お隣の夢石さん
お隣からはいつもいい匂いがする。美味しそうな食べ物の匂いだ。
夕飯時の、最も胃腸が躍動する時間、午後七時過ぎ、まさにその胃袋を猛然と捉えて離さない芳しい誘惑。
僕はその部屋の前を通り過ぎる時、口から鼻からその残滓の欠片でも舌の上に残そうとめいいっぱい息を吸い込む。そして息を止めたまま自分の部屋である二0二号室に飛び込み、全速力でパックご飯をレンチンする。当然その間の二分間、息を止めていられるはずもなく、口内を満たしていた美味は喘鳴と共に霧散するのだけれど、それはすでに一日の習慣として身についたルーティンで、どうにか成功しないものかと色々試行錯誤もした。
たとえば朝仕事に行く前にレンチンしておいて、帰って来てからご飯を温め直す。これなら一分で事足りる。しかし、その一分もなかなかに手強い。どうしても五十秒を過ぎると顔は赤くなり四肢は悶え始め、レンジに手を伸ばす前に吐息してしまう。ではもはや温めなければどうか。言うに及ばず美味くない。パンにしたらどうか。やはり日本人男子たるもの夕飯は飯と書くだけあって米を掻きこみたい。もっと早い話が自分で料理をすればいいのだが、いかんせん僕は料理というもの全般が苦手だ。どれくらい苦手かと言うと、家にフライパンがなく、塩以外の調味料がないくらい苦手だ。つまり、火を使ったり味付けをしたりが一切できない。
就職し、一人暮らしを始めて半年、だから今日までまともな自炊はしたことがないし、三食もっぱら出来合い品か外食かインスタントだ。実家からたまに送られてくる荷物の中に、野菜を足して炒めるだけで本格中華、みたいな素が入っていたりするが、ついぞ日の目をみたことはなく、いつまでも狭いキッチンの戸棚に収納されたまま賞味期限が切れるのを待つ運命となっている。根本的に包丁を使わないし、野菜も買わない。食べきる前に腐らせてしまう可能性の方がよっぽど高いからだ。
そんな僕の食事情に一石を投じたのがお隣の二0一号室の住人、夢石さんだ。
夢石さんは一ヶ月くらい前に越してきた。丁寧なのか人見知りなのか、引っ越し挨拶の蕎麦(乾麺)が明くる朝ドアノブに引っ掛かっていて、綺麗な文字で「隣の二0一号室に越してきた夢石です。よろしくお願いします」と書かれていた。僕は中堅商社に勤めていて朝は七時くらいに家を出て、夜七時くらいに帰宅する。(通勤に一時間ちょっと掛かる)
どうも生活リズムが僕とは違うようで、夢石さんと会った事は一度もない。つまり、いまだ面識はないままだ。
おそらく僕より早くに出勤し(学生だとすれば登校し)帰宅しているようで、僕が会社から帰る頃にはいつも美味しそうな料理の匂いが漂ってくるのだ。
そして帰宅時マックス腹ペコの僕は、毎度その魅惑の芳香にノックアウトされ、かくも無謀な「匂いで飯を食う」を実行しようと奮闘しているわけである。
二階建てアパートの外階段に足を掛ける前、僕はよしと一つ気合を入れて背筋を正す。そして出来る限りゆっくりと、息遣いに影響を及ぼさないように足取りを調整する。
二階の踊り場に辿り着くや臨戦態勢に入る。息を吸い込むタイミングを計り、そして瞬時に止めるのだ。
料理に疎い僕は匂いを嗅いでも今日のメニューが何かなんて見当もつかないが、なんとなく違いはわかる。昨日は和食系の出汁の香りがしたが、今夜はニンニクの香ばしい風味が際立っている。おそらく中華かイタリアンといったところだろうか。どちらにしても僕にとってはごちそうだ。たっぷりと透明の料理を吸い込んで堪能し、部屋へ駆け込み、握り飯にしておいた白ご飯にかぶりついた。
「うーん」
唸って、首を捻る。やはり冷たいおにぎりは味気ない。匂いが喉の奥に漂っていてもその冷たさにあっという間に掻き消されて輪郭をなくしてしまい、もはやどんな匂いだったかさえ思い出せない。
「やっぱり無理かぁ~・・・」
諦めを吐き出して、僕は大人しくふりかけを取り出した。本日の夕飯はのりたまおにぎりだ。
どうしてそこまで僕が夢石さんの手料理の味にこだわるか、それは圧倒的な妄想にあった。だって「夢石」さんだ。きっと名前はありさとかえりかとか、いや、今風だったら二文字でリノとかレナとか、なんにせよ美しい名に相応しい可憐な人に決まっている。加えて料理上手ときている。もはや期待するなという方が無理な話だ。顔は拝めないまでも、その手料理の匂いくらいはご相伴にあずかりたいと思ってもばちはあたらないだろう。言ってみればただの空気なんだから、窃盗にもストーカーにも当たらない。(と思う)
社会人一年目、仕事に慣れることに精一杯で、先輩にしごかれ満員電車でもみくちゃにされ、地元を離れて友達一人いないこの状況で、ごくささやかな楽しみと幸せをくれるのが、お隣の夢石さんの夕ご飯の香りなのだ。神様も少しくらい大目に見てくれるだろう。
そんなこんなで今日も夢石さんの部屋の前を通る前に気合を入れ直す。そしていざ足を伸ばそうとしたそのとき、背後から軽快に階段を駆け上がってくる足音が近づき、それは一瞬で僕を追い抜くと、二0一号室の前に立ち、鍵を差し込んだ。
その姿を見て、僕は魂が抜けたように、もしくは夢の中に入り込んだように突っ立ったまま茫然とした。
だって目の前でお隣の部屋へ入っていったのは、背が高くて髪は短く刈り込んで、肩幅は広く精悍な、どこをどう見たって立派な大人の男だったから。
僕は混乱した。放心したまま右の拳でこめかみを殴った。やっぱり夢じゃなく現実だ。夢石さんらしい男性はすでに扉の向こうへ消えている。もう確かめる術もないが、しばらくそうやって佇んでいるともしかしたら幻でも見たんじゃないかって気もしてくる。
そういえば今日はいつもより疲れている。仕事もハードだったし電車も遅延してさらに混雑していた。疲れすぎて脳がバッドトリップでもしたのかもしれない。そうこう模索している内に、鼻孔をくすぐる香りに条件反射のように体が反応する。間違いない。この香りの根源は我が家のお隣、二0一号室からだ。無意識にくんくんと鼻を鳴らし、陶酔する。
今日は何かの煮つけのようだ。甘辛い醤油の匂いの奥に生姜のスパイシーな風味が香る。
その途端胃腸が蠕動し、目が覚めたように僕は猛ダッシュで自分の部屋へ駆け込んだ。手を洗うのももどかしく、慌てて茶碗に移しておいたご飯を温めなおす。三十秒が一年にも感じる。チン、と鶴の一声のような美声が響き、僕は箸を右手に左手で茶碗を掴んだ。
無我夢中で白飯を掻きこむ。
「あ・・・」
僕は思わず声を漏らした。ほんの一瞬、鮮明にカレイの煮つけが目の前に飛来した。
寝る前は大抵イヤホンを突っ込んで音楽を聴くかパソコンで映画かドラマを見るのだが(一応騒音に気を使っている)、一瞬トイレに行こうと音量をオフにした時、その音が飛び込んで来た。お隣からだ。ぽつりぽつりとだが、話し声が聞こえる。はしたないと思いつつも、どうにも気になって、僕はイヤホンを外して息を殺し、その音声に聞き入った。
切れ切れだが会話しているようだ。男性の声と女性の声。内容までは分からないが、部屋に誰かいるのだろう。そしてふと思う。もしかしたら帰宅時に見かけた男性は住人ではなく、来客。つまり、夢石さんの恋人かなにかなのかもしれない。それなら合鍵を持っていたっておかしくないし、いまも部屋にいるのだろう。
やっぱり夢石さんは料理上手な女の人で、あの青年と付き合っているのだ。そんな結論に辿り着き、かすかな失望と多大な安堵に包まれて、僕は早めに寝床に付いた。
明くる日、僕はまたしても夢石さん彼氏に遭遇した。ほんの少し退社時間が遅れ、昨日と同じくらいの帰宅時間になったためだ。
玄関前で彼は鍵を開け、長身の体を折り曲げるみたいに低いドアをくぐって中へ入っていく。(実際は折り曲げてはいないが、そんな風に見える)
昨日は驚きと戸惑いで視覚が麻痺していたが、よくよく観察すると横顔はまずまず男前である。それに清潔感もあるし、あくまで主観だが礼儀正しそうにも見えた。
二0一号室のドアが閉まり、僕は階段の上り口で立ち往生する、部屋に戻るべきか留まるべきか。昨日の甘美な体験を思い浮かべると、どうしても足が動かなかった。このまま十分程度留まれば、またあの素晴らしい食の体験が叶うやもしれないと思うと、どうにもその場から動くことが出来ない。だからと言って外で立ち尽くしたまま人様の夕食の匂い待ちなんてなんとなく変人じみていて気が引ける。どうしようかと葛藤している内に、またなんとも鼻腔をくすぐる悩ましい香りが周囲に満ちはじめ、僕はまるで夢遊病のようにふらふらとドアの前まで吸い寄せられてしまった。
今日のメニューはなんだろうか。夢心地で眼を閉じでいると、突如現実へ引き戻す扉が勢いよく開き、僕は逃げることも隠れることも出来ずに面食らったまま直立不動になった。
目の前には、夢石さん彼氏が目を丸くして固まっている。僕たちはしばらくそれぞれの動揺を落ち着かせようと視線を合わせたまま佇んだ。一時間にも感じたが、おそらく一分程度のことだったのだろう。先に正気を取り戻した夢石さん彼氏が玄関口で口を開いた。
「あの、いまって時間ありますか?」
低くくてよく通る、いい声だった。しかし言われて意味が瞬時に吞み込めず、僕は目を泳がせて口をぱくぱくと動かす。こたえたくても形になって答えが出てこない。たかがイエスかノーかすらいえないなんて幼児以下だ。
仕方なく少しだけ顎を引いて頷いた。すると、まるで神でも見たみたいに夢石さん彼氏の顔が輝き、僕に一歩近づいた。
「良かった・・・っ、本当に申し訳ないんですが、、少しだけうちに上がって鍋を見ててもらえませんか、五分いや、三分で戻るんで!」
勢い込んで言い終えると、僕の返事も待たずに脇を通りすぎて階段に走っていく。僕はそこでようやく暗示が溶けたみたいに口を開いた。
「あの、それは構いませんが・・・・、その、彼女さんが中にいるのでは??」
もしも夢石さんが中にいるのなら、見ず知らずの隣人であり、一応年頃の僕が二人きりになってしまっては具合が悪いだろう。
しかし、夢石さん彼氏は階段前で急ブレーキをかけて立ち止まると、肩越しに振り返って告げた。
「そんな人はいませんよ。僕だけの一人暮らしです」
そしてそのまま階段を駆け下り、アスリートもかくやというものすごいスピードでアパートの門を出て見えなくなっていく。僕は呆気にとられたまま、とりあえず中に入って考えようと、なぜか隣家の玄関で靴を脱ぎ、ことことと健気な息吹を投じ続ける鍋の前に陣取った。部屋の中は、言われた通り無人だった。
きっかり五分後、息を切らせた夢石さん(彼氏?)が戻ってきた。手にはコンビニの袋がぶら下がっている。
「・・あのっ・・ほんとに・・すみません・・・お忙しいところ・・・突然・・・ご迷惑でしたよね・・・・」
息も絶え絶え腰を折って謝罪する姿に無論怒りも不満も沸くはずもなく、元より忙しくもない上、どちらかというといつも夕食の香りを盗み掻きするという奇行を繰り返していた疚しさもあって、僕は大げさなくらい首を振った。
「いえいえっ、顔を上げてください・・・っっ鍋を見るくらいどうってことないですし、それにほんの五分程度でしたし、お隣のよしみですから・・・あ、そういえば引っ越し蕎麦ありがとうございましたっ」
蕎麦の礼も言えていなかったことを思い出し、ついでに付け加えた。しかし味の感想は付け足せない。なぜなら、まだ食べていないからだ。蕎麦を茹でることすら億劫で手つかずになっていることなど、明かせるはずもない。
「いやほんと、初対面なのにこんな厚かましいお願いをしてしまって、なんてお礼を言ったらいいか、ほんとうにありがとうございます」
恐縮し通しでまたも頭を下げる夢石さん(彼氏?)を前に、僕はさらに頭を低くする。なんだかおばちゃんどうしの譲り合いみたいだ。やっていて可笑しくなってきて、僕はふと小さく吹き出した。つられるように、夢石さん(彼氏?)も表情を緩める。気難しそうなイケメンだと思っていたが、笑うと目が細くなって子供みたいに無邪気に見えた。
その途端僕の気持ちも緩み、肩の力も抜けた。急激に五感の感覚も戻って来て、、目の前の鍋が放つ香りに胃が暴動を始める。
ぐ、ぐぐ~~~~
なんともなさけない声で鳴いた胃袋を恨めしく両手で押さえて、僕は恥ずかしさのあまり真っ赤になって俯いた。なんだってぼぼ初対面の好青年相手に盛大な腹の虫を聞かせなければならないのか。しかし時計はもう午後八時を挿している。空腹も最高潮を迎え、いまかいまかと大合唱の発声練習に取り掛かっている。このままではこの場で本番を迎えてしまいかねない。
「あの、じゃあ僕帰りますっっ」
慌てて靴を履こうと踵を返したところ、温和な声で引き留められた。
「もしよかったら、夕飯一緒にどうですか?」
「へ?」
「今日はサムゲタン風スープなんです。お嫌いじゃなかったら」
「え、でも彼女さんは・・・」
「だから、そんな人いませんって」
夢石さん(彼氏?)は呆れたように苦笑して、その瞬間に目の前の青年はただの夢石さんになった。
鍋からは暴力的なまでに狂おしい香りが雄弁に漂ってくる。もしこの誘惑に抗えるならば、それはもう人類とは呼べない。
「ぜひ・・・」
僕はつかれたように夢うつつで頷いた。
夢石さん宅のちゃぶ台の前に置かれた座布団に座り、同じ間取りの1DKのキッチンに立つ夢石さんの背中を眺める。手際よく包丁やお玉を操り、皿を並べて夕餉の支度を整えていく姿に陶然と見入ってしまう。いったいなんだってこんな状況になっているのかはわからないが、とにもかくにも僕は夢にまで見たお隣の夕食にありつける機会に巡りおおせたのだ。些細な疑問など取るに足らない。
やがて夢石さんはお盆片手にちゃぶ台に近づくと、愛しさすら覚える白い湯気の立ち上るお椀や皿を並べ始めた。味わうまでもなく、それは完璧な美味だった、この数か月、嗅覚で鍛えられた味覚レーダーが軒並み高得点を掲げている。
スープとサラダと、なんだか綺麗な色のついたいい匂いのご飯を並べ終わった夢石さんが対面に腰を下ろした。そして、グラスに缶ビールを注いでくれる。もうなにも無くても何かのお祝いみたいだ。
「お待たせしました。じゃあ、いただきましょうか。どうぞ」
夢石さんの号令と共に、かくも優雅な晩餐が始まった。
見た目はクールなナイスガイだが、夢石さんは話してみるとかなり気さくで、しかもちょっとだけ天然だった。料理の解説をしながら、時折見せるあどけない表情に空気が解れる。
「檸檬がないことをすっかり忘れていて、だから慌てて買いに行こうと部屋を飛び出した時にばったりだったんですよ。変な奴だと思ったでしょ。いやぁほんと恥ずかしいな」
言って、屈託なく笑う。僕も笑いながら相槌を打つ。口福でいっぱいだった。
「コンビニだから生の檸檬は売ってないし、容器のレモン汁で申し訳ないですが、これお好みでスープに入れてみてください。味変にもなりますし」
「あ、どうも」
言いながら、二、三滴垂らしてみる。鼻先に持っていくと、口に含まずとも新鮮な風味が壮大に広がり、新たな可能性を開拓したことが明瞭にわかった。思えは、料理に檸檬を絞るなんて発想はさんまくらいで、自分史上例を見ない新境地と言っていい。
「これ、ほんとに美味しいです。まるでお店の味みたいで、とても家庭料理とは思えない」
夢中で手羽先をしごきながら、僕はいつしかかなり饒舌になっていた。ビールの効果もあったのだろう。
夢石さんが照れたように頭を掻いて、グラスを口に運んだ。
「そう言っていただけると、ほんと励みになります。僕、実は料理屋の見習い中で、といっても今はランチと仕込みだけの下っ端なんですけどね。だから夕食も勉強の一環なんですよ。いや、ほんと練習台になってもらったみたいで恐縮です」
「え、これが練習なんですか?もうお店レベルですよ。僕なんて目玉焼き一つ作れないんだから、尊敬します」
「あはは、料理なんて慣れですから。ちょっと練習すれば自転車みたいにすぐ出来るようになりますよ。良かったら今度お教えします」
夢石さんは目尻に愛嬌のある皺を寄せた。
「これって帰ってから作ってるんですか?すごく時間かかりそうですけど」
「いや、今朝仕込みをして、煮込んでおいたんですよ。本物の参鶏湯はもっと時間が掛かるんですが、これはなんちゃってっていうか、サムゲタン風なんで、手羽先使ってますし、そんなに手間もかかってないんですよ」
参鶏湯とサムゲタン風と言われてもいまいちピンとこない。というよりもその前に参鶏湯というワードすら人生で五本の指で数えられる程度にしか発声した覚えがない。見習いとは言え、さすが料理人だと感動し、僕はスープを深く味わった。
「夢石さんは、プロの料理人さんを目指してるんですか」
なんとなく言った言葉に、夢石さんは思いのほか反応してビールを傾ける手を止めた。
「他の取り柄もなくて、ただ田舎にいてもやることもなかったし、それで一大決心って言うか、絶対自分の店を持つって大見栄切って飛び出してきちゃったんですよ」
ちょっと意外だった。涼しそうな外見とは裏腹に、とても熱いものを持っているのだ。なんだか少し羨ましい。僕はと言えば、何となく就職はしたものの、別段興味があったとかやる気があったとかいう訳ではない。何十社も受けて、ようやく引っ掛かった会社に縋るように入社しただけだ。そう思うにつけ、、目の前の夢石さんが急に眩しく見えて、僕はその刺激にちょっと涙が出そうになった。
「下手の横好きって言うんですかね、いまは自分の実力がどれだけ井の中の蛙だったかって痛感してるところです。いやあ考えが甘かった。だけどこれがきっかけてお隣さんと一緒に飯が食えたんですから、悪いことばかりでもなかったな」
夢石さんはそういって頭を掻いて微笑った。僕もつられて笑った。
「だから、ほんとにいつでも料理教えますんで、また遊びに来てください。僕くらいの料理ならすぐに出来るようになりますよ」
「そんな、とてもじゃないけど僕にはこんな手の込んだ料理なんて無理です。それに夢石さんもお忙しいでしょうし、その、お友達とかも来られるでしょう」
昨日の話し声が彼女じゃないにしても、部屋に遊びに来るような女性がいることは間違いない。それはそれで僕とは別次元のリア充さんだ。恐れ多くてとても邪魔なんてできない。
「家に来るような友達なんていませんよ。僕、田舎からこっちに出てきたばかりですし、知り合いもお店の人くらいで。部屋に人が来たのもここで誰かと一緒に飯食ったのも今日が初めてです」
「え、だって昨日話し声が・・・」
言いかけて口籠った。まるで聞き耳でも立てていたみたいで恥ずかしくなったし、不審に思われたくもなかった。
「ああ、えっと、それは・・・」
今度は夢石さんが歯切れ悪く言い淀んだ。何だか男二人でテーブルを挟み、顔を赤らめて俯くなんていう変な絵面になっている。
「実は、最近携帯を買い替えたんです。その、スマートフォンに」
意を決したように夢石さんが顔を上げた。耳がまだうっすらと赤い。
「はあ・・・」
僕はどうこたえていいか気の抜けた相槌を打った。スマホでスピーカーにしていたとかだろうか。
「その、最近のスマートフォンっていうやつは、すごく賢いんですよね、AⅠって言うんですか。ちゃんと考えてこたえてくれるっていうか。僕感動しちゃって、それでついつい長話を・・・」
イマイチ話の全貌が掴めず、僕はまたしてもぼんやりと頷いた。
「はじめは照れたんですけどね、機械に呼びかけるなんて。だけど一度返事をしてもらったらもう癖になっちゃって。ちょっとつれないところなんかも胸をくすぐられるって言うか」
そこまで聞いて、僕の鈍重な頭もようやく合点がいった。ふつふつと胸の隙間から笑いと歓喜が沸き上がって、抑えようにも肩が震え、声が漏れる。
「僕も最初は感動しました。すごいですよね、・・・シリって」
「そうなんですよ!ヘイシリっなんてとても正気で呼びかけられないと思ったんですけど、まあこれも慣れですよね。今となってはもう全く平気です」
そう言って、ちょっと恥ずかしそうに鼻の下をなぞって笑う夢石さんを見て、僕はまた嬉しくなってビールを一口啜った。
ほんとはシリよりももっと高性能に会話できるアプリもあって、実は僕も密かに利用したことがある。普通に検索や生活に楽だからだが、話し相手としての役割も少なからずあった。だけど僕は意識的にそれには触れなかった。意地悪や計算じゃなくて、本心から必要ないと思ったからだ。だってその方が、一緒に考えたり話したりする機会が増えるから。
「あの、ほんとに料理教えてもらっていいんですか?」
嬉しくなったついでと酔った勢いを使って僕は図々しくも切り出した。
「もちろん、あ、だったら番号交換しましょうか。ラインも」
夢石さんはいそいそとベッドのサイドテーブルで充電されていたスマホを手に取った。
「ええ、喜んで」
僕も慌てて鞄からスマホを取り出す。ぎこちない手付きでやや照れた面持ちを持て余し、僕たちは連絡先を交換した。
「来月から賄い当番なんですよ。だから新メニューにも挑戦したくて。また味見してください」
「僕で良ければ、ぜひ」
上京して数か月、はじめて増えた職場以外のメモリと美味しい料理の先生、そして、たぶん、本物の友人になりそうな予感のお隣さん。今夜部屋に戻ったら、僕はきっとこう言うだろう。
ヘイシリ! サンキュー!
そしておそらくシリはこう答える。
モウイチドイッテクダサイ
参鶏湯スープって美味しいね!
サムゲタントハトリニクノナカニモチゴメヤ・・・
そういう冷たくてちょっとずれたところも今となってはたまらなく愛おしく思える。
シリという架空の友人に大いに感謝して、胸が一杯になりながら檸檬風味のスープを口いっぱいに含んだ。




