魔人の誕生
どこかの誰かが言った。
民を守るために戦うのは貴族の務めだ、と。
だが、現実はまるで違う。
ほとんどの貴族は民のことを守ろうだなんて思っていない。
人は生まれながらに平等ではなく、高貴な身分に生まれたのは神に祝福されたからだ――貴族どもの多くはそう宣い、平然と民を虐げ、搾取する。
イスタリスはニーレ王国の隣国、ロニの辺境の地で生まれ育った。
働き者の両親と優しい姉。家族で貧しいながらも慎ましく幸せに暮らしていた。
五つ年上の姉は村でも評判の美人で、気立てが良く、木漏れ日が差し込むような温かい笑顔が魅力的な、イスタリスにとっては自慢の姉だった。
悲劇は、その自慢の姉が色狂いとして知られる貴族に目を付けられたことから始まった。
その貴族は一帯を治める領主で、貴族の持つ特権を神から与えられたものと謳い、逆らう者には容赦しない暴君でもあった。
ある日、その貴族が兵士を引き連れて村にやってきた。目的は言わずもがな、姉を手籠めにすることだった。
抵抗した両親はその場で殺された。
呆然と立ち尽くすイスタリス。貴族の男はまるでゴミでも見るような目で見ながら、兵士たちに「そいつも殺せ」と命じた。
イスタリスは必死に逃げたが、あっという間に追いつかれ、兵士たちに取り囲まれた。彼らの顔には子供を殺すことへの躊躇いなど微塵もなかった。彼らにとって人の命を奪うことは、家畜を屠ることとなんら差はないのだ。
兵士のひとりが手にした剣を振りかぶろうとした、そのときだった。
イスタリスの耳に、どこからか聞いたこともない言葉が聞こえてきた。
すると突然、周囲に白い靄が発生した。
兵士たちは、酔っぱらったようにふらふらとその場に崩れ落ち、やがて大きないびきをかき始めた。
「……やれやれ、この地の兵士たちも随分と質が落ちたものだ」
そんな口上でふらりと現れたのは、黒い長衣を纏った若い男だった。ハッとさせられるほどの美貌の持ち主で、声を聞かなければ女性と間違えていたかもしれない。
「なにをしている。死にたくなければ、こいつらが起きる前にさっさと逃げるんだな」
男はそう言いつつも、自身は逃げようともせず、あろうことか眠りこけている兵士たちの懐を漁り始めた。
我に返ったイスタリスは礼もそこそこに事情を説明し、男に姉を助けてほしいと訴えた。
が、それに対する男の反応は冷淡だった。
「断る。私は偶然通りがかっただけで、お前を救ったのはただの気まぐれだ」
そう言われてもイスタリスは引き下がるわけにはいかなかった。
子供ひとりで姉を取り戻すことはできない。かと言って村の人たちに助けを求めようにも、領主に逆らってまで力を貸してくれる者などいるはずがない。これまでに領主に逆らって殺された村人は大勢いた。皆すっかり怯え切っているのだ。
だが、目の前にいる男なら、きっと姉を救い出せるに違いない。
それだけの力――魔法の力を持っている。
だからイスタリスは必死になって男に力を貸してくれと頼み込んだ。
「ふむ……」
男は形の良い顎に指をあてて考える仕草をする。その表情からは情に絆されたような様子は皆無であった。
やがて男は探るような目をイスタリスに向けた。
「仮に力を貸すとして、その見返りはなんだ? お前のような子供が私に何を与えてくれるというのだ?」
「お、お金は、ない……」
「他になにかないのか?」
「……もし力を貸してくれるなら、僕のことを好きにしてくれていい」
イスタリスは挑むような目で男を睨みつけた。
すると男はおもむろに手を伸ばしてきた。
驚いて身体を引こうとするイスタリスに「動くな」と強い口調で命じると、身体のあちこちを触りながら、ぶつぶつと呟き始める。
「ふむ……魔力は人並み以下だが……肌の色つやは悪くない。なにより、意思の強そうな目がいい……これなら十分に耐えられそうだ」
男はしばらくして手を離すと、怯えるイスタリスに向かって感情のこもらない声で告げた。
「ではこうしよう。お前には実験体になってもらう」
「……じっけんたい?」
思いがけない提案に、イスタリスは思わず聞き返した。
「そうだ。もし実験が成功すれば、お前は常人よりも遥かに強い魔力と優れた魔法特性を手に入れられるだろう。その力を使って姉を救い出せばいい」
「あなたが助けてくれるんじゃないの?」
「甘えるな。悪いが領主と事を構えるつもりはない。あの領主はたしかに下衆だが、わざわざ敵対する理由は私にはない。やるならお前自身でやれ」
「……」
「どうするかはお前が決めろ。自分の手で姉を救うか、諦めるか。先に言っておくが、力を得るには相応の代償が必要となる。それがこの世の理というものだ。実験には相応の苦痛が伴うし、生涯取り除くことのできぬ後遺症をいくつも負うことになるだろう。よく考えることだ」
言われた通り、イスタリスは必死に考えた。
だが、結論が出るのにそう時間は掛からなかった。
仮に男に頼んで姉を救い出せたとして、その後はどうなる?
兵士たちに延々と追われる羽目になるだけだ。おそらく目の前の男は、姉を助け出した後の面倒までは見てくれないだろう。
……力が必要だった。
理不尽な暴力に抗えるだけの力が。
「……わかった。実験体になる」
イスタリスは男の目を見て力強く答えた。
「良い返事だ」
魔法士の男は満足げに頷くと、少年に手を差し伸べた。
「私の名はケーネイア。私がお前に力を与えてやろう」
そして、その日からイスタリスは実験体としての日々が始まった。
だが、行われたのは実験というより人体改造に近いものだった。肉体のあちこちにメスを入れられ、さらには全身に魔法の刻印をいくつも施された。全身を襲う激痛に、自分の身体が自分のものではなくなっていくような喪失感と異物感……。
ただ、苦痛をひとつ乗り越えるごとに、自らの身体に力が宿っていくのをイスタリスは感じた。すべてを乗り越えたときに、望んだ力が手に入る。そうすれば姉を取り戻せる。そう考えれば、この地獄のような苦しみにも耐えることができた。
実験の合間には魔法の詠唱に必要な術式や理論を叩き込まれた。
もともと勉学は好きではなかったが、必死に喰らいついた。
ごく短期間で基礎的な魔法をすべてマスターすると、ケーネイアからは「お前の頭は弄っていない。地頭の良さは生来のものだ。親に感謝するといい」と言われた。
……そして三か月後。
とても十歳の子供とは思えぬ魔法の力を手に入れたイスタリスは、たったひとりで領主の屋敷へと乗り込んだ。
立ちはだかる兵士たちを魔法で蹴散らし、ついに領主の部屋にたどり着く。
だが、待っていたのは非情な現実だった。
姉はすでに死んでいたのだ。
両親を目の前で殺され、弟も死んだと思い込んだ彼女は、未来に絶望し、自ら命を絶ってしまっていたのだ。
間に合わなかった――。
力なく立ち尽くすイスタリスに向かって、領主は「お前の姉は実に良い声で鳴いていたぞ」と嘲った。
不用意な発言の代償は高くついた。
次の瞬間、激昂したイスタリスの手から灼熱の塊が放たれた。
領主は生きたまま炎に焼かれ、絶叫のなかで灰と化したのだった。




