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朝の光が、淡くカーテン越しに差し込んでいた。リリィは静かに目を開け、見慣れぬ天井をしばらく見つめる。
(……ここは、公爵様の屋敷)
昨夜の出来事を思い出すと、胸の奥がそっと熱を帯びた。エリス様の隣で馬車に揺られたこと、優しく語りかけてくれた声、そっと肩に回された腕。
あの温もりは、まだほんのりと自分の中に残っている。
──「あなたに惹かれているから、こうして隣にいたいと思っているのです」
あのとき、心が波立つように揺れて、どうしてか目を逸らせなかった。
深く、静かで、それでいて少しだけ切なさを宿したような──あの、紫がかった瞳。
(あの瞳……)
ふと、記憶の奥で、なにかが揺らいだ。言葉にならない感覚だけが胸の奥に浮かんでくる。
(……どこかで……見たことが、あるような……)
子どものころの、霞がかった記憶。光の差す森の中、風に揺れる木漏れ日の下──
そこにいた誰か。その人が、同じ瞳をしていた気がした。
(……まさか)
けれど確信には至らず、霧のようにその記憶は消えてしまう。
「……っ」
胸にそっと手をあてた。
そのとき──
「リリィ様、失礼いたします」
コンコンというノックの音とともに、扉がそっと開いた。ミレイユが微笑みながら入ってくる。
「おはようございます。ご気分はいかがですか?」
「おはようございます、ミレイユ。……はい、おかげさまで、よく眠れました」
リリィは穏やかに微笑みを返しながらも、頬の内側がまだ少し熱い。
「昨夜は、ぐっすりお休みでしたものね。公爵様も、安心されたご様子でしたよ」
「……え?」
「馬車の中で、お休みになったままでしたので……公爵様が、リリィ様を抱き上げてお運びになられたのですよ。とても丁寧に、まるで……」
ミレイユは言葉を選ぶように微笑んで、
「壊れやすい宝石でも抱かれるような、そんなご様子でした」
「……っ」
リリィは思わず、枕に顔を押しつけた。先ほどまで思い出していた記憶が、恥ずかしさで塗り替えられていく。
「そ、そんな……ご迷惑を……!」
「とんでもございません。公爵様がとても静かに、でもどこか嬉しそうにお運びになられて……ああ、この方は本当に大切にされているのだなと、私も少し羨ましくなったくらいです」
「……それは……」
言葉が続かなかった。
あのとき、確かに思った。このまま、あの人のそばにいたい──と。
けれど、その感情に名前をつけるには、まだ自信がなかった。
(……もう少し、知っていきたい。あの方のことも、自分の気持ちも)
そして──あの瞳に、どこかで出会った記憶も。
もしかしたら、すべてはまだ始まったばかりなのかもしれない。
「ミレイユ……お支度を、お願いできますか?」
「かしこまりました。朝食は、まもなくとのことでございます。お召し物は、少し落ち着いた色味のもので?」
「……ええ。今日も、きちんとした姿でいたいですから」
布団をそっとめくり、ベッドから足を下ろす。
鏡の前に立ち、ミレイユの手によって髪を整えられていたリリィは、ふと胸の中に小さな疑問が芽生えた。
(……この服、サイズも丈も、まるで私のために仕立てられたみたい)
袖をそっと指先でなぞる。落ち着いた青みがかったグレーのドレスは、肌触りも柔らかく、どこか安心できる温かさを持っていた。
「……ミレイユ、ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「はい、なんなりと」
「このお洋服、なぜ私にぴったりなのでしょうか……? 昨晩は突然お世話になったはずですのに……」
そう口にしてから、ミレイユの動きがふと止まり、やわらかい笑みがその唇に浮かんだ。
「実は、リリィ様がいらっしゃった初日……お休みになられた後、公爵様からご指示があったのです」
「……ご指示?」
「はい。『この屋敷にしばらく滞在してもらうかもしれないから、すぐに着られる服と必要なものを用意してほしい』と。リリィ様の体格や雰囲気を拝見し、仕立てに間に合うようすぐ動かせていただきました」
リリィの胸に、あたたかく柔らかな波紋が広がる。
「……それは、その……お手間を……」
「いえいえ、まったく。公爵様が仰ったのです。『きっと彼女は、着慣れた服がないと落ち着かないだろう。少しでも心が和らぐように』と」
リリィは言葉を失った。その目に、鏡越しの自分が写る。普段より少しだけ大人びた姿──けれど、その内側では胸がぎゅっと苦しくなるような思いが沸き上がっていた。
「……わたくし、ただ、突然押しかけただけで……」
「いいえ、リリィ様は“迎え入れられた”のです。ここで、当たり前のように過ごしてよいと……公爵様が、そう望んでくださったのですよ」
ミレイユの声は、まるで優しい風のように、そっと心を撫でてくる。
リリィは、しばらく黙ってドレスの裾に視線を落とした。そこに込められた気遣いに、今さらながら気づいてしまう。
(……気づけば、あの方に何度も救われている)
「……ありがとうございます、ミレイユ。公爵様にも……後ほど、ちゃんとお礼を申し上げます」
「はい、きっとお喜びになりますよ」
そのやりとりの中で、リリィはまたひとつ、エリスへの想いが胸に深く刻まれていくのを感じていた。
知らず知らずのうちに、あの人の優しさが、自分の心を包み込んでくれている。
鏡の中の自分は、どこか昨日よりも柔らかく、少しだけ強くなった気がした。
◇ ◇ ◇
朝の食堂に足を踏み入れた瞬間、心が小さく波打った。窓から差し込む光が、テーブルに座るエリス様の髪と瞳にやわらかく触れていた。
その姿は、まるで物語に出てくる騎士のようで──けれど、どこか懐かしい温かさがあった。
(……やっぱり綺麗な方ですわ)
胸がきゅうっと縮こまる。昨夜、腕の中で眠りに落ちたことを思い出してしまって、顔の奥が熱くなる。
(思い出すだけで、こんなに……)
「おはようございます、エリス様」
なんとか声を整えようとしたが、喉がうまく開かず、掠れたような小さな挨拶になってしまった。それでも、エリス様はすぐに顔を上げて、やわらかく笑ってくださる。
「おはようございます、リリィ様」
名前を呼ばれるだけで、心がふわりと浮き上がる。その安心感が、どこから来るのか、自分でもよくわからなかった。
勧められて椅子に座る。テーブルの上には、あたたかいスープと焼きたてのパン、やわらかな卵料理が並んでいた。
「……朝から、こんなに贅沢なものを……」
「公爵様が“重くならないものを”と、厨房へ細やかに指示をなさっておりましたよ」
にこりと笑ったミレイユの言葉に、心臓がまた跳ねる。
(わたくしのために……?)
唇をそっと噛んでから、小さく息を吐き、「いただきます」とささやくように呟いた。
一口目のスープは、やさしくて、ほどけるような味がした。
からだの芯まで染み込んでいくその温かさに、自然と目を伏せたまま、もう一口、もう一口と口を運ぶ。
(昨日の夜……)
ぼんやりと、馬車の中での会話がよみがえる。まるで夢の中にいたようで、どこか現実味がなかった。でも確かに、あの声で、わたしの名前を呼んでくれて
(……公爵様の瞳、どこかで……)
脳裏に、小さな影がよぎる。あの瞳に、似た光を、幼いころに見たような気がする。けれど、それをたぐり寄せるには、まだ霧が深すぎた。
スプーンを置いて、手を組んだ。視線を上げると、エリスが静かにこちらを見ていた。
深い紫の瞳。光の加減で、ほんのりと色を変える、不思議で、吸い込まれそうな瞳。
(……どうして、こんなに心が騒ぐのでしょう)
わたしは、婚約破棄された令嬢。何も持っていない。家からも、王宮からも、見放されたはずの人間。
それなのに──こうして名前を呼ばれて、食事をともにして、心があたたかくなることが、うれしくてしかたがない。
(こんなわたくしが……)
この人に、少しずつ惹かれていく自分が、どこか怖かった。
(恋を……しても、いいのでしょうか)
問うように、心の中でそっとささやく。
それがいけないことだとは、誰にも言われていない。けれど、自分自身の中にある「恐れ」が、許してくれなかった。
──でも、それでも。
あの夜の温もりと、今この朝の静けさが、胸の奥に、やさしく囁きかけてくる。
(もし、この人の隣で笑っていられるのなら……)
ほんの一瞬、そんな未来を想像してしまったことに、頬がまた赤く染まった。
◇ ◇ ◇
朝の静かな食堂には、陶器の軽やかな音だけが響いていた。リリィがパンに手を伸ばすたび、ふわりと揺れる銀の髪が光をまとい、目を奪われる。
藍色の瞳は相変わらず美しく、けれどどこか、まだ迷いの色を残していた。
(少しだけ、顔が赤い……)
その理由が、わからないほど愚かではない。昨夜のことを、彼女も思い出しているのだろう。
あの抱きしめた感触を──自分は、いやというほど覚えていた。
軽すぎないように、と自ら選んだスープやパンの味付けに、リリィが小さく笑みをこぼしたとき。
それだけで、自分の選択が正しかったのだと実感できた。
「……リリィ様」
名前を呼ぶと、彼女はぴくりと肩を揺らした。その反応に、つい口元がほころぶ。
「昨日の夜……馬車の中でのことは、覚えておいでですか?」
問いかける声は、できるだけ穏やかに。決して急かすものではなく、ただ確かめたかっただけ。
リリィは一瞬、はっとしたように顔を上げ、それから伏せるように視線を落とした。
「……少しだけ、です。最初のほうの会話は、なんとなく。でも……最後のほうは、あまり……」
少し苦笑いを含んだ声だった。その顔があまりにも真面目で、ふと自分が期待していたことに気づいてしまう。
(──やはり、覚えてはいなかったか)
もし彼女が覚えていたらと思ってしまったことが、少し恥ずかしくなった。
だが同時に、それは彼女にとって必要な眠りだったのだと思い直す。
あれだけのことがあり、身も心も張り詰めていたのだから、忘れてしまうのも無理はない。
「そうですか。……よく、おやすみになれていたなら何よりです」
声に微笑を含ませる。なるべく平静を装ったつもりだったが、自分の中で確かにあった“少しの落胆”は、隠しきれるものではなかった。
(……いや、いい。彼女の安らぎが、何より大切だ)
ふと、昨夜のことが脳裏をかすめる。ふわりと腕に乗った重さ、髪に触れたときの感触。
あの瞬間、自分の中の何かが決定的に変わったのだと、今さらながら思い知らされる。
──美しいだけではない。
壊れてしまいそうで、それでも気丈に立とうとする少女を、守りたいと本気で願ってしまったのだ。
「……その、昨夜は……お抱きして、すみませんでした。眠っておいででしたので、仕方なかったとはいえ……」
珍しく、言葉を選んでしまう。こんなにも動揺している自分に、少し驚く。
すると、リリィがそっと顔を上げ、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめた。
「……わたくしのために、ありがとうございます、エリス様」
その言葉が、まるで春の光のように胸に染み渡る。
(──恋をしているのは、私のほうだ)
まだ、彼女は私の気持ちに気づいていないのだろう。だが自分はもうとっくに気づいてしまった。
そのまっすぐな瞳を前に、たとえ契約から始まった関係であっても──心まで偽ることはできなかった。
◇ ◇ ◇
あの日の朝食から、幾日かが過ぎた。
公爵邸での日々は静かで、穏やかで、あたたかい。はじめこそ緊張の連続だったものの、エリスの気遣いや、ミレイユの柔らかな物腰に触れるうちに、少しずつわたしの心もほどけていった。
けれど──それと同時に、心の奥ではずっとくすぶっているものがある。
ほんのりと胸を焦がすような、けれどはっきりとは名のつけられない気持ち。
その答えが、今日わかる気がしていた。
「本日は庭を歩いてみませんか?」
エリスが、いつもと同じように、わたしを外へ誘ってくださった。
静かに頷き、わたしは並んで歩き出す。
いつもの、何気ない散歩。けれど今日は、わたしの中で少しだけ勇気を出す日だ。
春の風が白い花を揺らし、朝露が芝の上できらめいていた。
わたしは一歩、また一歩と、ゆっくり歩きながら、言葉を探していた。
(いま、言わなければ……きっと、後悔します)
「……あの、エリス様」
「何でしょう、リリィ様?」
すぐに、あの落ち着いた声が返ってきた。優しく、けれど決して崩れることのない、丁寧な響き。
──それが、どうしても、少しだけ遠く感じてしまった。
「わたしのこと、呼び捨てに……していただけませんか?」
一瞬、隣を歩いていたエリス様の足取りが、かすかに緩んだのを感じた。
「……呼び捨てに、ですか?」
「はい。エリス様は、執事のクラウス様やミレイユ様には、もっとくだけた口調で接しておられますよね。だから、わたしにも……その、もう少し……近い距離で……」
声がしだいに小さくなる。自分から言っておきながら、恥ずかしさで顔が火照ってしまう。
けれど、どうしても言いたかった。
エリス様に、わたしだけの呼び方で呼んでほしい。他の誰にも向けない声で、わたしを見てほしい。
そんな気持ちが、心の奥から膨らんで止まらなかった。
「……わかりました」
少しの沈黙の後、エリス様は穏やかにそう返してくれた。
そして──
「リリィ。歩く速度が少し速すぎるわ」
その一言に、わたしの心臓が跳ねた。
「……っ!」
名前を、呼ばれた。優しい声で。誰でもない、わたしだけを呼ぶ声で。
目の前の景色が、すこしだけ滲んで見える。
「あ……す、すみません。はずかしくて……」
まぶしい陽の光のせいにして、わたしはそっと顔を伏せた。
(……エリス様がすき)
漠然とそう思った。自覚した瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
契約でも、打算でもない。わたしは、エリスに恋をしている。
名前を呼ばれただけで、こんなにも心が揺れてしまうなんて
けれど、そんなわたしを否定する理由はもうなかった。
(この想いを、大切に育てたい)
そう思いながら、わたしは静かに隣のエリスの手を見つめた。いつかこの手を、自然に握れる日が来ることをただひとつの願いにして。
◇ ◇ ◇
エリスに会うのは、二週間ぶりだった。
あの日の朝──並んで朝食をとった、あの静かで温かな時間が、もう遠い夢のように感じられてしまうくらいに、わたしの日々は静まり返っていた。
最初の一週間は、「今はお忙しいのだろう」と思うだけで、気にしすぎるのはよくないと自分に言い聞かせていた。
けれど、ミレイユから「もう少しかかりそうです」と言われたあたりから、胸の奥にぽつりと寂しさの影が差すようになった。
──お会いしたい。
ただ、それだけだった。
姿が見えないことが、こんなにも心を締めつけるなんて。
自分でも気づかぬうちに、どれほどエリス様の存在が大きくなっていたのかを、ようやく知ったのだと思う。
そんな中で迎えた、今日。
ミレイユに案内されて、少し早めに応接室へと通されたわたしの心は、どこか落ち着かないままだった。
深呼吸をひとつ、ふたつ……それでも、扉が開いた瞬間に、息を止めてしまった。
「リリィ……久しぶりね。待たせてしまってごめんなさい」
その声は、少しだけ掠れていて、それでも確かに、恋しくてたまらなかった声だった。
「……おかえりなさいませ、エリス様」
姿を見た途端、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ようやく帰ってきた──そんな安堵と、抑えきれない喜びに、少しだけ涙がにじんだ。
「ただいま。リリィ」
椅子に腰を下ろしながら、エリス様はいつもの優しい笑みを浮かべる。
その表情を見ただけで、あの空白の二週間がふわりと満たされていくようだった。
「わたし……ずっと、お目にかかりたくて」
気づけば、自然と胸に手を当てていた。
心臓の鼓動が、まるで何かを訴えるように高鳴っている。
「ほんの少しのつもりが、政務が立て込んでしまって……ごめんなさいね。わたしも会いたかった」
そんなふうに言われて、視線を上げることができなかった。頬が、耳が、きっと赤く染まっている。
「……今日は、話があって帰ってきたの」
「……はい」
ふたたび背筋を正すと、エリスはふんわりと微笑んだ。
「近いうちに、ルクレールへ戻らなければならない。急な呼び戻しで……このまま長くは滞在できそうにない」
静かに告げられた言葉に、胸の奥が少しだけ痛む。やっぱり、この方は、帰られるのだ。
「でも……リリィ、お願いがあるの」
エリスは、そっとわたしの手に触れた。
「一緒に、来てくれないかしら。私と一緒にルクレールへ」
「……え……?」
一瞬、言葉の意味が理解できず、思わず見つめ返してしまった。
「侯爵家には、きちんと婚約誓約書を提出したわ。正式に受理されたって報せも受けている。もちろん、形だけのものだとしても、あの夜に交わした約束を私は……ずっと、本気で受け止めているから」
あの夜──「契約でもいいので、恋人になってください」とわたしが言ったことを思い出す。
震える声で頼み込んだあの言葉を、エリス様はずっと大切にしてくださっていたのだ。
「……すぐに返事は求めないわ。ただ私はあなたを一人きりにはしたくない。それだけははっきり伝えておきたくて。断ってくれても大丈夫よ。侯爵家への誓約書を取り下げるだけだから」
その瞳に、また吸い込まれそうになる。深い紫の中に、まっすぐな想いが宿っていて、わたしの胸を静かに打つ。
「少しだけ、お時間を……いただけますか?」
小さな声でそう告げると、エリスはやさしく頷いた。
「ええ、もちろん。リリィが出してくれる答えなら、どんなものでも……私は嬉しい」
そう言って、そっと手を包み込んでくれたそのぬくもりが──わたしの胸の奥で、何かを静かにほどいていくようだった。
部屋に戻った途端、わたしは扉にもたれかかるようにして、そっと胸に手を当てた。
「……どうしよう」
小さく息を吐いたつもりが、それは溜めていた熱のようにも思えて、指先までほんのりとあたたかく感じられた。
公爵様の瞳。
わたしの名前を呼ぶ声。
そして「一緒に来てほしい」という願い。
あのやわらかな声音に、思わず心がほどけてしまいそうになる。
けれど、同時に胸がきゅっと締めつけられて、嬉しくて、照れてそして少しだけこわくなった。
わたしは、エリスにとって本当に、何かになれているのだろうか。
そんな迷いを抱えながらも、頬の熱は冷めなくて、鏡を見れば顔が赤く染まっているのがわかる。
「……あんなふうに言われたら、もう……」
ぼそりとつぶやいたとき、扉の外からノックの音が聞こえた。
「リリィ様、少しお話、よろしいでしょうか?」
声の主はミレイユだった。わたしが「どうぞ」と返すと、彼女はお茶の盆を持って入ってくる。
「お疲れのようでしたので、少し落ち着いていただければと」
彼女のやわらかな気遣いに、思わず笑みがこぼれた。
「ありがとうございます、ミレイユ」
盆を机に置いた彼女はふと、わたしの顔を見てにこりと笑った。
「……やっぱり。お顔が赤いですね」
「えっ……!」
思わず手で頬を覆うと、くすくすと笑い声が聞こえた。
「さきほど、下のほうで侍女たちがこっそり話していたんです」
ミレイユは、椅子に座るわたしのそばで声を落とす。
「“あんなにやさしそうなお顔で話される公爵様を初めて見た”って。わたしたち、ずっとあのお方に仕えてきましたけれど、あんな表情をされるのは……リリィ様とご一緒のときだけです」
「……わたしだけ?」
「はい、間違いありません。目元もやわらかくて、声も少し高くなって……まるで、大切な宝物を扱うみたいに、です」
息をのむような気持ちで、その言葉を胸に刻んだ。わたしが知らないところで、エリスは、そんなふうに
「ねえ、リリィ様。自覚されていますか?」
「じ、自覚……ですか?」
「はい。……公爵様にとって、あなたはもう“特別”なんですよ」
その言葉が胸の奥で弾けた瞬間、またしても頬が熱を帯びていく。
特別。
そんなふうに、誰かの心に触れたことなんてわたしの人生の中で、これまで一度もなかった。
「……本当に、そう思われているんでしょうか」
「ええ。これは、長年お仕えしてきた者としての、確信です」
ミレイユの微笑みは、やわらかく、あたたかく、わたしの揺れる心をそっと包み込んでくれるようだった。
そして、あらためて思う。
あの方と、これからを歩んでいきたい。
たとえ“契約”という名目から始まったとしても。胸に宿るこの想いはきっと偽物なんかじゃない。
その気持ちを抱きながら、わたしはそっと冷めない紅茶に口をつけた。甘く、やさしい味がした。
◇ ◇ ◇
執務室の窓から見える空は、夕暮れにはまだ早く、それでいて穏やかに色づき始めていた。
政務の山をようやく片付けたばかりの私は、肩を軽く回しながら椅子にもたれかかった。
二週間ぶりの帰邸。
彼女──リリィと、やっと会えた。
ほんの数日前まで、己の心をこうまでかき乱される日が来るとは思っていなかった。
あの時に「一緒に来てくれますか」と言葉にしたとき、私の声は想像以上に掠れていたと思う。
ただ、あの言葉は偽りではなく──心の底からの願いだった。
あの子が、ここにいてくれるだけでいい。
目が合ったときのはにかむような笑顔。
ふとした仕草、言葉の端に見える聡さとかすかな脆さ。
そのすべてが、私の胸を締めつけて、ほどいて──気がつけば、日々の空白が苦しくてたまらなくなっていた。
「……恋、かしらね」
思わず漏れた言葉に、自分でも少し驚いた。
けれど、不思議と否定は浮かばなかった。むしろ、その言葉は心地よく胸にすとんと落ちて、ようやく名前を与えられた感情に安堵すら覚える。
扉の外から控えの者が訪れる気配がしたが、声をかける前に立ち上がった。
用件があるわけではない。
ただ、会いたいだけ──あの子の、あたたかな声が聞きたかった。
扉を開けようと手を伸ばしかけたそのとき、ふと立ち止まる。
いけない。まだ仕事の合間だ。
「私は、どうしてこんなにも……」
言葉にならない感情が胸に積もっていく。冷徹に徹してきたつもりだった。誰かに感情を預ける余裕など、この地位にいてあるはずがないと。
それなのに、彼女といると、いつの間にか心が緩んでしまう。
──私だけは、傷つけないと誓った。
あの子が、あの日、あの森で自分の命を救ってくれたこと。わずかでも思い出してくれたらと、願ってやまない。
けれど、今はそれすら望むまい。
「今の彼女が笑っていてくれるのなら、それでいい」
誰にも言えない本音を、書類の陰に隠して、私は再び席についた。
──けれど、ほんの少しだけ、願ってしまう。
次に顔を見たとき、あの子の瞳に、私の姿が優しく映る姿を。