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部屋の明かりを落とすと、夜の静けさが、まるで衣のようにそっと身を包んできた。


カーテンの隙間から月の光が差し込み、床の上に淡い銀の模様を描いている。


その光をただ見つめながら、リリィは窓辺の椅子に静かに腰掛けていた。


何もしていないはずなのに、胸の奥が少しだけ苦しい。



──「一緒に来てくれないかしら。私と、ルクレールへ」



あの言葉が、ずっと耳に残っていた。エリス様の声は、いつも落ち着いていて、どこまでも理性的で、冷静で。


けれど、あのときだけはほんの少しだけ――揺れていたように思えた。


それが、どうしてなのかを考えるたびに、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。



(わたしは……どうしたいのかしら)



問いかけて、答えに詰まる。

行きたい。あの人のそばにいたい――その気持ちは、確かにある。


けれど、だからこそ迷ってしまうのだ。


あの人は、公爵様。国を支え、数多の人を背負う立場にある方。


そんな方の隣に、わたしのような“噂ばかりが先行する娘”が立ってもいいのだろうか。


世間は、きっとよからぬことを言う。



「公爵が傷物を拾った」

「破棄された娘が媚びた」



言葉は刃になる。すでに何度も経験してきた。



(それでも……)



視線を下ろすと、膝の上に置かれた自分の手が、少し震えていた。


エリス様は、そういう噂を一度も口にしなかった。わたしの過去も、傷も、なにも咎めず――ただ、「一緒に来て」と言ってくれた。


そのやさしさが、あまりにも大きくて、わたしは怖くなる。



(わたしは……本当に、応えていいの?)



ふと、幼いころのことを思い出した。

両親に褒められたくて、小さな花を摘んで帰った日。


転んで泥だらけになったまま、庭先で泣いていたら、姉に叱られた。


「見苦しい」と、冷たく言われたあの言葉が、ずっと胸に残っている。


それから、誰かに甘えることが、どこか苦手になった。


感情を外に出すのも、頼ることも、怖くなった。


だから今も、エリス様の申し出に素直に頷くことができないのかもしれない。


でも――



(あの人は、違った)



はじめて言葉を交わした日も、わたしが泣きそうになったときも、思わず「契約でもいいので」と言った夜も――


あの人は、すべてを拒まずに受け止めてくれた。


思い出すたびに、胸があたたかくなる。

眠りに落ちたわたしを抱き上げてくれた腕。


呼吸を乱さぬように、そっと支えてくれたぬくもり。



(……あれは、幻なんかじゃなかった)



頬に触れた風が、やわらかく揺れた。窓の外、雲の切れ間から月が顔を覗かせる。


その光がカーテン越しに落ち、指先を淡く照らしていた。


手を伸ばしてみる。月の光を掴もうとしても、それはすり抜ける。けれど、その冷たく透明な輝きは、確かに“ここにある”。



(わたしの気持ちも同じ……)



心の中には確かなものがある。


それは、誰かに与えられたものではなく、

わたし自身の中から芽生えた、たしかな“想い”。


エリス様の声が好き。

あの瞳を、ずっと見ていたいと思ってしまう。あの人の隣で、静かな朝を迎える未来を、もう一度想像してしまう。



(わたしは……あの方に、恋をしている)



そう考えた瞬間、胸の奥がふるふると震えた。怖い。でも、苦しくはなかった。


少しずつ、心がほどけていく。



(行きたい。わたしの意思で、エリス様の隣に)



そう思えたことが、何より嬉しかった。


静かに立ち上がり、窓を閉める。月は、再び雲に隠れてしまった。でも、胸の中の光は、もう消えない。



(明日……きちんと伝えよう)



布団に潜りながら、そう決めた。




その夜、リリィはようやく、心から穏やかな眠りに落ちていった。夢の中で見たのは、どこかで見たことのあるあの瞳――深く、やさしく、自分の名を呼んでくれるあの人の姿だった。




◇ ◇ ◇



窓辺に腰を下ろし、薄く開いた窓から夜の風を胸いっぱいに吸い込んだ。


遠くでかすかに鳥の声がして、もう深夜に近い時刻だと気づかされる。


静けさの中で、心だけがまだ、落ち着きどころを探していた。


エリスは腕を組んだまま、視線を遠くへ向けた。外には満ちかけの月が浮かび、庭の白い花々をぼんやりと照らしている。


目に映る景色は、いつも通りの公爵邸の夜だった。


けれど今夜に限って、その静けさがどうにも落ち着かなかった。



(あの子は、どう思っているかしら)



先ほど、リリィに「一緒にルクレールへ来てほしい」と告げた。あの言葉に、どれほどの重さがあったか。自分が一番よく知っている。


“契約”という言葉で関係を始めたのは、リリィの不安を汲んだからだ。自分から距離を縮めることは、きっと不安を与えてしまう――そう思った。


けれど、想いは静かに積もっていった。声を交わし、時間を重ね、笑顔にふれるたび、気づかぬうちに“契約”では済まされない感情が芽生えていた。



(……ずるいのは、私の方ね)



優しさのつもりで始めたはずだった。なのに、いつの間にかその関係に、甘えていたのは自分の方だった。


言葉を交わすたびに、触れるたびに、彼女の笑顔に癒され、声に救われていた。



そして、いつからか――



その存在が、自分にとってかけがえのないものになっていた。



「……リリィ」



その名を口にした瞬間、胸の奥が温かくなる。


今では、その名を呼ぶことさえ、どこか特別なことのように感じる。


けれど、その“特別”を押しつけてしまってはいけない。だからこそ、彼女の返事を、無理に聞くことはしなかった。


「今すぐ返事は求めないわ」と言ったとき、その声がどれほど震えていたか。自分でも、少し驚いた。



(……怖いのよ)



断られることが、ではない。望まれないまま、手を伸ばしてしまった自分がいたのかもしれないと思うことが、何より怖かった。


過去に失ったものの痛みは、もう慣れたつもりだった。けれどリリィだけは、失いたくないと――そう思ってしまった。


自分でも気づかないうちに、こんなにも彼女を求めていた。



(けれど)



リリィは、真っ直ぐな子だ。誰にも媚びず、弱さを見せまいと、ひたむきに歩こうとする。そんな姿に、幾度となく胸を打たれてきた。



あの子の決断を、信じたい。



私の言葉に、耳を傾けてくれた。手を握っても、拒まなかった。見つめ合っても、目を逸らさずにいてくれた。



だから、信じて待つ。



そう思っているはずなのに――それでも、胸の奥では小さな波が静かに揺れていた。



(リリィが、いなくなることを想像するだけで)



思考の中に不意に現れたその想像を、

エリスは無意識にかぶりを振って振り払った。



「……馬鹿ね、私」



声にしてみれば、少しだけ落ち着いた。窓の外にはまだ月があった。風が頬を撫でるたび、リリィの笑顔が思い出される。


彼女は今日、どんな夢を見るのだろうか。

静かに眠れているだろうか。目を覚ましたとき、わたしのことを考えてくれるだろうか。


たった一晩のことなのに、思考がぐるぐると巡る。


公爵として、他人の視線を気にすることも、冷静に振る舞うことも慣れていたはずなのに。


あの子が関わると、何もかもが揺らいでしまう。



(……惚れた、のよ)



はじめてその言葉を、心の中ではっきり認めた。それは情けないほどにまっすぐで、誤魔化しようのない想いだった。


契約でも何でも構わない。


そばにいてくれるだけで、わたしは救われる。


けれど、できることなら。彼女の意思で、わたしの名を呼び、隣に立ってくれる未来がほしい。



(……あの子の、選ぶ答えが……)



どうか、“希望”でありますように。



願いを込めて、エリスはそっと目を閉じた。その祈りが誰に届くでもなく、ただ静かに夜の空へ溶けていく。


けれど確かに、その胸にはあの人を想う想いが宿っていた。


冷たいはずの夜風が、ほんのりと温かく感じられたのは、きっと――彼女の名前を、心の中で何度も呼びながら過ごしていたからだろう。



◇ ◇ ◇



時刻はすでに深夜。主たちが部屋に引きこもったあとは、使用人たちもそれぞれ持ち場から引き上げ、ようやく訪れる静寂の時間。


ミレイユは、いつもよりゆっくりとした足取りで廊下を歩いていた。


窓の外に浮かぶ月が廊下の一角を照らしていて、彼女はそこに足を止めると、しばらく無言で夜の庭を眺めた。


そのすぐ後ろから、規則正しい足音が聞こえてくる。



「クラウス様。……まだお休みではなかったのですか?」



背後を振り返ることなくそう問いかけると、年老いた執事の穏やかな声が返ってきた。



「侍女長殿こそ、なかなか部屋に戻られませんな。……夜の風に誘われましたか?」


「……ええ、まあ。とても静かだったものですから。なんだか、こう……息をつきたくなってしまって」



言いながら、ミレイユはふふっと笑う。


肩の力が抜けたようなその笑みには、気の張った昼間とはまた違う、ひとりの女性としてのやわらかさがあった。


クラウスは彼女の隣に並ぶと、背筋を伸ばしたまま、同じく窓の外に目を向けた。



「今日は……お二人とも、落ち着いていらっしゃいましたな」


「ええ。けれどそのぶん、胸の中ではずいぶん悩んでいらっしゃるご様子でした」


「公爵様があれほど言葉を選ばれているのも、珍しいことです」


「……あのときの声、ほんの少しだけ、震えていたと思います。お気づきでしたか?」


「ふむ。長年仕えておりますのでな。ほんの些細な呼吸の変化も見逃しませんよ」


「さすが、クラウス様。……でも、実はわたし、もうひとつ気づいたことがあったのです」



ミレイユはくるりと身を翻し、クラウスに向き直った。



「公爵様、リリィ様のことになると……声が、ほんの少し甘くなるのです」


「……ほほう?」


「ふふっ。まるで、大切な宝石を扱うような声音。お仕事のときには決して見せない、やわらかい表情で――あれはもう、恋するご令嬢そのもの、ですね」


「ご令嬢……とはまた」



クラウスは少しだけ肩を揺らしながら、珍しく喉を鳴らして笑った。



「そこまで言われては、公爵様も立場がありませんな」


「でも、否定はなさらないのですね?」


「無粋に否定するほど、年を取ってはおりませんので」



ミレイユはくすくすと笑いながら、窓辺に腰をかけた。



「……本当に。リリィ様と出会われてからの公爵様は、ずいぶんお変わりになられました」


「柔らかくなられた。人の目をまっすぐ見るようになられた。時に、少し余計な心配までされるように……」


「ええ。少しだけ、拍子抜けするほどに」



窓から吹き込む夜風に、彼女の髪がそっと揺れる。



「でも、それが――とても、素敵なのです」



ふと目を細め、遠くを見つめるその横顔には、深い優しさと少しの羨望が滲んでいた。


クラウスはそんなミレイユをしばらく見つめたあと、ゆっくりと言葉を継いだ。



「……公爵様は、誰かの隣に立つことを、ずっと恐れておられたのでしょうな。ご自身が背負ってきたものを考えれば、それも無理のないことです」


「だからこそ、リリィ様なのですね」


「ええ。自分を飾らず、傷を隠さず、ただ精一杯で――それでもなお、誰かを想おうとする娘」


「おふたりとも、不器用なまでにまっすぐで……だからこそ、似ているのだと思います」



ミレイユは、うっすら笑みを浮かべたまま、瞳を伏せた。



「……でも、ほんの少し、押して差し上げたくなりますね。あと一歩だけ、気持ちが届けば、ふたりともずっと楽になれるのに」


「……ふふ。侍女長殿、手を出しすぎてはいけませんぞ?」


「ええ、わかっております。でも、少しぐらい……小さな追い風くらいなら、許されるのでは?」


「……それはもう、“風”というより“そっと背を押す”行為のように見えますが」



二人は顔を見合わせ、声を出さずに笑った。


静かで、穏やかで、言葉を交わさなくとも通じる、長年の信頼がそこにはあった。



「……クラウス様。わたし、明日の朝がとても楽しみです」


「ええ。きっと、良い朝になります」



二人の視線の先、誰もいない廊下の先に、何かが始まろうとしている気配があった。


それが恋のはじまりであることを、彼らは言葉にせずとも確信していた。


屋敷は静かだった。

けれどその静けさの中に、あたたかなものが確かに息づいていた。


それは、恋の気配。

まだ誰のものでもない“愛しさ”が、夜の屋敷をそっと包んでいた。



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