泣かせてしまった。
グレースと婚約できないなら死ぬ!と泣きわめくブライアンの様子を見た彼の従者が、アルチェスター公爵に事の次第を壮大な物語に仕上げて送ったところ、アルチェスター公爵はようやく「息子にもっと高位貴族の令嬢をあてがいたい」という考えをあきらめたようだ。
シルヴィアは、ブライアンに強烈に拒否されたことで百年の恋も冷め、学院を退学して自分を愛してくれる男性と婚約しようと心に決めたようだ。グレースに謝罪の手紙をしたため、静かに学院を去った。
そして、グレースが自分のことなど欠片も愛していないことを自覚したブライアンは、今以上に勉学に打ち込み、よき公爵となるべく研鑽を積んだ。そうしてブライアンとグレースが正式なアルチェスター公爵夫妻となってからは、力を合わせて、アルチェスター公爵領を盛り上げ、近隣諸国と独自の交易ルートを開拓し、王家に匹敵するほどの権力を集めたと、のちの歴史書に記されている。




