第9話 温もり
必要最低限の物しかない家の中だった。
「ボク一人だからね。必要な物もあんまり無いし。
ご飯を食べて、お風呂に入って、寝られればいいかなってさ」
「散らかってるって言うから、足の踏み場もないのかと思ってたわよ。
あたしが掃除してあげなくちゃ!って思うレベルで」
「ちょっと待ってて」
そう言って、ハツキは奥の部屋へ向かった。
残されたヒジリは、腕を組んで部屋を見回す。
「ほんと、なにもないわね。
掃除も行き届いてるし、食器も鍋もピカピカ。
……これで“散らかってる”って言われたら、世の中の家はどうなるのかしら」
「あんまり家捜ししないでもらえます~?」
なぜか息を切らせたハツキが戻ってくる。
「ん~~? エッチな本とかあるのかなって思ってさ」
「無いから!!!」
「あっ、わかった! 奥の部屋に隠してきたんだな♪」
「行かないで! その部屋は駄目」
奥へ向かおうとしたヒジリの腕を、ハツキが掴んだ。
真剣な声。真っ直ぐな瞳。
「……わ、わかったわよ。行かないから。心配しないで」
「約束だよ」
その言葉に、ハツキはようやく安堵の表情を浮かべた。
「よし! 今日はお姉さんがご飯を作ってあげます。
ハツキ君、何が食べたい?」
「ヒジリ、ご飯作れるの? なんかノウキ——」
ゴツン!
「ハ~ツ~キ~!!!
食べたいものを言いなさい! 今すぐ!!!」
「はい! ボク、カレーが食べたいです!」
(カレーなら失敗は無いだろう)
(カレーなら失敗は無いって顔してるわね、この子)
「おっけ~! カレーね。甘いのと辛いの、どっち?」
「辛い方がいい」
「りょ~かい! 疲れてるでしょ、休んでなさい」
「は~い(期待しないで待ってます)」
次の瞬間、フォークがハツキの頬をかすめた。
恐る恐る顔を上げると、そこには爽やかな笑顔のヒジリ。
(悪魔がいる……ボクの家に悪魔がいる……)
「ハツキ、聞こえてるからね」
「ゴメンなさい」
即座に床に正座し、額をゴンゴンと打ちつける。
それを見てヒジリは呆れつつも笑い、料理を始めた。
「自分以外の人にご飯作るなんて久しぶりだな。
……なんか、ちょっと嬉しい」
トントン、と心地よい包丁の音。
そのリズムに包まれながら、ハツキは夢心地になる。
(夕食を誰かに作ってもらうの、久しぶりだな。
どんな味でも、絶対に美味しいって言おう。
あんなに楽しそうに、ボクのために作ってくれてるんだ。
感謝しないと罰が当たるよね。主にヒジリの)
ふと、遠い記憶が蘇る。
父も母も生きていた頃。
この家で、母が料理をし、父と一緒に夕食を待っていた時間。
父の膝の上で食べた、優しいカレー。
「出来たわよー。ほら、ハツキ。起きなさい」
バシバシと頭を叩かれ、ハツキは目を覚ました。
どこから持ってきたのか分からないエプロン姿のヒジリ。
凶暴ではあるが、やっぱり可愛い。
「大丈夫?」
顔が近い。
自分の顔が熱くなるのが、はっきり分かる。
「なに? おはようのキスでもして欲しいの?」
「そんなわけ……あるかもだけど。
今はお腹空いた。ヒジリのカレー、早く食べたい」
「……あるんだ」
ヒジリは一瞬だけ固まり、顔を赤くして台所へ引き返した。
「ヒジリちゃんの、愛情たっぷり特製カレーです♪」
「お~~~! ちゃんと作れるんだね」
ピシッ。
ヒジリの持つお盆にヒビが入り、無残にも真っ二つに折れた。
「おいしそ~! いただきます」
(お盆よ、どうか安らかに……)
スプーンを口に運ぶハツキ。
それをヒジリが、期待と不安を込めた目で見つめる。
「どう? おいしい?」
「……うん。おいしいよ……」
涙が溢れた。止めようとしても止まらない。
(え? 作り方間違えた? 普通に作ったわよね?)
「ごめんハツキ。失敗しちゃったかな?」
「違うんだよ、ヒジリ。美味しい。本当に美味しい」
痛覚を失ったハツキには、辛さは分からない。
それでも、確かに伝わるものがあった。
「一緒に食べてよ、ヒジリ」
会話は少なく、
静かな幸せに包まれたまま夕食は終わった。
⸻
「ごちそうさまでした~」
「お粗末さまでした♪」
ハツキの頬に残っていた涙は、もう乾いていた。
ヒジリが作ってくれたカレーのおかげで、心の奥まで満たされている。
「じゃあ、お風呂洗ってくるけど……ヒジリは着替えとか持ってないよね?」
「そうね。持ってたら、今でもハツキの服なんて着てないわ」
「それじゃ、ボクの服……着れる……ようだから、準備しておくね」
何気なく口にした、その一言。
次の瞬間、ハツキの横を微風が通り抜けた。
「ハツキ?」
低く、冷たい声。
「……嫌味かしら、今の。
胸が小さいって言いたいのかしら?」
「ち、違います! 違います!
すみません! ほんとすいません!!」
さっきまでの幸せが遠のいていくのを感じながら、
ハツキは迷いのない、美しい土下座を決めた。
――――――
「ヒジリ〜! お風呂沸いたから、お先にどうぞ」
「あたし、後からでいいわよ。ハツキ、先に入っておいで」
ニヤニヤとした笑顔。
(……絶対なにかする気だ)
(なにか企んでる笑顔だ)
(しかも、反抗できないタイプの笑顔だ……)
ヤダ。この人、怖い。
「わ、わかった! それじゃ先に入るけど……覗かないでね」
「それ、あたしが言う台詞じゃない?」
背後から聞こえる、怪しすぎる笑い声。
聞こえないフリをして、ハツキは風呂場へと逃げ込んだ。
「あーーー……疲れた。ほんと疲れた。
ほんと、死ぬかと思った……」
でも、帰ってこられた。
こうして、湯船に浸かれている。
お湯の温かさはもう感じられない。
それでも、確かに癒されている――そんな気がした。
湯船に身を沈め、今日一日の出来事を思い返す。
(能力。代償。モンスターの進化。真っ白の鬼……)
(怖いこともたくさんあったけど……)
(村に帰ってきてからは、幸せだな)
(夕食も、幸せな気分で食べられた)
(ヒジリが作ってくれたカレー、美味しかったな)
(今度は、違う料理も食べてみたい)
(……なにもしなければ、すっごく可愛いのに)
(なんであんなに凶暴なんだろう)
ガタッ。
ガタガタッ。
ハツキの脳裏に、嫌な予感が走る。
「……まさか、あの部屋に!」
湯船から飛び出し、急いでドアに手をかける。
ガチャ。
目の前にいたのは、
腰まである、きちんと手入れされた銀髪。
細く整ったライン。透き通るような白い肌。
「きゃーーー!!!」
なぜか――
胸と下半身を必死に隠す、ハツキ。
「だから、なんであんたがそういう反応するのよ!」
呆れた表情で、ヒジリが言った。
体をバスタオルで包み、堂々と立っている。
「折角だから、背中でも流してあげようかと思ってね」
「いらない! いらないから出て行って!」
「ほほう……あたしと力比べをしちゃいますか?」
――ダメだ。
こうなったヒジリは、誰にも止められない。
諦めるのが、一番だ。
こうしてハツキにとって、
人生で一番長い夜が始まった。




