灰の王妃
春の終わり、王は狩りの帰りにひとりの女を見た。
森の泉のほとりで、花を摘んでいた。
陽光が彼女の髪を透かして、金でも銀でもない淡い光を放つ。
王は馬上で息を呑んだ。
「名を、聞いてもいいか。」
女は振り返らずに言った。
「名を持たぬ方が、長生きするのよ。」
それが彼女の返答だった。
けれど、その夜から王の夢に、泉の女が現れるようになった。
白い指先、光る瞳、誰よりも冷たい微笑み。
王は次第に理性を失い、命じた。
「森の女を探せ。彼女を、王宮へ。」
―――
数週間後、女は王の前に連れられてきた。
王は彼女に贈り物を山のように積んだ。
宝石も、絹も、香も。
けれど彼女はどれも受け取らず、ただ言った。
「花をひとつ、欲しいの。」
「花?」
「枯れない花を、あなたの手で。」
王は意味がわからなかったが、庭に新たな温室を建て、
毎朝彼女に花を届けるように手配した。
いつしか、王の心は完全に彼女のものになった。
「君の瞳は硝子のようだ。」
「美しい君を僕の王妃にしたい」
そう愛を告げ続ける王は、
彼女の瞳の奥に映る自分の姿を見るたび、幸福を覚えた。
人はそれを[恋]と呼び、
やがて、王妃の座を授けられた女を「祝福された者」と呼んだ。
だが、それは祝福ではなかった。
―――
ある日、王妃は侍女に見られてしまう。
深夜の礼拝堂で、彼女が花を手に呪文を唱えるところを。
翌朝、噂が宮廷を駆け抜けた。
「王妃は悪魔と契りを結んでいる」
「夜ごと王の魂を吸っている」
王は信じなかった。
……最初のうちは。
しかし、王妃が老いぬことに、王自身が怯え始めた。
愛は恐れに変わる。
恐れは猜疑に変わる。
猜疑は、裏切りを呼ぶ。
王は彼女に言った。
「真実を話せ。お前は何者だ。」
女は静かに笑った。
「あなたが愛した者よ。それ以上でも、それ以下でもないわ。」
王は剣を抜いた。
女はただ、悲しそうに目を閉じた。
―――
火刑の日、王国中の民が広場に集まった。
王妃は白衣をまとい、髪を風に揺らしながら歩いた。
恐怖も、涙も、もう無かった。
王は高台からその姿を見下ろし、
「国の安寧のため、魔を滅す」と宣言した。
炎が上がる。
木の杭が爆ぜる音の中で、
女は王を見上げ、かすかに微笑んだ。
「燃えるのは私ではないわ。あなたの愛よ。」
炎が彼女を包む。
その瞬間、空が赤く裂けた。
風が逆巻き、城の塔がきしむ。
炎が彼女の形を崩すと同時に、声が響いた。
──王とその血を呪う。
愛を裏切る者の王国に、永遠の春は訪れぬ。―――
炎が消えたあと、そこに灰だけが残った。
―――
その日から、王国では花が咲かなくなった。
子は生まれても、七日を生きられなかった。
井戸は凍り、季節が巡らなくなった。
そしてある夜、王は王妃の声を聞いたという。
「あなたの花は、枯れないでしょう。
──私が、咲かせないから。」
翌朝、王は玉座の上で息絶えていた。
その顔は、微笑んでいるようでもあり、怯えているようでもあった。
―――
灰が風に舞う。
森の奥で、ひとりの女が歩き出す。
愛を信じた少女はもういない。
そこにあるのは、冷たい静寂と、永遠の時間だけ。
彼女の足跡のあとに、草木は二度と芽吹かなかった。
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