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執務室の中に、ペン先が紙を滑る静かな音が響く。分厚い書類の束を前にして、エリスは一枚ずつ、淡々と処理を進めていた。
「……次の連絡便は明日の午前中ね。南の港町の状況も確認しておきましょう。ルートの再調整が必要かもしれないわ」
「かしこまりました。既に人員の調整は進めておりますので、指示書だけお預かりいたします」
執務机の隣で控える老執事クラウスが、几帳面に手帳をめくりながら頷く。エリスは頷き返しつつ、ペンを置いて背もたれに身を預けた。
「……ふぅ」
何気なく、視線が窓辺に向かう。薄いレースのカーテン越しに差し込む陽光の先、中庭の花々が柔らかく揺れていた。
銀の髪がふわりと風に舞う光景が、ふと脳裏によぎる。
エリスは視線をそらすように再びペンに手を伸ばしたが、それを見逃すクラウスではない。
「……おや、公爵様。今日は珍しく、三度もお庭をご覧になりましたね」
「数えていたの?」
「ええ。わたくしの老眼は、こういう時だけよく働くもので」
「それはそれは、ご苦労さま」
肩をすくめて応じながらも、エリスの口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。クラウスのさりげないからかいに、抗うような素振りを見せないのもまた、長年の信頼ゆえだった。
「……で? 何か気づいたことでも?」
「はい。公爵様の“気にしている相手”が、きっとそろそろお戻りになる頃合いかと」
「……ふふ。ずいぶんとはっきり言うのね」
「この歳になりますと、余計な婉曲表現は腰にきますので」
そんなやりとりの最中だった。扉の外から、控えめなノックの音が響く。
「失礼いたします。リリィ様がお見えです」
クラウスの視線が、ちらりとエリスに向けられた。エリスはその名を聞いた瞬間、少しだけ目を細めた。
「……そう」
手元の書類を重ねて整え、姿勢を正すと静かに言葉を紡ぐ。
「通してちょうだい」
クラウスが一礼し、重厚な扉を開けると
その向こうに、銀髪の少女が立っていた。
リリィはほんの少しだけ緊張した面持ちをしていたが、瞳はまっすぐ此方を見ていた。
あの朝のやわらかな光を受けて、深い藍の瞳が淡く揺れている。
エリスは、その姿を静かに見つめながら、いつもの柔らかい声で口を開いた。
「……ようこそ、お越しくださいました、リリィ様。お気持ちは決まりましたか?」
小さく頷く姿に、エリスは心の中でそっと安堵の息を吐いた。
まだ小さなその決意の火を、どうか消さぬように。そう願いながら彼女を迎えるために、ゆっくりと席を立った。
◇ ◇ ◇
執務室の扉が、重々しい音を立てて閉じる。
わたしの鼓動が、少しだけ早くなるのが自分でも分かった。けれど目の前の女性──エリスは、わたしが立っているだけで何も言えずにいることにさえ咎めることはなかった。
「ようこそ、お越しくださいました、リリィ様。お気持ちは決まりましたか?」
変わらぬ優しい声音。けれどそれは、わたしの内側を見透かすような、静かな気遣いに満ちていた。
どこまでも丁寧で、でも遠すぎない。その距離感が、かえって胸に触れる。
「……はい。直接お伝えしたくて」
わたしの声はほんの少しだけ震えていて、自分で情けなくなるほどだった。でも、エリス様は何も言わず、静かにわたしを迎え入れてくれる。
手招きのひとつすらなく、けれど気づけば椅子へと導かれるように足が進んでいて
どこか落ち着かないまま、その椅子に腰を下ろすと、向かいの彼女が静かに筆を置いた。
「無理はなさらず、落ち着かれるまでゆっくりなさって大丈夫ですよ」
その言葉に、心がまた揺れる。
(……優しすぎて、甘えてしまいそう)
いけない、と思った。
わたしは彼女に恋人でいてほしいと願ったくせに、そのすぐあとで何もできずただ傍にいることに安堵してしまっていた。お礼なんてもってのほかだ。
王太子との婚約は、正式に解かれたわけじゃない。わたしが逃げている限り何も解決していないのだ。
けれど、恐い。実家に戻って、どう話すべきかもわからない。あの冷たい目で、また何かを押し付けられるのかもしれない。
それでも
「……あの」
そう言いかけて、ひとつ深く息を吸う。視線を上げたその先で、エリス様の瞳がそっとわたしを見つめていた。
深い紫の色が窓から差す光に揺れて、まるで夜空の色を映したようにやさしく静かだった。その瞳に向かってわたしはそっと言葉をのせた。
「……わたし、ひとりで……実家へ戻ります」
言い終えたとき、肩がふっと軽くなった気がした。
けれど、それと同じくらいに胸の奥が締めつけられていた。いま言ったばかりの言葉が、あまりに大きくて心がまだ追いつかない。
エリス様は驚いたそぶりも見せずゆっくりと目を細めて、こう言ってくださった。
「……きっと、不安なこともたくさんあるはずですのに」
その声はまるで、痛みのある場所をそっと撫でるような優しさを含んでいた。わたしは、堪えきれずに小さくうなずいた。
「……でも、このままでは……また誰かの決めた道を何も考えずに歩いてしまいそうで……。わたし、ちゃんと自分の意思で……選びたいんです」
膝の上で、握りしめた手に力がこもる。
「公爵様のそばにいたいと、そう願ったことも……その想いさえ、自分で選べるように……なりたいから」
声が震えて、途中で少し詰まったけれど。それでも言いたかったことはすべて伝えられた。
エリス様は、何も遮らなかった。わたしの言葉を、最後までまっすぐに受け止めてくれた。
だからこそ、わたしは少しだけ誇らしくて、でも胸の奥が熱くなるのを感じた。
(ありがとう、公爵様……)
わたしの想いが、今度こそほんとうの意味で“わたし自身”のものになるように。そのための第一歩だった。
そしてこの部屋で、それを言えたことが、何よりも大きな意味を持っている気がしてならなかった。
◇ ◇ ◇
「……わたし、ひとりで……実家へ戻ります」
その言葉が落ちた瞬間、空気が静かに張り詰めた気がした。
リリィは、震えるまなざしの奥に確かな意思を宿していた。怯えている──それでも、逃げてはいない。
この年頃の少女が、何かを自分で選び取ろうとするその姿は時に残酷なほど眩しく映る。
(……本当に、強くなられた)
エリスは胸の奥で、そっと思う。
契約の言葉を交わした夜、彼女の決意はまだ、迷いと不安の中に浮かんでいた。
けれど今、こうして真正面からわたしに向き合い、自らの口で帰ると言った。それは、誰かに導かれた選択ではなく──自分の意思による第一歩だ。
「……ご立派です、リリィ様」
静かに言葉を紡ぎながら、エリスは席を立った。そしてゆっくりと彼女の前に歩み寄り膝を折る。
目の高さを揃え、やわらかく微笑むことを意識して、その瞳を覗き込んだ。
「そのお言葉を、ご自身の意思で紡いでくださったこと。心から誇りに思います」
リリィは、戸惑うように瞬きをした。その瞳に微かに揺れる水の光を見て、エリスの胸がきゅうと締めつけられる。
(……もう、泣かせたくはない)
あの日、流血にまみれながら森の中で倒れていた自分に、手を伸ばしてくれた小さな少女。
リリィはそのことを覚えていないけれど、わたしの心にはずっと残っている。
彼女がくれた、あのあたたかさを。
(今度は、わたしが……)
「ご帰宅の手配はどうなさいますか?」
少しだけ声に含ませた柔らかさに、リリィが答える。
「……実家から、馬車を出してもらうように、お願いしようと思っています」
エリスは静かに頷いた。
「承知しました。では、行きはそちらにお任せいたします」
そこまで言ってから胸の奥にある願いを、丁寧に言葉にしていく。
「ですが……お戻りの際には、私に迎えに行かせてください」
一瞬、リリィの瞳が揺れた。
「え……?」
その表情の変化に、エリスは微かに笑みを浮かべる。けれど、その内側では、静かに心が疼いていた。
(……あなたが、この屋敷を『戻る場所』だと思えるように)
「戻る場所があるというのは……本当に、勇気を与えてくれるものです。だから、その扉を開く前に、私がそこにいて差し上げたいのです」
迎えるという行為に、特別な意味を持たせたかった。それは単なる恋人としての役割でもなく、契約だからでもない。
もっと静かで深いところから湧き出る、ひとりの人間としての願いだった。
「時間になりましたら私自身が、馬車でお迎えにあがります」
リリィは、小さく肩を揺らした。そして、少し照れたような、それでも晴れやかな笑みで頷いてくれた。
「……はい。ありがとうございます、公爵様」
(いいえ、感謝したいのは私の方です)
その想いを呑み込みながら、エリスは静かに立ち上がる。けれど、言葉を継がずにはいられなかった。
「お気をつけて、リリィ様。……あなたの帰る場所は、必ずここに在りますから」
私のこの手が、何度でも扉を開けに行きます──そう心で誓いながら。
扉が閉じたあとも、エリスはしばらく執務机に戻らなかった。紫がかったグレーの瞳が、扉の先の空間を静かに見つめていた。
◇ ◇ ◇
昼下がりの陽射しは柔らかく、空はどこまでも澄んでいた。
屋敷の門の向こう、実家からの馬車が石畳に静かに停まり、クラウスと使用人たちが手際よく応対に出る。
見慣れないはずのこの場所が、ほんの少し名残惜しいと感じたのはきっと初めてだった。
「……行ってらっしゃいませ、お嬢様」
ミレイユが、明るく優しい声で言った。いつものように少しおどけた仕草を交えながら、リリィの帽子の位置を整えてくれる。
「はい。……ありがとう、ございます」
「公爵様に“夜になる前には迎えに行きます”って言われたのでしょう? うらやましいったら」
その言葉に、思わず頬が熱くなる。けれどミレイユは、何も気にせず微笑んでいた。
「……ちゃんと帰ってきますね」
そう言うと、ミレイユは満足そうに頷いた。
「はい、それでよろしいですわ」
クラウスも深く頭を下げて、静かに送り出してくれる。皆のさりげない優しさに支えられ、リリィは一歩ずつ馬車へと歩を進めた。
扉を閉めた瞬間、外の光がふわりと遮られ世界が静かに変わる。
馬車が静かに揺れるたびに、リリィの視線は窓の外をさまよった。
陽は高く、淡い陽光が葉の隙間から差し込み車内に揺れる影を描いている。
外の景色は穏やかだったけれど、胸の奥にはまだ波が立っている。
(……出会って、まだ一日しか経っていないのに)
ふと、そんな言葉が心に浮かびリリィは自分で自分の感情に戸惑う。
あの人──公爵様、エリス・グランチェスター。
端正な顔立ちと落ち着いた声、まっすぐに向けられる優しいまなざし。
それらに触れるたびに、心が静かに、けれど確かに揺れていた。
たった一日。それでも、初めて心から「帰りたい」と思えた場所だった。
(……でも、わたしは、あの方をよく知らない。ほんの少ししか……)
思考を遮るように、記憶の奥からひとつの光景が浮かんだ。
──出発前、執務室の前で別れを告げたとき。
「夜になる前に、必ず迎えに行きます」
そう言って、公爵様は微かに口元を緩めながら、自分を見下ろしていた。
その瞳は深い紫──けれど、日の差す角度でやわらかく色が変わるように思えて、まるで宝石のように映った。
(……あのとき、胸がふっとあたたかくなって、息を飲んでしまった)
形式的でも、上辺でもない。まるで「あなたが帰ってきてくれること」を願うような声音でその言葉をかけてくれた。
たったそれだけのことで、こんなにも安心できるなんて。
自分の心がどれだけあの人に支えられていたのか、改めて思い知らされる。
(あの人のそばに帰りたいってそう思ったのは……やっぱり、気のせいじゃなかった)
でも
(……それでも、まだ一日しか経ってない)
その早さに、焦りや戸惑いを覚えないわけじゃなかった。
誰かを頼ることに慣れていない自分が、こんなにも早く“帰りたい”と願ってしまったことにどこか不安がある。
けれどそれでも。
(ちゃんと帰ろう。今度は、自分の意思で)
そのときにまたあの言葉を思い出すだろう。「迎えに行きます」と言ってくれた、そのあたたかさを胸に。
リリィは小さく息を吐き、窓の外を見つめた。
淡い陽光の中、馬車はゆっくりと、彼女の過去と向き合う場所へ向かっていた。
◇ ◇ ◇
馴染みのあるはずの邸宅の玄関扉が、重く開かれる。そこに待っていたのは、かつての優しい家族の姿ではなかった。
「中へ入れ。……話がある」
父の声は、低く乾いていた。母は目元を赤くしながらも娘の目をまともに見ようとせず、ただ俯いている。
応接間へ通されると、そこはかつての温もりを忘れたように、静まり返っていた。
「婚約破棄は正式に受理された」
机の上に書状が置かれた音がやけに響いた。リリィはそれを見つめることができなかった。
「もう……お前に価値などない。王太子にも、見向きもされなかった哀れな女として、貴族社会では笑いものだ」
「っ……」
言葉が出ない。何を言っても何を思っても、きっと届かないと分かっていた。
「だがな、哀れとはいえ“後始末”は必要だ。こちらで見合った相手を選んでおいた。4日後には会わせる」
「……嫌です」
震える声。けれど目は逸らさなかった。
父はゆっくりと立ち上がると、吐き捨てるように言った。
「何様のつもりだ。……あの公爵の情けで、一時的に屋敷を出られただけのくせに。あの方にとってお前など、“気まぐれ”のひとつにも入らぬ。……感謝して頭を垂れていれば良いのだ」
「そんな……違います、あの方は……!」
「黙れ」
厳しく言い放たれたその声に、母が小さく肩をすくめる。リリィはもう一度、唇を強く噛んだ。
「閉じ込めろ。部屋からは出すな。無駄に恥を晒されては困る」
──静かに、命令が下された。
重い扉が閉まり、リリィはベッドの上に腰を下ろす。胸の奥で小さな塊のような痛みが渦巻いていた。
(わたしは……ただ、自分の気持ちを……大切にしたかっただけなのに)
悔しさ、悲しさ、やるせなさ、そして……
(……でも、もし──)
瞼を閉じたとき、最後に交わしたあの声が蘇る。
「夜になる前に、迎えに行きます」
たったひと言。けれどその言葉は今の自分を支えてくれる、唯一の光だった。
(……来てくれる、なんて……わたし信じていいのかな)
そのとき、邸宅の外からざわつく音が聞こえてきた。
最初はかすかだったそれが、やがて廊下を駆ける足音に変わり扉の前で衛兵たちが動く気配がした。
「ま、待て……! 本当にあの方が……?」
「……間違いない。ルクレール公国の公爵様だ」
震える声。動揺と畏れが入り混じっている。
そして重く閉ざされた扉が静かにしかし確かに開かれた。
夜空にとけるような黒髪、落ち着いた装い、その瞳は深く揺れていた。
「……リリィ様」
その声に涙がこぼれそうになる。震える手を胸の前で握りしめたままリリィは立ち上がる。
「迎えに来ました。……約束ですから」
その言葉に堰が切れたように胸が熱くなる。
「……来て、くださったんですね」
わずかに震えた声にエリスは優しく頷いた。
「ええ。さあ、帰りましょう」
この時、リリィの胸に浮かんだのは父の言葉ではなく、家族ではなく、目の前に差し出された温かな手だった。
その手を彼女は迷わず取ったのだった。
◇ ◇ ◇
侯爵家の門前に馬車が止まった瞬間、空気がわずかに張り詰めた。
「ご案内いたしましょうか、公爵閣下」
クラウスの低く落ち着いた声に、エリスは短く頷いた。
彼女はゆっくりと馬車から降りる。靴のかかとが石畳を打つ音が、静かな屋敷の前庭に響いた。
(夜になる前に迎えると約束した)
胸の奥で、静かに思う。
あれは気まぐれではない。約束というにはあまりに短い関係かもしれないが、それでも──リリィは、帰る場所を持たねばならない。
玄関先では、使用人たちが不安げに並んでいた。驚き、戸惑い、警戒。
彼女の姿を見た誰もが、どこか凍りついたような空気を纏っている。
その中心にいた執事が、恐る恐る前に出た。
「……公爵閣下、何用にて──」
「フォルテ嬢を迎えに参りました。約束の時間です」
感情のない声でそう伝えると、執事は何も言えず、ただ頭を下げるしかなかった。
すぐに引き下がって館の中へ駆け込んでいく。
しばらくして姿を現したのは、侯爵夫人。金の刺繍が施されたドレスに身を包んでいたが、その顔には平静を装う気配と、張り詰めた緊張がにじんでいた。
「……まぁ、公爵閣下。ようこそお越しくださいました」
「挨拶は結構です。リリィ・フォルテ嬢を迎えに来たと、すでにお伝えしたかと」
ぴたりと空気が止まる。侯爵夫人の口元が震えたのが見えた。
「ですが、その……あの子は……少々気分がすぐれないようでして。部屋で休ませておりますの。突然お会いするのは、少し……」
「気分がすぐれない原因に、心当たりは?」
「……い、いえ……」
曖昧な笑みの奥に、隠しきれない動揺があった。エリスは微かに目を細めた。
(この家が、彼女を苦しめている)
何をされたのか、詳細を聞いたわけではない。だが、目の前にいる人々の表情──言葉の端々──そこに含まれる恐れと不安は、すでに多くを物語っていた。
続いて、侯爵自身が姿を現す。年老いた体に不似合いなほど強張った表情。すぐさま、夫人の隣に立ち低く声を発した。
「公爵閣下。……どうか、今日のところはお引き取りを。娘は今、感情が不安定でしてな。迎えに来られるような状態では……」
「ならば、今すぐ会わせてください。私自身の目で確かめます」
「……っ、それは──」
「娘はこの家の者でしてな。勝手に外へ連れ出されては困ります」
「“勝手に”とおっしゃるが、彼女は自ら私の元へ来た。それを拒む理由があるのですか?」
侯爵は言葉を詰まらせ、夫人と顔を見合わせた。
「案内を願います」
一歩踏み出したエリスの声は静かだったが、その響きには抗い難い力が宿っていた。そのとき、背後からクラウスがそっと耳打ちする。
「……おそらく、かつての客間を閉め切り、嬢様をそこに。鍵がかかっているようです」
「鍵……ですか」
目を伏せて息を吐いた。目の奥にかすかな怒りが燃えるのを、エリスは自分で自覚していた。
(リリィに、いったいどんな言葉を浴びせた? どんな顔で──)
自分の知らぬところで、彼女がどれほど孤独と痛みに閉じ込められていたか。
(私は……何をしていた)
初めてその姿を見た日から、遠くで見守ることしかできなかった。けれど、もう同じことは繰り返さない。
「案内を」
その一言に、執事はすぐさま先を歩き出した。侯爵夫人と侯爵は言葉を失い、見送るしかなかった。
廊下の奥。重く閉ざされた客間の扉の前に立ち、エリスは一呼吸置いた。指先に、微かに力が入る。
(リリィ。今度こそ、あなたを連れて帰る)
ノックもせず、静かに扉を開けると
そこに、ベッドに腰を下ろしていたリリィがいた。
薄暗い部屋の中でもその銀髪は静かに光を帯び、伏せられたまつげの先に、小さな涙が残っていた。
「……迎えに来ました」
震える声で名を呼ぶと、リリィの肩が微かに揺れた。
その瞬間、エリスは確信した。
この手を、もう二度と離さないと。
◇ ◇ ◇
床を踏む足音が静かに近づいてくる。差し出された手に、わたしはゆっくりと手を重ねた。
冷たくて、それでいて不思議な安心感があった。ぎゅっと握られたその温もりだけで、目の奥が熱くなる。
「帰りましょう、リリィ様」
短く優しくそう告げられた言葉が、胸に沁みた。
わたしは黙って頷き、手を引かれるま、侯爵家の廊下を歩いていく。歩くたびに、足元の不安が少しずつ剥がれていくような気がした。
玄関まで来ると、両親──侯爵と夫人が待っていた。彼らの顔には明らかな緊張が走っていて、エリス様の登場にただただ押し黙るしかないようだった。
エリス様は、わたしの手を繋いだまま、静かに一歩前へ出る。
「リリィ・フォルテ嬢を、わたくしの婚約者として迎えるつもりです」
その言葉があまりに突然で、わたしは目を瞬かせた。
(え……?)
何が起こったのか一瞬わからなかった。
母が目を見開き、父が息を呑む音がはっきりと聞こえた。
「な、何を……っ、公爵閣下、今なんと──」
「そのままの意味です。後日、正式に誓約書を送ります」
エリス様の声は冷静で、そして一切の揺らぎがなかった。
「そちらにとっても悪い話ではないはずです。フォルテ侯爵家は、ルクレール公国との貿易において特別な優遇措置を受けることができる。これにより、長年停滞していた事業の再興も見込めるでしょう」
「っ……! そ、それは……」
「それに、我が公国からの外交的信頼を得た貴族という実績は、他国との関係にも十分な影響力を持つはずです。……ご理解いただけますね?」
父の顔色が、目に見えて変わっていくのがわかった。最初は唇を強く噛みしめていたのに、次第に額には汗が滲み、やがてしぶしぶと頷いた。
「……は。ご配慮、痛み入ります……」
そう答える父の姿が、まるで別人のようだった。あんなに強く、わたしを責め立てていた人が──この一瞬で。
「後日、正式な手続きを進めましょう。それまでリリィ嬢はわたくしの屋敷にて保護いたします」
きっぱりとそう言い切ると、エリス様は振り返って、再びわたしの手を引いた。
わたしは何も言えないまま、その背中についていく。
(婚約者? わたしが……?)
頭が追いつかない。ただ、ぎゅっと繋がれたその手の温もりだけが、確かだった。
ふと、父の視線を感じて振り向いた。あの冷たい瞳が、今もこちらを睨みつけていた。
だけど、不思議と怖くなかった。
隣にいるこの人が、「守る」と言ってくれている気がしたから。
わたしの胸の奥に、小さな灯火のような気持ちが芽生えていた。
どうして、こんなにもあたたかいのだろう。
そして、なぜだろう。あの日からまだ一日しか経っていないのに、この人の隣にいることがこんなにも自然に感じてしまうのは。
ぽかんとしながらも、どこか微笑んでいる自分に気づいたとき
(……エリス様の、婚約者……)
その言葉が胸にぽたりと落ちて、やがて静かに染みていった。
◇ ◇ ◇
馬車の扉が静かに閉まり、揺れが始まる。わずかに軋む車輪の音と、淡く差し込む午後の日差し。けれど、今この空間は、何よりも静かで、あたたかい。
リリィは、私の隣に座っている。細く、けれど確かに手を繋いだまま。
ぎゅっと強くは握らない。けれど、決して離れない。まるで彼女の鼓動が手のひら越しに伝わってくるようだった。
「……あの、エリス様」
ふいに小さな声が落ちてきて、わたしはそっと顔を向けた。リリィは恥ずかしそうに俯きながらも、言葉を続ける。
「その、私のために……あんなことまでしてくださって……ありがとうございます」
「礼など要りませんよ」
わたしは、自然と微笑んでいた。
「あなたを迎えに行くのは、わたしの意志です。誰のためでもなくあなたのために、そうしたかったのです」
リリィが、はっとしたようにわたしを見上げた。その瞳──藍色の、澄んだ湖のような目に、戸惑いと、ほんのりとした色が混じっていた。
「……優しすぎます」
「いいえ。わたしはあなたに、ようやく追いつこうとしているだけです」
「え……?」
「あなたは昔、わたしに手を差し伸べてくれた。傷だらけの、頼りないわたしに、ためらいもなく」
リリィの目がわずかに見開かれる。
「わたしには、その記憶がある。あなたがいてくれた、ただそれだけで生きて戻れたと思っています」
「……ごめんなさい。私、思い出せなくて……」
リリィが小さく唇を噛んだのを見て、そっと首を横に振った。
「それでいいのです。あなたに恩を返すために、今のわたしはここにいるわけではありません。今、目の前にいる“あなた”に惹かれているから、こうして隣にいたいと思っているのです」
言い終えたあと、自分の言葉にわずかに驚いた。だがそれは偽りのない気持ちだった。
リリィが、ふわりと微笑む。
「……エリス様って、そうやって、大事なことを突然言うんですね」
「気をつけた方がいいでしょうか?」
「いいえ。うれしいです」
ぽつりと、リリィが言う。まるで、心の奥から滲んだような声だった。
ふいに彼女がこちらに寄り添ってくる。細い肩が、わたしの腕にそっと触れた。
「ほんの少しだけ、寄りかかってもいいですか……?」
「もちろんです」
わたしの胸に、そっと彼女の髪が触れた。その銀の髪は、昼の光を集めてきらきらと輝いていて──思わず、指先でそっと撫でたくなる。
「少し……眠いかもしれません」
「目を閉じて。私がそばにいます」
返事はなかった。けれど、安らかな吐息がすぐ傍から聞こえてくる。
彼女がこうして、安心して寄りかかってくれること。それが、何よりも尊い。
(──このひとときを、大切にしよう)
馬車は静かに、ゆるやかに進んでいく。まるで、二人の距離を少しずつ、でも確実に近づけるかのように。