6
場所は、王都の中央広場から東へ数街路進んだ、古くから続く名門侯爵家のサロン。
陽光が差し込むガラス張りの広間には、絢爛なドレスに身を包んだ貴族令嬢や奥方たちが集まり、今朝仕立てられたばかりの菓子と紅茶を囲んでいた。
甘い香りが漂い、笑い声が絶え間なく響くその空間の奥で、ひとつの話題が静かに、しかし確実に熱を帯びていた。
「ご存じ? 王太子殿下との“正式な”婚約が、ついに解消されたそうよ」
「ええ、聞いたわ。相手は……あの“次女”よね。名前は……」
「リリィ様。たしかフォルテ家の――」
「そう。あまりに静かで、印象が薄くて。正直、記憶に残っていないわ」
「まあ、確かにあのお方はいつも目立たない後ろにいて……姉君ばかりが社交の華として取り上げられていたからね」
扇子が軽やかに振られ、ひそやかな笑いがテーブルを包む。けれどその笑いは、どこか冷たく、濡れたガラスのような光を帯びていた。
「王太子殿下が選ばなかった理由、いくつか耳にしたわよ。体調がすぐれないとか、性格が合わないとか、はたまた……傷物だとか」
「まあ……傷物、ですって?」
「ええ、あくまで“噂”だけれど――過去に何かあったらしくて。それも……貴族の子息ではない相手と」
「まあ、それが本当だとしたら……王太子妃には相応しくないわね」
「どちらにせよ、あの方、周囲と馴染めていなかったものね。あの年で未だに誰にも心を開かないだなんて、かえって不気味ですわ」
「わたくしが殿下の立場でも、遠慮したくなるかもしれませんわ」
誰かがグラスを置く音がして、笑いがまたひとつ生まれた。
「それにしても……今では“公爵様のお屋敷にいる”って話よ。エリス・グランチェスター公爵の。ご存じ?」
「……え? あの“氷の公爵”と?」
「他に誰がいるのかしら。見た目は申し分ないし、国の柱とされる存在ですけれど……
あのお方、これまでそのような噂なんて一切なかったのに」
「だからこそ、余計に不可解なのよ。どうしてまた、よりにもよって“あの子”なのかって」
「考えてもみて? 公爵様が保護しただけでも十分に不自然なのに、“滞在”させているなんて――」
「……よほど、特別な事情でも?」
「それとも、“義理”かしら。カスティル家との古い縁でもあって、仕方なく……」
「“仕方なく”にしては、手厚すぎるわ。話によれば、すでにリリィ様のために仕立てられた服や専用の部屋まで用意されてるって」
「ふうん……そこまで、ね」
「でも、考えてごらんなさい? 王太子に破棄された娘が、今度は公爵様に“保護”されている。まるで、捨てられた令嬢が今度は慰めを求めて別の人に縋っているようじゃなくて?」
「おほほ、それはさすがに言いすぎ――でも、否定できなくてよ?」
「ええ、所詮は“次女”なのよ。誰にも選ばれない娘が、誰かの情けにすがって生きていく……そんな末路かもしれないわね」
口元を扇で隠しながら交わされるその言葉の数々は、まるで小さな棘を散らした花のようだった。
美しさの陰に、確かに毒を含んでいる。
ただ、誰ひとりとして、リリィ本人の声を聞いた者はいない。真実を知る者も、確かな事実を語れる者も――ここにはいなかった。
けれど、噂はそれでも広がる。声を持たない誰かの印象だけが、真実のように形を持ち、やがて本人の輪郭さえ塗り替えてしまう。
その場の誰かがふと、口を噤んだ。
「……でも」
全員の視線が、一斉にそちらへ向けられる。
「公爵様が、あのように変わられたのが“彼女の存在”によるものだとしたら……それは、ただの噂で終わる話ではないかもしれませんわ」
沈黙が、ふわりとテーブルに降りる。
「本気、だとでも?」
「ええ。もし、あの方が本気で“その子”を選ぼうとしているなら……わたくしたちは、その目を、過去の噂だけで曇らせていたことになります」
静かな断言に、誰も言葉を返さなかった。
風が、庭の薔薇を揺らす。
噂は確かに冷ややかだった。
けれど、その中でほんのひとにぎりだけ、わずかに温度を持ったまなざしがあったことを、誰かが覚えていた。
やがて、新たな話題が生まれ、テーブルは再び軽やかな笑い声に包まれる。
けれどその輪の外で、冷めた紅茶に口をつけながら黙っていたひとりの婦人が、ぽつりと呟いた。
「……今のまま、終わってしまうような子じゃないわよ。あの子の瞳、まだ曇っていなかったもの」
その声は誰にも届かず、ただ午後の陽射しのなかに溶けていった。
◇ ◇ ◇
ルクレール西方の小さな村、エグレア。
春の陽が差し始めた街道沿いで、農具の手入れを終えた男たちが井戸のそばに集まり、昼の風に背を預けていた。
「なあ、聞いたか? 隣国に視察に行ってる公爵様のお屋敷に、新しい客人がいるって」
その言葉に、手を止めていた若い男が顔を上げた。
「……また誰かほかの視察か? それとも王都からの使いか?」
「違う。どうも“若いご令嬢”らしいぞ」
「……ご令嬢? あの公爵様が?」
驚きとともに顔を見合わせた男たちの間に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
それほどに、その情報は“信じがたい”ものだった。
「この間、急ぎで食器を納めに行った陶工の親父が言ってたんだ。“公爵様が、まるで別人みたいに穏やかな顔をしていた”ってな」
「……まさか。あの方が? あのいつも真っ直ぐに歩いて、挨拶すら無駄なく返される、あの氷みたいな……」
「そう。あの方だ。なのに最近じゃ、ちょっとした言葉にも頷いたり、兵士たちに“お疲れ様”なんて声をかけたりするらしい」
「……で、その変化の原因が、そのご令嬢ってことか」
「さあな。でも、“屋敷の中でとても丁寧に扱われていた”って話だ。どこかの貴族令嬢らしいが、名前も、素性もはっきりしていない。噂によると、以前は王都で婚約破棄されたとか……それも王太子様とのことらしい」
再び、空気がぴたりと止まった。
王太子との婚約破棄――
それが意味する立場の重みも、ここルクレールの民は理解していた。けれど。
「……ふうん。そうかい。それで?」
農具を磨いていた中年の男がごく淡々と呟いた。
「……それが、どうしたってんだ」
「……え?」
「誰が何を言おうと、関係ねぇだろ。あの公爵様がその人を連れてきて、屋敷に迎えたんだろ?だったら、それで十分だ」
「そうそう。俺たちが知ってる公爵様が、わけの分からん情で誰かを抱えるような人か?あの人は、必要なものしかそばに置かねぇ。誰よりも冷静で、誰よりも誠実なお方だ」
「それに……」
老鍛冶師が、ふと遠くの山並みに目を向けた。
「この領地をずっと守ってきた。損得じゃない。この国の雨での災害も、風の向きも、木材の値も、俺たちの暮らしの何もかもを把握して、俺たちのために道を開いてきたあの人が……ただの“見た目”や“噂”で誰かをそばに置くはずがねぇだろ」
「そうだ。そんなもんより、俺たちは公爵様の目を信じるよ」
「“氷の公爵”が、誰かのために変わるってんなら、それはもう――その人が特別ってことなんだよ」
ふと、近くにいた子どもが首を傾げた。
「じゃあその人、すごく優しいのかな? 強いのかな?」
「どんな人かはわかんねぇさ。でもな――」
若者のひとりが、にやりと笑った。
「きっと公爵様の“心”を溶かせるくらいには、すげぇ人だってことだろ」
井戸の水が、かすかに揺れた。
噂の中身がどうであれ、誰が何を言おうと、ここルクレールでは関係ない。
“公爵様が迎えた”――それだけが、唯一の事実であり、十分な根拠だった。
そして何より。
あの凛とした背中を、自分たち領民のための政策をしてきた公爵様が、これまで積み上げられた想いが、今も確かに胸の中にある。
それを信じる者たちのあいだに、冷たい風は流れない。
ルクレールの空は、この日も穏やかだった。
◇ ◇ ◇
窓の外に、やわらかな朝の気配が訪れていた。
けれど、鳥の声も風の音も、リリィの耳には遠く淡くしか届いてこなかった。
静かに目を覚ました彼女は、天井を見つめたまま、胸の奥でそっと呼吸を整える。
その鼓動は、昨夜からずっと速いままで、まるで夢から覚めたくないように、現実の朝を遠ざけようとしているかのようだった。
けれど、どんなに目を閉じていても、今日という日は必ず訪れる。
(……返事を、しなければ)
そう自分に言い聞かせるように、リリィはそっと起き上がった。
冬が去りかけた朝の空気はまだ冷たく、素足に触れた床が思わず身体を縮こませる。
けれど、その冷たさでようやく、夢ではないと実感した。
今日は、あの人に――エリス様に、想いを伝える朝。
「一緒に来てほしい」と言ってくれた、あの優しい声を思い出すたびに、胸がぎゅっと締めつけられるようだった。
嬉しくて、こわくて、でもそれ以上に――あたたかくて。
昨夜は眠れなかった。
考えても、考えても、答えはとっくに胸の中にあるのに、それを口に出すことが、どうしてこんなにも怖いのだろう。
誰かに従うことしか知らなかったわたしが、自分で選んだ未来を、初めて言葉にしようとしている。
――たったそれだけのことなのに、世界が変わってしまいそうだった。
やがて、扉の向こうからそっとノックの音がした。
「リリィ様、失礼いたします。お目覚めでいらっしゃいますか?」
「……はい、ミレイユ。今、起きたところです」
入ってきたミレイユは、リリィの顔を見るなり微笑んだ。
「……とてもよい顔をしておられますね。少しだけ、緊張の色も混ざっておりますが」
その言葉に、リリィは思わず頬を押さえた。
「……隠せていないんですね」
「ええ。ですが、それが今のリリィ様の色です。……とても、やさしい色です」
ミレイユは手にしていたトレイから、あたたかな紅茶を差し出した。
小さなカップから漂う香りが、ゆっくりと張りつめていた空気をほどいていく。
「……今日は、公爵様が中庭でお待ちになられているとのことです。“空の下で言葉を交わせたほうが、リリィ様が緊張せずに話ができるきがする”と」
「……それは」
胸の奥がまた、あたたかく揺れる。あの人は、こんなにも、わたしのことを思ってくれる。
その想いに、ちゃんと応えたい――そのために、今日という日がある。
「ミレイユ……今日の服を、わたしに選ばせていただけますか?」
「もちろんです。どのようなお色がよろしいですか?」
リリィは、ほんの少しだけ黙って、それから鏡の中の自分を見た。
そして、静かに言った。
「……紫がかったグレーの、落ち着いたドレスを。あの方の瞳の色に、似たものがあれば」
ミレイユの動きがふと止まる。だがすぐに、目元を細めて深くうなずいた。
「承知いたしました」
やがて用意されたドレスは、深すぎず、明るすぎず、まるで月影のような静かな色をしていた。
その色は――
(……エリス様の瞳に似てる)
ふとした光の加減で、紫にも、灰にも見えるあの瞳。強くて、鋭くて、それでも、ときにとてもやさしい色に変わる。
あの目を見て、どれだけ救われたかわからない。
だから、この色を纏って、あの方の前に立ちたい。
(わたしは、あの方を選びます)
自分の意思で選ぶ。
誰のためでもなく、誰かに命じられたわけでもなく、ただ自分が心から望んだから、踏み出す。
髪を整え、襟元を少しだけ直して、ドレスの袖に手を通す。そのたびに、身体が覚えていた緊張が、少しずつ溶けていった。
「……ミレイユ」
「はい、リリィ様」
「……行きましょう」
微笑んだ唇の奥に、震えはあった。けれど、その瞳はまっすぐに前を向いていた。
扉を開けた瞬間、朝の空気がそっと頬を撫でた。
空は、高く澄んでいた。まるで、すべての迷いを包み込んでくれるように。
その下で、きっとあの人が待っている。
リリィは、小さく息を吸い、足を前に進めた。
◇ ◇ ◇
中庭には、朝露がまだ芝生の先に残っていた。
日が高くなるにつれ消えてゆくその光景を、エリス・グランチェスターはひとり、穏やかに見つめていた。
けれど、その静かな姿とは裏腹に、心の中では落ち着かない思いが膨らんでいた。
(……早すぎたかしら)
ふと、視線を逸らして小さく息を吐く。
朝食はいつもより少し手早く済ませた。
紅茶も途中で冷めてしまったが、温め直す気にもならなかった。
時間にしてみれば、まだ「待ち始めた」と呼ぶには早すぎるほどの短さだ。だが、時計の針の進みがやけに遅く感じるのは、きっと気のせいではない。
(どうしてこんなにも落ち着かないのかしら)
思わず手袋を外し、指先を揉みながら小さく肩を回す。
彼女が来るとは、まだ決まっていない。来ないという選択肢だってある。
それなのに、どこかで“来てくれる”と信じてしまっている自分がいる。
(……こんな私らしくもない)
けれど、否応なしに高鳴る胸の音が、それを否定させてくれなかった。
「――お寒くはございませんか、エリス様」
声をかけてきたのは、長年仕える執事・クラウスだった。紅茶を一式載せたトレイを手に、庭の小さな石机にそっとカップを置く。
「今朝は少々風が冷たいように思えまして」
「……ええ、ありがとう。でも寒くはないわ」
手を差し伸べてカップを受け取る。紅茶の湯気がふんわりと鼻先をくすぐった。
少しだけ緊張を紛らわせた気がして、エリスはほんのわずかに笑みを浮かべた。
するとクラウスは、穏やかな声色のまま、どこか愉快そうに呟いた。
「……まるで初陣を前にした騎士のようでございますな」
「……何のことかしら」
返しながらも、エリスは目を伏せる。クラウスの言葉は、ただの冗談ではなかった。
「“答え”を待つというのは、案外落ち着かぬものです。しかも、それが大切な方からのものであれば、なおさら」
「……あなたは、私をからかっているの?」
「とんでもない。私はただ、長年仕えてきた主が“人を待つ朝”に戸惑っているのを見て、静かに感慨を覚えているだけでございます」
その言葉に、思わず口元を押さえた。
「……本当に、よく見ているわね」
「ええ。長く見てまいりましたからな。このように、姿勢はきちんと保ちながらも、時おり指先に力が入りすぎているところなど……実に分かりやすい」
「……やめてほしいのだけれど」
そう言いながらも、声の端に笑みが滲む。それは、彼女にとってほんの少しだけ救いのような時間だった。
「……クラウス。私は、間違っていないかしら」
「公爵様が何を“正しい”とされるかによりますが――“今のご自身を信じたい”と思っておられるなら、きっと、それがいちばん正しい道でございましょう」
その言葉が、どこまでも静かに、胸の奥に届いた。
エリスは、膝の上で手を重ねる。その手は、何よりも冷静であろうとしてきた自分の象徴のようだった。
(けれど、いまは)
誰かの返事に、胸を焦がして待つ自分がいる。誰かの声を聞くだけで、眠れなくなる自分がいる。
――それでも、悪くない。
「……来てくれるかしら」
「それは、もう間もなく分かります」
そう言って、クラウスはふっと目を細め、小さな声で、からかうように付け加えた。
「“騎士のように構えて”待っておられたら、
きっと、その方は“公爵様らしい”と笑ってくださるかもしれませんな」
「……あの子は、そんなこと言う子じゃないわ」
「では、“公爵様らしくない”と笑うかもしれませんな」
「……本当に、口が悪いのね」
紅茶を手にしたエリスが、庭の白いテーブルに視線を落としていた時、クラウスは一歩下がった位置から、ふと呟くように言った。
「……それにしても、公爵様がこのように誰かの返事を、静かに、しかし心から待たれる朝が訪れるとは……」
「……またからかうつもりかしら?」
「いえ、滅相もございません」
エリスがわずかに眉をひそめたのを見て、クラウスは笑みを含ませながらも、声色を少しだけ落とした。
「……正直に申し上げれば、昔の公爵様は、私ども使用人にも、どこか“常に気を張っておられる”ご様子でした」
「……」
「もちろん、信頼をいただいていたことに変わりはありません。けれど、今のように……こうしてお言葉を交わすことすら、かつてはなかなか無かったことでございます」
エリスは紅茶の表面をじっと見つめていた。沈黙は短く、けれど意味のあるものだった。
クラウスはゆっくりと続ける。
「リリィ様がいらしてからの公爵様は……ご自覚がおありかは存じませんが、以前よりも、わたくしどもにも“気を許してくださっている”ように感じます」
「……そうかしら」
「ええ。主でありながら、ようやく“ひとりの人”として……温もりを纏ってくださったように」
その言葉に、エリスはふっと目を伏せた。否定することも、肯定することもなかった。ただ、少しだけ口元にやわらかな線が浮かんだ。
そうしてクラウスと話していると遠くから足音が響いた。
エリスは思わず息を呑む。胸の奥で、静かに、けれど確かに、何かが跳ねた。
振り返れば、ミレイユがリリィを伴って歩いてくる姿が見えた。
(……来て、くれた)
胸の奥に、小さな音が跳ねた。それだけで、今までの静けさが一気に揺らぎ始める。
けれど、エリスの目が自然と留まったのは、リリィの纏っていた“その色”だった。
薄く、けれど深く。紫がかったグレー。光の加減で、ほんのわずかに藍や銀にも見えるその色。
それは――
(……私の瞳の、色……?)
一瞬、思考が止まった。
もちろん偶然かもしれない。侍女が選んだものかもしれないし、単に似合う色だったのかもしれない。
けれど、それでも。彼女が“自分の瞳の色”を知っていて、選んでくれた可能性があると思った瞬間、胸が、ふっと浮き上がるように熱を帯びた。
自分のことを考えてくれたのだと。それだけのことが、これほどまでに心を揺らすのかと、自分でも驚いてしまう。
リリィの歩みは静かで、それでもまっすぐだった。迷いのない足取りが、朝の光の中を確かに進んでくる。
そのすぐ傍で、ミレイユは軽く会釈をし、横へと下がった。クラウスもまた、手に持っていたトレイを静かに下ろし、何も言わずエリスの背後に回る。
目と目が合う。ただそれだけで、クラウスの意図は理解できた。
(……この瞬間を、私たちのものにしてくれるのね)
何も言わず、何も問わず――ただ静かに、その場を離れてゆく二人の姿。
視線の端で、それを見送ったエリスは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
庭の中心にある、白い小さな円形のテーブル。そこに向かって歩み寄り、やがてリリィの前で静かに立ち止まる。
目の前の少女は、ほんの少しだけ頬を紅くしていた。
けれど、その瞳は曇りなく、まっすぐに自分を見ていた。
そして、あのドレス。
やはり、その色は――ただの偶然とは、思えなかった。
それでも、エリスは言葉にしない。ただ、静かに――けれど確かに、彼女に向かって、微笑を返した。
「……来てくれて、ありがとう。リリィ」
その一言に込められた想いは、胸の奥でずっと温め続けていたものだった。
そして今、ようやく届く準備が整った。
◇ ◇ ◇
中庭の向こう、朝の光の中にエリス様の姿があった。
澄んだ空の下、やわらかな日差しが、あの方の背中をふわりと包んでいた。
冬の冷たさが少しだけ残る空気のなかで、それはまるで春の兆しのように、穏やかで、あたたかかった。
その凛とした佇まいは、いつも通り気高く、美しくて。けれど、今日の背中にはほんの少しだけ――触れたら消えてしまいそうな、わずかな“迷い”のようなものが、滲んでいるように見えた。
(ああ、やっぱり……好き、です)
そう思った瞬間、胸の奥がじんと熱を帯びた。
たった一言では足りないのに。けれど、何よりも今の自分に近い言葉だった。
好き。
その感情を抱くたび、苦しくなったり、切なくなったり、うれしくなったり。こんなにも世界が複雑に、そして優しく感じられるのは、きっとあの方と出会えたからだ。
わたしが一歩ずつ近づいていくのを見て、エリス様がそっと立ち上がった。その動作すら、凛としていて美しく、胸が高鳴る。
ゆっくりと振り向いたその瞳と、わたしの視線がぶつかった。
深い紫がかったグレー。見るたびに表情を変えるその瞳に、わたしの全てが吸い込まれていきそうになる。
――怖いくらいに惹かれている。
その思いが、心の奥で小さく震えた。
けれど足を止めなかった。
その人のもとへ行きたいと、心の底から思っていた。
「来てくれて、ありがとう。リリィ」
呼ばれた名前。その響きだけで、胸が大きく揺れる。
声がやさしかった。張っていないのに、確かに伝わってくるぬくもりがあった。
「……お時間をいただき、ありがとうございます。エリス様」
小さく頭を下げると背後で気配が動いた。
クラウス様とミレイユが、そっと視線を交わし合い、音も立てずに歩を引く。
なにも言わないのに、それが“察してくれた”ということだと、すぐに分かった。
ふたりだけの空間が、ゆっくりと静かに整えられていく。
中庭に残されたのは、わたしと、エリス様だけ。けれど、その静けさは冷たくなく、どこまでもやさしかった。
この瞬間のすべてが、わたしにとっての“始まり”だった。
緊張に喉が詰まりそうで、それでも逃げたくなかった。
「……あの」
声は少しかすれて、喉の奥からこぼれるようだった。
でも、それでよかった。わたしの本心は、言葉以上にこの震えに宿っていた。
「エリス様。わたし、考えて……そして、決めました」
一歩、彼女の方へと近づく。足元の朝露が、陽を受けてきらりと光った。
肌に触れる風は少し冷たくて、けれど、胸の奥の熱を冷ますには足りなかった。
風に混じる花の香りが、かすかに鼻先をかすめる。この香りすら、今朝は心を落ち着けてくれる。
「わたし、あなたと……ルクレールへ参ります」
その一言を、わたしは静かにけれど確かに伝えた。
目の前のエリス様が、わずかに瞳を揺らした。まるで、驚きと、安堵と、なにかもっと別の感情をすべて抱えているような眼差し。
その目に、わたし自身が映っていてほしいと願った。
わたしの決意を。
わたしの気持ちを。
そして、大切にしまっている――この心を。
「……あの夜、お願いしたこと……“契約でもいいから恋人にしてください”と申し上げたこと――」
あのときは、追い詰められていた。それでも、心から出た言葉だった。でも――
「……それは、あの時のわたしにできる、精一杯の気持ちでした」
視線を合わせたまま、言葉を継ぐ。
「けれど、今は……それだけでは、もう足りなくなってしまいました」
喉の奥がきゅっと詰まる。息が浅くなるのを感じた。
それでも、伝えなければ。この気持ちから目をそらしたくなかった。
「……契約だけでは、わたし……満足できなくなってしまっていて」
言いながら、頬が熱くなっていくのが分かる。
それを誤魔化すように、指先を軽く組む。恥ずかしさと愛しさが同時に押し寄せてきて、どこに気持ちを置けばいいのかわからなかった。
「けれど、それでも……」
目をそらさず、まっすぐに見つめる。
「傍にいたいと、心から思ったのです。だから、行かせてください。あなたと一緒に」
――これが、わたしの答え。
ただ“契約を交わした人”じゃない。
わたしは、あの夜から今日までで少しずつ、けれど確かに恋をしていて――そして、もうその気持ちを閉じ込めておくことはできなかった。
エリス様の瞳が、再びわずかに揺れる。
その揺らぎが、優しく心を撫でた。
中庭の空はどこまでも高く澄んでいた。
けれど、わたしの心のなかには、まだ知らないほどに深くてあたたかい場所が、確かに生まれつつあった。
わたしの中の「リリィ」としての生き方が、この一歩から変わっていくのだと、そう確かに思えた。