第10話 邂逅
ハツキは、いま究極の試練に立たされていた。
もちろん――理性との戦いである。
ほんの少しでも理性が負けたら、自分の人生が終わる。
そんな、負けることの許されない戦いだった。
「ねぇ? ハツキ。さっきからブツブツ一人で喋ってるけど、聞いてる?」
「はぇ? ……え、なにか言いました?」
ヒジリの声が、頭にまるで入ってこない。
なぜか背中だけでなく、頭まで洗われているという状況も、思考力を著しく低下させていた。
「だ~か~ら~。この首にある痣、昔からなのかって聞いてるの」
「痣? なにそれ?」
「ほら、黒い小さなホクロみたいなのがあるよ」
「知らないよ! そんなところ自分じゃ見えないし、気づかないでしょ」
「まぁ、そうよね。……はい、終わり!」
ヒジリは手を止め、ぱっと明るく言った。
「次はハツキが洗って」
「あ……はは……ボクも? い、いや、やめません?」
「いいから! ただし背中だけね――って、ちょっと! 鼻血!? のぼせたの?」
「ち、違……」
「はいはい、上がって血止めてきなさい。あと、体はちゃんと拭くこと!」
助かった――と、ハツキは心の底から思った。
決してエッチなことなど考えていない。
ただ、のぼせただけだ。そう自分に言い聞かせながら、脱衣所へ向かう。
タオルで濡れた体を拭きながら、先ほどの言葉が脳裏に蘇る。
――黒い痣。
気になって首筋に触れてみるが、痛みも痒みもない。
違和感すら感じられない。
ふと、父の体にあった黒い模様を思い出した。
あれは何だったのだろう。
今となっては、答えの出ないままの謎だ。
そんなことを考えつつ、服を身につける。
「ハツキ? まだそこにいるの? ちゃんと鼻血の処置しなさいよ。それに……」
「もう止まったみたい! 大丈夫だよ」
「そうじゃなくて……いつまでもそこにいられると、あたしが出られないんだけど……」
声は語尾に行くにつれ、フェードアウトしていった。
なるほど。
これは――絶好の仕返しチャンスでは?
「ごめんヒジリ。鼻血出すぎて、ちょっとフラフラするからもう少し待ってもらえる?」
笑いを必死に堪えながら言う。
「そ、そう……? わかったわ。良くなったら声かけて」
ふっふっふ~。
ハツキはその場に座り込み、堂々と休憩を決め込んだ。
風呂場から「まだ~?」とか「そろそろ大丈夫じゃない?」と声が飛んでくるが、華麗にスルー。
――ガチャッ。
……あ、これヤバい。
限界点を、完全に見誤った。
「いい加減に出てけぇぇぇ!!」
理不尽ながらもキレ味抜群の蹴りをもらい、ハツキは脱衣所から叩き出されたのだった。
少しでも機嫌を取ろう。
そう思い、ジュースでも用意するため台所へ向かう。
ふと外に目をやると、夜空には綺麗な満月が浮かんでいた。
月明かりに照らされ、夜なのに空が明るく感じられる。
「今日は雲がないから、すごく綺麗だ……」
思わず、声に出してしまうほどだった。
「ほんと、綺麗な満月ね」
気づけば、ヒジリが隣に立っていた。
「ボクの名前、ハツキって言うでしょ?」
「そうだけど……急にどうしたの?」
「ボクが生まれた日も、雲ひとつない満月だったんだって。
夜なのに、昼みたいに明るくて……だから“ハツキ”って名前をつけたって」
「素敵な由来ね。大事にしなきゃ」
ヒジリが微笑む。
ハツキも、自然と微笑み返していた。
長風呂のせいか、ヒジリの頬はほんのり赤い。
「なにか飲む? ジュース? それとも牛乳?」
「……どうしてキミは、いい話の直後に雰囲気壊すかな」
「ほら、すぐ怒る。笑うところでしょ? カルシウム足りてる? 牛乳飲む?」
他愛もない会話が、いつまでも続く。
久しぶりの、独りではない夜。
二人は互いの温もりを感じながら、少しずつ距離を縮めていった。
――しかし、慌ただしい日々は続く。
幸せな時間を、容赦なく打ち砕くかのように。
奥の部屋から、かすかな物音がした。
「……ハツキ、気づいてる?」
「ああ。今、気づいた。――なにか、いる」
空気が一瞬で張り詰める。
「盗賊?」
「いや……この村には、普通の人間には感知しづらい結界が張ってある。
仮に気づいたとしても、侵入経路は正面の門だけだ。しかも、そこには門番がいる」
「じゃあ……」
「能力持ちの盗賊だ」
ハツキは、苦渋に歪んだ表情でそう答えた。
「ちょっと待ってて。追い払ってくる」
「大丈夫なの? あたしも行く」
「来ないで!」
強い口調だった。
「――あの部屋には、入ってほしくないんだ」
そう言い残し、ハツキは奥の部屋へ向かう。
「……嫌な予感しかしないわ」
胸の奥がざわつく。
この感覚――前にも、どこかで。
その瞬間。
ドンッ!
奥の部屋から、鈍く重い衝撃音が響いた。
「……っ!」
ヒジリは椅子に掛けてあった**微風の外套**を腰に巻きつけ、駆け出す。
「嫌な予感って……ほんと、当たるのよね」
そう呟きながら、音の発生源を鋭く睨みつけた。
⸻
「おやおや……お久しぶりですね。お嬢様」
そこに立っていたのは――
忘れられない。
忘れることなど、決してできない存在。
自分のすべてを奪ったモノ。
憎むべきモノ。
「……ハツキに、何をしたの?」
能力は、まだ消えていない。
――あたしか、ハツキが死なない限り。
「そんな怖い顔をなさらずに。せっかくの綺麗なお顔が台無しですよ」
男は、ふざけた調子で肩をすくめる。
「ふざけないで!」
怒りが、理性を焼き切りそうになる。
「その坊やには、少し眠ってもらっているだけです。
今日は“確認”しに来ただけですよ」
「……逃げられると思ってるの?」
「はい♪」
まるで店に立ち寄って、ふらっと帰るかのような軽さ。
「“はいそうですか”で帰すとでも?」
「もちろん。逃げる算段は考えておりますとも」
例えば――
男は、腕で円を描くような仕草をした。
天井が不気味に光り、黒い何かがハツキの上へと落下する。
――――
~~ 鬼手 ~~
――――
「……嘘でしょ。発動確認なしで発動した?」
「あはは! 何をおっしゃいます。人間、成長するものですよ。
……まぁ、私は人間を捨てましたがね」
その瞬間。
――――
・・・《自動発動》・・・
・・・《狂神化》・・・
・・・《弐回目》発動、確認しました・・・
――――
「……おや?」
男の目が細まる。
「あなたも……人間を捨てたのですね」
狂神化したヒジリは、落下する鬼手を易々と粉砕した。
そして、ゆっくりと男へ向き直る。
「ほう……向かってきますか。しかし、まだ甘い。
その程度の力で、私に勝てると?」
「……だ……れ……だ……お前……」
床に伏せていたハツキが、意識を取り戻す。
「眠っていたほうが、幸せだったかもしれませんね。
――トレース……君」
トレース?
白い鬼?
なんで、ここに――白い鬼がいる!?
「面白いものを、お見せしましょう」
男がそう告げた瞬間、周囲一帯が闇に包まれた。
先ほどまで雲ひとつなかった夜空が、完全に閉ざされる。
「――YES」
狂神化したヒジリが男に掴みかかろうとした、その刹那。
黒い霧が、爆発するように広がった。
「私からの……プレゼントです」
次の瞬間。
ヒジリの体が崩れ落ち、狂神化が解除される。
「ヒジリ!?」
「え……? なんで……白い鬼が……ヒジリに……?」
「本人だからですよ」
男は、愉しそうに言った。
「理由は……自分の口で聞いてください。
それでは――また会いましょう」
霧が晴れると同時に、男の姿は消えていた。
「……なんでだよ……
なんなんだよ……いったい……!!」
やがて、空が白み始める。
月明かりではない。
太陽が昇り、世界を照らす光。
長い夜が終わり、
新しい一日が――静かに始まろうとしていた。




