7
リリィの声が静かに途切れたあと、庭を包む空気がふっと変わった。
朝の光は穏やかで、花々が風に揺れ、どこか祝福するように咲き誇っている。
だけど、私の視界には、ただ彼女だけが映っていた。
“契約だけでは、もう足りない”
“それでも、あなたの傍にいたいのです”
その言葉が、静かに心に沁みてくる。
感情がこみあげてくるたびに、胸がきゅうと締めつけられるようだった。
彼女は強い。
誰よりも繊細で、誰よりもまっすぐで――それでも、こうして“わたしを選ぶ”という決意をしてくれた。
わたしは、そのすべてを愛おしいと思っている。
「……リリィ」
名前を呼ぶだけで、喉の奥が少し震えた。
彼女が、静かに、けれど確かに私を見つめ返してくれる。
その瞳の奥には、迷いも不安もあった。
それでも揺るがない強さがあった。
わたしはゆっくりと歩み寄り、風になびかれて彼女の顔にかかったひと房の銀の髪を、みて反射的に手が動いていた。
「……髪が乱れてたわ」
やさしくその髪をそっと耳の後ろへと整える。
ふわりと指先に触れた感触に、わたしの方が少しだけ戸惑った。
けれど、手を引こうとは思わなかった。
髪を整えたあと、そっと手を離したとき、リリィの頬がぱっと赤く染まった。
「……あ……ありがとうございます」
小さな声。少し早くなった呼吸。
そして、目を合わせられずにわずかにうつむく仕草。
――可愛い、と思った。
その表情に、胸の奥がやさしく揺れた。
今度はしっかりと気持ちを込めて伝える。
「さっきの言葉、嬉しかった。想いを伝えてくれて……本当にありがとう」
ゆっくりと言葉を選びながら、今度はしっかりと彼女を見つめた。
「私からも貴女に伝えたいわ……リリィ。私あなたに恋をしている」
リリィの目がはっきりと揺れた。
その表情を見て、心の奥から静かにあたたかいものが広がっていく。
「ずっと、言えなかった。どこかで言葉にするのが怖かった。けれど、今ならちゃんと伝えられると思うの。わたしは、あなたがいてくれるだけでいい。笑ってくれるだけで、救われる」
手をそっと差し出す。
そして――
彼女の手の上に自分の手をやさしく重ねた。
彼女が小さくけれど確かににぎり返してくれる。
それだけで、心がほどけていく。
「ルクレールに帰ったら、あなたのための部屋を用意するわ。日差しの入る、落ち着ける場所に。……そしてね、リリィ。これからの毎日、わたしの隣にはあなたがいてほしいの」
リリィが目を見開き、わたしをまっすぐ見上げる。
「たとえば食事のときも、何気ない日常も、あなたがそこにいることが自然で――当たり前になるように。そんな暮らしを、あなたと始めたいの」
頬がほんのり赤いままのリリィの目が、ゆっくりと潤みを帯びていく。
「あなたが過去に何を背負っていても構わない。私は“今のあなた”に恋をしている。気高さも、迷いも、あたたかさも、全部ひっくるめてあなたという人が……好き」
それが、偽りのない、私の本当の気持ちだった。
「……だから、これからもずっとわたしの隣にいて。恋人として――そして、かけがえのない存在として」
あたたかな手のぬくもりを、指先に確かめながら、わたしはようやく口元に、心からの微笑みを浮かべることができた。
◇ ◇ ◇
“恋人として、私の隣にいてほしい”
その言葉を受け取った瞬間、心の奥に何かがやわらかく触れた。
熱を持ったまま、そっと溶けていくような、あたたかくて、優しい感情だった。
エリス様は、わたしの手を包みながら微笑んでくれていた。
けれど――
「……あら? 返事がないのね」
ふっと、いたずらっぽい声音が降ってきた。驚いて顔を上げると、エリス様がすこし唇の端を上げて、わたしを見つめていた。
「想いは伝えてくれたけど……できれば、あなたの口からも、聞かせてほしいわ」
その目は、冗談めいているようでいて、どこかまっすぐだった。
やさしさの奥にある“ほんの少しの期待”が、わたしの胸をふるわせた。
「……わたし……」
声がかすれる。
言いたい。
伝えたい。
でも、“好き”というたった一言が、どうしてこんなにも遠いのだろう。
わたしは、臆病だった。
こんなにも想っているのに、それを口にした瞬間、なにか大切なものが変わってしまう気がして――怖かった。
けれど、その気持ちに寄り添うように、エリス様は静かに微笑んだ。
「焦らなくてもいいのよ。でもね、欲張りなわたしは……やっぱり、言葉でも聞きたくなってしまうの」
その声が少しだけ揺れていた気がした。
(……わたし、こんなにも大切に思ってもらえていたんだ)
胸がぎゅうっとなって、息が詰まりそうになる。
ようやく、絞るようにして言葉がこぼれた。
「……わたしも……エリス様のことが、好きです……」
最後の一言が、小さな声になってしまったのは、恥ずかしさに負けたからだった。
でもそれでも――わたしの本心だった。
視線を上げると、エリス様がやわらかく微笑んでいた。
その笑みが、すべてを包み込んでくれるようで、胸の奥にあった緊張が少しずつ解けていく。
けれど、次の瞬間。
「……ねえ、リリィ。もう一つ、わたしのわがままを言ってもいいかしら?」
その声に、胸がすっと引き締まる。
エリス様はほんの少し、いたずらっぽく目を細めて、囁くように続けた。
「“エリス様”じゃなくて、“エリス”って呼んでほしい」
「……え……?」
わたしの思考が、ふっと止まった。
今、なんて――?
「恋人になるのなら、“様”はもういらないでしょう?」
その言葉は、さらりと告げられたのに、わたしの心に落ちた衝撃は大きかった。
(“エリス”って……呼ぶの? わたしが……?)
これまでずっと、“公爵様”で、“エリス様”だった。
尊敬と、畏れと、憧れと、敬愛――すべてを込めた、その呼び方。
それを捨てることは、“距離”を縮めること。
たった一言で、わたしたちの関係が変わること。
それを、エリス様は、望んでくれている。
「……む、無理かもしれません……」
言葉が震えた。
視線を落として、思わず彼女の手をぎゅっと握る。
「その……わたしなんかがそんなふうに呼んで、変だって思われたらって……」
唇がかすかに震えた。
それでも――
(でも、本当は……呼びたいって、ずっと思ってた)
自分の中の声が、そっと囁く。
エリス、と。
その名前を、誰よりも近くで、呼びたいと。彼女の心に届くように、ただの敬意ではなく、愛情を込めて。
だから、わたしは――
静かに顔を上げた。
エリス様の瞳が、変わらずにわたしを見てくれている。
拒絶ではなく、笑ってもいなくて――
ただ、待ってくれていた。
「……エリス」
ぽつりと、名前を呼ぶ。
その響きが、唇を通った瞬間。
胸の奥に、柔らかい何かがじんわりと広がっていった。
わたしだけが呼ぶ、その名前。
彼女だけに向ける、想いの音。
恥ずかしくて、目を合わせることなんてできなくて。
でも、わたしはもう、逃げたくなかった。
「……エリス、って……これからたくさん呼びます」
その言葉は、恋人としての最初の一歩だった。
「……ありがとう、リリィ」
やわらかな声が、頭の上から降ってくる。
次の瞬間――
そっと、あたたかい腕がわたしの身体を包んだ。
何も言わずに、ただ、やさしく。
拒む隙間も与えず、だけど乱暴じゃなくて、わたしの気持ちの震えごと、そっと包み込むような抱きしめ方だった。
どこにも力が入らなくなって、わたしは静かにその胸に身を預けた。
鼓動が、少し早くなる。
けれど、それは怖さではなく、嬉しさで。
こんなにも穏やかで、こんなにもあたたかいのに、泣きそうなくらい幸せで。
「……リリィ」
その名を、低く、息をかけるように呼ばれるたび、胸が甘く締めつけられる。
「ありがとう。名前を呼んでくれて。……わたしの隣にきてくれて」
その言葉に、わたしの胸の奥がじんと熱を帯びた。
これまで傷ついて、孤独だった日々が、この腕の中で、少しずつ癒えていくような気がした。
「わたしのほうこそ……ありがとうございます」
そう答える声が、かすかに震えていたのは――たぶん、涙を堪えていたから。
顔は見られたくなくて、胸元にそっと額を寄せた。エリスは何も言わず、ただその腕に少しだけ力をこめる。
そのぬくもりが、胸いっぱいに満ちていく。
もう、この手を離したくない。
この気持ちを、見失いたくない。
そう強く思った。
長い沈黙だったけれど、わたしたちには、それがちょうどよかった。
言葉じゃなくて、ぬくもりで伝えられる想いが、確かにここにあったから。
わたしたちの新しい関係がここから始まる。
たとえどんな不安があっても、この人となら、愛して、愛されて、明日を共に歩いていける。そんな確信が胸の奥に灯っていた。
◇ ◇ ◇
彼女の手を包みながら、そっと目を細める。
言葉にしてくれた想いも、手のぬくもりも、なにもかもが嬉しくて、胸の奥がじんわりと熱を帯びていた。
けれど。
――まだ、言葉が足りない。
ふと、そんなことを思ってしまった自分に、少しだけ苦笑する。
「……あら? 返事がないのね」
あえて冗談めかした声でそう言ったのは、彼女を困らせたかったわけじゃない。ただ――
“好き”と、彼女の口からも聞きたかったのだ。
言葉じゃなくても、想いは伝わっている。そんなことは、分かっているはずなのに。
けれど私は、あの子の震えるような声で、その一言を聞きたかった。
この気持ちは、欲張りだろうか。
そんなふうに思いながらも、わたしはいたずらっぽく唇の端を上げた。
「想いは伝えてくれたけど……できれば、あなたの口からも、聞かせてほしいわ」
彼女の藍の瞳が、ぱちりと瞬いた。
不意を突かれたような、戸惑いと羞恥の混じった反応が、あまりにも正直で。
胸がきゅう、となった。
(……私は、こんなふうに、誰かをからかうような言葉を口にする人間だったかしら)
かつての自分なら絶対に言わなかった。
感情を揺らす言葉をあえて選んで相手に向けるなんて。
けれど今は、その“変化”が自然に感じられる。なにより、嫌ではなかった。
こんなわたしを引き出してくれたのは、きっと目の前の彼女だ。
ゆっくりと頬を染め、うつむくリリィの姿に、胸の奥がじんわりとほどけていく。
「焦らなくてもいいのよ。でもね、欲張りなわたしは……やっぱり、言葉でも聞きたくなってしまうの」
そう言った声は、自分でも少しだけ震えていた。
本当はわたしのほうが、彼女の気持ちを、何度でも確かめたいと思っていたのかもしれない。
臆病なのは、わたしのほうだったのだ。
そんな私に向かって、リリィは震える声で言った。
「……わたしも……エリス様のことが、好きです……」
たったそれだけの言葉が、まるで祝福の鐘のように胸に鳴り響いた。
彼女の声が愛おしくて、恥じらいを含んだ瞳が美しくて、思わず言葉を失う。
(……ああ、どうしてこんなに)
心がこんなにも満たされるなんて、思ってもいなかった。
わたしは少しだけ目を伏せる。
笑いたくなるくらい幸せで、でも泣きたくなるくらいに愛おしい。
自分がこんな感情を抱く日がくるとは思わなかった。
けれど、今の自分が嫌いじゃない。
少しからかうような言い方をしてしまったことさえ、どこかくすぐったくて――
それでもそんな自分を認めてみたくなっていた。
「……ありがとう、リリィ」
もう一度彼女の名前をそっと呼ぶ。
でもまだ足りない、もっと彼女の近くにいたい。
肩書きでも、敬意でもなく、彼女の本当の言葉で――わたしの名前を、呼んでほしい。
「……ねえ、リリィ。もう一つ、わたしのわがままを言ってもいいかしら?」
自分でも驚くほど、さらりとした声音だった。
まるで何気ないことのように言いながら、胸の内では、ほんの少しだけ緊張していた。
「“エリス様”じゃなくて、“エリス”って呼んでほしい」
彼女の瞳が、大きく揺れる。
想像以上に驚いた反応に、わたしは思わず微笑みそうになった。けれど、視線は逸らさなかった。
「恋人になるのなら、“様”はもういらないでしょう?」
思えば、昔のわたしなら絶対に言えなかった台詞だった。
呼び捨てで名前を呼ばれることに、どこか恐れを感じていた頃もある。
けれど――今は違う。
リリィには、そうしてほしいと思った。
敬意の裏に隠された距離ではなく、彼女の声で、彼女の心で、名前を呼んでほしい。
その願いが、こんなにも自然に口をついて出たことに、わたしは驚きながらも、どこか心地よさを感じていた。
「……む、無理かもしれません……」
リリィの小さな声が、震えていた。
それを否定せず、ただ見守る。
やがて彼女は、顔を上げた。
怯えながらも、向き合おうとしてくれるその姿が、どれほどいとしかったか。
そして、ほんの少しだけ唇が動く――
「……エリス」
その一言が、わたしの胸の奥で優しく鳴った。
まるでずっと待ち望んでいた旋律のように。
この世界にこんなにも甘く響く音があるなんて。
彼女の声で名前を呼ばれる。
それだけで、心の奥に、あたたかな波紋が広がっていく。
「……エリス、って……これからたくさん呼びます」
恥じらいを帯びたその言葉に頬が緩む。
愛しくて、たまらなかった。
「……リリィ」
その名を呼ぶと、彼女が少しだけ目を伏せて、ほんのわずかに笑った。
わたしは、そっと腕を伸ばした。
彼女の身体を静かにそしてしっかりと抱きしめる。
拒まれるかもしれないという不安はどこにもなかった。
この腕の中にちゃんと彼女の温もりがある。
「エリス」と呼んでくれた彼女の声が今も耳に残っていた。
わたしは彼女に恋をしている。
そして――その声に毎日帰ってきたいと思った。
ただの家ではなくただの関係でもなく。
“リリィ”という存在こそが、わたしの帰る場所なのだと、今は心から思える。
その想いを胸に、わたしは彼女をそっと抱きしめ続けた。
◇ ◇ ◇
中庭を一望できる屋敷のアーチの影――
エリスとリリィが静かに言葉を交わすその姿を、クラウスとミレイユは少し離れた位置からそっと見守っていた。
「……見てください、クラウス様……あの目線……あの距離……っ」
ミレイユが、両手をぎゅっと胸の前で組み、目をうるうるさせながら声を潜める。
「ええ、見えておりますとも」
クラウスは穏やかな口調のまま、しかし口元にわずかな笑みをにじませた。
「……まさか、あのお方が、あんな表情をなさるなんて……。わたし、初めて見ました……あんなやわらかい眼差し……」
思わず涙ぐみそうになっているミレイユをちらと横目で見やってから、クラウスはわざとらしく小さく咳払いをする。
「おやおや、これはいけませんな。侍女長殿。感情が表に出ておりますぞ?」
「う……ううっ……クラウス様、こんな公爵様の晴れ舞台の時に侍女長殿と呼ぶなんて……少しくらい良いではありませんか」
顔を真っ赤にしながら詰め寄るミレイユに、クラウスは涼しい顔のまま軽く肩をすくめる。
「とんでもない。僭越ながら、職責に見合った敬称をお呼びしただけです」
「そんなに愉快そうに笑いながら言っておいて……!」
小声で詰め寄るミレイユの目には、既に感動と喜びの涙が浮かんでいる。
その視線の先――
庭の中央では、エリスがリリィの頬にかかった髪をそっと払っていた。
「……あ、あれ……今見えているのは夢ですか……もう無理です……心臓が……!」
「おや、侍女長殿の寿命がまた縮まりましたな」
「クラウス様……本当に、本当にうれしいですね……あの方が、こんなふうに誰かを想って、あんなやさしい言葉を紡いで……」
ミレイユは、手をぎゅっと握りしめたまま、呟くように言った。
「……あんな公爵様、わたし、今まで一度も見たことありませんでした」
「ええ。昔のあのお方は、誰の前でも決して気を緩めず、我々にもご自身の心を見せることはなかった」
「でも、いまのあの笑顔……あの仕草……まるで、初恋中の貴族令嬢みたいで……」
「ミレイユ。今のは公爵様に聞かれたら怒られますぞ」
「だって本当のことですもの!」
小声で言い合いながらも、ふたりの表情には、微笑ましいものが宿っていた。
エリスとリリィの距離がさらに縮まり、そっと抱き寄せるような仕草が見えたとき。
「きゃっ……っ!」
ミレイユが小さく跳ねるようにして、思わず口を両手で塞ぐ。
「……も、もう……あとは……もうキスしかないじゃないですか……!」
「こらこら、騒ぎすぎですぞ、ミレイユ。興奮のあまり屋敷の者が集まってしまいます」
「でもっ……あの二人を見てください……あれはもう見てるこっちが恥ずかしくなるくらい初々しい……!」
「まったく……そう熱くならずとも……ふふ、ですが、確かに――あのお方が、ようやくご自身の“心”を預けられる人に出会えたこと……それだけで、我々には何よりの喜びですな」
「ええ……」
ミレイユは感無量といった面持ちで、そっと手を組む。
「きっと、きっとこれからも、素敵な時間が待ってますよね……」
「ええ。そのためにも、我々が支えて差し上げなければなりませんな。」
「そうですねっ!」
ふと、二人を見守っていたミレイユは急に真剣な表情をした。
「……ねえ、クラウス様」
ミレイユが小さな声で囁くように話しかける。
「もし……もしわたしたちが、この様子を“見ていた”と公爵様に知られたら……どうなってしまうのでしょう?」
問いかけというよりは、スリルを楽しむような調子だった。まるで少女が秘密を共有する相手に声をひそめるときのような。
クラウスは、わずかに顎に手を当て、芝の上を歩くふたりの距離を目で追ったあとで、重々しく頷いた。
「……さあ、それはもう、“とんでもない量の仕事”を押し付けてくるでしょうな」
「ひ、ひぃっ……!」
「徹夜の帳簿整理は当然として、来月までの予算組みのやり直し、食料庫の棚卸しに、書庫の巻物の分類整理……」
「そ、そんなぁ……」
「冬服と夏服の入れ替えも、馬小屋の天井掃除も追加されましょうな。もちろん、ミレイユおひとりで」
「な、なぜひとりでなんですか……っ!この場合二人で、でしょう」
ミレイユがぷるぷると肩を震わせ、情けない声を漏らす。
「……やめてください。想像しただけで胃がきゅっと痛くなってきましたわ……」
両手で頬を覆ったミレイユを、クラウスは横目でちらりと見ると、さらにとどめを刺すように口を開いた。
「それは――ミレイユ、貴女の声……」
「……え?」
「さきほどから庭に響き渡っておりましたな。……もしかしたら、公爵様に聞こえていたかもしれませんぞ?」
「っ……!!」
ミレイユの顔から一瞬で血の気が引いた。
「き、聞こえて、い、いえ、な、何も申し上げておりません! なにも……っ!」
慌てふためいて手を振る姿に、クラウスは目を細めて肩をすくめる。
「ご覚悟を。きっと、あの方は静かに微笑みながら――“ミレイユ、わかっているな?”と、おっしゃるでしょうな」
「ひいぃぃ……!」
ミレイユはうずくまるようにして身を丸めると、かすれた声でつぶやいた。
「……今から謝りに行けば、まだ間に合うでしょうか……氷室の番人にはなりたくないです……」
「遅いですな」
クラウスのひと言に、ミレイユはぎくりと固まる。
けれど、次の瞬間ふたりの視線は再び庭の中央――抱き合うように寄り添ったエリスとリリィへと向けられた。
そこには、誰にも触れられない、ふたりだけの静かな世界があった。
「……でもまあ、これだけ幸せそうなお二人を見られたのですから……」
クラウスがつぶやくように言うと、ミレイユも小さく笑みを浮かべて、頷く。
「罰などどうでもいいくらい、報われた気がしますわ」
「ええ、まったく」
ふたりの声は、芝の風に紛れて、庭の向こうへと溶けていった。
けれど最後に、ミレイユがぽつりと――またまるで独り言のように、けれど確かな覚悟を滲ませて呟いた。
「……これ、見てたのが本当にバレたら……」
「ええ。ええ。きっと――」
クラウスは小さく、実に静かに頷いてから、声の調子をほんの少しだけ下げた。
ミレイユは小さく頭を抱えたが、その表情はどこか、嬉しそうでもあった。
彼女の声は、もしかすると……ほんの少しだけ、庭に届いていたかもしれない。
そうしてふたりが静かに見守っていた朝から、ほんの数日後のこと。
邸宅の奥庭で、巨大な布の山を抱えながら、バランスを崩しそうになっているミレイユの姿が目撃された。
「え、ええい……この冬物、なぜ“すべて畳み直して分類”なのですの!? しかも“今年は例年より丁寧に”って……!?」
ぶつぶつと呟きながらも手は止めず次々に作業をこなしていくその姿は、もはや“優雅な侍女長”というより、完全に“働き蜂”だった。
ちょうど通りかかったクラウスが、通路の陰からその様子をひと目見て苦笑を浮かべる。
そしてぽつりと誰に言うでもなく呟いた。
「……ふむ。予想通り、とんでもない仕事の山が……。…聞こえていたんでしょうな、やはり」
そう言ってクラウスが肩をすくめたちょうどその時。
布に埋もれながらもミレイユの声がふたたび上がる。
「……み、みていたのなんて……ほんの一瞬でしたのに……!」
返ってくる声は、もちろん誰にもない。
けれどその背中からは、「これは自業自得ですわ……」という心の声がありありとにじんでいた。